采目つるぎ 詩誌『…poison berry』(Vol.0,1,2,3)

――かたってよ、つたわらぬことを。

◇ ◇ ◇

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田中さとみ『ひとりごとの翁』

――仮面をとれば、わたしたちはどこにもいない。

◇ ◇ ◇

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書評イレギュラーズ:榎屋克優『ミツコの詩』

――読者? それはなんですか?(ある詩人のつぶやき)

◇ ◇ ◇

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岡田ユアン『水天のうつろい』

——生きている、そのなかに《あのひと》をみる。

◇ ◇ ◇

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服部誕『右から二番目のキャベツ』

——あなたとの適切な距離をたもち、二番目にえらばれる日を待っている。

◇ ◇ ◇

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十田撓子『銘度利加』(H氏賞受賞詩集)

——わすれ、思いだす。そしてまた、わすれる。

◇ ◇ ◇

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麻生有里『ちょうどいい猫』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

はてしなくかくさんする《わたし》という不可能な夢をみている。

◇ ◇ ◇

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市川つた『月の罠』

汀のない仮象の浜に、七億の砂礫がふきよせる。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。今日も秋らしい穏やかな天気だった。

さて本日の詩集は市川つたの『月の罠』。本書は某誌から書評を依頼された時に頂いたもの。当時は原稿枚数制限のため詩の引用がほとんど出来なかったため、本稿では全面的に書き直しを行った。

さて、それでは本書へ。著者は一九三三年静岡県生まれ。詩集に二〇一一年『白い闇』、二〇一二年『つれづれ想』、二〇一四年『虫になったわたし』などがある。本書は著者の十二冊めの詩集であり、三章構成。百二十頁に四十編を収める。

詩、「行間」から。

行間の絡まりが
怪しげな甘みを出して誘う
噛んで噛んで口中一杯噛み続ける
旨味と蜜を探し続ける

子供の頃つつじの花を引き抜いて吸った
まだ葉に包まれた芽花を裂いて
味のない白い穂を噛んだ

すかんぽに塩をつけてすっぱさを食べた
若いおおばこを塩もみして噛んだ
筍の皮に梅干しを包んで吸った
戦中戦後の
そんな事が次々思い出されて――

行間は緑の中に揺れている
何にもなかったころの
忘れてはいけない
そんな遊びが有ったということ

「行間」第一、二、三、四連

行間は書かれないもの、白い紙面に文字を埋めることによってのみはじめて見出されるうつほの別名だと思うが、それが詩を書く行為になぞらえられている。書くことによって忘却の闇の中に沈んでいた子供の頃の記憶が引き上げられているのだが、それが行間と名付けられていることに新鮮な驚きがある。

「行間は緑の中に揺れている」ものであり、見えるはずのないもの。見えないことそのものに、詩がかたちを与えている。届かぬ空白(記憶)に対する渇望と、空腹という生理的な渇望の、切実な複数の願いが重ねられ、思い出したかったが、いままで一度も思い出せなかった記憶がひらかれている。それは歩いてけして楽しい道ではないのかもしれないが、書き手にとってはやはり必要なことなのだろうし、読者にとってもそのような行間があるということを思う。存在しない道を見出し、歩くということ。

穴があったら入りたいと思う
無い穴に落とされることも有る
むかし人は洞窟に暮らした
戦中の防空壕だって穴
隠れ皆殺しになったのも穴

時々穴の底に潜んで青空を眺める
まん丸い月が蓋をする
夜空を仰ぐと月は空の穴
その穴に囚われて見つづけている

芥川賞受賞作「穴」を読む
得体のしれない動物が草叢に穴を掘る
人がちょうど嵌るほどの
這い上がれない深さの穴

濃厚な草の匂い なだらかな土手
穴の底に窮屈そうに膝を抱く
仰ぐ空は星がまたたき
覗き込む月光は草叢の穴と
月の穴に梯子をかける

「月の罠」第一、二、三、四連

標題ともなった詩「月の罠」は好きな詩だ。「行間」と同じように、存在しないが、周辺を埋めることによってのみ存在しうるものがここでは「穴」と呼ばれ、それが空に浮かぶ巨大な欠損としての月と対比され、遠く離れたふたつのうつほを詩がつないでいる。

