後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』

――生きることは、得なの、損なの?

◇ ◇ ◇

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田中裕子『カナリア屋』

——くりかえされていて、くりかえしてしまう。

◇ ◇ ◇

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三角みづ紀『舵を弾く』

だれもいない真夜中に、ひとりぼっちの車がもえる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。秋が深まる。十月らしい天気だ。

さて本日の詩集は三角みづ紀の二〇一五年発行の詩集、『舵を弾く』。著者は一九八一年鹿児島県生まれ。二〇〇四年『現代詩手帖』投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。同年、第一詩集『オウバアキル』にて第十回中原中也賞受賞。他、二〇〇六年『カナシヤル』、二〇〇八年『錯覚しなければ』、二〇一〇年『はこいり』、二〇一三年『隣人のいない部屋』など著作多数。本書は五章構成、小分けされた章は「泥濘」「生没同日」「枝垂れる」「クラシックラジオ」「かなでるひと」と名付けられ、百十頁に三十五編を収める。

さてそれでは、いつものように一般読者と同じ目線で、三角の詩に出会ってみよう。巻頭詩「呼ばれる支度」から。

うつぶせで いのちを研ぐ
あおむけで 見開いたまま
屋根って、きれいね

息をするには
どんな布でもよくって
いたむ星を包んだ

そうやってあたためていると
熟した実が、屋根をたたいて

耳はすまして、
呼ばれて、
瞬間、瞼から生まれる

あおむけで 見開いたまま
わたしたち いのちを研ぐ

「呼ばれる支度」第一、二、三、四、五連
第一章「泥濘」内

うつぶせがそのままあおむけであるような存在が想像される冒頭。それはどこか男女両性の、手足が二組、顔が二つずつあるアンドロギュノスを思わせる。そして間をおくことなく、その瞬間わたしたちは屋根を見てもいる。接合、分断、跳躍……がたった三行に凝縮されている。

もう少し詳しく読むと、繁殖、出産、赤子をおおう布、卵、身体に降りそそぐ雨などのイメージが重ねられ、題名も合わさって、これは卒啄同時の祝福についての詩なのかも、ということを考える。だがおそらくそれは生物学的な繁殖ではなく、詩を研ぐということ、性をひとつの身体のなかにふたつ保ったままいのちとしてのことばを繁茂させてゆくことなのだろうと読んだ。こうした書き方は詩以外にはまず不可能だという驚きと納得がある。

わたしは目前で、ひとがしんだとしてもけっして驚かないのだ。その呼吸を確認するつもりはないし、おそらくのことはあるがままである。自らがしんだとしても動揺しないことはわかっている。なんとつめたいことか、騒ぎたてるのは周囲であればよかったし、できるなら海葬にしてほしいときめた。事務的にすりつぶした骨をひどく事務的に知らない海岸線にまいてほしい。わたしが、生前、愛着もなにも持っていなかった名前も知らない海面にまいて、それからひとびとは何事もなく帰宅してお茶やらアルコールやら飲んで、一夜あけたら仕事へでかけるだろう。そのひとびとがしんだとしても驚かないでほしい。毎朝、薬缶を火にかけるような日々であればよい。毎晩、他人をにくんだりあいしたりすればよい。
ひとびとは大地を割れない。

「この家」第一連
第一章「泥濘」内

ひとがしんでもわたしは驚かないのは、「愛着もなにも持っていなかった名前も知らない」ものたち囲まれているからだろういと最初は読めたのだが、ひとが「ひとびと」へ転換され、わたしという個人的な存在の独白から、より広い場へとこぼれてゆく連を読みかえすと、し(私/死/詩/知)が、この家を離れて名前のない海へと広がっていくうつくしいイメージを得られる。ひとは大地を割ることができないので、海はえいえんにそこにある。いかなる名付けも拒否したまま。

夏至も過ぎたけれど
真昼に灼けた地面に
空から打ち水が降り
ようやく、夜となる
そうして、朝を待つ

はげしく―――ゆるやかに
瞬間に立つ―――ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に―――かがやいて

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

「定点観測」全文
第二章「生没同日」内

とても好きな詩。生没同日、は、うまれたしゅんかんにいのちを落としたものであり、「きみに うつりこむ」花火は、うまれたものたちがながれつく先の水面にうつる花火と読むことができる。あるいは「きみ」はすでに空におり、なにも反射しない空虚に光がさし、その不可能な反射に詩がかたちを与える、とも読める。けして声高にかたられてはいないのに、感情のバイブレーションが短い詩連からほとばしる。

(ずいぶんと雑多な庭で
感情はふしだらに波及
アスターもたんぽぽも
われもこうも水くさも
かぞえきれないくらい
何度でも、しぬ)

だれもいないと
信じて
真夜中に舞う
意識があらゆる上半身を揺らし
ちっとも根づかない
わたしは かなしい
だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」 第三、四連
第三章「枝垂れる」内

乞い、ごい、こひ、恋、来い……何度でも死ぬものたちが真夜中にあつまる。アスターとたんぽぽと吾亦紅と水草が同時に存在する不可能な場が詩と呼ばれていて、それがすぐに死ぬことが了解されている。それを信じることはかなしい。

意識が上半身だけを揺らすならば、下半身は忘れられ、つまり足が庭にあり、踊りを舞うときその足裏が踏みつけて殺しているものが忘れられている、とも読める。よってなにひとつ根づかず、そこに深い悲しみが満たされている――が、それは「わたし」だけのものでなく、「わたしたち」のものであり、それは読者にひらかれたかなしみだ。そこに特権的なものなどなにもない。

あたらしいわたしの国は
えんえん雨が降っていて
いまにも折れてしまう枝
起きたら中庭の車も炎上する

時折、
じぶんに
あたらしい名前を
つけたくて
逃亡者として移住する
わかっている わたしは
ほんとうはやさしいから
身体の空気を冷たくして
ほんとうは全て憎みたい

あたらしいわたしの人と
春になったら森へ行く
ほら、あの病院の近くの。
あなたが提案したのでしょう。

「つめたい珪砂」第三、四、五連
第四章「クラシックラジオ」内

えんえんと降る雨は子供の涙を連想させる。乳幼児は大人には意味がわからないままよく泣くが、大人は意味があると信じこんでいるだけで、大人もまた実はただなんの意味もなく泣いているだけなのかもしれない。

