井上瑞貴『星々の冷却』

個人的なことからかたりたいと思うが、わたしは八月が一年を通じてもっとも好きだ。それはわたしが育った熱帯の島国シンガポールの気候を思わせる。アスファルトの路面は一年を通じて焼けただれ、水蒸気がまるで霧のように街をすっぽりと覆い、はるか頭上を巨人の踵のような雲がゆっくりと横切ってゆくだけの光景。日光の熱をおびたコンクリートは真夜中を過ぎても人肌のようにあたたかく、やさしい。だが、星をみた記憶はない。大都市のビルのはなつ光でかき消され、星はまったくみえなかったのだ。

夜空について書かれたものが永遠なのは冷却されているからだ
星々に隠してきたものがあばかれることがあってもそれは冷えている
猫も家の前の石段を毎回数えなければ登ることができない
真冬には川の気配さえ凍る
あたたかくしてください

「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会ったのは四ヶ月前だが
それから五ヶ月たった
戦闘を望む戦争がおわると戦闘を望まない戦争がはじまるそれは冷えている
口には砕かれた会話をつめこんで
なぜ氷のようにとけてしまわないのかと問うばかりだ
冷えているものは冷えているからいい
あたたかくしてください
悲しませてください

星々の冷却

本日紹介する詩集『星々の冷却』の著者、井上瑞貴は一九五五年愛知県生まれ、福岡在住。他に『坂のある非風景』(一九八四年)と『丘の零度』(一九八九年)の著作があり、この『星々の冷却』は、八十八頁、詩二十五編を収め、第四十七回福岡市文学賞を受賞している。

詩集の題名でもある詩「星々の冷却」は巻頭におかれ、一行ごとに切断と跳躍を繰り返す構成によって《このわたし》とそれを取り巻く世界とのさまざまな距離があらわされる。たとえば二連目の一行と二行目、四ヶ月前と五ヶ月の間にあるはずのものは除去されていて、それはまったく切れ目のみえない接ぎ木を想起させる。

冷却された世界は抒情が取り除かれた世界でもあり、かなしみやくるしみのない場所でもあり、あるいはひとを傷つける行為を行わせしめるために人間らしい感情が除去される場でもあるだろう。わたしたちもまたそうした世界を――実利的な意味でも、自らのこころの救済のためにも――夢みることがある。「あたたかくしてください」の一行が胸につきささるものとして響くのは、だれしもが凍りついた感情を溶かすことを望む気持ちを持つ反面、それを行うことがあらたな痛苦をもたらすものだという背理がそこにあることを知っているからだ。

 

いつもの坂道を
きみなしではくだれない坂道としてくだり
これからも触れるであろうぬくもりを
遠くにあって
見出されず、それゆえ失われることもないきみにゆめみた

樹木にてのひらを当て
受話器のかなたに満ちてくる汐の音に耳を澄ました
満たされたものからひとつずつを失う朝までの長い距離を
冷気とともに目覚めつづけた

期限のない地点まで
傘をさして歩く
傘をさしてあるく方法を学びながら
きみとともに、きみなしで傘をさして歩く

これからもひとりだけが坂道をくだり
のがしてしまうためにある希望の各瞬間のために

もうひとりは坂の上に残される
なにかを忘れてもいい時間がながれる
もう思い出さなくてもいい時間がながれる

「そして愛のように虚しさに満たされ」

ひとは喪失をえられるか。あるいは《なくすこと》をえられるか。そういう問いが詩のかたちでそっと置かれている。現代社会に目をやれば、ひとのこころの中心にあるうつほがつくるひずみとしての傷を癒やすために様々な物語が創出されている。二〇一八年のわたしたちは、ソーシャルメディアを通じて大量に拡散される《このわたし》の物語、その傷の様々な有り様について知る機会をえ、その結果としてそのすべてに無関心になった。言い方を変えればそれらはどこかの他人の生活のくるしみに過ぎず、《このわたし》といっさいなんの関係もないものである。だから書くべきものは傷ではなく、傷をつくる喪失その中心についてかたらねばならない。えるために喪失をえる、それが「きみとともに、きみなしで傘をさして歩く」ことだ。

 

人びとのたましいから文化を洗い流す波が雨となっている
わたしは猫と同時に家に帰りつくことがある
視野を横切っていくなにかの翼を折ってわたしは落下できる
心理に降る雨の音符に耳をすますことができる
足跡のない動物の夜の遠い側にすべての猫を放って
同時に帰りつく日の雨に雨以外の音を与えることができる

