采目つるぎ 詩誌『…poison berry』(Vol.0,1,2,3)

――かたってよ、つたわらぬことを。

◇ ◇ ◇

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熊谷直樹&勝嶋啓太『妖怪図鑑』

——砕けた鏡に、幾億の妖怪たちの貌うつる。

◇ ◇ ◇

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大崎清夏『新しい住みか』

——あたらしいことばを、愛していて、同時に、憎んでいる。

◇ ◇ ◇

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書評イレギュラーズ:紅玉いづき『現代詩人探偵』

――盗まれたことばでかたりはじめる。

◇ ◇ ◇

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佐々木貴子『嘘の天ぷら』

「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもう・・でしょう。もう・・勿論あのことはご存知の方でしょう」

三島由紀夫『仮面の告白』

◇ ◇ ◇

《読むこと》をとりもどす、詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。

さて本日は金曜日。編集部がある関東近郊は一日雨が降り続き、かなり寒さを感じる天候。今週は《千日詩路》では詩誌を特集してきたが、最後に今月出たばかりのあたらしい詩集を取り上げようと思う。先日別の記事でも紹介(#ex002)した佐々木貴子の詩集、『嘘の天ぷら』である。

『嘘の天ぷら』は佐々木貴子の第一詩集。彼女は一九七〇年岩手県盛岡市生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。現在は仙台にて詩誌『ココア共和国』に編集として携わっているとのこと。なお本書は仙台より郵送で頂いた。

わたしは佐々木とその作品のことは数年前から知っていたが、それは当時わたしの家人の詩が『詩と思想』の投稿欄で、よく佐々木貴子と競うようにして並んで掲載されていたからだ。本詩集を読んで、当時のことを懐かしく思い出した。

さて、本詩集は二十六編を九十六頁に収める。巻頭と巻末に行開け詩が置かれる以外の他はすべて散文形式となる。

表紙のイラストレーションは宇野亜喜良の手によるもの。表紙には、天ぷらとおもわれることば「ni」(に)と「shinai」(しない)を箸で持っている女性がいるが、折返しには「hitori」(ひとり)という天ぷらが隠されている。折り返し部分の下のほうにはさらに「uso」(うそ)と吠えるイヌ科の動物が描かれ、つまり組み合わせると次のようないくつかのメッセージが読める。

ひとり/に/しない/嘘
嘘/に/しない/ひとり
詩ない/ひとり/に/嘘

表紙から詩作の戦略が読み取れる。さまざまな含意があるが、ひとつはっきりしているのは、この詩集が嘘をめぐっていること、それも三島由紀夫の『仮面の告白』のように、冒頭からそれが嘘であることが明白に記されているということ。そのことに留意し、読み進めてみよう。

巻頭詩は詩集の題名ともなった「嘘の天ぷら」。

今夜も
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

「嘘の天ぷら」第一、二、三、四、五連

個人的なことから書くが、わたしは下手な料理が趣味で、毎日なにかしら必ずつくっている。だが料理のうちで、もっとも苦手なのが揚げ物だ。温度管理、油の保存方法、経済性、摂取カロリー量、清掃の手間……こうしたことの煩雑さを真剣に考えたとき、いつしかわたしは揚げ物をしなくなった。今晩の夕食も揚げないコロッケをつくった。

天ぷら、は、相対的にみて、家庭料理のうちではかなり手間のかかる部類だ。この詩ではそれをほんらい食べさせるべきだれか・・・との関係性の深さが示唆される一方、その浅さ(嘘)もまた同時に書き込まれている。もちろん、嘘とは、「わたしを一人にしない」という約束がだれにとっても達成不可能なものであるということであり、はじめから約束が成立しないことがあらかじめ了解されていることである。

嘘、にかたちを与えねばならない。高温の油の中でうつくしい花びらのように羽根をひろげる芸術作品としての天ぷらの衣、それは咀嚼され粉々にくだかれる前に、ほんのひととき鑑賞者の眼を楽しませるためにだけつくられるものだ。その嘘を詩として提示することが本詩集の目的とひとまず読む。

ご存知のとおり、漂白しても白くなる子と、白くならない子がいるんです。大変、言いにくいことですが、お子さんは既にかなり濃い。学校で対処できるうちに何とかしましょう。今ならまだ間に合いますよ、お母さん。家庭訪問の日、先生はお母さんの顔をのぞきこみ、丁寧に説明した。お母さんは勝手にわたしの漂白を決めてしまった。通常、女子は一回で漂白できるはずなのに、わたしの場合は難しいとのこと。帰宅したお父さんは、わたしを見てイヤな顔をした。一回目の漂白は失敗したけれど、二回目では僅かに変化があった。三回目では上半身、四回目で初めて下半身がキレイになった。五回目の漂白が終わって、ようやく先生はわたしのことを教室に入れてくれた。わたしには見えない、わたしの表情。先生は満足そうに深くうなずき、わたしの肩を抱いた。先生の安っぽい整髪料の匂いが、せっかくの白さを傷つけるような気がして、わたしはとっさに先生の身体を避けた。白こそ全てなのです。汚れのない白。

「漂白」前半 部分

巻頭詩を終えて、本体に含まれる詩作品を読み始めると驚くのは、頁をほぼ正方形に埋めつくす、改行、行開けのない詩連である。そこには意図的な読みにくさが選ばれている、といえる。それは以前の佐々木作品を知るものにはやや驚きだろう(#ex002 にいくつか引用しているので、比較してみてほしい)。