珪砂は、ガラスの原料となる白色粗粒の砂。つめたい砂は、幾千億に分解されてしまったなにかで、元のかたちはエントロピーの法則によってえいえんに失われている。そんな砂に雨が降る光景がみえる。あたらしい国にはあたらしい名前が必要だと書き手は考えるが、それをえることはできないことがあらかじめ示唆されている。あたらしい街にいってもあたらしいわたしはえられない――というよりもあたらしいものなどどこにもないからだ。ただ砂は流れ、雨は降り、どこかの中庭で車が炎上している。

たくさんのへその緒は
つらなって
無表情のひとびとを縦断する

導線だっていうことは
わかっているのだから
なぞることはしないが
揺らしてみれば
重なって
ふるえる

わたしたちを奏で
奏でられるままに
これからつながる
わたしたちの動機

車内は涼やか
座席に深く落ちていく――

「ストリングス」第二、三、四、五連
第五章「かなでるひと」内

命をつなぐへその緒が管楽器の道具になぞらえられている。おそらくはバスの中にいるのであろう書き手は、車体(肉体)の中でつめたく閉じ込められながら、相対的な世界に対してなぜか・・・動きつづけている、そういう様子がえがかれていると読める。「導線」はひとの魂がうごく道、またはひとがいきる動機がはこばれる「動線」なのだろう。

わたしたちはすでに母体から切断され、へその緒は乾燥しきってただのモノになっている。そんな切断された宿命を弦楽器と読みかえて詩をかなでる――そうした強靭な意図を、本詩集から読みとればよいだろうか。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、上でも紹介した「木曜日、乞い」をふたたび挙げておきたい。だれも、いなくとも……のあとは、読者がみいだすのである。

だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」

(2018年10月3日)

三角みづ紀『舵を弾く』書籍情報
舵を弾く
出版 思潮社
発行 2015
著者 三角みづ紀(みすみ みづき)
価格 2000円+税

森水陽一郎『九月十九日』

ひとは自分のうまれる国を選ぶことができないが、ふるさとは選ぶことができる。ふるさととは、後天的に見出されるもの、自らの手でえらびとられるものである。

◇ ◇ ◇

さて本日は金曜日。少しずつ風が肌寒さを増し、我が家では娘に一枚厚着をさせた。わたしたちはこうして少しずつ老いてゆくのだ。

本日の詩集は、森水陽一郎の『九月十九日』。著者は一九七六年生まれ。二〇一二年「青い意志」で第三十八回部落解放文学賞詩部門入選。二〇一五年に発行された本書は第一詩集で、第十八回小野十三郎賞を受賞。詩二十九編を百六頁に収める。また、二〇一八年には第二詩集『月影という名の』を上梓したばかりだ。

詩集に入る前に、初期の詩「青い意志」を読んでみよう。

僕たちは城下町を蛇行する
それぞれ別の川のほとりに、生まれ育った
田んぼに神社、寺に公園
ただ一つ異なるのは、君の村に
牛皮にまつわる歴史が生きていたこと
かつては別の名で、皆から呼ばれていたこと

僕たちは高校で出会い、三年間同じクラスで
馬鹿を言いあい、笑いあい、ときに背中を向けた
そして高校生活、最後の冬休み
僕たちはゴム手袋をはめて、頼まれたわけでも
アルバイトでもない、君の村でのドブさらいに
顔をほころばせて、奉仕した

夏に忍ばせた、二十個ばかりの白い小石は
すでに牛皮を染める、鼻につんとくる染料で
空の色に、ほの青く染まっていた

そうして卒業とともに、僕たちは村を離れ
一つ目の青い石を、アパートに庭先に埋めた
異国の旅先で、見知らぬ自分と出会うたびに
ポケットのなかの小石を、減らしていった

「青い意志」第一、二、三、四連
『部落解放』六六五号

とくに眼をひくのは、「僕」と「牛皮にまつわる歴史」がある村に住む「君」の境界線がぼかされ、溶け合う様子をみせる三連、だれが・・・忍ばせたのかわからない二十個ばかりの白い小石がいつの間にか青く染まっているくだりだ。当時の選評を読み返すと、「単純に差別反対という従来のスタイルを超えて、差別反対と向き合う、自分の内と読む人という外に同時に問いかける」(金時鐘、『部落解放』同号)とある。わたしも同じ感想を持ったが、つけくわえるならば、ここにはわかたれているものをわかたれる前の状態へと還元しようとする意志または戦略がうかがえる。それは別のことばでいえば、差別する者がそのまま差別される者と同一であるかのような場のことである。

それでは詩集のほうへ。

私が死への行脚を始めた九月十九日
正岡子規は長年の床ずれから解放され
アルプスの氷河に横たわるアイスマンは
五千三百年の眠りから揺すり起こされた
スヌーピーはご自慢の住処から火を出し
壁にかけたヴァン・ゴッホを失い涙した

(…)

シナプスの電子の網張り巡らされた
百科事典に列挙された九月十九日が
いまこの瞬間にも、三年後にも
はたまた二十億光年後にも
匿名も、無辜の書き手に塗り替えられ
終わりなき絵巻物の白波を打ち広げていく

「九月十九日」第一、三連

巻頭詩でもあり、詩集の題名ともなった詩。一年を三百六十五日に分割し、そのうちのひとつを抜き出し、その日に起きた歴史的出来事を、ウィキペディアからの引用(「電子の網張り巡らされた/百科事典に列挙された」)で重ねる。

ある日付に特定の意味がほんらいあるはずもないが、わたしたちはなんらかの意味をもとめるものだ。それは誕生日であったり、結婚記念日であったり、なにかを喪失した日であったり、あるいはなんらかの大切なものをえた日であったりするからだ。そしてその幾億の物語はそれぞれいっさい重なることなく、あらゆる意味を喪失したまま堆積してゆく。そういう様子が絵巻物の白波になぞらえられる。