「猫と同時に家に帰りつくこと」

「人びとのたましいから文化を洗い流す波」がどのようなものであるか想像に難くない。電磁的に符号化されたテキストの波は、それぞれのひとびとの人生そのものの航跡でもあり、その氾濫はめぐりめぐってやがてことばの雨となってこの世界にふたたびふりそそぐ。詩の「わたし」はその波がつくる雨を全身にうけて偶然の猫とともに帰宅する《ことがある》。だが夜のあちら側から足跡を残さないかれらと一緒に家に帰りつけるかどうかは偶然に過ぎず、しばしば帰宅には落下や断絶を伴うことが示唆される。家に一緒に帰ることは難しい。

ひとはたとえば、いつでも故郷に帰ることができると思っている。だがしばしばそこにあるのは形骸化した思い出だけである。かつてあった交友関係は消失し、行きつけの店舗は潰れ、友人たちはみなどこか限りなく遠くそして近いところ(たとえば、ソーシャルメディア上のきわめて上品に加工されたプロフィール写真の中)に移住してしまっている。ひとは、帰れない。帰れるという思い込みがそこにあるだけなのだ。詩は、困難な時代に不可能そのものを記録してしまう《ことがある》。

 

水に映し出されるものを所有し
数千の日付を見送った
深度のない地中をゆく遊覧船にのりこみ
絶景は闇のなかの点滅にすぎないと知った

放棄するものとして抱かれ
植物の盲目によって見つめられたあなたと
目覚めることのないひとつのベッドに横たわる
締め忘れた蛇口が
遠ざかる意識にむかって何かを語りつづける

「流星群」

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
本稿の冒頭で書いた、わたしの子供時代の記憶だが、実は、見たことがないはずの南十字星がいまのわたしの記憶にはある。だがそれがいかなる場だったのか、いかなる相手と一緒に見たのか、それがすっぽりと抜け落ちている。わかるのはそれは偽りの記憶だということ、後日創出されたのだろうということだけだ。ひとはいつでも、「水に映し出されるものを所有」したがるものだ。それが幻影だとだれよりも知っていても、それが嘘八百だとわかっていても、である。

さからうペンを握り
語るべき最後の数行をあきらめながら句点をうつ
ぼくにない夜空をめぐる挿話の中をわたりながら
あなたの星は
なぜあなたの星は流れるのか

(同上)

だからさからうペンが必要だった。ペンであっても、キーボードであっても、すなわちテキストを記述せしめる道具が必要だった。なぜことばはさからうのか。それはことばが水に映る星の光に過ぎず、星そのものではないことをことば自身が知っているからであり、あるいは、水に映るものに託されているものがすでにどこにもないことを知っているからだ。だからことばは明滅しながら抵抗し、ほんとうにあったことを嘘へと書きかえる。

それでは《ほんとうのこと》を書く方法とはなにか。それはかたることのゆるされない数行をあきらめること、あきらめることによってのみひらかれる架橋の可能性に賭けることであるほかない。

わたしたちもまたいつか流星となってながれる。なにもかも忘れ、だれからも忘れられて。永遠に交わることのない平行線をえがいてながれる流星群のひとつとなって、冷却を生きのびると同時にほろびる――付け加えるならば、たんなる挿話のひとつとして。

(2018年8月9日)

井上瑞貴『星々の冷却』

書籍情報
星々の冷却
出版社 書肆侃侃房
発行 2015年
著者 井上瑞貴(いのうえ みずき)
価格 2000円+税

 

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』

最後の日から半年経つけど
ぼくたちはまだここにいて
日々は穏やかに発狂し
時々は優しく腐敗して
鳩に餌をやっている小柄な老婆を
黒い大きなカラスがついばんでいるのを
日がな一日眺めている

希望の日々

昨日取り上げた奥主の詩集に引き続き、わたしたちはふたたび希望についての詩を読んでいる。だが勝嶋の書く希望もまた無限遠点にあるものであり、けして手元にあり自らを安心させてくれるようなものではなく、体温を感じさせるような灯火でもない。その光はしずかに冷えていて、ぎらぎらと夜を照らす真夜中の不可能な太陽といえる。「だけどもうすぐ来るだろう/きっと何かが来るだろう」という終わりの二行は、最後の日から何日経過してもけしてやってこない希望のかわりに訪れる不吉ななにかを予感させる。

