尾久守侑『国境とJK』

――詩はおもしろいかって? たぶん。

◇ ◇ ◇

続きを読む 尾久守侑『国境とJK』

為平澪『盲目』

――眼がみえないので、誰も暴力をふるわなかったよ?

◇ ◇ ◇

続きを読む 為平澪『盲目』

カニエ・ナハ『用意された食卓』

――さあ、わたしたちのあたらしい食卓へかえろう。

◇ ◇ ◇

続きを読む カニエ・ナハ『用意された食卓』

大城さよみ『死の蔭にて』

——嘘だからこそ、ゆるされてゆく。

◇ ◇ ◇

続きを読む 大城さよみ『死の蔭にて』

草野理恵子『黄色い木馬/レタス』

――わたしたちのかわりに傷つくひとが必要なのだと男はいった。

◇ ◇ ◇

続きを読む 草野理恵子『黄色い木馬/レタス』

野崎有以『長崎まで』

ふるさとは遠いのではない。それはいつでもここにある。

◇ ◇ ◇

本日は火曜日。よく晴れ、穏やかな秋の一日。

今日の詩集は野崎有以の『長崎まで』。著者は一九八五年東京生まれ。二〇一五年、『現代詩手帖』詩投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。二〇一六年発行の本詩集にて第二十二回中原中也賞受賞。本詩集は詩編十二編を九十六頁に収める。

中原中也賞の選考では、「全篇行分けの散文詩であり、作者の語りたい欲求の切なさが詩の内容の芯となっている。架空の町の架空の自伝とも読め、しかも演歌調の語りが戦略的。詩的にならないで詩の言葉になっている」とあった。

「詩的にならないで詩の言葉になっている」という選評を解説するならば、いわゆる・・・・詩的なものをつかわずに詩のことばをつくっている、ということだと読めるが、ひとまずはいわゆる詩的なるものは詩と同じものではない、という選評の観点に留意しつつ、読みはじめてみよう。

巻頭詩「ネオン」から。

「珍しい夜景を見せてあげよう」
そう言って男は私を旅行に連れて行った
着いたのはホテルの高層階だった
あたりに高い建物はなく
工業違いがただひたすらのびていた
初めて来たけれど懐かしい場所だった
平たい工場が一面に広がり
煙突からは煙が出て夜空に雲をつくった
雨を降らせるんじゃないか
反射するあてのないネオンがときどき海に映った
薄明かりのなかで遠くの山がぼんやりしている
男は得意になって自分のものではない夜景を自慢した
私はこの男と出会ってから
合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしい生活の指定席券を
生まれたときからもっていたふりをした
だけど結局
ふとんをかぶって泣いてばかりだった
仕事は出来るが不器用で
毎晩帰って一人で晩酌をしているせいで
首のあたりが恒常的に上気したあなたと
一緒になったらよかったのかもしれない
あなたは必死で隠していたけれど
何かの拍子に出てくる訛りに
私の故郷が見え隠れしたのです

「ネオン」第一連

いわゆる詩的なるものを排除するために、行分け詩と散文詩のちょうど中間に位置する体裁が選択されていると読める。余分なものがなく、華美な装飾は省かれ、実用的な文体によってかたられる私小説的なはじまりがある一方、第一連の終わり近くにて「男」であったはずのはいつのまにか「あなた」へと変貌し、日常的なことばにて平易にかたられていたはずの時空間が歪み、詩がその亀裂から展開されてゆく。

小説的な書き方であれば男との記憶にさらに別の第三者――ここでは父だと思うが――の回想がそれとわかるようななんらかの文体の変化を経て重ねられるところなのだが、詩ではそこに解説をいっさい入れることなく、そのまま挿入されている。そこに詩のおもしろさ、難解さがある。

「男」と「あなた」が別人物であるらしきことは、旅行先としてはかなり奇異に感じる工場地帯のホテルの最上階の予約などの逸話から示唆されているが、男に父をみ、父に男をみる構図をつくりだすための装置なのだろうとわたしは読んだ。そして逆に同一人物であったとしても、わたしたちのことを思い起こせば、ふだん一緒にいる相手に複数の第三者を見出してしまうことはごく普通のことだ。詩はそんなわたしたちの複雑な在りようをあらわしている、しかもきわめて日常的なことばで(「詩的にならないで、詩の言葉になっている」)。

昼下がりの電車のなかで
中吊り広告の女優だけがけだるそうな感じでこっちを見ている
彼女を美しいと思う気持ちと拒絶する気持ちがぶつかった
冷たく気の強そうな女性だった
電車のなかで感じる彼女の視線を
うつらうつら席も立たずにかわしていた

夜更けのJR田町駅
駅近くの運河にかかった橋の上で
早く駅に行けばいいのに
ざらざらした橋の欄干に頬杖をついて運河を見つめていた
流れる運河は風が砂場遊びのくまでになって
嘘みたいな流れをつくっていた
少し前まで私は一人でバーにいた
バーボンを何杯か飲んだあとにマンハッタンが出てきた
赤いカクテルのなかで恍惚の表情を浮かべて
サクランボがひとつ沈んでいた
マンハッタンはきっと夕焼けの綺麗な街なんだろう
帰りがけにバーテンダーにマンハッタンがおいしかったと告げると
「リトル・プリンセス」
というカクテルの名前が返ってきた
エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた

「女神」第一、二連

昼の電車、夜更けの田町、その前のバーと、書き手の時間と場所がずれてゆく。改行によって第一連と二連の間にはなんらかの場面転換があることが明示されているが、第二連の最後の三行にはちょっとした仕掛けというか謎があるように思える。その前の部分が相対的に理解しやすいことと比較すると、そこには見えない改行または詩連が隠されているのかもしれない。