ふだん特権的にあつかわれるべきもの――そこには詩も含まれるが――がきわめてなにげない身振りで、その他大勢のひとつとしてあつかわれていることに著者の膂力を感じる。

分けへだてなくやってくる
いたずら心で、へその緒をねじらせる
うつぶせに寝かせて、そっと口ふさぐ
ベランダに置かれたクーラーボックスに
意気揚々とのぼらせ、手すり乗り越えさせる
ボール追いかけ、ブレーキ音に連れ去られる

(…)

たかだか百年と、マントルがほくそ笑み
さりとて五十億年足らずと、銀河の星たちが
こぞってせせら笑い、沈黙に還るとき
宇宙のへりを押し広げる息吹の風が
墓地の片隅で薄桃色の揺りかごを編み上げる

「息吹の風」第一、三連

第一連、胎児から児童までの事故死の原因が列挙される。「青い意志」と「九月十九日」でもみられた、対象を直接的に描写するのではなく、ほんの少し迂回して接近してゆくかたり口が魅力をあたえている。その「ほんの少し」の微細な匙加減が技巧なのだが……くわしくみると、隠された主語はそれぞれ(胎児)、(乳幼児)、(幼児)、(児童)であるだろう。

ひとはだれでも偶然の「分けへだてなくやってくる」死と隣合わせであることを知っている。その摂理は残酷でも無慈悲でもなく、ただそうであるというほかない。それが風、可能性のへりを押し広げ、あたらしい命を呼び寄せる息吹としてえがかれ、そこに墓地で編み上げられる揺りかごがあらわれる。とてもうつくしい連だ。

個を識別する顔はなく
他者とつながる手足なく
涙あふるる瞳なく
行くあてを指す触角もなく

シナプスの網描く脳はなく
痛み走らす中枢神経なく
未来を託す生殖器なく
言の葉持たぬ口はあるが
肛門はないチンウズムシよ

(…)

そして穢された真一文字の
聖痕を首に刻まれた若人たちの声は
時勢の偏西風にかき消され
すでに二十有余年
若狭を見下ろし頑強にうずくまる
知恵の菩薩を名乗る出口なき
不死の金食い虫に、群がる白蟻たちに
無慈悲にかき消され

「チンウズムシ」第一、二、四連

わたしは知らなかったが、珍渦虫(チンウズムシ)というのは実在する虫で、バルト海など一部海域でしかみつからないめずらしい生き物なのだそうだ。第四連にふいに登場する地名「若狭」や「知恵の菩薩」や「不死の金食い虫」が意味するものを考えたとき、この虫がなぞらえられているものがみえてくる。

ふたたびわたしたちは、その他大勢の「個を識別する顔」のない虫けらとなって世界の前に平等に立ちすくむかたりを目撃している。そこでは、反原発(および「反」をかかげるあらゆる煽動的営為)という安易なことばを使うことによってうしなわれるものが示唆されている、とも読める。金時鐘が示唆していたように、向き合う、とは、人間をイデオロギーや主張で二つにわけることができるという決定的かつ重大な誤謬を抜け出すこと、あるいは、自分もまた一匹の顔のない虫けらに過ぎないのではないのか、という勇気ある認識をえることだからだ。

最終連は「出口なき円環の浄化を夢見る/心持たぬ鋼のチンウズムシを/沈黙の揺りかごにひしと抱きかかえ」で締めくくられる。その結論または夢にふかく共感する。

母は近づくなと釘を刺したけれど
僕たちは毎日、橋の下の
青いビニールシートと端材で組み立てられた
ちっぽけな小屋に暮らす白髪の
山羊ひげの老人に会いにいった

表紙がぼろぼろに破けた
しみだらけの聖書をひらき
いくらかしゃがれた、酒やけした声で
得意満面、神の言葉をといた
流木を削り出したお手製の
不戦の勲章を、胸にぶら下げて

(…)

僕たちはうつ伏せに浮かぶ老人を
なかば恐れ、期待しながら
河口まで自転車をこぎ進め
夕日に染まる欄干に、身をもたせかけ
心静かに捧げたのだった
父のポケットから抜いた一本のタバコと
あなたを最後まで縛りつけた、一輪の菊花を。

「橋の下の聖人」第一、二、五連

差別、原発……そして戦争。ふたたび「反」をめぐる詩、そういいたくなる読みの貧しさを避けてゆきたい。山羊ひげの老人は、自らかたるところによればかつて赤紙による徴兵を拒否し、投獄され、いまはホームレスとなって少年たちの好奇心の対象となっている(「若きあなたは、赤紙から逃れ/冬の山野に身をひそめ/山狩りに駆り出された、血気盛んな/首を縦にしかふれない犬たちに/取り囲まれ、とがった竹やりでつかれた」)。ある秋の日、立てつづけの台風に襲われ、老人はペットの猫と行方不明になる。最終連は、少年たちが老人を探しに行くくだりで幕となる。

「なかば恐れ、期待しながら」の一行の残酷さがきわだっている。第三者にとって、「聖人」の死がある種の見世物に過ぎないことを著者はいっさい隠そうとしない。また、老人が拘束されていた「菊の花」は天皇家の紋章であり、日本語そのものであり、本邦の歴史そのものであり、そこから自由になるためには死しかないというどうしようもない滑稽さを、著者は書いた、いや、書いてしまった・・・・・・・、のだと想像する。夕日に染まる欄干に立つ少年たちの、けして書かれることのないその表情――それは、わたしたちが想像しうる、もっとも醜いなにかであることは疑いようがない。

詩はうつくしいもの、醜悪なるものに同時にかたちをあたえることができる。森水の詩集は、そういうことをわたしたちに教えてくれる――ある驚嘆をもって。

◇ ◇ ◇

最後に、本詩集で一番好きな詩を紹介したいが、これは引用なしとしたい。
気になる読者は、ぜひ書店や図書館などで確認してみてほしい。とても好きな詩。

「慈雨の矢」

(2018年9月14日)

