岡本啓『グラフィティ』

――アメリカを、すがすがしく、わすれる。

◇ ◇ ◇

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大崎清夏『指差すことができない』

わからないことをわからずにいる。

◇ ◇ ◇

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橋本シオン『ep.』

意味のないことの意味・・・・・・・・・・について考える。手を動かす、手をつなぐ、手をきりおとす、あるいは落とされた手を拾い上げればそれは祈りのかたちとなる。だがこれらの所作にほんらい意味はなく、ただいずれかの点Aからいずれかの点Bをむすぶ複数の連続した動きがあるだけだ。

だがそこには意味をもとめてしまうこころの動きがある。だれしもが生に意味をもとめ、そしてそれはけしてえられない。いや、こう言いかえよう。だれしもが《書くこと》に意味をもとめ、そしてそれはえられない、と。

◇ ◇ ◇

橋本シオンは一九八九年生まれ、東京都在住。『詩と思想』にて二〇一六年度「現代詩の新鋭」選出、同誌新人賞入選。二〇一七年、詩集『これがわたしのふつうです』にて中原中也賞およびH氏賞候補。

◇ ◇ ◇

猛暑が去った。関東を嵐の前触れともいえるしずかな残暑の気配が覆っている。

本日取り上げる詩集『ep.』は電子書籍で、二〇一四年発行、アマゾン社のKindleプラットフォームを経由して一般に販売されている。やや短めの詩集で、詩五編を含み、巻末詩「イーピー」は三部構成。表紙には椅子に座った裸体の女性を横から見た構図のデッサンがあしらわれており、その横顔はぼかされている。

わたしは橋本のことは『詩と思想』誌上で最初に知った。その詩を引用してみよう。

ミキちゃんの小さな足で、夜の東京を歩くと、コンクリートしかなくて、何年経っても道は変わらないのにお店ばかりがかわっていって、わたしの家はどこだろうって、探してみるんだって。お母さんの料理を思い出して、ひとしきり泣いたりするんだって。うちゅうの中の、ちっぽけなわたし、の、ちいさな生活が、屋根に降り積もって灰の様に飛ばされちゃって、わたしいま、どこにいるんだろう、って。

そしたら夜は、死にたくなるじゃん。だって夜だもの。社会にあぶれたなにもない家に。だれもいないこの家に。でも、わたしはいるじゃない。だから、ミキちゃんを呼んでみるじゃない。それでも、いるんだ、わたしが。胃液を吐き出したミキちゃんの横で、ツイッターして、布団にもぐるわたしが、いたんだ、わたしが。

「ミキちゃん」 第三、四連
『詩と思想』二〇一六年四月号

くりかえされる「わたし」が分裂し、並列され、かさなりそして離れる様子は、ソーシャルメディアにあらわれるたくさんの「わたし」の物語そのものだ。そうした現代をえがくために選び取られた文体をみる驚きがまずある。都市においては店がどんどん変わるように、母国語においては標識である語彙もまたころころと変化してゆく。その空間の中で自分自身もしばしば行方不明であり、わかたれた自分(わたし、ミキ、わたし)を通じて、ばらばらになった《このわたし》の物語も無限に励起されてゆく。

どうしようもない夜に眠る芋虫は夢を見る。ぎざぎざの柔らかな歯に煙草を挟んで、だらしなく寝ていた海岸線を思い出す。白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉と涙を腹の中に抱えて、眠る芋虫は髪の毛をだらしなく伸ばして夢を見る。

星空は半円の深い闇の中で瞬いていた。ひっそり小さな身体を滑り込ませぱちぱちと。芋虫の横にいる人のツラをした芋虫も、またきっと夢を見ていた。飛び込んだ大都市の近未来を嗅がされて、皆一様に芋虫になっていく。

「いもむし」 第一、二連

だれしもが見覚えのある「どうしようもない夜」はつづく。選択肢のうばわれた(かのように見える)生活において、わたしたちはことばだけを抱え、いつか変態を遂げる可能性を夢見ながら眠るだけの一匹の虫になっている。ここでいう芋虫はどちらかというと樹木上のものではなく土の中にいる甲虫類のそれを想像させるが、手(足)が複数ついていながら、移動がゆるされない生き物がえがかれているということに留意し、読み進める。

エビって気持ちが悪いよね、あの形状なんともいえないよね。だってよくみてよこの沢山ついた足と尻尾。食べたらとても美味しいけどこんな形でよく生きているよ、と、蛇口に向かって話しかける。シンクをうちつける音で彼は相づち代わりをする。

お喋りを続ける最中、春と言う言葉で誤魔化した侵入者を発見した。寄ってたかって蟻の行列みたいに、あれは子鬼の群れか、それとも小さな母親か。冷蔵庫の裏、靴底の隙間、シャワーヘッドの中まで。この家は幻想に包まれて同化していくんだ。

(…)

隙間の街からは遠く離れた、土曜日の午前中。空には雲が敷き詰められていて、四月だというのに風がとても冷たくて、小さな雨粒が子鬼の口を満たしていた。エビの殻をむきながらわたしは蛇口とお喋りをして、鎮痛剤を飲み、赤い斑点が宇宙を知りたくて爆発を開始した。そのうちエビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢を見て、気づけば夜になるのかもしれない。

「住む」 第二、三、七連

再びたくさんの手(足)のある生き物について、今度は口を通じて体内に取り込まれる準備がなされている。それは外殻を剥がれ、手(足)を切断され、内蔵を摘出された状態で調理され、咀嚼されるはずだった。しかしこの「白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉」を取り戻す工程は、やはり幻想で、最終連において「エビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢」としてえがかれ、そのことばの行方もまた宙吊りにされている。変化はゆるされない。