大部分の詩においてこの様式がまもられ、一作品あたりほぼ一頁から二頁。その読みにくさによってなにがあらわされているかだが、嘘を嘘だと告白するときの含羞と考えるのがまずは自然だ。そもそも隠したいことがあるからひとは嘘をつくのであって、それを告白するということにはなみなみならぬ勇気がいるものだからだ。その時、ことばは乱れ、吃音が生じる。いいかえればかたりにくさ・・・・・・が生じる。そうしたひとの有り様そのものにかたちが与えられている。

「漂白しても白くなる子」と「白くならない子」は、嘘をついてきれいになることができるひと、と嘘をついてもきれいにならないひと、と解釈することができる。少しうがった見方をすれば、佐々木の過去作品にみられた、技巧としての改行(空白)の活用こそが、嘘にすぎないのではなかったか。少なくとも著者はそう自ら示唆しているようにみえる。

佐々木は白くあることを告発する。そんなことは不可能であり、ひとははてしなく、技巧のうしなわれた渾沌たることばに真っ黒になるまで支配されている。そうした現実を自らに対してごまかすことによってのみ成立するものこそが、佐々木のたたかう相手である、と読める。それは嘘とたたかうこと、そしてその手法とは、嘘であることがだれにもわからないようなかたちであらわれる、変幻自在の怪物の正体をあきらかにすることである。その怪物は、佐々木の詩集においては便宜的に「先生」や「お母さん」とよばれている。

先生は少し困ったように首をかたむけ、静かに目をそらしました。これは夢だ。だってあの先生、知らない仮面をかぶっていたもの。もう一度、教室をのぞきます。その時、誰かが肩に手を置きました。後ろを振り向くと、お母さんと同じ仮面をかぶった女の人が笑っているのか、泣いているのか分からないような声で、ほら、あなた、忘れ物よ、と言いました。そうでした。仮面を家に忘れてきたのです。でも、どうして学校では仮面をかぶる必要があるのでしょう。女の人とお母さんの仮面が同じだったことも不思議です。同じ仮面もあるのですね。夢の中なのに、今日は吐く息が白いのです。かじかんだ指先も、冷えきった足も、疲れた心も、どれも、わたしでした。

「氷点下」中盤 部分

だれしもが嘘をついていることに無自覚な空間、それが「学校」とよばれている。くりかえされる(空)白は、ことばのない世界があればいいのにという果てのない願いであり、あるいはことばをえる前の佐々木が育った岩手の冬の光景なのかもしれない。

「お母さん」であった存在は分裂し、著者個人の《私》の小さな個人的な物語は拡散し、《私たち》の物語へと変貌してゆく。それは肉となった仮面が顔にへばりついた者たちがすまう画一的なことばの空間スフィア、つまり二〇一八年にいきるわたしたちがよく知っているものである。そこではだれひとりとして仮面をとることができない。なぜならそれは「どれも、わたしでした」というほかないほど、自らにへばりついて取れないからである。

中止にする。一度目は単なる試み。二度目は挑戦。三度目の今日、僕自身の完成を目指し、この企てを実行する。早朝、連絡網で「体育祭の中止」が知らされた。詳しいことは登校後に校長から説明があるという。「お弁当、持って行くのよね」と母さんが台所から顔を出した。母さん、弁当ができても、できなくても、体育祭はいつだって中止なんだよ。去年の体育祭も中止。一昨年も中止。僕が在校生でいるうちは、体育祭は何度でも葬られる。毎年、サトウもキクチも、体育祭の中止をとても喜んでいた。僕らは体育とは最も縁遠い存在としてみんなに知られていた。誰もはっきりと口には出さなかったが、僕よりもサトウ、サトウよりもキクチが体育祭を阻止する「学校爆破予告の犯人」にふさわしいと感じていた。むしろ、実行犯に違いないと誰もが思っていた。登校後、最初に僕らはキクチの自死を知らされた。明け方、校庭の真ん中でキクチは発見されたという。体育祭どころではない。爆破予告の犯人は、学校を爆破せずに自爆。体育祭のこの日を選び、会場でもある校庭を選んだ。誰のために。キクチの遺書が発見された。遺書の最後は感謝の言葉で結ばれていた。「毎年、体育祭を中止にしてくれたこと、心から感謝している。本当にありがとう」

「企て」前半 部分

嘘の蔓延する場をこわすために企図されるものはテロリズムである。それは圧倒的な強者である社会を前にした弱者が唯一選択できる(かのようにみえる)手法だからだ。この詩ではその社会が「体育祭」とよばれている。だが祭りを中止するべく企てたキクチは自死する。着目すべきなのは体育祭の中止という目的が、企てを自ら放棄・・・・・・・することによって、実のところ達成されていることである。それは詩を完成させないことによって、その代償としてえられるものがあるはずだ、という著者の確信を感じさせる。いや、もっと具体的にいうべきかもしれない。それはたとえば「完成度」という実のところ恣意的な基準を、いっさい信じないという宣言のようなものである。

わたしは風に選ばれたのです。屋上の教室に通うために。机も椅子も必要ありません。時間割は風が笑いながら吹き飛ばしていきました。空は青い黒板でした。風が走り寄ってきて、わたしを慣れた手つきでめくっていきます。気持ちいいのです。風に読まれることが。風は始終、わたしという物語に泣いていました。これまでわたしを読んでくれたのは風だけでした。屋上のドアは開閉を忘れていました。わたしも忘れていました。あれから、どれくらい経ったのか。今年、先生は入学したばかりの生徒たちを屋上に連れて来ました。「ほら、とってもいい眺めなんだよ」と言いました。そして「気をつけて。ここは、以前、事故があった場所だから」と。一方で、風はささやいています。「そろそろ新しい読み物が欲しい」と。