ふたつのカクテル「マンハッタン」と「リトル・プリンセス」をなぜか注文した客が間違えていることについての違和感は、そこにかくされただれか別の注文者を想像すれば足りる。それは第三者またはバーテンダー自身なのかもしれない。また、バーテンダーがわざわざ客の間違いを伝えることについての違和感は、そのバーテンダーがその特定の客についてなんらかの理由に基づく悪意を持っていた、と解釈することができるかもしれない。

そのいずれについても、詩はかたることなく省略を行っている(詩の合評会などであれば、さまざまな解釈がされ議論になりそうな部分だ)。その省略、跳躍が魅力をつくっているということを感じる。「エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた」というとき、そこにはなんの解説も、説明もなく、その理由もかたられない。ただひとつづきの出来事たちだけがそこにある。それこそが現実だ、という声がきこえる。書き手にとって詩はつくりものではない、という声も聞こえてくる。

「女神」は次のような連につづく。

終電近くになってやっと電車に乗った
前にいた乗客が立ち上がって降車すると私はそこに腰かけた
うなだれる身体を腕組みするように両手で支えた
顔を上げるとあの中吊り広告の女優が私を見下ろしていた
車内の蛍光灯が白く反射して何の広告なのかよくわからなかった
それは大事なことではないのかもしれない
彼女はバーテンダーの機敏な腕のなかでゆっくりと楕円形を描きながら
撹拌される氷のようにうるんでゆらゆらしていた
相変わらず冷たい表情をしていた
その冷たさは海の群青のようだった
しかしこの日は強くて美しい人に見えた
濃い睫毛は雨に濡れているようで
彼女の唇はいまにも動きそうですらあった
この人をなかなか受け入れられなかったのは
強くなれない自分がうとましかったからなのかもしれない
美しいけれど品はない
場末の酒場にいても違和感はない
それでも私は彼女に惹かれた
人の顔とは一体何なのだろう
転んでしまいそうな心を吹き飛ばしたりしない顔を
女神と呼ぶのではないか
降り際に中吊り広告のなかの彼女がほしくて
ポスターの前で手のひらを広げてさっと結んだ
小さい頃
欲しいものがあるとこんなことをよくやった
欲しいもののちょっと手前で手のひらを大きく広げて結ぶ
こうすると欲しかったものをどこかにしまえる気がした
結んだ手のひらの前にあったものの多くは
大人になってちょっと働いたら簡単に買えてしまうものだった
私は何を取り損なったのだろうか
プラットホームに降りると
水の入ったペットボトルとちりとりとほうきを持った二人の駅員が
酔っ払いの吐瀉物を片づけていた
一人の駅員はベテランでもう一人は若い駅員だった
早朝に押し掛ける勤勉なサラリーマンたちのために
言葉も交わさずに掃除をしていた
この二人だって勤勉な人々であるはずだ
私は軽く息を止めて
女神がとどまっているかもしれないこぶしを握りしめながら改札へ急いだ
改札ではろれつの回らない酔っ払いが
「のりこし精算」という言葉をうっかり忘れてしまったがために
自動改札機を通してもらえないでいる
腹の底から笑ってしまうほどみじめな街じゃないか
でも
たぶんこれでいいんだ

「女神」第三連

「ネオン」でもみられた、複数の存在を同じ対象に重ねながら離れさせる手法がここでも取られている。「女神」はバーテンダーが準備したグラスの氷に映る自分自身の姿と重ねられ、女神を電車で見出すきっかけとなったと思われるある直接的な出来事はかたられることなく(だがその欠如によって詩全体に漂う、理解されることへの穏やかな諦念が心地よい)、さまざまなモノに映り込む自分自身の姿と記憶が、大量生産され電車のあらゆる場所に貼り付けられているとある名前を失った女性の写真を通して詩にあふれだす。それは二〇一八年においては、ありとあらゆる場所で無限に拡散されつづけることばたちのなかから意味のある「このわたし」を探しだす、見出す、とりもどすという意志を指し、それが「女神」と呼ばれているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

最後にわたしが本詩集でもっとも好きな詩「鉄板のかいじゅう」を紹介する。
わたしは知らなかったが、「ポンポン菓子」は米でつくるポップコーンのようなものらしく、つくるときにポンと破裂音がするそうだ。わたしは思うが、作家というものは、かれ自身をうみだした音やことばから、完全に離れることはできないのではないか。ほんとうに架空のものなど、書けるはずもない。

そしていつも思うことだが、好きな詩ほど解説をしたくなくなる。ぜひ図書館や本屋などで手にとって全文の一読をおすすめしたい。

冬のはじめに風邪をひいて咳だけがなかなかとれなかった
一ヶ月以上たっても咳が出る場合は喘息の疑いがあるらしい
小児喘息にかかったことはあるかと聞かれ
喘息のことをやっと思い出した
私は子供の頃喘息を患っていた
医者はいくつかの質問をしてから
喘息がまた出たのかもしれないと言った
ベッドで横になって咳の出ない寝方をさぐりながら
いつかの夏休みのことを思い出していた