地の穴には人間の悪意、愚かさ、野蛮さが捨てられていて、詩はその穴を外から眺めるのではなく、その中にとどまりながら空を見上げている。その穴は残酷な外の世界から命を守るものでもあり、または想像力を育むものでもあるはずだが、それは避けようものない暴力からは守ってくれるものではない。なぜなら穴は空虚として、「得体のしれない動物」も含め、さまざまなものをそのうちに呼び込んでしまうからだ。

私の海には汀がない
打ち返す波がない
ひたひたと揺れ
足許から広がっている

幻の砂浜を抱いて
石塊から小石になり砂利になり
砂になって私を拒んでいる
水平線は傾いて淡い光を放っている
夕焼けに未来と過去が惹き合って

引き裂かれた人がいて
並んで足を投げ出し沖を見つめ
小学唱歌を口ずさんでいた
灰紫にくれてゆく空に
仄かな茜色の魚影を追って
故郷の方角を見ている

「いわし雲」第一、二、三連

ふたたび存在しないものをめぐる詩。ここでは汀もなく、波もなく、浜辺もない、無限に広がる茫洋とした海辺がえがかれている。どこまでもひろがる想像力による青に、小さく白い文字や記憶がうかぶ様子が「いわし雲」と呼ばれている、と読んだ。

だが、存在しないものをめぐって足許からひろがる詩は、不穏なものを第三連で呼び寄せてもいる。それは本詩集の全ての詩編に漂う傷の記憶、それも戦火の痕跡だということを感じる。それはとてつもなく巨きく、とてつもなく恐ろしいなにかなのだろうが、第三者がそれについて具体的にかたることはできない。書くことによって見出される空虚は、必ずしもうつくしいものばかりが住まう場所ではないのだ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集でもっとも好きな詩を紹介したい。

なにかを書くとき、そこにはいつもわたしがいて、そして無限の距離を超えた先に読者がいる。読者とかたりあうことはできない。読者とわかりあうことはできない。読者とめぐりあうこともできない。

だが、それでいいではないか。書くことはひとり、生きることもひとり、死ぬこともひとり。詩は、そんな世界をいっさい変えようとすることなく、仮象の海の前にしてみずからを水面に投じる。波にあらわれた流木が波にゆれている。「すべてを捨てたい」と願わないものがいるだろうか。そして詩はついに読者へとどくのだ。

わたしがいる あなたがいる
あなたがいるその向こうに大勢のわたし
あなたの後ろにも 大勢の人たち わたしたち
悲しんだり喜んだりする
捉えきれないわたしが目を伏せていたり
両手を上げていたりする

人生の一瞬を泣いたり笑ったりしながら
合わせ鏡の中でふる里遠く流れ
津波のように引き浚われたりしながら
過去から現在へと目まぐるしく繰り返されて
虹を見 光芒を見 風も花も落葉も懐に入れて
残照の中のシルエットになり立っている
道は細く長く道の峠には
大樹が風に向かって立っている
光景は少しずつ足元から薄らいできて
茜雲は西空に消えた

裏返しのわたしを
角だった気持ちを宥めて海に向かって放つ
旅立つわたしは海風に煽られて何処までも浮遊する
あなたに向かって少しずつ気力も体力も失いつつ
身を任せて波のまにまに自分を確保回游して
過去はわたしの着衣 持ち切れないものを捨て
欲しかったものを断念し悟ったような顔をして
なおすべてを捨てたいと願っている

「真っ白い流木」第一、二、三連

(2018年10月4日)

市川つた『月の罠』書籍情報
月の罠
出版 歩行社
発行 2017
著者 市川つた(いちかわ つた)
価格 1500円+税

多和田葉子『シュタイネ』

あらかじめあたえられているものを、どうしてえることができるだろうか?