「屋上」後半 部分

ことばの牢獄たる言語的構造物(校舎)を抜け出して屋上に出てみても、そこにあるのは出口ではなくまた別の階層に過ぎなかった。それはひとびとの言語化された物語が消費され、読み捨てられる場であり、気持ちのよい風はただあたらしく消費されるものを呼びよせるための道具にすぎない。

選ばれるということ……それには特定の社会的地位も含まれるが……は選ばれる側にとって一時的な恩寵である可能性が(「気持ちいいのです。風に読まれることが」)示唆されるとともに、それは実のところ恣意的に選び出される(しかも悲劇的な)見せ物に過ぎないという現実の有り様が同時に示されている。具体例を思い浮かべるまでもなく、それは嘘と真実の見分けが付けにくくなった、あるいはそのふたつを区別する必要性をだれも感じなくなった扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代を指し示している。

やさしい家に行くならば、心を持っていってはいけません。心を取り出して、いたずらする子鬼がいるからです。わたしの心が真っ白すぎる、弱すぎるといって心を取り上げ、唾液をつけて磨こうとするのです。心は磨かれているのでしょうか、それとも汚されているのでしょうか。黄ばみつつあるわたしの心を母は臭いと言いました。

やさしい家に行くならば、きれいな服を着ていってはいけません。困ったことに母の用意する服はどれも、きれいなものばかり。子鬼は怒りながら、わたしを裸にします。寒がるわたしの前で、わたしの服を子鬼は胸に当て、袖を通し、鏡の前に立ちます。これ似合うでしょ。子鬼は尋ねます。わたしの口からも嘘が生まれるようになりました。わたしの服は子鬼の穿いていた毛糸のパンツと交換です。

やさしい家に行くならば、決して笑ってはいけません。ある日、大人がわたしに頬ずりして言いました。あなたの笑顔、かわいいわ。わたしは、いま笑っていたのでしょうか。子鬼は顔を赤くして抗議しました。ふだん、笑わないから可愛く見えるだけなんだ、とも言いました。わたしから笑顔を取り上げたのは子鬼なのに。わたしは子鬼の赤らんだ顔を見ながら、動物園で見た猿を思い浮かべました。

「愉快な地獄」第一、二、三連。

本詩集でもっともわたしが好きな詩。嘘にまみれ、肉となった仮面をかぶらざるをえないひとびとがすまうことばの牢獄。その怪物の臓腑が「地獄」と呼ばれることに読者はもはやなんの驚きも抱かないだろう。

この詩では本詩集ではめずらしく行分けがなされ、全部で五連、それぞれが長方形を構成するよう文字数は調整されて、その様子は、どこか、居間にたちならぶ複数の磨きあげられた銀の鏡を思わせる。そこに穢れとしての文字があらわれる。

「やさしい家」などないことはすでに読者には了解されている。あるいは嘘のない家、個人に理解のある社会、「わたしを一人にしない」恋人、などといったものが存在しないことがすでに了解されている。それはだれかが悪いから、ではない。社会が悪いから、ではない。それはことばによって嘘と真実をみわけることがそもそも不可能だからで、そこには根本的な欠損が内在しているからだ。

書き手がいくら考えてみても、いじわるをする「子鬼」の真意はわからない。あるいは、娘を傷つける「母」のこころはわからない。わからないものをわかろうとしたとき、ことばは壊れ、嘘がつくられる。嘘を憎んでいたはずなのに、いつの間にか自分そのものが嘘になってしまう。そうした姿は、つらくかなしい。だが、それをかたちにしようとする詩に、真の人間らしさ、勇敢さを感じる。

佐々木貴子は過去の作品と決別し、あたらしい文体とともにここにあらわれた。
ことばの不能性のうまれる場に立ちかえろうとした第一詩集。

(2018年9月21日)

佐々木貴子『嘘の天ぷら』書籍情報
嘘の天ぷら
出版 土曜美術社出版販売
発行 2018
著者 佐々木貴子(ささき たかこ)
価格 1400円+税

詩誌『ファントム 3号』

《わたし》とほんの少しずれた幽霊としての《私》。
その亀裂からことばがあらわれる。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。急速に冬が近づきつつあることを肌寒さの中に感じる。
さて今週は詩誌特集ということで、為平澪(#0023 参照)主宰の詩誌『ファントム 3号』を。この詩誌はほぼ一年に一度発行されており、参加詩人は五名から十名前後、主に詩作を中心とし、エッセイや詩論などの小特集コーナーも有する。既刊を含めて装丁は黒色を基調に、都市、夜景、構造物、幾何学的文様などを主なモチーフとし、硬く冷えたなめらかな鉱石を思わせる。本号は参加者は十一名、十四作品、一論考を収め、五十六頁。

詩誌の名前についてだが、二〇一四年発行の創刊号を開いてみると、巻頭に次の一行が置かれている。

詩人は自分の中にもう一人の他人を飼っている
巻頭言、『ファントム』創刊号

ファントム “Phantom” で英英辞典を引いてみると、亡霊、幽霊の意味以外にも、「想像力のうちにしか存在しないもの」という意味が記されている。後者の意味に基づいた単語には Phantom Pain(幻肢痛)や  Phantom Pregnancy(想像妊娠)などがある。

詩誌の題名と巻頭言からは、身体の内側にまぼろしとしての他人を持つこと、そして「詩人は」と定義されていることから、その他人との不可能な対話を通じて詩作品がみちびきだされるイメージが得られる。

