舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

生きるということは
自動詞ではなくて
他動詞なのだと審判されてから
眼に触れるものすべてが
怖ろしくなった
微風のための微風は嘘で
生きるための労働は詐欺だ
微笑みの裏には企みがあって
そのまた裏側には掘り返せない〈現実〉がある

死と生の亜脱臼

わたしたちは日々を自動的に生きている。あるいは他動的に生かされている。その考え方の末尾に「かのように思える」と、ふと疑問符のようにつけくわえてみる。たとえば、新しい生命の誕生には、母体の中で超音波によって撮影された豆粒のような肉片が、いつの間にか巨大な赤子となってこの世に創出される不気味さが伴う。そうした奇怪な現実を前にして、生きることは自動詞なのか、はたまた他動詞なのか、その判別はきわめてむずかしいと言わざるをえない。その答のない曖昧な場にとどまり《続ける》こと。いいかえれば掘り返せないものを掘り返せぬままにしておくこと。舟橋の詩集は、その不能性について考えることからはじめているように思える。

『羊水の中のコスモロジー』は著者の第四詩集。三部構成になっていて、一部は「クリスパー・キャスナイン」、二部は「アルケーからテロスへ」、三部は「スーパーノヴァ」と名付けられ、それぞれに九から十の詩編が収録されている(著者は「詩篇」と記載)。一般的な現代日本語を用いた作品群のうち、一部に万葉集や源氏物語からの引用を含む古文調の詩が含まれる。そのうちでは「戻り喩に極み言」が印象にのこる。

戻り喩に漬けたれば、極み言までも打鍵からくりキーボードにては打てまじ。煎じ詰めの書き倒しするほどに、遍く下氷のはつ夏でありなむ。気を縦にたしだしに軟柔すれば、やり場なき怒り苔さえもなにほどのものか。さりとて埃眼には耀きなき目褄を絡ませ、焼き太刀の苛なき甘ゆさを二重に掲げ持ち、行けるところまで塗炭の苦しみ、なお練りの擦れ事となりおほせるもよし。

戻り喩に極み事

ルビは原文ママである。他にも「遇愚流地球グーグルアース」や「世界網インターネット」などの単語が擬古文に挿入される。様々な解釈がありうるが、わたしはこの様式は、ひとの生きる有り様を根本的に変容しようとする近代テクノロジーの網の目にとらわれて貧しくなることばをいかに活かすかさぐるための試みであると読んだ。

一生を水として生き
水として死ぬのはたやすいか
真ん中をえぐり抜かれた
からっぽの大脳皮質で
どんな情報を食べても
考えることから遠ざけられ
精神の暴動をしむけられている
一期一会というのは
嘘だ
逃げても逃げても
追いかけてくるものが本物なのだ
そう記されている聖なる書物には
著者名がない
シンタックスに適った活字もない
宛先も宛名もない
それは長すぎる規格外の手紙にすぎない

水として生きる

さぐるためには考えねばならない。だが考えるとはどういうことか。ひとが真に生きるとはどういうことか。わたしたちは日々呼吸をし、食事をし、性交し、睡眠し、生きている(かのように思える)。だがそこにはほんらいあったはずの、どこかずれた人生からの乖離があり、切断があり、「遠ざけられ」た距離がある。わたしたちは、脳味噌の真ん中にうがたれたうつほがもたらす痛苦から逃れることはできない。わたしたちが遠ざけられているもの、それはわたしたち自身だ。そして逃げ場がないだけではなく、啓示をもたらすはずの言語はこわれているのである。

一方、逃れられる、とみなに信じ込ませるための甘美なる麻薬が、今日も明日も明後日も日本語の中に無限に拡散される。「どんな情報」でも食べられるかのように思える世界に、すでに二〇一八年のわたしたちは生かされている。そのようなグロテスクな場において、だれも水のようには生きられない。そこには奪われ、損ねられ、傷つけられたことばしかなく、だれも考えることもできないのだ。できること、それはその不能なる自らの姿を見ることでしかない。一期一会こそ夢まぼろしであり、だれとも出会うことができないのに、だれとでも繋がることができるかのように思える《いまここプレゼンス》のおそるべき虚構性を見ることだ。