◇ ◇ ◇

今日は月曜日、本日から十月。台風一過、少し暑さが戻ってきた。

本日取り上げる詩集は多和田葉子の『シュタイネ』。著者は一九六〇年東京生まれ。一九九三年「犬婿入り」で芥川賞。日本語とドイツ語二ヶ国語で作品を発表している小説家であり詩人。日独両国にて著作および受賞歴多数。本邦での詩集は、二〇〇六年の『傘の死体とわたしの妻』に続き二冊目。本詩集は百二十頁に二十編を収める。

著者のことから連想して、本邦の詩の世界にいる、日本語で詩を書く外国出身の詩人たちが何名か頭に浮かぶ。かれらの作品は「外国出身」とわざわざ余計な情報をそこに付与することなく、ただおもしろい。そうした境界を踏み越えた詩からは、言語の習熟度だけがおもしろさを生むわけではない、ということがわかる。母国語であることは優れた創作の必須条件ではないのだろう。

本詩集の題名「シュタイネ」は、わたしの乏しいドイツ語知識によれば、「石」の複数形。よく見るとこれは「主体、ね」「詩、たいね」「詩、みたいね」とも読めるし、つなげると、「ありふれた石ころ、それらと主体および詩」へと誘おうとする作品の戦略が読み取れる。題名からすでに誤読を誘発しようとする織物になっている。ドイツ語の知識があればこうした駄洒落パンももっとおもしろく読めるのでは……ということを思うが、無い袖はふれないため、ひとまずは注意しつつ読んでみよう。

◇ ◇ ◇

君の名を言い当てるそしたら
引っ越しはやめるね?
膝を逆に折り曲げて電電虫を
たれ流したり
肘に鉛をそそぎ削ぎ混んだり
奥歯の根っ子を腫れ上がたらたら
瞼の裏側にミミズを這わせたり
兆候を小出しにして
フェイントのつもり
パスをつないで
そぞろ身体を
医者へ運ぶ前に治ってしまう
名前のない腐敗が
缶詰の花弁で中指の腹を切った
男根を囲む花弁みたいにぎざぎざだった
Oのキーを打つ度にひりっとする
キー容詞が鍵で
穴に入れてここぞと回す名詞
指と書く前に細いと書いてしまう
そういう思い込みだけの女が
縦書きなのでどこまでも背が高くて
字数が多くてもその分
家賃を余分に払う必要もないまま
書いていたら一字ごとに傷が

「ジプトーム(症状か)」 前半、中盤

詩のタイトルはドイツ語とその日本語訳がセットになっているのだが、合わせて読むと辞書を読み上げながら、自分自身を納得させているかのような心持ちになる( “symptom” ……ジプトーム……症状……か?)。

それぞれの詩作の題名は末尾が「か」が自分へと問いかけるかたちで統一されており、それはわたしたちが当たり前のように使いこなしていると思っている母国語の自明性に疑問符をつきつけるかたちになっている。

「膝を逆に折り曲げる」ことは、通常の用途から離れてことばを用いること。しばしば「難解」で「わかりにくい」と呼ばれる詩の世界の釈明または解説文のようなものだが、通常の用途とはたとえば「指と書く前に細いと書いてしまう」ような思い込みを思い込みと思わないまま書いてしまうことだろう。

別に指は細くもなければ短くもなく、慣用としてそう書いてしまいがちで、そこにはとくにこれといった理由もない。その行が「穴に入れてここぞと回す名詞」のすぐ後に置かれていることは示唆的だ。「ここぞ」をだれが/なにが決めるのか。そこには実はなにもなく、ただ書くたびに一字ごとに傷ができるような気づきの体験があるだけなのだ。

二行目の「引っ越し」は、一度母国語から離れた著者がふたたび外国語から母国語へ戻ってこようとする往還の所作ではないかと推測するのだが、それは簡単な道程ではないらしきことがうかがえる詩。なにしろそれは病状の一種なのだから。

如雨露を傾け
句読点をふりかけていたら
ゼラニウム
小雨が降り出した
向かいのバルコニーに立った老人が
こちらを指さして
笑っている
雨の中で花に水をやる人
意味がないという意味の四文字熟語に
雨天水人
なりたくない
やめられない
何をしても何もしなくても
あおあおと育つんだよ原稿は
天気を見ないで推敲する

