すべてはインターネットのせい——川崎殺傷事件によせて

空は晴れていて、手はよごれている。
だれもその距離を縮めることはできない。

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2019年5月某日。私は家でよごれた皿を洗っている。つい先日、川崎市で連続殺傷事件があった。私よりほんの少し上の世代に属する犯人の男は、刃物を持ってバスを待っていた子供たちを襲撃。女の児童だけを殺傷したという。結果として、二人が亡くなって、十数名が重軽傷を負った。そして男は犯行後に現場で自殺した。

私は、皿を洗っている。私の背後では、二歳になった娘が、濃い紅のクレヨンでフローリングの床に落描きをしている。娘がよく描くその赤いかたまり、、、、は何なのか。私はタオルで手を拭きながら娘に近づき、それは何なのと娘にたずねる。娘は首を振って、無表情に、これ、これ、といった。

キッチン近くの窓から顔を出し、空を見あげる。昼間は晴れていた空は、梅雨が近いせいか、いつしか灰色に濁っている。ベランダから見える旧公団住宅は、土埃で薄汚れ、ここ数年で歯抜けのように空き室が増え、主に高齢者たちがまばらに住んでいる。どこかの窓から、この不良品がぁ、という叫び声が聞こえてくる。だがそれはテレビの台詞か何かかもしれない。

私はふたたび流しに戻り、まな板を洗い始める。肉用のまな板は、大きく、分厚く、どこか生臭い。いや、あれはテレビではなかったのかもしれない、と思う。それはインターネットだったのかもしれない。この世のありとあらゆるところをつないでいるのに、だれともつながることのできない、私たちのインターネットの声だったのかもしれない。

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不良品の人間などいない、というきれい事に私たちは辟易している。あるいは、人間は平等であるという建前に私たちはこころの底からうんざりしている。なぜならそのようなきれい事が日本語の内側に疫病のように蔓延しているのにもかかわらずそれにはいかなる実効性もなく、私たちの住む社会は、今日も、明日も、明後日も、ありとあらゆる場で徹底的に人間を分別しようとしているからであり、きれい事を言ってこころの平穏を維持したいだけの偽善的保身の身振りにほとほと嫌気がさしているからだ。

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部屋のインターネットで、分断を眺めている。ツイッターでひとびとが口汚くののしりあう様子を眺めている。かれらが必死にたたかっている相手がだれなのか、私にはわからない。かれらが必死にえようとしているつながりが何なのかもわからない。ほんとうに必要とされているのは仲間であったり友人であったりするのかもしれない。だが私はかれらとは友達にはなれないし、仲間にもなれないということはわかる。そして、いかなる対価を支払ったとしても、私たちはもう、かつてこの社会にあったようなつながりは、けしてえられないであろうということも。

分断をとかしてしまう、そんな雨が降るだろうか。

娘はすでに寝て、私は机の前に座っている。わかりやすいツイッターを眺めている。だがわかりやすいものとは何だろうか。わかりやすくみえるものをわかりやすいといっているだけで、ほんとうはわかるものなどこの世に何ひとつないのではないか。そんなことを思いながら、先日起きた児童殺傷事件のニュースを眺めている。犯人は引きこもりがちだった……仕事をしていなかった……おまえはひきこもりだと家主の伯父にいわれて「自分はひきこもりではない」と色をなして反論した……。

犯人の男を異常者として「一人で死ねばよい」と批判しているひとびとがたくさんいる。その気持ちはわかる。だが、私は、そしておそらく多くの同世代の者たちは、犯人は自分とは遠いところにいる無関係な異常者ではないと感じて、他人事ではない、と考えているのではないか。より具体的にはロスジェネ世代の人間たちは、犯人を自らのこころのどこかに住む隣人として捉えているのではないだろうか。「自分より幸せな、めぐまれているやつらを、ぶっ殺してやりたい」と、思ったことがない人間がいるだろうか。なぜここに私はいて、あそこにはいないのか。そう、思ったのは私だけだろうか?

私は机の前で、ニュースの内容を思いだしている。死亡者は二名とあった。そこに男の死は存在していなかった。三人目の死は、なかったこと、、、、、、になっていた。

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公園に、何組かの親子連れが来ている。空港を擁する地方都市の公園は、豊かな税収によっていつもきれいに整備されている。だが子供の数は少ない。私は顔なじみになった母親たちに眼で挨拶し、娘を遊ばせている。角にある公衆便所、その近くにあるベンチに、サイズの合っていない汚れたジーンズを履いた中年男が座っている。そして座ったまま携帯の画面をじっといじっている。私は娘がすべり台周辺で遊んでいるのを横目に、男の様子をうかがう。盗撮でもしているのだろうか? それとも別の目的があるのだろうか? そう考えているらしき他の母親たちが、男を遠巻きにしたまま、目配せしあっている。男はそれを気にする様子もない。その口許にはちいさな笑みが浮かんでさえいる。男はインターネットを見ている。自分の容姿や、性差や、年齢によって、だれかに後ろ指をさされたりすることがない、まぼろしの自由なインターネットを。

いつの間にか、日差しが強くなっていた。母親たちも、男も、どこかへ去っていった。私は娘と、二人きりで公園にいる。木の葉が熱風でこすれ合う音が響いている。娘の影が、地面に黒く焼き付いている。その影の枠内では、虫たちが干からびて死んでいる。ボーダーが、つくられている。生きるものと死ぬものを分ける線が、あるいは、いまこの場所と、あちら側を分ける線がつくられている。どこからか現れた蟻たちが、地面を歩いてゆく。それを叩いて殺そうとする娘を、私は止める。やめなさい、虫だって、生きているんだ。——生きているって、何? と娘がいったような気がする。あのおじさんは、生きていたの? 携帯をずっといじっていたおじさんは、生きていたの?