『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』は、勝嶋啓太の第一詩集。著者は一九七〇年生まれ、わたしより五歳年上で、所属は潮流詩派の会(なじみのない読者のために補足すると、詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在する。潮流詩派の会は一九五五年設立「詩の社会性、批評性、現実性、記録性、風刺性を重視」することを掲げる会)。

この《千日詩路》の前身となったウェブサイト(「仮象の帝国」「千日詩行」)を読んでいた読者にむけて書くと、勝嶋は『今夜はいつもより星が多いみたいだ』を二〇一七年に発行した詩人である。著者によれば、本第一詩集に収められた五十六編は、おもにゼロ年代の十年にわたって書かれたもので、著者勝嶋の三十代とほぼ呼応している。端的にいえば、バブル崩壊後の日本の「失われた二十年」のただ中に書かれたものだ。

こうした時代背景を念頭に置かないじゅんすいな読みもあると思うが、《千日詩路》ではそのようなアプローチを採用しない。なぜならどのような詩集も時代という巨大な潮流の中におり、たとえ著者がどれほど自らの作品の自立性を声高に主張しようとも、時代性から自由であるものなど、存在しないと考えるからだ。

ふたたび詩集に戻ろう。

 

駅前にある掲示板に貼ってある
スズキタカシという
行方不明者のポスターの顔写真が
どうも自分に
似てきたような気がしてならない
三週間前に見た時はそれほど似ていなかった
三か月前に見た時はまったく似ていなかった
しかし
三日前に見たらかなり似てきていた

わたしたちの生活には様々な不気味なるものがあるが、普段はそれを意識しないように生きている。鏡をじっとみつめるとそこには他人がいる。たとえばゼロ年代に青春を過ごした者にとって、不気味さとは、同じ世代のたくさんの苦しみについて見てみぬふりをすることであり、日々起きている同世代による自殺、行方不明、そして暴力を振るう側つまり犯罪者として報じられるニュース、その彼らの年齢と自分とのあきらかな類似性を見なかったことにすることでもある。わたしたちの隣にはいつでもスズキタカシがいる。

似てゆくということは、知ってゆくということ。そしてそれは自らの顔を映す仮象の鏡を手に入れることである。それはいかなるものだろうか?

 

四丁目のカドで見た空が
まるでウソのようだった
まるでウソのように青く
まるでウソのような雲が
まるでウソのようにポッカリと浮いていて
まるでウソのような鳥が一羽
まるでウソのように飛んでいって
まるでウソのような太陽は
まるでウソのように耀いていた

ウソのような青空

だれもかれもがウソつきだ、とは若者の弁である。「大人」であるわたしたちはその若者をわらう。「大人」であるわたしたちは、彼らの幼さをわらう。自由民主党はウソをつき、立憲民主党もウソをつき、メディアはウソをつき、ソーシャルメディアでは作家ですらウソを書く。だがときにウソはとてもうつくしいことがあり、あまつさえ、ひとを救ってしまうことすらある。その背理にとどまることが生きるということであり、若者につたえるべきことは「大人」になるとはウソをつくことではなく、ウソとなるほかないわたしたちの姿を受けいれることだということである。かつて若者だったわたしもウソに救われたことがある、そういうことをこの詩は思い出させる。

 

おじいちゃんは
とても悲しそうな顔で ただ 黙々と
〈そいつ〉を釣っていた
でも〈そいつ〉ときたら
なまっ白くて ぐにゃぐにゃしてて
ぬるぬるしてて ぶよぶよしてて
目もないし 耳もないし 鼻もないし

手も 足も 尻尾もないし
ただ 口だけが ぽっかり あいていて
だけど おじいちゃんは 〈そいつ〉を
何十匹も 何百匹も 何千匹も
ただ 黙々と 釣っていた
悲しそうな顔で 釣っていた