怪獣映画の怪獣の声は下駄で鉄板をこすって出しているのだと
近所に住んでいた夫婦が言った
何をして生計を立てているのかよくわからない人たちだった
どうでもいいようなことを何でも知っていた
子供にとってそういう人は魅力的だった
私はどうしても怪獣の声を出してみたかった
家近くの土砂堆積場の入口には
出入りする車を通すために数枚の鉄板が敷かれていたことをその時思い出した
夕方のちょっと手前の涼しくなった時間に
ポンポン菓子屋の車が土砂堆積場の横の空き地によく止まっていて
米と砂糖を持ってよく父とポンポン菓子を作ってもらいに行った
土砂堆積場に着くと
父は二段ぐらいしか積まれていないブロック塀の上に腰かけてたばこをふかしていた
私は座っていた父の高下駄を片方持って鉄板にこすりつけてみた
なんとも表現したがい間抜けな音が出た
怪獣と言えば怪獣なのかもしれないが
怪獣と言うよりそれは「かいじゅう」だった
かすれたような変な音で
弱そうなかいじゅうだった
下駄で鉄板をこすっていると汗がたれてきて
汗で下駄が滑って余計に音が出なくなった
怪獣の声を出したら子供がこわがるから
鉄板は間抜けな音しか出さないのだと父は言った
やがてポンポン菓子屋の車が空き地に止まった
かいじゅうの間抜けな声はポンポン菓子ができる音にかき消された
その日の晩にポンポン菓子を食べようとしたらまた喘息の発作が出た
発作が出ると父は私を負ぶって夜でも診てくれる診療所に連れて行ってくれた
じっとしているより父の揺れる背中のなかにいたほうが息が苦しくなったのだが
それは言えなかった
昼間なかなか怪獣の声を出してくれなかた土砂堆積場の鉄板が
月明かりに蒼く光って心配そうにしていた
明け方近くになって発作がおさまると父は寝る間もなくそのまま仕事に行った
大人は寝なくても大丈夫なのだと父は言った
ひとりで家に帰るとボウルに入った昨日のポンポン菓子がそのままになっていた
一日経って砂糖がべたっとしたポンポン菓子を誰もいない部屋で食べた

「鉄板のかいじゅう」第一、二連

(2018年10月2日)

野崎有以『長崎まで』書籍情報
長崎まで
出版 思潮社
発行 2016年
著者 野崎有以 (のざき あい)
価格 2000円+税

詩誌『季刊ココア共和国 Vol.20』

詩を《読む》とは、世の中に必要とされない《私》を読み直すリ・リードこと。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。
本日は祝日三連休明けの火曜日。外からは秋の虫の声がきこえてくる。今週は平日が少ないこともあり、少し詩集を離れ、詩誌を特集してゆきたいと思っている。

本日は詩誌『ココア共和国』を紹介する。『ココア共和国』は、詩人の秋亜綺羅が主宰する個人詩誌で、既刊として二十一冊が発行されている。個人詩誌という位置づけながらも、詩だけにとどまらず、ミュージシャンや歌人をはじめジャンルを横断する作家を招待し、作品を掲載しているユニークな詩誌。「小特集」として一人の詩人にスポットを当てるコーナーを有することも特徴。わたしの知人(#ex002)が編集に携わっていることもあり、本日はそのうちすぐに入手できた第二十号を取り上げる。本号は、詩について四名による四作品、詩の小特集一名につき五作品、歌人一名の二十八首を、三十四頁に収める。

脳は孤独だ
誰にもわかってもらえない
オレの脳は
オレにもわかってもらえない

脳がなんなのか誰もわからない

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか
ほらほら
それさえはっきり言えないくせに
よくも平気で生きてるもんだ

あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに
人は自分たちが作ったと思っている
そう思いながら
笑ったり
怒ったり
悲しんだり
苦しんだり
魚食いまくって
鶏を食いまくって
豚を食いまくって
牛を食いまくって
何十万人も殺し
何百万人も殺し
何千万人も殺し
テロしたり
「神様」とか言ってみたり

(…)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
その時オレはどこでなにをしているんだ

いがらしみきお 「孤独な脳」
第一、二、四連

説明する必要もないかもしれないが、いがらしみきおは『ぼのぼの』で知られる国民的漫画家。第一線の作家はなにを書(描)いてもおもしろいという見本のような作品だが、ここでいわれている「脳」が「ことば」や「意味」のことだということに読む驚きがある。

これはことばによってことば(私)を考えることはできない、という不可能についての詩であり、ソーシャルメディア全盛の時代、すなわち過剰なテキストの氾濫のなかに住まうわたしたちについての詩、つまり現代についての詩に違いない、という思いを持つ。高度情報社会とは脳を脳たらしめることばによる社会であり、考えているはずの脳の所在が曖昧で不確かになる(「あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに」)時代のことでもあるからだ。

そして、たかがことば、または「脳」が作り出した虚構にすぎないものによって、わたしたちは生き、殺し合い、《私》を見失う。わたしたちという存在の(普段は考えられることのない)軽さ、不確実さ、寄る辺のなさは、その虚構の上にのみ成立する砂上の楼閣にすぎないという事実によっている。だから脳はいつも孤独なのだ、といがらしの詩はいっている。そこにはジャンルのことなる漫画家に詩をしてやられた・・・・・・感があり、これは編集プロデュースの成果に違いないと思う。

もう一つ、ジャンルを横断する作品を。シンガーソングライターの佐藤龍一によるもの。長い詩で、一部を抜き出してみよう。

16時。初夏の電車は寒い。ここは共和国。ことば共和国。電車のアナウンスが詩であるならば、全ての路線は開かれた迷路だ。時間という嘘と移動という迷宮が私という不明を上書きする。お待たせしテンションプリーズ。夕方。この駅には出口がない。いやこれは駅ではない。形而上学的なイソギンチャクだ。

19時半。本日のライブが開演する。見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する。ものを考えたら負けだ。ブルースが錯乱する。時の彼方から認知症がゆっくりと近づいてくる。現在、現代、永遠の現在。ここより遠く我が陣地なく、今より他に時はない。

2時。夏休みの宿題。この世で幻想でないものを見つけなさい。

銃弾。紋白蝶。海。

佐藤龍一 「銃弾・紋白蝶・海」
第一四、十五、十六、十七連

十七連にわたる散文詩で、時間順に語り手の行動が二日間にわたってかたられてゆく構成になっている。いがらしの詩と(おそらくは)はからずも共通しているのは、これがことばについての詩だということで、「見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する」ことには、読まれるものとして作品を書くとき、そこには特権的または超越的な立場など存在せず、書き手もまたひとりの読者にすぎないという当たり前の理解がある。だがその当たり前のはずの理解は、専業的作家になればなるほど遠ざかるものでもある。だからこそ「ものを考えたら負け」なのだ。