森水陽一郎『九月十九日』書籍情報
九月十九日
出版 ふらんす堂
発行 2015年
著者 森水陽一郎(もりみず よういちろう)
価格 2600円+税

颯木あやこ『七番目の鉱石』

さて本日は火曜日。平成を代表する漫画家が昨日亡くなり、わたしたちはいよいよ平成の終わりを身近に感じつつある。昭和と比較すれば、まるでなかった・・・・かのように扱われてきた平成という時代が、その消失によってついにその存在をえる――そういう光景と、わたしたちは向き合っているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

本日の詩集、『七番目の鉱石』は、颯木あやこの第三詩集。これより前に『やさしい窓口』(二〇〇九年)と『うす青い器は傾く』(二〇一二年)の詩集がある。著者は旧西ドイツベルリン生まれ、本詩集で第二十六回日本詩人クラブ新人賞受賞。詩集は三部構成、本文九十三頁に二十九編を収める。なお本書はとある共通の知人を経て著者より頂いた。

詩集の終盤に、とある固有名詞が冠された詩がぽつりと置かれている。

明日の起点は いつも白い斜塔だ

蚊柱を四つくぐり抜けると
斜塔は見えてくる
高窓から銀の糸が垂れていて
夕風に運ばれてくる失神した魚を
釣り上げる

窓の内では 部屋の中心に
オーブンが黒い顎を開いて
意識に最後の一撃を食らわそうと
燃えている

斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい
細長く伸びた影は 冬の橋のように
わたしを何処かへと導く

「しるべ――シルヴィア・プラスに」 第一、二、三、四連。

シルヴィア・プラスは一九五〇年代に活躍したアメリカの詩人、自伝的要素を強く含んだ詩作で知られ、自らの精神疾患、失敗した結婚生活、親との確執などを作品の形に昇華させた、いわゆる告白詩の書き手として知られる。三〇歳にオーブンを用いてガス自殺。

現在では双極性障害と呼ばれる疾患に苦しめられていたらしく、一九五八年の彼女の日記では、自分の気持ちについて「ほとんど激情的とも思える絶望に溺れてしまって、窒息してしまいそう。強くて大きな梟が胸の上にとまって、そのタロンで私の心臓を握りつぶそうとしているみたい」と綴っている。

颯木の詩においてプラスが「しるべ」と名付けられていること、プラスが自死した斜塔が「明日の起点」とえがかれていること、そして「心臓を握り潰そうとする爪」のことを思い出しつつ、これらに留意して読み進めてみる。

だがまずは個人的な趣味について語ろう。わたしは次のような詩がとても好きだ。短いので書き写してみる。

夜に 卵ひとつ
ずれる
ゆっくり
テーブルの上で

つややかなまるみは
初夏の少年のひたい
水滴に打たれる

螺旋を降りて
いっそう透きとおった
水を受ける

でも 卵は
ずれていってしまう

〈もっとも愛される位置とは何処か〉

螺旋は 脆くなったわたしの背骨

水は
背骨を 損ないながら
注がれつづけ

「さよ」

少年は少女でもあり、まだわかたれていない魂でもある。男女それぞれの性がまだ確定していない存在、あるいは生きているのか、死んでいるのかわからない量子力学的な卵を想像する。それがテーブルの上をひっそりとずれてゆく。卵は割れてしまうのか、否か。そこに水滴が落ちてきて、一度は額にうけられ、なんらかの幸福な出会いが示唆されるが、いつしか水は背骨を損なうものとなってゆく。

「もっとも愛される位置」はそこねられ、そのそこねられたものに「さよ」という名があたえられている。夜のテーブルでずれていってしまうもの、それは愛であり、祝福であり、意味であり、ことばそのものなのだと感じられる。そのずれが起こるまさにその現場を目撃する驚きがある。

刺し傷の穴から
古いことばの連なりが 呻きながら
わたしに臍の緒のように巻きつく

腕は それでも 土の匂いがしない
わたしの肌に爪を立てれば
すぐに地層があらわになるのに

「はるかな実験室」第二、三連

プラスが自死したオーブンは黒い口腔としてえがかれていた。体にははじめから空いている孔と、自らあける孔があり、後者はふつう傷とよばれる。口腔からは通常のことばが産出されるが、詩を生み出すのは「刺し傷の穴」である。傷こそが世界へ接近するための方法であり、その傷穴からことばが溢れだすという読みがみえる。

創るという漢字から連想されるのが創傷であることを想起しつつ、もっとも身近なもので傷をつけることができるものが爪であることも思い出される。やわらかいやさしさやいとしさに埋没してしまい忘れられがちなほんとうのことばを引きずりだすために爪が必要とされている。それはプラスが書いた猛禽の爪タロンに似た、鋭くとがる感覚の爪なのだろう。

肌の下に隠された地層は血の層を連想させ、そこにはことばによってつくられている肉体があることが感じられる。わたしたちの身体の部位にはそれぞれに固有の記憶があり、それぞれの痛みや傷の記憶がことばとして埋め込まれている。それをひとつひとつ喚起するためには、ただの肉のかたまりである指では足りない。切り、裂き、刻むためには、鉱物のようなかたさのなにかがなければならない。

本詩集でわたしがもっとも好きで、かついちばん読み返したのが次の詩「花結び」だ。娘と母の独白が作品内にて重ね合わされる。

やわらかな肌が大好き 小鳥も好き
でも抱きしめれば 爪が喰いこんで止まらない

娘「お母さん あなたのやさしい指先は尖っている
昔からそうだった
だからわたしも突きとおしてばかりです
父の寡黙さを受け継いだ分 ますます残酷に

体じゅうから生えでている鉄の爪を
未明に
抜いても抜いても
創口からどす黒い夜が噴きだして
すぐに一日を終わらせてしまう

「花結び」第一、二連、三連部分

爪の魔力というもの。乳幼児は、体にうまれる最初の武器である爪(その後は歯が追加される)を用いて、様々な暴力をふるうことをまずはおぼえる。紙を切り、裂き、あるいは親の肌に赤くうすい傷をのこして遊ぶようになる。その暴力の愉しさがいつしか罪悪感に変わるのは、爪は鋭く、それが傷つけてしまったものが、たいていの場合は二度と修復できないものであること、そして傷によって痛みを感じることをやがて知るからだ。作品冒頭ではそうした爪の魔力、それを使いたくなる誘惑がまずそこにあることがかたられる。「でも抱きしめれば/爪が喰いこんで止まらない」