地図の上の見知らぬ地名みたいな
よそよそしい朝が来て
自分がだれか想い出せない
わたしの隣で眠る
あなたがだれかも

いつまでたっても乾かない
汚れた下着を捨ててしまったら
新しい下着はどこか他人行儀
公園の砂場には子猫の
死骸が埋められていて いつまでも
掘りかえされるのを待っている

花びらが無性に食べたくなる

詩は乖離そのものに、不可能な距離にかたちをあたえる。だがそれはプライベートな記憶に基づく《このわたし》の乖離ではない。日本語を解するすべての読者のそれぞれの分断された生活の場に、思い出すことのできなくなった朝があるはずである。あるいは、名前を忘れた誰かの体温が、埋められたまま弔いを待つひそかな體がある。

ひとは別れ、ひとは分断され、ひとは忘れ、かつて知っていただれかは「見知らぬ地名」となって去ってゆく。

わたしたちは知っている。この世のいかなる嘘も、いかなる劇的なレトリックも、《ほんとうのこと》、この世界の有り様コスモロジーを少しもあきらかにしないのだということを。それを可能にするものは何か。わたしたちはわたしたちを取り戻せるのか。詩はこれらの切実な問いにこたえられるだろうか。主体性を奪われ、現代という羊水の中で溶解する秩序のないことばにとらわれながら、そんなことが可能だろうか?

詩を書くのではなく
詩が書くのだ

詩とコスモロジー

(2018年8月2日)

舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

書籍情報
羊水の中のコスモロジー
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017年
著者 舟橋空兎(ふなはし くうと)
価格 1600円+税

 

草野理恵子『パリンプセスト』

筆を人差し指と親指でつまむように持ち
描いていた
彼はいない
「彼はもういない」
私の声帯は寂しい音色を奏で
それが終わるとできるだけ曖昧に濁した

膝の上に重ねた両手をじっと見ていた
そしていつの間にか失ってしまった味の葉を食んだ
彼は植物の絵を描いていた
きっと人にはわからない混乱が彼を襲ったのだろう
森の中に膨大な薔薇の絵を積み上げ火を放った
時が緋のように満ちていた

パリンプセスト

この世界の結び目はどこにあるのか。その結び目が解かれるとき、何が起こるのか。わたしたちがけして得ることのできない《答》はどこにあるのか。わたしたちはどのようにわたしたちみずからを見いだすことができるのか。草野の詩作品はさまざまな問いを重ねたかたちで包含し、きわめて奇怪な一冊の書物を構成している。

森の中から彼を発見することはできなかった
霧が深い
私は手探りで靴の結び目をほどき
間違ったかのように結びなおした

(同上)

詩集『パリンプセスト』、その耳慣れない題名 “Palimpsest” は「もとの字句を消した上に字句を記した羊皮紙」を意味する単語であり、ふたたび(palin)+ けずられたもの(psestos)を語源とする。かつて書き記すものが貴重品であった時代、手間ひまをかけ生皮から作られた羊皮紙は、一度文字が書かれ書籍になった後も、再利用されることがあった。その場合、素材の表面から文字を物理的に削り落とすか、または薬液によってインクの除去が行われたという。「消された文字」の痕跡が残った羊皮紙、それがパリンプセストである。

抽斗に入れてある
あの時の小石
残酷に瞳の奥に
舟は緑の輪郭だけになった
眼差しが揺らぎ
私を見つめなくなった

―胎児
言うべきではない
川へ…など
真冬から真夏への息を引き抜き
羽音の氾濫を聞く
澱をさぐってゆく指の動きを
黙って見ていた

黒い舟

かたるべきではない禁忌を胎児がかたっている。わたしたちはわたしたちの口をして自由にかたらせることなどできない。言い方をかえれば、自由にかたることはできない。それは外在的な社会的要因(社会的地位、経済力の有無、「空気」)のためではなく、わたしたちが内面化された鎖にがんじがらめに拘束されており、かつそのことに無自覚だからである。禁忌をかたる口は不可能なもの、たとえば、生まれなかったものたちにたよらねばならない。そこには《ほんらいかたられるべきだったが、けしてかたられなかった》ことばたち、人生の表層から削り落とされ忘れられてしまったことばたちが含まれるだろう。