こうした行の鮮烈さは、肉体を駆使するミュージシャン(あるいは、肉体労働としての漫画執筆)のすぐれた身体的感覚によるところが大きいのかもしれないということを感じる。また、「この世で幻想でないものを見つけなさい」は、思わず口にして何度も読み上げたくなるすばらしい一行。もちろんそんなものがないことは書き手がいちばんよくわかっているはずで、だからこそそれは「宿題」として最後に置かれている。

『ココア共和国』の編集前記では、それぞれの作家について秋亜綺羅による紹介がされている。佐藤については「70年代のシンガーソングライターたちを現代詩人として迎えなかったのは、文学の失敗だったと、わたしは思っています」とある。文学――あるいは現代についての詩――の失敗とは、端的にいえばこの数十年で読者が消滅し、社会からほとんど必要とされなくなったことを指すのだろう。

では、それではどうしたらよかった・・・・・・・・・のか、ということに対する答のひとつ、それがこの詩誌なのだろうということを思う。佐藤が示唆しているように、ことばによる連帯、あるいは、いま・ここにあるみえない連帯をつくりあげること。「電車のアナウンスが詩」になりうるような場を用意すること。それが「ココア」と名付けられているのはおそらく、編集部の含羞なのだろう。

なにもかもが露呈し、さらされ、拡散される二〇一八年、そうした含羞をすべての詩人、あるいはまっとうなものを書こうと日々苦闘するあらゆる書き手が共有しているはずである。わたしたちの困難とは、世の中に「必要とされるもの」の圧倒的な退屈さに耐えること、さらにいえば、必要とされないものを必要としてしまう自らをなんの根拠もなく信じることである――つまり、脳なく、ものを考えずに。

◇ ◇ ◇

最後に、詩人の宇佐美孝二を特集した小詩集からわたしがもっとも好きな詩をひとつ。
わたしたちの人生をなんの意味もない白いことばが満たしてくれる。そういうしゅんかんがあること、それをしずかに思い出させてくれる。

夏の休みに厭きて音楽に手をだすと
水の底から汲み上げられてきたみたいに
音が満ちてきて
いままで聴いてきた音楽だのにまだ満ちてくるものがある

立秋を過ぎていまごろ会社にはまったく人がいないだろう
それどころか
この夏にはあちこちに散り散りになり
つまりは残された最後のひとりが
おれってわけだ

(…)

あかさたな
しはしろい
なんて、
意味もないことを口の中でころがす

逝ってしまったともだち
まだ満ちてあるもの

宇佐美孝二 「あかさたな、と呟けば」
第一、二、四、五連

詩誌『ココア共和国 Vol.20』詩誌情報
季刊 ココア共和国
出版 あきは書館
号数 2016  20号
価格 500

カニエ・ナハ『馬引く男』

なにもかもが遅れて・・・とどき、《私》はつねに遅れてあらわれる。「こうであった」に「こうであってほしかった」はえいえんに追いつくことはできないのだ。

◇ ◇ ◇

さて本日は金曜日。一週間はまだ終わっていない。足を踏み外すことなく進もう。

本日の詩集はカニエ・ナハの『馬引く男』(私家版)。カニエは一九八〇年生まれ、「ユリイカ」への詩投稿により二〇一〇年度「ユリイカの新人」選出。詩集『オーケストラ・リハーサル』(二〇一三年)、『MU』(二〇一四年)刊行後、二〇一五年に『用意された食卓』にて第二十一回中原中也賞受賞。装幀を自ら手がける等、多才な活動で知られる。なお本書は二〇一七年ポエケットで入手したもの。

最初に一般文芸読者にむけてのメモとして書いておきたいが、本書はわかりにくい構成を意図的に取っている。よって、そのわかりにくさがなんのため・・・・・のものなのか、というところに読者の関心もあるだろうし、本稿でもそれに答えようとすると同時に、それでもなお答えられないものについても考えてみたい。

構成から見てみよう。
萩原朔太郎「猫の死骸」引用を本扉に、その後に長い巻頭詩「馬」。つづく本文は二部構成となり、一部が「馬引く男」に詩一九編を収め、二部は「植物図鑑」と名付けられ、空白になっている。よって合計二十編。

巻末にある目次をそのまま引用してみよう。

第一部 馬引く男

島 馬 山 馬 海
渦 馬 山 沼 馬
島 馬 座間 馬 島
波照間 馬 島 浦

第二部 植物図鑑

これら詩の題名は本文では表記されず、とくに第一部においては頁番号が本のノド(綴じ部)奥に隠されるよう設置され、それぞれの詩がひとつの大きな作品を構成しているかのような錯覚をもたらす構成になっている。ここではとりいそぎ第一部で詩「馬」や「山」などが何度か繰り返されていること、そしてそこに具体的な地名「座間」と「波照間」が挿入されていることに留意し、読み進める。

本扉には次の引用が置かれている。

「あなた いつも遅いのね」

萩原朔太郎 「猫の死骸」

「猫の死骸」の副題は「ulaと呼ばれる女」。朔太郎はおそらく自身が愛読していたポオの「ユーラリューム」(Ulalume)や「レノア」といった、愛する女性の死や葬送に関する詩をイメージしていたのではないかと推測するが、本稿においてはとりあえず「あなた いつも遅いのね」ということばが朔太郎の詩では「瓦斯體の衣裳」をまとった亡霊の台詞であるということ、さらにulaが「浦」としても書かれていることを頭の中にメモ書きし、再びカニエの巻頭詩「馬」を見てみよう。これは一三頁にわたる長大な詩だ。