釣りの日の思い出

だが嘘をつくこともできないこともある。死者について嘘を書くことは冒涜ではないか。死者がなにに苦しんだか、なにに悩んだか、なにを乗り越えようとしたのか、それらについて嘘を書くことは許されるのか、そうした問いがある。喪失について考えるとき、あるいは罪の意識について考えるとき、この国の衰退と同時にあらわれはじめたいわゆる特殊な保守たちの存在を想起せざるをえない。それはこの書評を書いているいまが終戦の八月十五日に近いせいでもあり、また勝嶋の詩になみなみならぬ切迫感と痛みが感じられるからでもある。「そいつ」とはなんなのか。なぜ「そいつ」は釣りあげられるのか。そしてもっとも重要なことは、なぜ悲しそうな顔だったのか、そして書き手がなぜそれを憶えていたのか。いや、憶えていなければならない、と思うこと。それがおそらく必要なのだということを思う。

 

少女は 僕の腕を必死に掴んで
鶴を折ってください
鶴を折ってください
と言って 泣くから
ごめん
本当に知らないんだ
と言って
僕は
少女を突き飛ばして
一目散に 走って 逃げた

鶴を折ってください

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である。
わたしは上の連で憶えていることがおそらく必要だ、と書いた。だが一人の個人としては、忘れるということ、罪の意識をも忘れるということ、自分の人生に起こった苦しい出来事を忘却するということ、それもまた大切な、人間の営為のひとつなのではないか、それは許されてもいいのではないか、ということも同時に思う。

上の詩では、書き手が鶴を折らないのは、ほんとうに鶴の折り方を知らないのか、それとも単に知らないふりをしているのかは明示されていない。だがおそらく後者であることが詩の連から考えられる。わたしたちの人生には、この詩のような少女の記憶がひとつかふたつはある。傷つけただけではなく、助けを求めてきたのに拒否したこともあるだろう。

冒頭の「三丁目の来々軒で/ひどくまずいワンタンメンを食べた帰り/四丁目の角で/鶴を折ってください/と声をかけられた/振り返ると/真っ白な服を着た/五歳ぐらいの少女が/真っ赤な紙を一枚/僕の方に/哀しいぐらい真っ直ぐに/指し出していたので」を読むと、真っ白な服、そして真っ赤な紙が示唆している存在、とくに日本人にとってなんなのかついて考えさせられる。忘れるということ、そして背負うということ、そのふたつの間のいずれを選ぶか、答は出ない。少なくとも勝嶋は忘れようとはしていないことに、どこか勇気づけられる。詩は、ただ記録する。

平成という時代は終わりかけている。
共同体は崩壊し、成長神話は霧散し、グローバリゼーションによって世界は果てしなく狭くなり、連帯をもたらすはずだったインターネットはわたしたちを引き裂き、男女は毎日匿名の陰口でいがみ合うようになり、それぞれの場で孤立化が進んでいる。携帯端末の普及によって、ありていにいえばそのインターフェイスの小ささによって、《この世界》と《このわたし》についての読みは断片化し、時系列を失いつつある。わたしたちはばらばらになっている。

そうした時代の中、《千日詩路》は、頬を上気させ大きな声で理念を世間に訴えるのではなく、ただただ粛々と、毎日の書評を通じて詩を――いや、こころを動かし、このばらばらになった世界を架橋せしめることができる、そうしたテキストを書き続ける、作家と詩人・・・・・を応援する。

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』書籍情報
カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です
出版社 潮流出版社
発行 2012年
著者 勝嶋啓太(かつしま けいた)
価格 2000円+税

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

ひとの自然状態ステート・オブ・ネイチャーとはなにか。ふだんわたしたちが目にする報道やソーシャルメディアを経由してつたわってくる事件の数々を思い出す時、それはお互いがお互いに暴力を行使しあう状態である、と書いてみたくなる。だがもちろん、たいていの場合、ひとは平穏な市民生活を営むものであり、そこに流血や暴力が生じることはまれである。暴力と非暴力のどちらをひとの本性とするか、それは世界のかたちを自ら選択することだ、と書いてみる。

あとから思うほど
辛いことばかりでもなかった
ラジオから流れる戦果に歓声をあげ
世界地図に日の丸をたて
いさましさを謳歌さえした

戦況も世界もその実際はどこか遠く
まるで絵空事
滅私奉公の快さに全てを麻痺させ
重箱の隅をつつきあいながら
どれだけの不自由をがまんできるかを競い
これみよがしの誠実さを語り

そうしたことのことごとくが
悪意のない善良さを装い
手首から二の腕へとまとわりつき
ゆったりと自分たちの心を締めつけていき
「立派に死んでください」などと
子どもたちが真顔で口にし
耐えることが生きがいとなり