その他人とは自分の魂のなかにことばとして存在する肉親かもしれないし、教師かもしれないし、かつてそこにいたが、いまはいなくなっただれかかもしれない。その対話にともなう遅延、ずれ、二重性に「詩」という名前があたえられ、その由来を宣言するために「ファントム」という看板が掲げられている、と読める。

それでは本号を読んでみよう。創刊号から共通するメンバーには、為平のほかには麻生有里、浦世羊島(耀一朗)、奥主榮、一色真理などがいる。かれらの作品からいくつか抜き出してみよう。

不規則な人の流れを
かきわけるのはどうしても苦手だ
曲がり角ならいつも
上手に見分けられるのに
すれ違いざまに宙づりの幽霊が見えて
ふり返ったらキッと睨まれた
(どうしてわかったの)

システムが理解できない
いつだってそう
人の仕組みも回路もネットワークも
分解して知ろうとしても無駄なこと
導かれればいいのだろうか
ついて行けば崩れるのかもしれない
だけど結局は
似たような末路をたどるのなら
自動改札ぐらい通ってもいい

さっきから視野が狭いと思っていたら
(落としましたよ)
誰かが眼球をひとつ拾ってくれた
ありがとう
お礼がしたいので電車に乗りませんか
そんな出会い方だったら
遅刻しそうな子とぶつかるのでもなく
書店で同じ本を手に徒労とするのでもなく

自動改札をリレーのように通り抜けていく
にんげんは本当に
どうやって動いているのだろう
ふいにつきつけられた風の中で思う
促されて名前を書いてしまうぐらいなら
あたらしい文字を作って
読めない名を名乗ればいいと

麻生有里 「地上の電車」
第一、二、三、四連

昨年 詩集『ちょうどいい猫』を刊行した麻生有里の作品。地上の電車、という題名からは、地上を走るものではない、この世のものではない幽霊としての電車というものを想像する。第一連には幽霊が登場するが、これは電車の中で吊り革からぶらさがる生きている肉としての人間の姿なのだろう。電車は個別に分断されたわたしたち肉を乗せたままどこかへ走ってゆく。そうしたシステムの中に閉じこめられているのは、たくさんの線/路によって構成される電磁的ネットワークの上に拡散する膨大なテキストによってつくられる現代社会の中にいるわたしたちの姿でもあり、「にんげんは本当に/どうやって動いているのだろう」というふいに湧き出す疑問は、ことばは本当にどうやって意味をもって・・・・・・働いているのだろう、と読める。その問いには、まるで幽霊のように、と答えるしかない。

舞い上がる砂塵は光を遮り
地上を這う人々の心を煤けさせる
ここにいてはならぬと責めるように
吹き荒れる風は 体温を奪う
大地に刻まれた一千年一万年の呪い
汚されたばかりではない
影に覆われた土の上で 育つ草木も限られ
眩い白色光は伝説として語られるばかり

届かない青空に恋いこがれながら
人はよろめく足を踏みしめて
高くたかく築きあげる 祈りの尖塔を
積み重ねるたびにひび割れ崩落し
祈りを嘲笑うかのように
大海に投じられた一石の頼りない波紋
そんな祈りは誰に向けられたものなのか
存在が不確かな神々に対してか
信じることさえままならぬ我々自身に対してか

遠い昔 我々は自分たちの子孫に対し
言い逃れしようのない咎を負いこんだ
大地を陵辱し海へと毒をとめどなく流し
空を忌わしいもので充たしていった
道は汚泥に覆い尽くされ 喉をふさぐものに
祈りの言葉は損なわれていった

そうした中で自分たち自身の首を締め
豊穣の大地も 大漁のわだつみも
羽ばたくことのできる光に溢れた空も失った

生きるよすがとなる
波止場を忘れた そんな方舟

奥主榮 「陸の時代」
第一、二、三、四、五連

奥主榮(#0005 参照)の詩はまっすぐ実体のある読者の身体にぶつかってくる。だがそこには幻への望郷またはいかりがある、というのはわたしの個人的な読みに過ぎないかもしれない。「陸の時代」とは、わたしたちが汚してきた土に復讐される時代。奥主がその主題として見つめてきたのであろう罪悪感は、本邦に住まうすべての倫理的存在が持っているものである。その叱責の指先は、近代社会といった曖昧模糊としたものではなく、具体的で、実体のある、歴史を有する対象にはっきりと向けられている。だが奥主はこの詩においてそれを明記しない。それが昨今のソーシャルメディアに見られるような「反」を冠する扇動的営為——いわば善の凡庸さバナリティ・オブ・グッド——に加担してしまうこと、しかもがそれに加担してしまうことのおそろしさをよく知っているからである。そこに奥主の誠実さ、作家としての矜持がある。

真夜中にウイルス・スキャンを実行して
モニターを見ながら怯えている
ブロックされた危険な接続の中に
今日も同じ顔を見つけた

この顔はファミレスでおなじみの
おばちゃんたちの自慢話と劣等感の駆け引きの中で
泡立ったメロンソーダーの中の不純物
その隅で立ち上がる甲高い声はトロクサイと、高齢者を嗤う
ラインが止まない女子高生のIDとIPアドレス

ファミレスの町ぐるみ検診を何度も起動させると
真夜中に胃がキリキリと痛む
体内に悪いウイルスがいるせいだと 医者は語る

私の胸部も頭部も異常がないのに
悪いことを見つけたら罰したい寂しさが
液晶画面を青に変える

毎日をスキャンして安心したい
(私は安全だ、と
毎日を表示して教えてほしい
(ウイルスはいませんでした、と
毎日を毎日フルスキャンして 私は木端微塵に疲れていく
(駆除したいのか、駆除されたいのか