みるとちょうど
幕を閉じた歴史は、
令下に、
動かされて
最後には
私がいた。
虚偽を生きてきた
終わっていた世界の
取り戻すことが不可能な
私たちが今、
持っているあらゆるものに
再び目を開いて、
関与する
そのために、私たちは振り返る必要がある
あなたが戦ってきた
侵略の
線によって分割され、
傀儡されて安置されている
戦線を離すと統一される、
圧倒的な量を取って屈する
むしろ
繰り返しながら追い詰めてそして最終的に崩壊されて追い出されて、
長い、
戦下で迎える時間の動きはこのような流れの一つとしての大きな過程で、
敗北を喫した
最後の
放棄している
あるいはされている、連帯
結果、遠くからのより少ない、
呼び出しに応答して、
視点、物語、大きな、
鮮やかなその深さを示すことで、非常に不均質な
焦点を、
結論を言っている場合にも、
極北である代わりに遠くからの
言うまでもなく、文字通りの端から端まで横断した
旅をしながら、あからさまに現実は、目を駆使することによって動的に構成される
地球の内戦を
後にすると
裏切り者にされていた、
絶え間ない現実の爆撃、
話を聞くことを見つめて、時間をかけて、
最後の記録と呼ばれる
最初の時のために
風は、
轟音を落下して、その下の地面の、深部の人々は、
静かな劇場として、

「馬」(P3 – P5)

いくつかある違和感のある言い回しに注目してみる。「令下」「傀儡されて」「崩壊されて」など。意図的なものに違いないが、そこには削除された単語または文が隠されているはずだ。「(戒厳)令下」「傀儡(化またはなんらかの動詞)されて」「崩壊(し、XによるYがな)されて)」などが考えられる。その内容については想像するしかないが、はっきりしているのは、そこには隠されていることが明らかになっているものと、明らかになっていないものがあることだ。

著者の意図をこう言いかえることができるかもしれない。つまり、削除されていながらも、削除されたことがわからないもの、あるいは、歴史から抹消されていながらも、抹消されたこと自体が抹消されているもの、それをカニエはあらわそうとしている、と。一部残された違和感はいわばミステリー小説における伏線・ヒントであるように思える。

また、巻頭詩「馬」の突出した長さをみると、これをいわば長歌として、その後ろに反歌としての短い詩が連なっているようにも感じられる。長歌を反復、補足、または要約するものとしての反歌を考えたとき、ひとつの長文詩の注釈としての複数の短文詩という構図を思い浮かべることができる。まずは「馬」というキーワードを追って、第一部の詩「馬」からいくつか引用してみよう。この「馬」という短い詩は、合計七回繰り返されて登場する(といっても、それぞれ二頁以上あるが)。

おびえた目に
永遠に達することができない
この闇のすべてを持っている
巨大な熱を
どこかで満たさなければならない
得られた言葉は、裏切り、降伏する、黄色い視覚に
失われた国のような
感情、そして
言語を撃退するために夜、砂の海の端で
すべてのネガを焼き、
燃やし、
昏睡する、すべての
目に見えない
沈黙の中で待機するように
少し遠い場所にいて
呼応していた
音の上にある
人類の歴史は
言葉だけ常に価値がない

「馬」(p29-P30)

「失われた国」「得られた言葉」「人類の歴史」などが巻頭詩と響き合う。

到着した子供らは消えて
すべての罪は与えられた
人間を運ぶために
石鹸の中で
水に圧倒されている
数十年放棄された履歴
より多くの戦前が
以前として拡張する血液が
無国籍の状態で残され、
過言する
よく知られている物語をたどる
植民地のような時間に
土が回復しようとし、
恐怖で生まれた国に
同行する
報復を避けるために
放棄する血統を

「馬」(p41-P42)

「無国籍」「植民地」「報復」「放棄する血統」など、核心にせまるキーワードが記される一方、具体的な参照はきわめて注意深く避けられている。たとえば「石鹸」は、わたしはアウシュビッツ強制収容所の石鹸を連想したが、そういう読みは詩の可能性を狭めてしまうことがあるので、固有名詞を排除したのだろうと推測する(それはまた二〇一八年の扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代に抵抗するために必要な戦略なのかもしれない)。「植民地」にもじつは具体的な国名または地域が入りそうだ。

(つぎの行をさがすため明く窓辺まで
『白川静 常用字解』の
「探す」の頁をさがす
索引から、かさかさと
四二八頁をさがす
「探」という漢字の形の発端は
「穴の中のものを火で
照らして捜す形」で、
「穴の中で火をかざしてものを
捜すことを探という」とある)
洞窟で
屈している
百頭の馬が一万五千年
照らされるのを待って、淡淡と
沈黙の中で、火と呼ばれるものを知らず
時間を持っていなかった
夜に
何も知らず
失った森で、異なる時間を開いて、
呼ばれている物語で
浄化する、たくさんの
祈りを食べて

「馬」(p59-p60)

カニエの「馬引く男」という題名を読んだ時、わたしが最初に連想したのは落語の「付き馬」や黙示録の「蒼ざめた馬」だったが、ここまで読んで「馬」のメインモチーフを発見することができた。それは洞窟の中で発見された、一万五千年前の古代人が描いた馬だったことがわかる。

馬は農耕の道具であり、運搬の道具であり、戦争の道具でもある。すると題名の馬を引くとは、人類の歴史をひもとくこと、火のない暗闇の中で想像力によってえがかれた、忘れられたことさえ忘れられてしまった仮象を、時間に沿って《外》へと連れ出すことを意味するのではないか、と読める。別の言い方をすれば、思い出そうとする前に、忘れたことを忘れたままのかたち・・・・・・・・・で思い出す、というねじれた戦略がある。