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わたしは生産性の高い仕事をしているのよ、と酔った女がいっている。奇妙なほど整った仮面のような表情からは、何かが欠けているように見える。だが具体的に何が欠落しているのかわからない。その高価そうな仕立て服は、汚物をすべて裏に隠している見た目は清潔な部屋を思わせる。

——生産性の高い仕事とはどのようなものですか、と私はたずねている。生産性の高い仕事っていうのは、お金になって、世の中のためになる、役に立つ、、、、仕事よ、国のためになる仕事よ、といっている。女は自分のことばに酔っていて、空になったビール瓶が何本かテーブルから落ちて砕ける。床にこぼれたビールがまるで小便のように、女の足下を蛇行してながれてゆく。

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そもそもことばが通じない人間に道理を説くことはできない。あるいは、怒りくるっている人間には、いかなることばも意味を持ってとどかない。ことばを届けるためには、時間が必要だ。わかりやすいソーシャルメディアのことばではなく、わかりにくく、時差のあることばをもちいるほかない。その遅延、遅れ、、に可能性を託すしかない。

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引きこもっている。世の中を憎んでいる。だれを憎んだらいいのかわからない。それは自民党だろうか。それは民主党だろうか。それは共産党だろうか。そのいずれでもありいずれでもないような気がする。とにかく憎んでいる。「きちんとした」職につけなかったこと。「きちんとした」職につけない自分を馬鹿にしているひとびとのこと。「きちんとした」職につけない自分をさげすんでいるはずのめぐまれたひとびとのこと。結婚をして生活をして自立して生活できているめぐまれたひとびとのこと。子供までいるめぐまれたひとびとのこと。「きちんとした」ことをしろと迫る世の中のこと。「きちんとした」こと以外をして生きることを馬鹿にするだけでまったく助けてくれない世の中のこと。何もしてくれない自称友人たちのこと。何もしてくれない自称人権家のこと。何もしてくれない自称社会活動家のこと。何もしてくれない親戚や親のこと。何もしてくれないこの国のこと。何もしてくれない自分のこと。憎んでいる。理由などない。

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公園からの帰り道、路上で猫が死んでいる。いっしゅんで死ねただろうかと思う。生と比較すれば、それは苦痛のほとんどない楽な死に方だったのかもしれない。その猫の死骸は、何度も車両に踏みつけられて、均されている。均された肉と骨は、黒く丸っこくなり、平らに近づく。平らになったものは土と見分けがつかない。土になれば、そこに付随していたものはすべて忘れられる。消えてなくなる。生きるとは均されること。少しずつモノと見分けがつかなくなることだ、と立ち止まって考える。

ふと隣を見ると、娘が小枝で土にいびつな線を引いている。周辺に建つ矩形の団地、木々の血管のような枝と立ち並ぶ電柱の影が、娘の引く線にかさなるようにして、読みとくことのできない複雑な模様をつくりだしている。私たちは分断されている。どうしようもなくわかたれている。ばらばらになっている。それはこの世に線があるから、私たちが線を引いてしまうから、引かざるをえないからだ。

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ロスジェネ世代……いや、線についてかたろう。私たちをばらばらにする線についてかたろう。世代と世代のあいだ、性と性のあいだ、階級と階級のあいだにひろがる埋めようがない断絶についてかたろう。私たちのこころをはてしなく傷つけるインターネットについてかたろう。私たちのこの偉大なる空虚、矩形の時代についてかたろう。

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雨が止んだ。汚物混じりの水たまりの色をした雲が裂けて、そこから金色の光が漏れ、こぼれている。
だが何もかもが嘘であり、私たちはこの部屋からけして出られない。

私たちは一人で生き、一人で死ぬ。
汚物にまみれて死ぬか、血にまみれて苦痛の中で死ぬ。

だれもわかってくれないし、理解者はあらわれないし、いかなるところにも救いはなく、いかなるところにも赦しはない。

あなたはそれでも生きたいだろうか? あなたはそれでも生きようとするだろうか? あなたはひとを殺すことよりも自分を殺すことを選ぶだろうか? あなたはひとを殺してから自分を殺すだろうか? あなたはひとを殺してこの世に自分が生きたあかしを残したいだろうか? あなたはだれからも忘れられたくないだろうか? あなたはあなたのことをおぼえていてくれるひとがひとりでも欲しいだろうか?

あなたは生きたいだろうか? あなたはこの地獄を生きたいだろうか? あなたはふたたび生まれ落ちてまたこの地獄に産まれ落ちたいだろうか?

あなたは何をしているのか。
あなたはこんなエントリを読んで何がしたいのか。
あなたはこの得体のしれない書き手の文章を読んで何がしたいのか。

あなたは生きたいのではないか。
あなたはほんとうは生きていたいのではないか。
じつのところ死よりも生きることを願っているのではないか。

あなたは、何の希望もないこの場所で、どうしたいだろうか?
あなたは、この大いなる孤立の時代に、いかなる線を引きたいだろうか?

インターネットは、あなたをしあわせにしてくれるだろうか?
インターネットは、あなたをしあわせにしてくれただろうか?

* * *

——さあ、もうねむろう、二度とめざめることなく、ばらばらになったまま。銀の砂にうもれて、くだかれた矩形の底で……だが優しい水のなかで、あのひとの声がきこえる。すべてはくりかえされるだけ、死はあなたを赦さないわ、と。

根本正午/2019年6月10日