娘と母
「私たちは爪の種族
やわらかな肌を突き破って生えてくるもので
互いの眼球を 耳たぶを
古い乳房と萌えでたばかりの乳房を穿ちあう

「花結び」 第十連

母から娘に受け継がれる爪は、言語化された人間の弱さの継承を思わせると同時に、わたしたちがよく知る社会、つまり家庭内の暴力は一度も絶えることなく、親が子を殴り、子は親となり、その親がふたたび子を殴るという宿命的な連鎖の光景を想起させる。だがその暴力から自由になろうとしても、それはすぐに自生する爪によってさまたげられてしまう「体じゅうから生え出ている鉄の爪を/未明に/抜いても抜いても」。そして「創口」は創る口でもある。

ふたり揃いの髪飾り 花結びの古い緒も
けっして切れないではありませんか
でも強く抱き合うほどに
私とあなたの間に宿る
うららかに啼く鳥が 死んでゆくのをどうしましょう」

「花結び」 第九連

花としての宿命を負わされた存在がお互いを抱擁した瞬間、爪と傷もまた同時に受け継がれてしまうということがはっきりと認識される。美しいとは残酷なこと、という気づきがあり、本詩集でもっともつよく惹きつけられた連。

◇ ◇ ◇

最後に、詩集名について少し。国会図書館データベースによれば、本詩集は正式な題名は副題に英訳である “seventh ore” を付すそうだ。”ore” は、鉱物を抽出することができる岩または土層を指すことばで、鉱”石”よりは少し幅広い意味を感じる。やわらかい土(肉)に散らばり、埋め込まれたなにかを、爪をもった道具でひとつひとつ掘りおこしてゆく。題名からはそういう所作を想像する。

爪は両刃の剣でもあり自分のみならず自分にもっとも近いもの――しばしば、愛するものたち――を傷つけるものであることをわたしたちは知っている。というよりも、知らざるをえない。詩を書く果てになにがあるのかと自問したとき、そこにはたとえばプラスのいる白い斜塔がしずかに立っていて、「斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい/細長く伸びた影は/冬の橋のように/わたしを何処かへと導く」。だがそのたどりつけない何処かの果てへのしるべが光を放っているという明日、それをわたしも信じたい気がしている。

(2018年8月28日)

颯木あやこ『七番目の鉱石』書籍情報
七番目の鉱石
出版 思潮社
発行 2015年
著者 颯木あやこ(さつき あやこ)
価格 2200円+税

花潜幸『初めの頃であれば』

なぜいま詩を《読む》のか。孤立と断絶の時代を越える不可能な解に必要なものとはなにか。こうした疑問にこたえる前に、ひとつはっきりしていることがある。それは連帯アソシエーションをつくることではなにもなしえないということだ。よって《千日詩路》は、過去に会ったこともなく、未来に会うこともなく、まるで理解しあうことができないそれぞれの孤立と断絶の彼方にいる読者を、その遠さゆえに・・・信じる。

◇ ◇ ◇

さて一週間のはじまり、月曜日だ。関東はすっかり秋の雰囲気だが、まだずいぶんと暑さが残っている。

本日、わたしたちがめぐり会う詩集は花潜幸の『初めの頃であれば』(二〇一五年発行)。著者は一九五〇年東京生まれ、本詩集に収められた詩「初めの頃であれば」で第二十三回『詩と思想』新人賞を受賞。他詩集に『薔薇の記憶』(二〇一一年)、『雛の帝国』(二〇一三年)があり、本書は第三詩集にあたる。百頁に三十七編を収める。

幼くして亡くした母のことを何も覚えていない。ただ、母が教えたというこの歌を唄いながら眠ると、ぼくは夢の階で母を感じることができる。

父は母のことを語らなかった。母を忘れさせるため、自分も言葉を忘れたのだろう。

だから母はいつも蜜柑の形をしている。

「みかんの花咲く丘」第一、二、三連
※題名には「」があらかじめ付されている

「みかんの花咲く丘」は一九四六年、敗戦後まもない日本でつくられた歌謡曲。この詩でいちばん印象に残るのは、第四連にあらわれる一文字分の空白だ。それは「父」と「母」という単語たちに挟まれてさりげなく(まるで誤植のように)配置されている。その空白から詩があふれてくるように感じられる。ことばが逆流する磁場の中心にあるのは欠損で、その私的/詩的な核心をあらわす空白の一文字の存在を明らかにするために、文字をまわりに敷き詰めて埋めてゆく戦略が取られたのではないかと想像する。そこにあるのは喪失こそがえるための方法であるという逆説だ。

名前を呼ぶのであれば、明日のものにしなさい
とあなたは言ったけど

母が消えた後のこと、石にも火をつけようと、犬形の庭の灯籠を割った。中には黄桃の灯が隠されていて、私の肉に包まれた希望や感情を照らしていた。冬の雪は柔らかく、夏には冷たいあられが降っていたけど、私の履いた靴の踵は、小さく地の声を聴いていた。

「母が消えた後のこと」第一、二連

著者の選び取った方法がもう少し明らかになる。母と名付けられたなにか・・・を失った作品内の書き手が見いだした「あなた」は、「明日のもの」である名前を呼ぶことにしなさいと説くが、それはいまだ存在していないものの名前をもって、いまここにあるものを知るべきだということを意味するはずだ。それは思い出すためには不可能な跳躍をしなければならない、と解釈される。その跳躍とは、石に火をつけようとすること、あるいは石灯籠をたたき壊してなかにかくされた黄桃を見つけることだと書き手はかたっている。優しくゆがめられた現実のずれに詩があらわれる。

樺太から戻る五月の船に、魚は銅のように重く、月のように輝いていた。初めの頃であれば、宇宙の背中にも手を伸ばし、春の海を渡る風と話をし、浜で生きることを夢見ることもできたのだ、とあなたは語った。
そう初めの頃であれば、私もまだ母の手を握り、角々で出会う不思議な妖精や、花の声のことをあなたに話して、竹かごの作り方をぎこちなく笑って語ることもできたのだろう。