そこには血と鉄と骨によって汚れた歴史――それは必ずしも本邦のものである必要はないが、そこには米軍基地や沖縄諸島の太陽の光がたしかに埋め込まれている――を埋もれた洞窟の中から外へと導き出し、正しく埋葬しようとする側面もあると感じる。だがこうした試みが失敗することもまたあらかじめ予感されている。「いつも遅い」と朔太郎がいったように。あるいはカニエがいうように、それは「植民地のような時間に/土が回復しようとする」に過ぎないからだ。馬を引いてどこかへ行くことはできない。葬送は失敗する。そこに知ること、あるいは詩の遅延があるからである。

あなたは本当に懐かしい真っ白な時間でした
さよならはあなたを祝福するための
心臓
包まれた
書物と彫刻を渡してください
そうして(私は名前をそこに入れています)
封印された「その後」に
訪問する
あなたはあなたの銃を与える

「馬」(P86)

「馬」の最後の詩。「祝福するための/心臓」「封印された「その後」」「あなたはあなたの銃を与える」など、ここまでたどり着いた読者あるいは著者の心臓を貫く弾丸が仕組まれていることがうかがえ、馬を引く試みはここに終焉を迎える。

◇ ◇ ◇

他にも私小説的に読める興味深い詩などあるのだが紙面が尽きてしまった。全体の印象として、具象と自らを接続することに困難をおぼえる同時代性を感じ(それはソーシャルメディアでよくみられる政治や社会活動を忌避する空気と同じものと思われる)、これはたしかにいまここにある現代についての詩に違いないという思いをつよく持つ。

詩は小説とは違う。詩には登場人物も、プロットも、ストーリーもない。すると詩の武器とは、文章そのものの包含する意味を用いるだけではなく、その切断、破壊、撹乱によって、わたしたちがいきるこの社会とその歴史という曖昧模糊とした非意味・・・そのものにかたちを与えることなのだろう。詩集を読み終えて、カニエはそれに挑戦する一人のように思われた。

なお、第二部は「植物図鑑」と名付けられ、そこは詩のない空欄になっている。それは馬が消失した世界において、意味が失われ、ただ繁茂する植物だけがえいえんに広がる空間を指すのだろう。それについて書くことができない理由はいうまでもない。

◇ ◇ ◇

最後に、朔太郎=カニエの亡霊、「ula」を引用して締めることとしよう。
わたしたちは遅れる。そしてわたしたちはいつも失う。

失望のように深く
無意識のうちに知覚されていることの
波が壊す、
屋根
見たものの表面のような
無であることを徘徊している
その間に行って、おずおずと、
角度を変えて
何度も奪われて
また統合することで、抽象化することの
その見返りに、自分の過去を話すとき、
必ず伝聞のように話して
落ちたときには、非常によく見える
馬には、生の不安が
覚えていた、
植物としての恐れが
記憶が、徐々に
同じことを繰り返しながら
もう十分な長さ
彼は時々、話していたことを
覚えておくようになって

(あなた いつも遅いのね――)

「浦」(P95-P96)

(2018年9月7日)

カニエ・ナハ『馬引く男』書籍情報
馬引く男
私家版
発行 2016
著者 カニエ・ナハ

山本光一『命なりけり もえの和菓子アルバム』

本日は火曜日。房総半島はやや涼しい一日。西日本では台風による被害が大変なことになっているようだ。みなさんが身の安全を最優先にし、困難な状況をサバイブできることを願っている。生きてさえいれば、書くことも、読むことも、その他人生におけるあらゆる挑戦も、いつだって可能なのだから。

◇ ◇ ◇

本日の詩集の著者、山本光一は一九五七年兵庫県生まれ。他詩集に『カプチーノを飲みながら』(二〇〇八年)がある。本書は詩集だが特徴的なのは、一人の架空の女性の生涯の節目をそれぞれ和菓子をモチーフにし詩作品にしていることで、小説的な読みができる作品群だということ。

主人公は和菓子屋で働く女性とし、俳人のK先生との恋愛に関する逸話が中心になっている。詩はほぼ語り手である主人公のナラティブで、新米の和菓子職人であった若い頃から、別のだれかと結婚し家族を持ち老境のとば口に立つまでの人生を追う。百十頁に二十五編を収める。なお本書は著者より頂いたもの。

——こんにちは 京饅頭十五個下さい
——はい これ甘さ控えめでおいしいですよ
今日は風が強いですね
——そうですね
春風とか春はやてとかいう季語もあります
風が強いのは日本海の低気圧から延びる
寒冷前線が近づいていますからね

少しさみしげで
どこか翳りのある俳人のおじさまは
もう常連のお客様
季節を小さな空間に閉じ込めた
「五月雨」とか「紫陽花」とかいう
上生菓子を
ついでに買っていくようになりました

「恋ではないのです」第一、二連

詩集のはじめに置かれた、小説や映画であれば出会いのシーン。きわめて何気ない会話がよく記憶されているところは、わたしたちそれぞれの人生の重大な局面において、そうした何気ない出来事が深く記憶に刻まれてしまうことがあるということを想起させ、リアリティがあり、引き込まれる。語り手はこの時点ではまだ若く、その関係はまだ始まったであることがわかる。こうした舞台設定は技巧的な手つきで自然に読者に提示されている。

お父さん
新米和菓子職人の
あたしの新作よ

(寒月)
黒砂糖入りの羊羹に
銀箔で三日月を作り
練り切りで作った細雪を
風花のようにふりかけました
—身も心も澄み渡るようで
冬の月って好きよ
恋人のいない時って
凛とした気持ちになれるものよ