為平澪 「ウイルス・スキャン」
第一、二、三、四、五連

為平の詩は、ある対象をふたつにわかちながら、それらをひとつにまとめようとする動きに抵抗するため、そのふたつを同じ地点に重ねてゆくことから始まる。この詩では、ウィルスを駆除する《私》と駆除される《私》は、じつのところ同じものではないのか、という疑いからはじまるが、それは清潔に除菌された現代社会ネットワークに対する根本的疑義をわたしたちに突きつけてもいる。わたしたちがなにかを捨てるとき、わたしたちはなにをえているのか、そういう大きな問いがある。

システム、あるいは世間は単純化された世界を好む。わたしたちの社会はことばというウィルスを以前のように許容できなくなりつつある。「悪いことを見つけたら罰したい寂しさ」をだれしもが持ち、お互いに石を投げ付けあう二〇一八年の他罰的な相互監視社会のただ中にいるわたしたちの姿を為平は書いている。これもまた現代についての詩だということを思う。

ことばテキストだけで構成される社会とは、つまり亡霊が闊歩する場でもある。
詩は抵抗する、と為平はいっている。それは加速度をもった永続的なる運動でなければならず、そのために詩があり、詩誌が発行され、詩集がつくられるのだ。

詩誌『ファントム 3号』

詩誌情報
詩誌 ファントム
発行 為平 澪 「ファントム」編集室
号数 2018 3
価格 500

詩誌『Rurikarakusa 9号』

とどくもの、とどかぬもの。詩がかたちをあたえる不可能なものたち。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。少し冷える朝が目立つようになってきた。

本日も引き続き詩誌をとりあげよう。詩誌『Rurikarakusa』は、以前《千日詩路》でも取り上げた詩人たちによる合同個人詩誌で、花潜幸(#0018)、草野理恵子(#0001)、青木由弥子の三名のメンバーの作品を中心とし、ゲスト詩人一名を招待する構成となっている。

メンバー三名がそれぞれ詩を二編、ゲストは詩一・二編とエッセイ。これをA4サイズ上質紙三枚に掲載し、そこに和紙と思われる扉紙を重ねたものを三つに折り畳み、長方形の封書の様式にて頒布されている。わたしの所有する限りでは過去分についても同様の様式がとられ、二〇一六年一月創刊、年三回程度発行、本号は九号で二〇一八年九月付。

さて、本号の構成を見てみよう。過去分も通して同じ構成なのだが、目次は次のようになっている。詩誌としてとくに特徴的なのは、ゲスト詩人にはエッセイの枠があり、これがその詩人の人となりを知る機会を読者にあたえてくれること。

表紙/扉紙 (裏に編集後記)
一枚目 ゲスト詩人による詩作品 二つ およびエッセイ
二枚目 花潜幸、草野理恵子、青木由弥子による詩作品三編
三枚目 同上

今回のゲストは詩人の上手宰。一九四八年生まれ。詩集に壺井繁治賞受賞の『星の火事』、ほか『夢の続き』、『香る日』、二〇一八年には『しおり紐のしまい方』刊行。本号ではふたつの詩が掲載されている。そのうちのひとつを抜き出してみる。

文字の台紙が紙であるように
言葉の台紙は息だという
夢の台紙が眠りであるように
愛の台紙は寂しさだという

記憶の台紙が最近たわみはじめた
光と影の感光板が波打つ河に変貌する
舟を出すと空が暗く覆われ
なにもかも忘れ去ってしまう
忘れたことにも気付かず
河のなかに自分を置き去りにすると
はてしない安らぎが訪れる
紙からずり落ちていった文字たち
止まった息が密かに逃がした言葉たち
浅い眠りに溺れていった夢たち
それらを見送ったあと
寂しさの扉をあけた愛が
使われなくなった鍵のふりをして失われる

上手宰 「白夜」
第一、二、三連

白夜とは昼と夜の境目がなくなること。それは上手のことばを借りれば、文字が紙であり、紙が文字であるかのような状態、あるいは息がことばであり、ことばが息であるかのような認識のことである。ドーナツの穴は存在するのかという有名な問いがあるが、上手の詩を読んだ上ではこう答えられるかもしれない。穴(ことば)を存在させているのは周辺にあるものであり、穴(愛)そのものが存在しているのではない、と。とても好きな詩。

また、エッセイをおもしろく読んだ。著者は自分が歳をとったことにより、目やにが出やすくなるという自らの身体についてかたり、そんなある日のこと、眠りに落ちる前に目やにが気になったが、「洗面所に行って目を洗ってすっきりさせずには眠る気にはなれなかった」ため、目を洗ってから眠ったという出来事についてかたってみせる。

目が何かを見るという行為は、その中に見える対象だけに依存しているのではない、と私には思われた。見るということは、見るという行為そのものへの愛着がある。だから具体的に網膜に映る像がないとしても、目は何かを見ることの可能な態勢に居たいのではないか。私の目はその夜、目をきれいに洗われ世界がよく見えるよう身支度して何も見えない世界に向かったのであった。

上手宰 エッセイ「闇に入っていく目」
第二連

別のことばでいいかえれば、存在しない穴=ことば=愛を見る、発見する、つくるためには、汚れていない眼球が必要であり、その汚れていない眼球をもって、光をうしなった闇の中に入っていかなければならない、という逆説的な手法がみえてくる。「汚れてはいないが、見ることのできない目」をもって進むことがいわば「身支度」することであり、詩を書くということが書き手にとってどのようなものであるのか、そこからくっきり読み取ることができる。詩とエッセイが相互補完的な関係になるよう企図されていることがうかがえる。