「初めの頃であれば」第一、二連

戦地から帰還した父の物語に基づき書き手が想像力の源泉をかたる。それは「初めの頃」と記され、ここではない代替的世界がさまざまなかたちで同時に存在していた可能性にみちた場だ。いまこの場にいる「わたし」と、かつてあらゆる道を選択することができた「わたし」の間を架橋することでもあり、その絶望的なまでに遠い距離をあらためて知ることでもある。それは不可能な旅であるからこそ痛切であり、わたしたちはみなこのような「初めの頃」をもっている。

第三連以降、より具体的な戦地の描写がつづき、わたしたちはふたたび社会派にかたよる読みへの誘惑にかられる。だがわたしたちは、昨今のソーシャルメディアに満ちあふれる、なんらかの企図に基づいたひとを操作マニピュレートする扇動的な《読み》から離れる加速度をたもたねばならない。

たとえば、うまれなかった胎児はあらゆる可能性をもっている。うまれなかったことば、伝えられなかったことばもまたあらゆる可能性をもっている。だが現実はひとつしかなく失われたものはえいえんに失われたままである。その現実以前の場へとたちかえる不可能な道をつくるのが詩の仕事だということを思い出させる。

次のような詩も印象に残る。

朝になると寝台を畳んで、熱いお茶を飲みながら湯気の行き先を確かめます。くもった窓を掌でこすると写し絵のように雪の風景が出て来る。紅いシグナルと青いランプが、交互に瞬いて、ゴトゴトという列車の走る音を引き立てます。いったい何処へ、と聞かれれば、今は忘れた国へと応えるしかありません。

「冬の家族」第一連

目的地はこたえられない。すでに名前すら忘れた国というしかない。そこに重ねられているのはたとえば戦後日本が失った(そしてすみやかに忘れた)満州、朝鮮、台湾など、名前と歴史を損ねられた国たちなのだろうと思う。第二連には姿の見えない父母がえがかれ、書き手は家族でどこかに向かっていること、そして行き先と帰る先もわからないことが示唆される。それは仮象の雪原を螺旋をえがいてのぼる魂たちがつくる列車の姿を想像させる。

雪降るホームの待合室。頬を濡らした幼児が蜜柑をつまみ口に入れる。小さな、とても小さな笑い顔。お婆さんは、しわになった広告を伸ばして、ほら、これを買ってあげようと玩具の象を指差している。戸口の近くに立つ男は、硝子に映した髭を触って独り言「何処まで行ったことか」と。向こうのホームに、青い駅員の影が二つ、カンテラを差し出して消えた線路の淵を確かめている。春の観光ポスターの下に、茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした婦人と、白い手袋の女の子。開いた掌に約束はもう何もない。

「待つひとたち」第一連

一行、他とことなる文がある。「茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした夫人——」そこで深く息を整えているのはだれ・・なのかという疑問が湧く。そしてそのあとに「右手」とある。編み物は両手でしか行うことができないから、その右手は婦人のものではない。すると自然にそこには息をなんらかの理由で深く整えなければならなかっただれかがおり、その右手に婦人がいる、と読める。

それは忘れられた記憶の待合室にふと立ち寄った書き手の姿なのかもしれない。その書き手は春がけして来ないこと、自分が遅れて(かつそれを死者たちに隠すために息を深く整えて)そこに到着してしまったこと、そしてかれらがそこでえいえんに待ち続けることになることを知っている。その場所に到達したかったが到達しえなかったこと、その透明な喪失感をわたしたちは共有する。書き手のことを個人的に知らなくとも、詩はその欠損のかたちを教えてくれる。

詩はわたしたちが忘れたかったが、けして忘れられなかった欠損としての愛、その記憶の空虚を、時も場所も越えてどこかでつないでしまう。わたしが本詩集でもっとも好きな詩である。

何時までも待っている人たち、
春を待つひとたち、
永遠と名付けられた人たち

「待つひとたち」最終連

(2018年8月27日)

花潜幸『初めの頃であれば』書籍情報
初めの頃であれば
出版 土曜美術社出版販売
発行 2015
著者 花潜幸(はなむぐり ゆき)
価格 2000円+税

大山元『記憶の埋葬』

それほど深くない深度・・・・・・・・・・の波打ち際、そこにわたしたちは立っている。かつてだれかにとって大切だったことばたちはただの石ころとなって、あるいはくだかれた瓦礫となって、波に洗われうちよせる。その忘れられたしずかな光景の上に風が吹く。

あさの光りをすくいあげて
のみこむ時のしずくは
露のしたたりより とおい
目をした風のうずまき

あかるくまぶたとじて
身をよじる木の葉にふれる
むきだしの声にほほえみ
指はくちびるをたしかめる

根源へ

酷暑の週末を超えて、わたしたちはふたたび暑い月曜日をむかえ、九冊目の詩集と向き合っている。

本日の詩集、『記憶の埋葬』は大山元の第一詩集、年齢は七十代、百十二頁に二十三編を収める。著者より頂いたこの詩集について書こうと思っているうちに時間が過ぎた。ただ、わたしが最近ひとの詩集を毎日読み返していくうちに気がついたことは、詩集と(あるいは特別なテキストと)めぐりあうためには、なによりもその時間が必要なのだということだった。それはひととひととの関係が一朝一夕ではできないのと同じで、読むということもまた、不定形の石ころを波打ち際に積み上げてゆくような、不確かでもろい関係性をつくる作業に相似する。別の言い方でいえば、対象を再読リ・リードすることによってのみ、そこに新たな見たこともない自分を発見する《ことがある》

《千日詩路》は、ひらかれたウェブの読者にむけて、詩の紹介を行うサイトである。よってわたしは、詩を特権的に取り扱う磁場から可能な限り離れる加速度をたもちつつ詩集や詩の雑誌を買ったことがない読者にむけてかたらねばならない。だがそれは必ずしも平易な文体を用いることを意味するものではない。

 