レクヰエム

『日本はいま戦争をしている』が発行されたのは二〇〇九年。著者は一九五九年東京生まれ。この詩集について多少の解説をすると、これはゼロ年代の日本にいる書き手のものであるが、そこに太平洋戦争のまっただ中の日本にいる書き手が重ね合わされている。この詩集の《戦争》は想像力によってかくとくされたものだ。別の言い方でいうと、太平洋戦争の最中の日本を想像力によってよみがえらせようとする試みだ。いや、より正確にいうならば、この詩集に収められた二十一編に通底するものは、いつの間にかよみがえっていたものについての驚きである。

 

燃えさかる炎の中に投げ入れられる本の群れ
一文字ひともじに願いをこめ織り上げられた物語が
夜空にたちのぼる煙と貸していくさまを
その目で確かめながらエーリヒ・ケストナーは
けして希望を失いはしなかった

つみあげられた

エーリヒ・ケストナーはナチス政権下で著作が焚書にあった作家だが、こうした状況が現在のわたしたちと遠くないように感じられるのは、本を焼くだけが世論を操作マニピュレートする方法ではないからだ。ひとを知らずと操作する方法はいくらでもある。わたしたちは嫌というほどそれを知っている。ひとの気持ちをマニピュレートすることに特化したソーシャルメディアを使えば(そして使わないという選択肢は事実上ない)ひとははてしなく、いくらでも容易に扇動されてしまう。自分とはまったく無関係ないかりやかなしみを、まるで自分のものであるかのように感じてしまうことを、たとえばツイッターをやっていればだれしもが経験しているだろう。

この詩は、単に作家の不屈の精神を礼賛しているのではない。それがいつでも起こりることであり、まさにいまわたしたちの国でも同じことが起きており、あらがうということは現在進行形の課題であるということだ。《いまここ》で戦うことが求められている。だが、わたしたちに、ケストナーが持っていたような希望はあるだろうか。

 

誰にも話すことも出来ないでいるのですが
目を
つぶしたいのです
とんでもないことだとは
思うのですが
内心
御国の役になど
たちたくないと思っているのです
のうのうと生きて
たらふく食い
いいことをして

それ以外のことは
いっさいごめんです

「実は」

徴兵されそうになった若者が、じつは国の役になどたちたくない、と胸の内を吐露する形式で語られる詩「実は」を読みながら、様々な事柄がわたしの頭を去来する。

この国の屋台骨が傾き始めてから、二〇年以上が経過している。技術大国という幻影を粉々に打ち砕いた東日本大震災が二〇一一年に発生し、様々な社会問題の激痛を緩和するモルヒネとしての東京オリンピックが数年後に控えている。表層上は安定した社会の裏側で、表に出ることも、声を上げることも許されないまま、塗炭の苦しみにあえぐ人々がたくさんおり、そのいずれもが孤立している。インターネットでは社会的な弱者が告げ口、暴露、耳目を集めやすい悪口雑言によってかりそめの連帯を行うことが常態化しており、それはある程度成功している。だがひとは絶望によって長期的な連帯をすることはできない。ひとを真につなぐもの……それを希望と書きたいところだが、それこそがもはや《戦争》であるほかないのかもしれない。「それ以外のことは/いっさいごめんです」とつぶやきながら。

 

おかあさま
僕は昨日 柊の壁のそばまで行ってまいりました
先の面会日にお話した
あの広い療養所のそばの生け垣まで
近寄ってはならぬと言いつけられていたことは
けして忘れてはおりません
でも土地の子たちに
都会っ子は意気地なしだと
空襲がおそろしくて逃げてきたなどと
言わせておくのはシャクなので
僕たちにも度胸があるのだということを
見せつけてやりたかったのです

柊の壁

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。「柊の壁」とは、ハンセン病患者が入院していた国立療養所多磨全生園の敷地を、外部と隔離するためにつくられていた壁のことだ。語り手の「僕」は、母親に行くことを禁じられた療養所まで、「度胸がある」ことをまわりに示すために忍び込み、そこで見かけた少女の姿について母親に説明する。すると母親は息子を叱責し、あそこの人間は「不具者は不忠者」で汚らわしいから近寄るなという。その後起こった現実の事件(自民党議員の「生産性」暴言や相模原事件)を想起させるくだりだ。