(恋文)
白あんと薄力粉を合わせて蒸したこなしで
生チョコレートを包み
若い女性の純白の横顔を形作り
赤い練り切りで作った小さなハートを
女性の耳のあたりに乗せました
—気持ちが通じますようにと
祈りながら作ったの
俳人のあの方に差し上げるのだけには
隠し味のXを入れちゃう

「二月の上生菓子(新作)」第一、二、三連

舞台と登場人物を踏まえて、和菓子屋を舞台にした物語がほぼ時系列に展開される。「練り切り」や「こなし」等、耳慣れない和菓子の用語が少しずつ登場しはじめ、華やかな視覚的なイメージがあふれ出す。

恋愛関係は表層上の骨子としてそこにあるのだが、読む愉しさを提供する小説としてではなく、詩として見たとき、そこには《作る》ということの喩が埋めこまれているのがみえてくる。和菓子の制作工程はひとつひとつの創作物と向き合う職人の——それも若手ではなく、熟練の——横顔を想像させる。

(そよ風のシュシュ)
寒梅粉に片栗粉と砂糖をこねてのし
水色に染めてからピンクの水玉をちりばめ
春らしいシュシュの形にしました
—かつてK先生との恋に揺れた
娘時代のシュシュをイメージして

(淡雪のベレー帽)
求肥でほのかな紅色の梅餡を包み
上に湿り気のある山川の粉をかけ
早春の淡雪に見立てました
—K先生と結ばれた白いベレー帽の似合う
憧れのA子さんをイメージして

「和菓子のアルバムより」第一、三連

読み進めるうちに、K先生との関係はいつしか破綻したらしきことがわかる。たとえば上のような詩の中でさらりとその事実が語られる。そこにはほろ苦い恋愛小説のような読後感があると同時に、どこかに突き放した感・・・・・・がある。それは著者が書こうとしたことが、実のところ恋愛模様やそれにまつわる物語ではなく、書くということそのものについてであり、かつそれに無自覚だったからではないか、ということを考える。

K先生から俳句の手ほどきを
季語はもとより
二十四節気や七十二候も知り
深まりゆく和菓子への思い

練る
混ぜる
丸める
絞る
結ぶ
添える
そして何といっても
包む
餡や栗を包む

「ささやかな秘義」第一、二連 部分

わたしが本詩集でいちばん興味深く読んだ詩。
ここで和菓子職人たる主人公の口を借りて語られているのは和菓子そのものではないように感じられる。練る、混ぜる、丸める、絞る、結ぶ、添える、包む、はそれぞれ書くことの秘義と呼応しているように見え、そこに俳句の季節用語である二十四節気や七十二候が重ねられることからも、相関性は明らかだ。

その後「見えない内側に本体があるの/包むの語源はつつましい/こころを包むとは/迎える相手に対するもてなしの気持ち/それは昔からの日本人のこころ」とつづくのだが、昨今あまりにも政治的に用いられることが多い「日本人」ということばよりは、多種多様な文化・非文化要素の織物としての日本語と解釈するほうがよさそうだ。

深みをえるとは細分化するということ。それは素人から職人になるということでもある。《千日詩路》の読者にむけてさらにかたるならば、それは《深み》なる虚構がそこにたしかにある、となんの根拠・・もなく信じることでもある。

◇ ◇ ◇

なおわたしは本詩集を詩論の一種として読んだが、それはその魅力を損ねてしまったのかもしれない。適切だったかどうかは読者諸氏の判断に委ねたいと思う。

(2018年9月4日)

山本光一『 命なりけり : もえの和菓子アルバム 』書籍情報
命なりけり もえの和菓子アルバム
出版 土曜美術社出版販売
発行 2016
著者 山本光一(やまもと こういち)
価格 2000円+税

青山晴江『ろうそくの方程式』

思いだせないものを思いだす・・・・・・・・・・・・・。だが、生きようとすることが生きることをさまたげるように、記録をこころみることそのものが、ほんとうにあったことの記録をさまたげてしまう。さまたげる不可能なものを超えて、わたしたちはどう読み、どう生きることができるのか。

◇ ◇ ◇

本日は金曜日、残暑から夏の終わりをあらわす一週間が終わった。夏はゆるやかに終わりを迎え、わたしは職務を終えて、ベランダを掃除し、自分の手を洗うついでに子供の手と顔を洗い、再び机に戻ってきて、青山晴江の『ろうそくの方程式』を再読している。本自体は、以前某誌より書評を頼まれた時に頂いたもので、二〇一六年発行。著者は一九五二年東京生まれ、本書は第二詩集にあたり、百ページに二十九編を収める。

昨日わたしは「社会派にかたよる読みは作品のおもしろさを損ねる」と書いた。青山の詩を紹介する前に、ひとつ別の詩作品を紹介したい。北原白秋が、日本がシンガポールを攻略した時に書いたことで知られる「マレー攻略戦」である。

かねて期したる突撃に
ブキテマ高知陥せよと
猛攻、死闘、必中弾
あがる凱歌もただ涙

怒涛のごとき我が軍の
進撃を見よ 電撃を

太きアジヤの國生みや
民十億の朝ぼらけ
我が 天皇のしろしめし
いよよ榮ある昭南島

怒濤のごとき我が軍の
進撃を見よ 電撃を

北原白秋『マレー攻略戦』 後半 部分
一九四二年

「昭南島」とは、南の光の島、を意味し、英国領シンガポールを占領した日本が一時的につけた名前だ。また、ブキテマ高地とは、いまブキティマ・ヒルと呼ばれている、かつて激戦地であったシンガポールにある丘の名前である。

ここでは詩がやすやすと国策に積極的・・・に、自ら参画してゆく様子がうかがえる。この詩と軍歌の存在を知った時から考えていたこと、それはわたしは・・・・、北原がいたような時代において、はたして世の中の趨勢に抗うことができるのか、ということだった。