おびただしく生きてきて何を見たのか
目で見ただけでは何も見たことにはならない
本当に見るとはことばで強く信ずること
その時はじめて現実はほほえむ

愛憎にあふれたくちびるは裂けはしない
幾たびもかさねてまいちる落下の雪に
ふみ迷う一瞬のふるえが喉元をただよい
にがい声を突き放してほうむる

夜から朝へ墓石のおもさは容赦をしない
ちかづく悲しみをせおったどの死者も
息絶えるうつくしさにきらめくあしたに
待ち受けて見えない斜面を見てきた

寡黙な時間」第一、二、三連

では、そうした読者にとって、「目で見ただけでは何も見たことにならない」とはどのように解釈されるだろうか。個人的な話を持ち出せば、わたしは昨年娘がうまれて、結果として毎日のようにベビーカーやキャリアを使うようになった。その時はじめて、町には子供を連れた親がたくさんいることに気がついた。つまり、目はあったが、認識していなかった。

ろくに歩けない、水も食事も自分では取れない、虫に刺されては泣き、体温調整ができずすぐに熱中症になりうる脆弱な生き物を伴って町中を歩くということ、そのために必要な補給品などをすべて準備した上で外出するのが「子供を連れた親」だが、わたしはかれらの大変さをまったくわかっていなかったので、かれらはかつてのわたしにとっては透明な存在だった。

そうしたことを思い出すとき、「本当に見る」ということばのむずかしさが胸に染みる。だがそのすぐ次に、「ことばで強く信ずる」とある。どういうことか自問してみる。なぜならおそらく強い意思といったものではほんとうに見ることは叶わず(子供をえる前のわたしがそうであったように)、そして著者はそのことを知っているように感じられ、とするとここでいわれている強く信ずれば現実がほほえむということはあからさまな嘘または脚色ではないのかという考えをピン留めし、読み進めてみる。

死のはじらいはガラスの若葉でおおえない
よこたわる棺をかかえてひとり生き残り
憎愛にみちた不協和音が視座をいろどる
目にうかぶことすらないことばで物語る

隠しきれない沈黙のまくあいをまつ
歳月の運命をあやつる二重螺旋に囚われ
帰るところもない風の幻視にからまれ
羞恥が浮く夕映えの空に飛んでゆく

(同上)

くりかえし見えることのないものが強調される。一般的には物理的に触れるものだけで構成されていると考えられている世界は、じつは見ることも触れることもできないことばによってその多くが構成されている。そのことを想像力によって捉えようとしていると感じる反面、ここで隠匿されているのはなんらかのプライベートな、私的な出来事であり、それを自ら解釈しなおし、再読しようとする試みに詩という名前が割り当てられているようにも感じられ、並々ならぬ切迫感がある。

終盤の三連を読む。

こわだかに警告するときの後ろめたさに
ぬくもる無知を一枚の告知として晒し
頭のてっぺんから串刺しにしたことばを
腐るまで抱えて 生きつづけるのか

怒りもなく怯えもなくかすむ立ちすがたに
くらい経験のしずくをすくい取り
だまりこくって笑うだけしか能のない顔で
最後の眠りにまだ 夜が足りないのか

饒舌な無言にふるえる残酷な慈愛は過去に
優雅な憎悪は未来に たえられない
なごりおしい寡黙な首をカミソリで
いま剔れるか!

(同上)

第一連で書き手がついた嘘を、カミソリでえぐり取ろうとする描写。矛盾するものたちがあつまりながら遠ざかろうとする静謐かつ劇的なフィナーレ(饒舌/無言、残酷/慈愛/、過去/未来)。それは沈黙をもとめるがやはり沈黙はえられないということでもあり、ことばを信じることはむずかしく、よって現実はほほえむことなどないということでもあり、あるいは詩を否定してもやはり詩にたどり着くほかないという切実な告白のようにも思える。そうした痛みや歪みを真正面から引き受ける、そこに書くことのさらに手前、いちばんはじめの出来事があったのではないかと推測する。

 

まぶしい夏にこそ死者たちは蘇る
誰にもそれを言ってはいけない
一瞬に凍りつく熱が
くちびるの表面を犯しはじめると
地平線のしたでねむっていた死者
たちは身をよじりながら
苛烈な光りにかおをさらけだす
死斑にただれた肌をたるませながら
瞳孔をひらいてこの世をジッとみつめる
目の前でひろげられる祝福をみているのだ

夏の光り」冒頭

ふたたび相反するものが並列されている。わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
土の中にうめられたものがあばかれる夏のはげしい光が、詩をとおしてあたりに立ちこめる。詩集の全編を通じて色濃く漂う暴力の気配に伴われ、埋葬したはずのものがふたたびよみがえる。「この世に片づくなんてものは殆どありゃしない」とうそぶいた漱石をひくまでもなく、わたしたちは自らのこころに問えば、真になにかを葬ることがいかにむずかしいことか知ることができる。そこには忘れたいが忘れられない記憶の破片がころがり、愛と憎しみがわかつことができないほど混ざり合い、こじれた関係の結び目がほどかれることのないまま放置されている。

かたってはならないことを口にした瞬間、唇は凍りつき、死者たちはよみがえる。だがそれをとめることはだれにもできない。なぜなら、禁じることそのものがそれをあばきたいという欲望を生むからだ。さまざまなものを照らす真昼の光にあばかれたまま、死者たちに囲まれ、かれらとともに現在進行形の死を生きるほかない。

そしてふたたびわたしたちに夏がおとずれる。
知る、記憶する、葬る――そのいずれもがはてしなく困難だという詩とともに、ことばの波打ち際をしずかにあるこう。

 

そのひとは誰も知らない
目の前を通り過ぎただけだから
そのひとを待つだけなのだろうか
知らない過去をもたらして
いったいどこからどこへ

誰でもゆくところは遠く
ひたすら何をおそれるのだろうか
誰もわからずにあるがままに
はげしくせまりくる予感にむかい
生きすぎることが怖いのだ

そのひとは」第一、二連

(2018年8月13日)

大山元『記憶の埋葬』

書籍情報
記憶の埋葬
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 大山元(おおやま げん)
価格 2000円+税