少年は母親をなだめるため、次のように答える。

わかりました おかあさま
やまいとなることが不忠なこころのあらわれ
この非常時に
天子様のお役に立たぬ身体を持っていることなど
許しがたい不名誉です
年端がゆかぬいたいけな子であるほどに
不届きな血筋をあらわしています
けれど おかあさま
ああしたものどものがいることを知ったればこそ
僕は心に刻みます
不忠さ故に無念に生きながらえる
おかっぱの子の哀しげなまなざしを
そうして  それらのすべてを負い
僕自身は自らの肉体を強くすこやかに鍛え上げ
見事股肱の御楯となり
東洋平和の礎として果てたいのであります

(同上)

「強くすこやかに鍛え上げ」られた肉体を称揚すれば、そうではない病人、不具者、障害者などが切り捨てられる場におのずから加担することになる。それは「生産性のない」ものを切り捨てようとする姿勢とまったく同じものだ。ひとのうちには、ひとつの強さではなく、さまざまな種類の強さ、いまだかたちをとっていない可能性としての強さがある。それらを見ようとすること、それがひとと向き合うということだ。一方、「僕」は、母親をなだめるため、おそらくこころにもない嘘をついたのだろうと思われるが、その彼がたどり着いたことばが「股肱の御楯/東洋平和の礎」だということ、そのあまりのグロテスクさに、身体がふるえるほど戦慄する。作家の書くべきものはこれだ、という書き手の自信にみなぎる二行だ。

 

最後に、題名にもなった詩を紹介したい。

二〇一八年、無料でひらかれたウェブに、マニピュレーターたちが毎日息をするように嘘を拡散させている。一方、詩はその作品において嘘を書け/かない。少なくとも、奥主は嘘を書くことなく、希望のない場所に希望があるなどという絵空事を述べたてることもない。

ただ、奥主はこういっているように感じる。だれかがこの国の《ほんとうのこと》を書かねばならない。わたしたちにはまだできることがある、と。

日本はいま戦争をしている
けしてことばにはされることがないまま
いつの間にか戦争をしているのだけれど
それを誰も戦争と呼ばない
そう呼ばないことで誰もが
戦争をしているのだという事実から
目をそらすことができ
つみの意識からは逃れ
日本はまだ戦争をしていないのだと
そう思いこもうとする

日本はいつのまにか戦争をしていた

日本はいま戦争をしている

(2018年8月7日)

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

書籍情報
日本はいま戦争をしている
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2009年
著者 奥主榮 (おくぬし えい)
価格 1800円+税

 

みやうちふみこ『カバの本籍』

わたしたちはわたしたちの人生を生きている。だがその人生はほんとうに自分のものだろうか。わたしたちはこの肉と骨以外に、自分のものであると断定することができる、何かをもちえているのだろうか? そう考えたとき、生きるということについての自明性がふっと揺らぐことがある。だがたいていの場合、その一瞬はすぐに忘れられる。

その日は あなたがわたしの兄を殺した日です
その日になると わたしにはうねるようなサイレンの音が聞こえてきます
「さようなら〜」のあいさつのように 「ただいま〜」のあいさつのように
「みなさんお元気ですか?」のように

あの日がくると目に浮かぶものは何年すぎても同じです
あの庭の片隅に赤い椿が咲いていて母もいて
梅のつぼみもふくらんで泡だったビールも……

あなた

『カバの本籍』は七十代の著者の第一詩集。
書くことは、ひとを変える。読者がよく知っているように、ソーシャルネットワークへの書き込みであっても、匿名での書き込みであっても、むろん、詩集であっても、書くという行為は書き手を変えてしまう。自らの手が勝手に書いたものを見ることによって、自分が何か別のおぞましい怪物に変容したかのように感じられる瞬間があり、そういう体験についてのじゅんすいな驚きがある。それは「この自分」と「書かれたもの」との間の不気味な乖離だ。みやうちは、その一瞬を書くことを通じて発見した、と感じられる。別の言い方をすれば、みやうちは、その発見の過程そのものを詩集にした。

 

昼間のしんとした時間

階段を上る足音しんと一つドアの閉まる音しんと一つ
しんと 窓を開けるとたばこの匂いかすかに一つ

たくさんの人が しんと暮らす空間

しんとした世界に寂しさは吸い込まれ
たくさんの人といるしんとしたにぎやかな空間
わたしは好き

水音がする かすかに

ドアをしんと開いて階段をしんと下りる
緑の風をいっぱいに吸い込む
足下に 白い野バラが咲いていました

「新しい住まい」

好きなものについてかたる日常的なことばがある。だがそこに不意に水音があらわれる。それは不吉なもので、当たり前のようにそこにある日常をゆがめる呼び水だ。こうした異界への入口のような欠落が、みやうちの詩作品のあちこちに露出している。その読後感は、ふと目をやった地面の上で、ある生き物が別の生き物に捕食されているところを見てしまった感覚に似ている。