詩誌『Rurikarakusa』は三名の詩人のメンバーの詩作品を展開する場でもあると同時に、このような紙面上の編集、組み合わせの妙によって詩、そして詩にとりくむ個人をひろく紹介しようとする試み、と読める。その試み自体がまず刺激的だ。

インターネットの一般読者・・・・にむけて詩についてかたる詩と書評のサイト《千日詩路》は、昨日とりあげた詩誌や、『Rurikarakusa』のような詩誌を応援している。

◇ ◇ ◇

三名の詩人メンバーの詩については、別の機会にまた取り上げるとして、最後にそのうちのひとつ、わたしが好きな草野理恵子の詩を。

雪まじりの雨が降り注ぐつめたく残酷な世界の浜辺に流れ着く、かつてひとであったものの一部。それは靴下になぞらえられ、そのことばはとどかず、つめたい水辺に沈んでゆく。とどかないもの、ただながれてゆくものたち。

冷たい雨が降り続いた
水滴な病室の窓を伝い部屋の隅に溜まった
見知らぬ君は靴下を脱いでいた
僕は雨のカーテンの隙間から見た

雨のカーテンは開き 君の姿を見せた
君の荒い息が水面をよじり
さざ波をおこしていた
波が僕のベッドの足元まで押し寄せた時
両手ですくい口をつけたかった

長い時間をかけて靴下を脱ぎ終えた君はまた
高く脚を上げてベージュの肌を剥ぎ取り始めた
美しく白い脚は幾度となく高く上げられ
雨が上がったあと
月が幾度となく苦しみの表情を照らし続けた

深夜 氷の浮いた海に君の靴下が浮いた
半透明のベージュ色の薄布は
羽衣のように震え消えた
皮を剥ぐように苦しげに脱いでいた
月は君だけを照らしていた

草野理恵子「靴下」
第一、二、三、四連

『詩誌 Rurikarakusa 9号』詩誌情報
Rurikarakusa
発行人 青木由弥子
号数 2018年 9号

金時鐘『背中の地図』

きえることのない青い火がどこかで燃えている。とどかない海辺のあちら側で燃えている。地図は燃え、背中はすでに遠く、砂礫はただ波に翻弄されつづける。

◇ ◇ ◇

窓はもうひとつの
壁にほかならなかった
いくら見渡しても
さえぎられるばかりの境界だった。
高さばかりが高まっていって
外界はひたすら
透かされるガラスの無音の世界だ。

「窓」 第一連 前半

本日は水曜日。突然冷え込んで、ずいぶんと涼しくなった。

今日の詩集は金時鐘の『背中の地図』。著者は一九二九年朝鮮釜山生まれ。日本語で詩を書き続ける。『原野の詩——集成詩集』(一九九一年)にて第二十五回小熊秀雄賞、『失くした季節——四時詩集』(二〇一〇年)にて第四十一回高見順賞を受賞。これら詩集に加えて、評論エッセイ集など著作多数。

本書は、著者が二〇一〇年から二〇一八年にかけて書いてきた詩作を中心に編んだもので、東日本大震災と福島原発事故後の社会についての作品を主とする。二〇一八年発行、百四十四頁に二十八編を収める。

けっして瓦礫ではない
それは散らかされた暮らしのかけらだ。
ねじれた窓枠に
こびりついた新聞紙。
逆さに埋もれて
もがれた人形。
割れ口につき刺さって吹く
欠けた瓶の風の傷痕。

嘘はここで群れ合っている。
心情で睦んでいとおしんで
何から何を癒やしているのか。
骨も露な建屋の屋根を浮かび上がらせて
長い夜が白んでいる。
それでも天外の火は
囲んで沈めた水壁の底で
千年変わらぬ青い鬼火を放っている。

「それでも言祝がれる年はくるのか」 第三、四連

二〇一二年、元旦に掲載された作品。「天外の火」は、自然界にこれまで存在しなかった原子力による青い火——チェレンコフ光と呼ばれるものだろうと想像する。読むと、あの頃毎日のように放送されていた津波の様子が脳裏に浮かぶ。瓦礫と呼ばれていたのは、だれかが大切にしていたたくさんの家具の成れの果てだったこと。そして無関係な第三者にとっては、自分の有するあらゆるものもただのモノ・・に過ぎないという事実こそがもっとも残酷な気付きだった、ということを思い出す。そのことをふたたび忘れるためにいくら「心情で睦んでいとおしんで」みても、癒やしは単なる嘘でしかないことが理解される。

新年を祝っていてよいのか、そう問う気持ちをわたしたちはどこか共有している。いまこのしゅんかんも、北海道では地震によって多くの被害があり、先立っての台風でも数多くの犠牲者が出ている。そうした災害にあふれる土地に住んでいるという事実があるからだ。被害を被るもの、被らないもの。ふたつを分ける線は完全なる偶然によって決まる。たまたま《わたし》が被らない場所にいたからといって、それを言祝ぐことなどだれにもできない。

深夜の東京駅は
都市のにわか難民であふれ返ってきた。
不気味なほど黙りこくって
群衆はてんでにぞろぞろと動めいていた。
「ウラ日本」とはたしか
脊梁山脈を北へ越えた
日本海寄りの地方のはずだ。
大津波はまさにその裏のうらを衝いて
弓なり状の本州の背を襲ったのだ。

(…)

あまたの禍いを残して
山濤は海へと帰った。
当の日本人にも多分
人に言われてからしか振り返れないところがあるのだ。
原発建屋がふっ飛んだのも
その死角のただ中でだ。
厚着の季節がまたぞろやってきて
改めて自分の背中をまさぐってもみる。
やはり届かない。
何がそこに取り付いてあるというのだ?!
自分のま後ろの
背に。