長谷川忍『女坂まで』

そういえば
一度とて
肌に触れたことがなかったと気づいた。
不思議だった。
もう長い間親しくさせてもらっているのに
握手ひとつ
交わしたことがないのだ。

今日、あなたから
葉書が届いた。
古い詩集だった。

詩集

本日もやや個人的な話から書き始める。わたしは山の手沿線をそのまま熱帯の海に浮かべたような狭苦しい大都市で育ったが、今年の八月に入ってからの関東の暑さはまるで熱帯か、それ以上に感じられる(なお《千日詩路》編集部は房総半島の隅に位置)。

こうした気候だと幼年時代を思い出すが、熱帯にいた時のことでよくおぼえているのは、そこに昔から住んでいたひとびと、つまりマレー人たちの褐色の肌のうつくしさだ。魅了されていたといってもいい。つややかで、肌理がこまかく、強い雨を水玉のようにはじき、暑さにも強い、そういう肌だ。それは熱帯という過酷きわまりない気候に順応するための肌であり、赤土と森と海と危険な動物相で構成される自然を生き抜くための肉体だったのだろう。

本日の詩集、『女坂まで』は長谷川忍の第三詩集。著者は一九六〇年神奈川県川崎市生まれ、京浜地区の下町で育ったという。「女坂」とは、神社や寺の参道などで、相対する二つの坂のうち、傾斜のゆるやかな方を意味する(傾斜の強い方は「男坂」)。

詩集は九四頁、二十三編を収める。全編を通じて特徴的なのは、読む者の過去の五感の記憶をつよく喚起する文体だが、それがなんによってもたらされているのか、具体的にこれと取り出すことはむずかしい。上の「詩集」という詩を読んで、わたしはマレー人のクラスメイトの背中からうなじ部分にかけての肌のことを思い出したが、それはもう二十年以上前の記憶であり、さらにいえばそのことをいままで完全に忘れていた。いや、喚起されたことによって記憶が創出されたのかもしれない。詩にはそういう力がある。

 

清楚な路上に
蹲っているものがあった。

鳩だった。

蹲っているのではない
死んでいたのだ。

亡骸に触れてみた
それから
慌しく傍らを通り過ぎる
通勤者たちの口元を見つめた。

亡骸を目立たない場所に移し
再び朝の顔のひとつに戻る。

腹の底のほうから
突き上げてくるものを
かろうじて呑み込んだ
久しく忘れていた意志だ
どうしようもない意志
ぼろきれのようなもの。

今夜
ごつごつとした肌に触れた時
鳩の感触が
甦ってきたのだ。

全身を硬直させながら
私の底でじっと蹲っている
塊を引き寄せてみた。

同じように、子供の頃に河口でみた巨大な魚の死骸を思い出す。棒で押すと、水にうかぶそれは丸太のように、ゆっくりと沈んでいった。それは腐ってはいたが、どこかごつごつとしていた。わたしたちの生活にとって不要なもの、いらないもの、おそろしいもの、は、どこか角ばっていて、容易には消えてなくなってはくれない。そしてそうした死骸がわたしのこころのどこかに浮かんでいることを感じる。それは自分が殺したものかもしれないし、他人が殺したけれども自分に責があるものかもしれないし、あるいは自分が見殺しにしたなにかかもしれない。書くことはそれを自らの手元に引き寄せることであり、こころのうちに死を取り込むことでもあるということを思う。長谷川は忘れてはならない、と書いている。それがいかにぼろきれのようなものであろうとも。

 

赤い花がいい
内側からとめどなく零れてくる、抑えきれない、赤
花弁に触れたとたん
赤さだけが
触れた人の内蔵にまで入り込んでくるような。
マッチを擦っている老女にきな臭い懐かしさを憶えた
果実も、雨水も、昆虫も、男も、女も、子供も、空も、川も
体液を塗ったきな臭さがある。

営み

引用した部分の外に、その光景は写真のもので、インドネシアのバリで撮影したものを鑑賞している書き手の姿が示唆されている。だがわたしたちはかつて戦後もの凄い速度で成長したこの国の記憶をも持っている。それは公害で灰色になった大気の記憶であり、きれいに清掃される前の泥まみれの街路の雨のにおいであり、あるいは体液の汚れを隠さなかった子どもたちの記憶でもある。それはもう日本ではほとんど見なくなったものだが、バリ島に重ね合わされる風景は、著者の想像力の源泉がかつてあった路地にあることを示唆しているように感じられる。

「触れる」という詩も、触覚を通じてつよく喚起されるものがある。「汀に/盛りを過ぎてしまった/半夏生の花//ふるえながら/咲いている。//ひっそりとした
つぶつぶの白い花に触れると/忘れかけていた生々しさが/指先の奥から甦ってくる。」なにかを五感を通じて蘇らせることによって、詩がはじまっている。

 

宵の狭間に
カンパニュラが咲いている
濃い花弁を見つめた。
一年経ったのだ。
女坂を下りたところで
身体に溜まっていた
陰を
おもむろに突き放してみた。
昏れていく路地の隅
花の青さが
わずかに残っている。
夏にはまだ早い
春とも違う。
陰は
匂いに被さったまま
こちらをじっと窺っている。

「天神下」

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。詩集の題名の由来でもあるはずだ。
詩集の全体を通して、書き手たる個人の物語が断片的に語られるが、そこにはある一人の喪失が見え隠れする。「一年」はおそらくその喪失より数えた月日なのだろうということを想像するが、それについて第三者がなにかかたるべきではないだろう。

語り手はゆるい傾斜をくだり終えた後に陰を突き放す。そして突き放した陰にみつめられている。陰は花に偽装し、いつか書き手のところにふたたび戻ってくるだろう。女坂までたどり着いた後それを下るにせよ登るにせよ、その背中には陰がぴったりとついてくる。

愛しているのか、愛していないのか。求めているのか、求めていないのか。登るのか、それとも下るのか。その両義的な、曖昧な昼と夜の狭間に花がひっそりと咲いている。うしなわれたあのひとがいる、そしていない光景。その不可能な光景を、想像力によってかくとくする。こころが思わず動く驚きがある。

遅い冬日は
人々と
町をも潤ませる
そんな時
町もひとつの肉体なのだ

暮色

(2018年8月10日)

長谷川忍『女坂まで』書籍情報
女坂まで
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 長谷川忍(はせがわ しのぶ)
価格 2000円+税