見るべきではないもの。知るべきではないもの。理解してはならないもの。わたしたちの生活はそのようなものに囲まれている。ある瞬間、そうしたものに囲まれ、いや、自分もまさにその一部であることに気が付いてしまう。その瞬間こそが書くべきものなのではないか、そういう声がきこえる。

 

どこでもいいはずなのに
どこでもいいそこにはもう
一滴の水もないこと
愛しかないのだとある日
大人になったカバは
はっきり悟ったのだった

父さん母さん兄さんカバのいる広い青い宙にも番地があるのだろうか?
草も木も水も花もチョウも鳥も雨も風も虹もカタツムリだって自由なのに。

「もうふるさとにはもどれませんよ」動物園戸籍係のゾウさんは
わたしのつぶらなひとみに念をおすようにそう言って書類を受理してくれた。

ふるさとなんかはじめからなかったんだ

カバの本籍

詩集を読み終えて、夏の夜の公園に足を運ぶ。木々のあちこちですべての生き物たちがお互いをむさぼりあっている。《このわたし》は、それと違う存在なのだろうか、そういう問いがある。それは超越的な第三者に、檻の中で飼育されている、動物園のカバを連想させる。生きるということのありのままの姿をとらえることははてしなく困難であり、その生はたいていの場合、だれかの犠牲の上になりたっている。いや、なりたたざるをえない。知るとは、見ること。そしてそれを想像力によってのみかくとくすること。それが書くことのふるさとなのではないか。みやうちの詩集は、そうしたことをわたしに考えさせる。

「一滴の水もないこと/愛しかないのだとある日/大人になったカバは/はっきり悟ったのだった」

詩は、その愛すらもはじめからうつろなのだということにかたちを与える。わたしがこの詩集でもっとも好きな詩だ。ふるさとなど、どこにもないのだ。

(2018年8月6日)

みやうちふみこ『カバの本籍』

書籍情報
カバの本籍
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 みやうちふみこ
価格 1200円+税

鹿又夏実『リフレイン』

桜の花びらが降る
東京のはずれ
川沿いの巨大な団地の一室で
ひとりの老人が生まれた

老人は
死ぬまでの短いときを
遊歩道を歩いたり
流れる花筏を見つめて過ごす
金は役所から支給されるので
生活には困らないようだ

老人

生まれる前から老いているものがある。老いたまま生まれるものとは、死ぬために生まれるものと同義なのだろうか? 街に出れば、猛暑に灼かれる盛夏の路上にたくさんの虫たちの死骸が敷き詰められ、そこを笑顔で歩いてゆく園児たちの靴によって踏み潰され、粉々になり、土に還り、他の生き物たちのあらたな糧となる風景をみることができる。そこにあるのは幸福な円環的輪廻の姿だ。

だが、鹿又の詩的世界は、そうした救済が与えられる場ではない。生者が老人のまま、あるいは不具のまま産み落とされる、逆向きの人間たちが沈黙のまま住まう場だ。

困らないことに
困ることはないのか
誰も知らない
誰も気にも留めず
質問もしないため
老人は生まれてこのかた
存在の理由さえ世に問えないでいる

同上

「生活には困らない」人生や「役所から支給される」生活がどのようなものであるか、二〇一八年に生きるわたしたちは知っている、というより、いやおうなしに知らざるを得ない。だれも知りたくなかった物語が、電磁的なネットワークを経由し、あらゆる場所に露出しているからである。毎日拡散されるたくさんの《わたし》の物語の過剰な氾濫の結果、わたしたちは昔よりもずっと他者の生活に無関心になった。そうした現実を想起する時、それぞれに隔離された小部屋の集合体である団地の一室にて老人が誕生する国を幻視する鹿又の視線に、つよい説得力を感じる。