「背後は振り返れない」 第三、五連

大震災直後のことを回想した作品。どうしても手にとどかない自分の背中のある部分が、日本列島または、自然・・に作られてしまう盲点になぞらえられている。そこにある理解とは、わたしたちはいくら努力しても、意識しても、とどかないものがそこにあるということ、そしてそれは身体――眼は前をみるように設計されたものであり両手は容易に背中に届くようにはつくられてはいない――または精神的構造の欠陥があるからだというものだった。わたしたちに次の事故が防げるのか、という問いがあるとして、詩はすでにそれに答えている。

日本列島の背中、とは日本語の背中でもある。日本列島は大陸に顔を向けているのかそれとも背中を向けているのか。日本語からみれば日本海よりの地方が「ウラ」だが、大陸側からすればそれは表であり顔であるはずだった。同じものが異なる名前で呼ばれており、盲点はすれ違う。そもそも見えないもの、見えないことがわからないものを克服するということは、言語の外に出ることだという示唆を読みとれる。

私の両手は合わさったまま
固まっていった。
たしかに潤ってはいた手だった。
天外の青い火を引き入れて
団居を浮かび上がらせた村だった。
その年の春
町ごと浚われて人がいなくなり
この夏もまた方々で山がくずれて
人々が消えた。

人の居つけない空白があたりを払い
つと沈黙が立ち上がって
バスの運転手の顔を振り向かせた。
私は口までがこわばった。
瞳孔がない、彼は死人だ。
積まれた瓦礫の間を
ボランティアの善意が乗り合わされて走っているのだ。

干からびた言葉を吐きだし
車窓を開けて吸いこみ、また吐きだしても
攫われた命の行き先はかすんで見えない。
よほど深く死者は自らの死を葬っている。
時代がひずんでのたうつときほど
人は神妙に死者のいない死を弔う。
弔うことで突如の死を墓石に変える。
ますます死体は虚ろになる。
死者が誰で私はどのような死の誰に
手を合わせているのか。

「弔い遥か」 第二、三、四連

大震災の後のことが書かれているはずだが、わたしたちには既視感がある。毎日の報道によって、自然災害による人的損失に慣れてしまっているのかもしれない。津波も、台風も、地震も、わたしたちにとってあまりにも身近なものになってしまった。

二〇一二年に発表されたこの詩では津波による被害者たちに対してとともに、ことばの死にも手が合わせられているように感じる。ことばの死とはなにか。それは死んだものが生きているような顔をして歩くことであり、「死者のいない死を弔う」葬儀が平然と行われてしまうことを指す。死者たちを単なる数で数え、瓦礫を思い出ではなく単なるモノとして見、それにいつの間にか慣れてしまったとき、わたしたちはわたしたちを失い、葬るという行為から遠ざかる。わたしたちは常に死者たちと生活をすることになる。

だが、なにかをただしく・・・・葬ることができるだろうか。詩はそう問いかける。両手を合わせてみても、その手は冷たく固まっている。それは詩が、そのただしさ・・・・を信じることはできないということをあらかじめ知っているからである。

社会についてかたるということは、《私》についてかたるということ。東日本大震災、原発事故の後も、本邦はつねにさまざまな災害に襲われてきたのみならず、現在もさまざまな自然のふるう力に日々振り回されている。そのような場に生きることを強いられるとき、いや、その残酷な不可視の宿命をあらためて自ら引き受けるとき、わたしたちは弔うための資格を手に入れるのかもしれない――それが閉じられた窓に映る、とどくことのない遠景にすぎないとしても。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集でもっとも好きな詩を紹介したい。
あらかじめ見捨てられたものを、わたしたちはいつかえられるだろうか。

そこへはまだ行ったこともないのに
なぜか大事な何かを忘れてきた気がしてならない。
夜ともなれば列車はきまって三陸海岸を逆のぼり
無人駅にも桜は例年どおり舞っていて
そこでもまた私は
朴訥な誰かを見捨ててしまっている。
特定の誰かでもなく
定かには見分けもつかない人びとなのに
それでもありありと顔がみえるのだ。

私が行き暮れていたのは
がらんどうの四つ辻だ。
どこへも行き着けない道だけが
いち早く整えられていて
居なくなった村へは
海へと向かう舗装道路の
狭い脇道から途切れてしまっていた。
きっとそこのところだ
何かを置き忘れてしまったのは。

「夜汽車を待って」第一、二連

(2018年9月12日)

金時鐘『背中の地図』書籍情報
背中の地図
出版 河出書房新社
発行 2018
著者 金時鐘(きむ しじょん)
価格 2500円+税

【番外編】BBC ラジオ番組 “Atmosfears”(詩人たちと樹海)

母語と父語がするどく対立するとき、ことばがうまれる。わからないものをわからないまま愛することができるだろうか。知らないものを知らないまま愛することができるだろうか?