「ギースカンネ(如雨露か)」前半、中盤

ふたたび書くことについて。如雨露(じょうろ)はひらがなにすると水がながれる音がする。この詩では書き手は、そんな如雨露によってひらがなでもかたかなでも漢字でもなく、「句読点」をふりかけている。そこからは「何をしても何もしなくても/あおあおと育つ」ことばを所定の文法体系にて区切り意味をとりだしてゆくだけ、という書くということに対するスタンスが読み取れる。

それはすでに水(意味)があふれる世界にあたらしく水(詩)をながすことだ、とも読める(「老人が/こちらを指さして/笑っている/雨の中で花に水をやる人」)。そんなものにだれもなりたくないが、やめられない、という二行に共感しつつ、世界を多孔に穿ち意味をつくる仮象の雨がふる風景がとてもうつくしい。

夜をふり切れない冬の車窓に
隣人のディスプ
レイが蒼く移り
危機を手鏡のように支える
爪のある指が
文字を次々と地獄に引きずり落とす
すらいどどどどど
首から下は窓の暗みに吸い込まれ
指が しゃくとりむし
ナルシスの水面で
関節を折っては 伸ばし
こする 待ちわびる メッセ
ージ、一時、一次、いちじくの
葉で陰毛かくして
つるつるで、けばけばの表層と
愛フォンに須磨フォンの源氏
むきだしであらわれる
途切れ途切れの愛息を
指が撫でる いと惜しげに

「ツーク(電車か)」前半、中盤

書き手は電車の中、四角い箱の中にいる。四角い箱は液晶ディスプレイの箱でもあり、それはもちろんスマートフォンの液晶をじっと見つめながら、その中の牢獄に閉じ込められている二〇一八年のわたしたちの姿でもある。自己愛、自己満足、自慰的なみぶりで動かされる指はしゃくとりむしのように動き、スライドし、ほんらいもっている肉体は失われ(「首から下は窓の暗みに吸い込まれ」)、ただただ目と指と頭(ことば)だけのグロテスクな生き物がうまれている。文字があつまる地獄があらわれている、現代についての詩

◇ ◇ ◇

最後に、わたしがこの詩集でいちばん好きな詩を紹介したい。「フリーゲ(蝿か)」
どこからともなく無限に湧き出してくる(かのようにみえる)ことばが蝿になぞらえられる。それは追いはらっても、追いはらっても戻ってくる。なぜなら蝿をつくるのは自我であり母国語にほかならないから。それを叩きつぶそうとすることは「自分の顔を叩いて」いるのと同じことだ。

「国家の祭り」から飛んで逃げよと詩は説く。だがその逃避が不可能なことは、あらかじめ書き込まれている。いつしか「たたけ」は「たたえよ」に変換または誤読されてしまう。あるいは「おはらい」が真逆の「おまねき」と読まれてしまう。飛んで逃げた先においてもふたたび別の蝿が集まる。そのつらさは「叩いたつもりが/自分の顔を叩いている/ぱんぱん/のわたし、なわたし、ならわたし」として締めくくられる。

だが最後の「ならわたし」が好きだ。その先の道はひらかれている。この詩が詩集の最後に置かれているのは、「なら……」の後に続く連の空白、それをひらくのは読者にほかならない、というメッセージだと読んだ、いや、読みたい気持ちでいる。

バナナの縫い目から湧いてきた
黒インクの集積が
濡れた唇にまといつく
ぬめり
手ではらうと蝿
はらりと
飛び立っていった卒業生
としての蝿
はらう、はらり
おはらい
仕草が猫になる
マネく 金を 災難を
公害をおまねき
オリンピックをおまねき
建築闇金裏取引
おまねき姿のママで
君は国家の祭りから飛んで逃げよ
ふり蝿っても、ふり蝿っても
くたびれた句読点を
集めて団子にしたみたいな蝿
しつこく
たかってくる自我
その黒の濃さ普通じゃない
追っても脅しても
もとの唇に戻ってきて
奪い、むさぼる蝿
たたけ
たたけ、たたえよ
叩いたつもりが
自分の顔を叩いている
ぱんぱん
のわたし、なわたし、ならわたし

「フリーゲ(蝿か)」 全文

(2018年10月1日)

多和田葉子『シュタイネ』書籍情報
シュタイネ
出版 青土社
発行 2017
著者 多和田葉子(たわだ ようこ)
価格 1600円+税