たとえば娘や家族を必死に養っている大人たる詩人が、圧倒的な世論を背景にした扇動的な原稿を書いてほしいと、適切な対価を伴う案件として、政権与党から依頼されたらどうするのか。いま、この時代に依頼されたらどうするのか、という問いがある。わたしはそれを断ることができるのか。

「社会派」の詩、なるものがあるとすれば、その問いに答えること、また断るにせよ、受諾するにせよ、その答はいかなる理路に基づくものなのか、世間の泥にまみれつつ、真正面からこれを考える時にのみ存在がゆるされるものであるように感じる。

前置きが長くなった。なぜこういうことを書いたかというと、青山の詩集は3・11発生の前後を巡り、反原発という主題に加え、新宿西口反戦意思表示スタンディングなど著者自身の社会活動とも密接な関係があることが、詩本体とあとがきから読み取れるからである。

好きな詩から読んでゆこう。「消えても」

そんなもの
すぐに 消えるよ
淡雪よりはかなく

そんなもの
すぐに 忘れられる
閉じられた
ノートのように

ノートの余白に
書き込まれなかった
夥しい事実を
まだ
探さなくてはならないのです

「消えても」 第一、二、三連

「ノートの余白に/書き込まれなかった/夥しい事実」が、福島第一原発事故に対する国の不誠実な対応と、その後に続く早急な再稼働が続く現実への批判と読みたい誘惑にかられる。一方、ノートの余白に書き込まれないことによってその欠如が明らかになる、人生におけるよくある出来事について思う。消しゴムで強く消し去ったある文字列の残した空白が、逆に目立ってしまっているノートのように。もちろんそれも「そんなもの/すぐに 消えるよ」と、最初から消失することが宿命づけられているのだが。

休日を寛ぐ若い人たち
むかしの自分を重ねれば
遠い日が蘇って――

あのころ
小さな子らと野に遊び
草の上に弁当を広げ楽しんだ日々

その安穏さの向こう側 見えなかった 見なかった 「明るい未来のエネルギー」を謳う原発の危うさ 沖縄に押し付けたままの米軍基地 そこからベトナムに運ばれた枯葉剤 イラクに投下された劣化ウラン弾 どれほどの子どもたちが無残な犠牲を強いられたのか その劣化ウランはどこの原発で作られたのか――

「風吹く春に」 第一、二、三、四連

思い出せなかった空白以外にも、気が付かなかったという空白がある。わたしたちの生活はだれかの犠牲の上にしか成り立たない、というひとつの読みがある。それを直視した時、その空白に亀裂が走り、血が流れ、ことばが生まれる。わたしたちはだれかを踏みつけにすることなしに生きられないのかという問いに、そうなのかもしれない、と答える自分がいる。ことばにすればあまりに単純なことだが、その現実はどこか遠くにあるようにも感じられる。なにもかもが暴露されているソーシャルメディア全盛の時代は、逆になにもかもを他人事にしたのだということを思う。読むくるしさのある詩連がつづく。

街へ向かう
朝の電車
人いきれで
窓は白く曇っています
誰も何も言いません

ぼんやりとしかみえない
見えない視界
派手な広告が張り巡らされた
閉じられた空間で
ただじっと
うな垂れて
運ばれるのを
待っています

淋しい
淋しい国の朝です

「朝の電車で」第二、三、四連

わたしたちにとって馴染みのある空間が広がっている。詩人の想像力によってわたしたちがいつかどこかでみた光景が喚起される。それは閉塞的なソーシャルメディアであり、あるいは勤務先、学校、家庭の「誰も何も言」わない空気でもある。だれしもが口をつぐむ中、「うな垂れて/運ばれるのを/待ってい」るのはだれなのか。こうした連を読むとこころのどこかに傷ができる。そしてその穴から、普段わたしたち自らが自分自身に対して隠していること、「見なかった」ふりをしていることばが溢れだす。そのとき、《ほんとうのこと》が詩によって可視化される。

なぜひとは沈黙を強いられ、システムに隷属してしまうのか。端的にいえばそれは各個人が弱く、ひとりでは生きられないからである。だれも「淋しい国の朝」をこえられない。そしてこえられないつらさを、わたしたちは詩によって、つながることなく共有する。

最後に、わたしがもっとも好きな詩を紹介する。

それは
一本のろうそくの絵なのだけれど
昔、高島野十郎という画家がいて
年老いて荒野の小屋にひとり閉じこもり
昼もよるも書き続けた
何枚も何枚もの一本のろうそく
力強いその絵を見ていると
すさまじい熱い風が吹いてくる

燃え残りなど気にしなくていい
今 炎をゆらして燃えている
そのことが
闇をどんなに照らしているか――

「ろうそくの方程式」 第二、三連

詩集の題名ともなった詩。
ここまでともに詩集を読んできたわたしたちは、これが単に芸術を称揚する作品ではないことを知っている。だれも「淋しい国の朝」を超えられず、社会の潮流に対して人間は無力であり、わたしたちは果てしなく無知で、知るべきことを知ることはつねに遅れる。だからその画家も「小屋にひとり閉じこもる」しかなかったのである。

だが、あらゆるコミュニケーションを諦めた画家がひとりぼっちで描いた絵こそ、孤立と断絶をこえて燃え上がる、そのことを青山は示した。そのつたわることのなかった熱だけが無限の距離を超えた個人の魂に火をつける。それが社会をも変えうる熱になるか、それはだれにもわからない。だれが勝つのか、だれにもわからない。

わたしたちにできることは選択すること、間違えることの可能性をも引き受けること。読むということは、その不可能なるわたしたちの人生をえることなのだ。

(2018年8月24日)

青山晴江『ろうそくの方程式』書籍情報
ろうそくの方程式
出版 土曜美術社出版販売
発行 2016
著者 青山晴江(あおやま はるえ)
価格 2000円+税