◇ ◇ ◇

本日は火曜日。夏は遠くに去り、すでに秋がおとずれている。

さて本日は英国放送協会(BBC)のラジオ番組 “The Art of Now” のエピソードのひとつ “Atmosfears” を紹介したい。インターネット上で公開されている。

ラジオ番組 ウェブサイトリンク “The Art of Now”
https://www.bbc.co.uk/programmes/b0bh431g

案内人は、詩人・翻訳家のジョーダン・スミス(ちなみにわたしは彼を英文詩誌『東京ポエトリージャーナル Vol.4』 のカニエ・ナハ  (#0024 参照)  の英訳で知った)。日本からは四元康祐、新井高子、大崎清夏といった詩人らが参加している。すべて英語で、青木ヶ原いわゆる富士樹海を題材にした詩の番組。国営放送でについての番組が普通に放送されている英国を個人的にはうらやましく思うが——とりあえず、番組梗概を公式サイトから訳出してみよう。

※すべての訳出は《千日詩路》編集部によるものである。

Atmosfears

三人の日本詩人が、薄暗い歴史に縁取られた土地で、創作に挑戦する。

この世界は、わたしたちが与えることばによってつくられている。地球のあらゆる場所が、わたしたち自身が与えた思想や感情に染め上げられている。わたしたちは、そのいくつかの区域については、これを崇拝し、聖地化する身振りを取る一方、それ以外の区域については、これを畏れ、呪われた土地とみなして、避けている。

ある特定の土地がある。そこでは、ことばがつくる層があまりに地表近くまで浮上するため、その存在がだれの眼にもあきらかであることがある。そのことばの層は、触れることができ、生きており、実体をもっている。

それを “Atmosfear” と仮に呼びたい。

詩人たちのグループが選んだ行き先は、悲劇的な歴史を持つそうした土地のひとつだった。そこで絶え間なくゆれ動く負なるもの。詩人たちはそれを克服するため、その下に隠れる大地へと、自らを再び繋げようとこころみる。

案内人は詩人・翻訳家のジョーダン・スミス。そして四元康祐、新井高子、大崎清夏らが向かう先は、日本の青木ケ原だ。

日本語では「樹海」と呼ばれる場所、それはすなわち木によってつくられた海を意味する。樹海は、過去に多くの人々が訪れ、自殺したことで知られている。詩人たちは、一人一人その場所と向き合い、対話を始める。しかし優先されるべきことは、その土地の上に書き加えるべき新しいことば、新しい意味、新しい物語について論ずるということである。その後、詩人たちはそれぞれオリジナルの詩作品を作り、朗読を行うのだ。

また最後に詩人たちはグループの総意として判断を下す。つまり、その土地に置いて立ち去るべきものについて。 “Atmosfear” について。

※ Atmosfear は造語で、元の単語は “Atmosphere”(大気、空気)を意味する。Atmos の語源は蒸気、煙、sphere は球体で、天体を覆う球状のガスのこと。富士の樹海にあるような、特定の場所に、特定の事象が堆積することによってつくられた負の歴史と意味の層を指すものと思われる。

番組は音声のみで28分。自殺の名所として知られ、富士の樹海とも呼ばれる青木ケ原に、案内人と詩人三名が実際に足を運び、それぞれが感じたことをかたり、さらにその土地から着想した詩を捜索し、朗読を行うというもの。詩人のコメント、創作された作品も含め、すべて英語で実施される。

この “The Art of Now” は、グアンタナモ刑務所の元収監者のインタビューや、ムガベ政権下のジンバブエのミュージシャンの抵抗の様子など、硬派で骨太のドキュメンタリー番組を提供することを方針としているシリーズ。

富士樹海というと、米国 Youtuber ポール・ローガンの不謹慎な実況(またはNetflix で話題となった福島原発事故を題材とした「世界の現実旅行」など)、いわゆるダークツーリズムの一種などを想像する読者も多いのではないかと思うが “The Art of Now” の方針には対象に対する真摯さを感じる。

番組では富士樹海まで行くのだが、映像がなく音声だけのためか、実際にそこをおとずれる四名の様子には緊迫感があり、かなりの臨場感がある。わたしもこの番組で初めて知ったが、富士樹海はかつて富士山が噴火したとき、流れ出し、冷えて固まった溶岩の上に森ができたことによってつくられたものだということだ。

樹海は自殺の名所として知られるようになる前から、すでにそこにいた生き物をすべて焼き殺した溶岩を地盤としていることがかたられる。その層の上に、自殺の名所としての層、姥捨てといった日本独自の森にまつわる物語の層が重ねられ、詩人たちによってことばによる意味の層が創出、発見されていく。

単に自殺者が多いという事実によるものではなく、その土地そのものが有する神秘性、魔力がつくりあげられていく。個人的には、ジョーダン・スミスが、富士樹海はいわば裏東京として、その樹木の数は東京の人口、魂の数に呼応しているのではないかという想像力による指摘が印象的だった。

最後にそれぞれの詩人が樹海についての自作詩を朗読し、番組は締めくくられる。朗読そのものも、囁き声や、風の吹く音など、演出も細かく、聴く愉しさがある。朗読はすべての詩人が行うのだが、一番印象に残ったのは四元康祐の詩 “The Sea of Trees” (樹海)。最後にそれを一部引用し、本稿を締めくくりたい。

The Sea of Trees

The forest is not deep, but shallow
As it is pushed up
By the lava that killed all the lives
On the earth around
Just three hundred years ago

(その森は深さをもたず、むしろ浅かった
(その森の由来は
(すべての生き物を殺した溶岩によって
(あたりの土を埋め尽くしたこと
(ほんの三百年前のこと

The roots are above ground
Waving and jumping
Just like fish caught in a net
Dancing and gasping in the air
We’re like the images reflected on the thin clear glass
Placed upon the pitch dark blackness
Backing the forest mirror

(その根は地表むきだしになり
(うねうねとはねるようで
(網にとらえられた魚のすがた
(宙でもがき踊っている
(わたしたちは薄く透き通るガラスに映る姿
(黒き暗闇の上に貼り付けられた
(森という鏡の裏地の上に

四元康祐 “The Sea of Trees” 第一、二連
※日本語訳は《千日詩路》編集部による追記

(2018年9月11日)