手紙を書かなければならない
鳥たちが天空から見ている
手紙は書き終えることが出来ない
ペンを置いたその時に
顔を鳥に覆われた猿は
私のところに降りてくるだろう
そして私の青い頭巾をもぎ取る
私は私の顔を見ることになる それが怖い

次は鳥が私の顔を覆ってくれるかもしれない
だが天空の鳥に手を振ってはならない
それは鳥ではない 幻だ
ひとつひとつの鳥の
ひとつひとつの燠火の

焼かれる街

手紙は、いや《ほんとうのこと》を書いたことばは秘匿せねばならない。それがかたられた時、街は焼かれ、ひとは自分の隠された顔をみてしまう。「青い頭巾」に隠された顔をみてしまう。それはいかなる顔か。

上田秋成の『雨月物語』の一編、「青頭巾」では、愛する稚児を喪った悲しみから鬼道に堕ちた僧に、高僧たる快庵禅師は次のように説く。「江月照らし松風吹く、永夜清宵何の所為ぞ——この句の真意が分かる時、おまえは本来の仏心を取り戻せるだろう」と。そして藍色の頭巾を鬼となった僧に預け、その場を立ち去る。鬼となった僧はその教えを忠実に守り、青頭巾をかぶったまま屍となる。かれはその真意を理解したのか? それは物語の上では語られない。ふたたび戻ってきた高僧は、その二句をいつまでもつぶやき続ける亡者を杖で打ち据え、成仏させるだけだ。

意味などない。風は吹く。夜はつづく。稚児も死ぬ。そこに意味はない。あるいは、この世界に《わたし》がいること、そこに苦しみがあること、そこに悲しみがあること、世界がその世界の姿をとったこと、そこにいっさい、なんの意味もない。だから鳥は幻のまま空でもえている。草野の詩はその隠された光景にかたちを与える。

大木が世界を分断していた

君は赤ん坊を生き返らせようとしていたのかい?
僕は向こうを向いた
下半身を露出したまま木の洞を見ていた
樹皮はめくれ君の顔を思い出した

赤ん坊は水を欲しがっていたのか
それは君のただの思い込みではないのかと
言いたかったがやめた
もうすでに赤ん坊は死んでいる
水をあげてもあげなくても同じだ
僕と君の間の大木はどんどん大きくなる
そして君も赤ん坊もどんどん遠くなる
僕がままごとのような君の家に辿り着くには
きっと無限と言える時間が必要になる

大木

羊皮紙の手触りは、わたしたちを愛してくれた祖父母の手を思い出させる。その手は荒れていて、がさがさしていて、ところどころひび割れている。それは剝がれかけた樹皮にも似ている。わたしたちのこころに書き込まれたことばは、日々削り落とされ、そこに新しいことばが上書きされる。痕跡は残っているはずだが、すぐに忘れられる。それは成長するために、古い肉体を殺さねばならないからだ。赤ん坊は生まれ、老人は死ぬ。場合によっては赤ん坊も死に、老人が生きる。

二〇一八年、わたしたちの生きる列島はさまざな自然災害に襲われ、年齢や性別を問わず、たくさんの人命が奪われている。わたしたちの世界は《こうであってほしかったが、そうはならなかった》代替的オルタネイトな可能性で満ち、そのふたつの絶望的な隔たりのはざまに宙吊りにされている。ことばもまた損ねられ、わたしたちは自分たちの人生から遠ざけられ、大切な物事を日々うしなっている。

水を欲しがっていた赤ん坊に、《いま》水をあげることができるのか。

問いはそこに収斂される。あるいは、かつて削り落とされた命に、ことばに、《いま》意味を見いだすことができるのか、問いはそこに重ねられる。重ね合わされたぎりぎりの問いを、わたしたちは、草野の詩とともに生きるほかない。

(2018年8月1日)

草野理恵子『パリンプセスト』

書籍情報
パリンプセスト
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2014年
著者 草野理恵子
価格 2000円+税