私を打ち
罵声をあびせ
追いたてるものから逃げだし
私は自分の影に逃げこみました
苦しいのか楽なのかも分からず
湿った影の底で静かに死んでいくようです
そこから出なさいと言われても
自己よりも肥大化した私は
影から抜けられないので
しかたなく自分の肉を切りきざみます
私の肉片にはさびしさにも似た
骨のような言葉が詰まっていますが
見て見ぬふりをし肉を咀嚼し続けました

ニートのうた

著者、鹿又夏実は一九八三年生まれ、『リフレイン』はその第一詩集だ。わたしはこの詩「ニートのうた」を、これが最初に収録された文芸詩誌『オオカミ』(32号、2018年2月発行)にて読み、彼女のことを知った。肉体的暴力や罵声にあふれる残酷な世界は、そのままわたしたちが生きるこの社会の写し絵であり、ある共感を覚えたことを記憶している。作品中の「自己よりも肥大化した私」は、暴力的な世界からの逃避先である「影」から抜け出ることができない。そこから抜けるためには、自分自身の一部を切り捨てるしかない。だが、世間から捨てるように強いられているものこそが、自分を救ってくれるはずだ、という詩人の確信がそこにある。

(たちあがるための言葉も血肉も私の胃の中なのに)

(吐いても吐いても言葉は喉につき刺さり
私に復讐を誓っている)

同上

つまり、自分を救ってくれるものは同時にまた猛毒でもある。鹿又にとって詩は毒なのだ。いいかえれば、見ることは苦痛ではあるが、その苦痛こそが《ほんとうのこと》に接近するための唯一の鍵なのだ。ひとはわざわざ苦しむ目的で見るのではない。自分を苦しめるものと戦うために見ようとすること、そこに書き手のひそかにもえあがる意思がある。

例えば、貧困は、社会的格差は、不平等は、ひとから考える力を奪う。だが、だれもひとから詩を奪うことはできない。だれもひとから戦う意思を奪うことはできない。そういうことを鹿又はわたしに考えさせる。

血と精液は

男の意思とは関係なく
世界を満たそうとしてきた
この世が穴だらけだったために
だが今
男の足もとで
穴の底からせりあがってくるのは
世界の一部なのだ

(穴のなかこそ世界なのだから
お前が心配することもなかったのに)

或る日

詩は《世界》と戦う。あるいは、自分を取り巻く宿命とよぶほかない外的なる諸要因と戦う。それは家族であったり、学校であったり、勤務先であったり、伴侶であったりする。いや、詩だけではなくだれもが戦いを強いられている。だれもが勝手にこの世界を満たそうとする「血と精液」にあらがっている。わたしたちを苦しめているもの、わたしたちを非人間にするもの、この奇怪なる《世界》とあらがっている。「或る日」はけして詩人だけの一日ではない。わたしたちそれぞれの日々における、グロテスクな穴だらけの世界に訪れるものなのである。

わたしが
冷蔵庫にあかりを灯すと
死神がそろりそろりと歩いてくる
少年を連れ少女を連れ
幼いわたしを連れて

少年は冷蔵庫の中で育った
細い手足は薄汚れ
ほの白い光に曝されている
その冷たい子宮は少女の腹にある
少年が大人になることを拒みあばれるたびに
少女は血を流し泣き叫ぶが
父も母も遠い場所で笑っているだけ
絶望した彼女は地上を這いずりまわり
ようやく
少年と新しい冷蔵庫を見つけて暮らし始めた

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
自分とまったく無関係な他人として人生を歩んできたとある作家の描く光景が、ふいに自分の人生のある日と重なってしまうことがある。それは祖母が死んだ後に冷蔵庫に残されていた作り置きの料理であり、あるいは子供とかつて一緒に集めた雪が入った冷凍庫の小さな容器であり、これらをふと見つけた時の自分の気持ちが、作品によってよみがえる。

(言葉にしなければならない)

氷点下で保存されていた悲鳴は
異常気象によって
街に溶けだし広がっていく
羊水のような悲鳴の底で
幼いわたしが水面を見つめている

(ひらくためには)

同上

開くべきではない扉を開ければ、わたしたちはうしなう。
扉を開くたびに、わたしたちは損なう。だが開かずにはいられない。鹿又の誓いにも似た「言葉にしなければならない」という行を、わたしたちもつぶやかざるをえない。

ひらくために、詩は書かれるのだ。

(2018年8月3日)

鹿又夏実『リフレイン』書籍情報
リフレイン
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 鹿又夏実(かのまた なつみ)
価格 1200円+税