東京での生活もかれこれ二年になろうとしている。小さな田舎町を飛び出したのは夏になる前のことで、あの時私は二十三歳だった。東京はいつもぐるぐる回りまわって、ファンデーションまみれの精子と卵子の巣窟だと思っていた。中心に立つ馬鹿でかいタワーのしたに、私と私達の知りたいなにか大切なものが埋まっていて、探り当てに行かなければならないと思っていた。

アスファルトが毛細血管みたいに伸びて、ところどころにある小さな公園は私の爪みたいだった。その中で家さえ借りれば白血球とか赤血球とか、なにかひとつの細胞気取りで、ぐるぐる回りまわる東京の近未来に乗れると信じていた

「イーピー」 一部、第一、二連

私小説を思わせる三部構成の表題詩。「馬鹿でかいタワー」のファルスがあらゆる場所と場面で誇示される都市をみながら、その真下にはそれと真逆の傷つきやすい内蔵(白子)が隠され埋められている風景が発見されている。だがそれは掘り返されることなく、書き手は塔のまわりを、近づこうとする加速度をもって円をえがいて落下することしかできない。掘り返すためには手(足)がなければならないが、その爪も細胞もばらばらになり、ことばは毛細血管ネットワークを通してすでに拡散してしまっている。

灰色に均した近未来のにおいを嗅がされて、私達の脳みそはつるつるに磨かれていく。緑に耕されていた頭の中が、今では海のにおいも風景も忘れて、ちかちか輝くタワーの光で目の中まで一辺倒だ。狭い土地の半円でおしくらまんじゅうみたいに人々が飛び込んでは何も無いと気づいていく。均す必要も無いアスファルトを綺麗にしようと必死になる。そういう人々の群れでただ愉快な街になる。

若い私達に気づく目はあるはずなのに、精子と卵子の工作でピンク色のホテルにばかり興味が移って、月と同じ高さのビル、夜を曖昧にするコンビニの灯り、なんの疑問も抱かない。平成という称号、八十九年という時代の事実、ただの数字の羅列だとのたまってはいけないのに。でなければ私は君と出会わなかった。手を繋ぐこともなかった。

「イーピー」二部、第一、二連

「つるつるに磨かれた脳みそ」や「夜を曖昧にするコンビニの灯り」によって均された灰色の風景、それをわたしたちはあまりにもよく知っている。しかしもそれはすでに都市だけの話ではない。地方のあらゆる場所に偏在する巨大商業施設、コンビニエンスストア、飲食店フランチャイズ店舗の提供するサービスと物品のおそるべき画一性を想起するだけで足りる。個人は溶解し、手(足)を失い、ばらばらになった関係性をかかえ、ゆく場所もかえる場所もなくした《このわたし》の物語にみちあふれる二〇一八年の風景がそこにある。

不意に登場する(昭和)「八十九年」が、詩と《いま・ここ》にある現実をつなぐ。
別の言い方でいえば想像力によってしか到達できない、ありえないいつわりの場所へと詩をつなぐ。その存在しえない場所でのみ詩は手(足)を取り戻し、だれかとめぐりあうこと、そして奪われた手をつなぐことがゆるされる。

二年が経つこの木造アパートで、話すのはもっぱらタワーの下に隠された知りたいなにか大切なものの話で、昔はもっと夢に溢れていたような気がするが、もはや私達は知っている。知っているけどそれでも話してしまうのは、あの囁き声が聞こえるからだ。隠されているものなんてとっくに畳の裏で骨になっている。君が居なきゃ何も出来ない鏡張りのトーキョーイーピー。隠された種達の悲痛な叫び。探り当てに行く必要ももはやないタワーのしたで、骨になったあいつを隠す必要もない。

「イーピー」三部、第三連

遠くから見ていた時は輝いてみえたものたちは、手元においた瞬間にその魅力をうしなう。よってわたしたちは不可能にとどまらねばならない。現実の灰色の東京ではなく芋虫たちの夢の中にしかないトーキョーをめざさねばならない。

なにもかもが鏡張りとなった外部化された内面の牢獄の内に閉じ込められたまま、現実にはけして存在しえない場所へどう向かえばいいのか? そのためには、やはり《わたし》だけが見出しうる隘路をゆくしかないのだ――橋本の詩は、そういうことをわたしに考えさせる。

(2018年8月20日)

橋本シオン『ep.』書籍情報(電子書籍)
ep.
出版 キリンスタジオ
発売 Amazon Services International, Inc.
発行 2014年
著者 橋本しおん(※原文ママ)
価格 100円

宮尾節子『明日戦争がはじまる』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

今年も、わたしたちはふたたびあの敗戦の日をむかえる。

波が寄せている

白い波が寄せている
何も知らずに寄せている

いつものように
寄せている

着のみ着のまま
白いままで――
寄せている

「波が」 冒頭

――あのひとのことが好きだった、と嘘をいっている。いや、嘘ではない。嘘ではないはずだが、いつの間にか嘘になっている。男女の関係においてしばしば事後的に見出される「好き」という気持ちは、別れを経なければ生じない。「あなたとはもうやっていけない」と女にいわれたとき、はじめて「好き」という気持ちが男のうちに発見され、創出される。

ひとは思っていることとやっていることを同じものにすることはできない。
ひとは書いていることとやっていることを同じものにすることはできない。

◇ ◇ ◇

本日、わたしたちが向き合う詩集はアンソロジーで、これまで取り上げてきた詩集とは少し異なり、ソーシャルメディアで爆発的に拡散された詩作「明日戦争がはじまる」を中心に、著者・宮尾節子の詩を編んだものである。巻末注に「「明日戦争がはじまる」は、著作者の氏名を表示し、改変を行わない限りにおいて、自由に転載・翻訳・朗読・公衆送信することができます」という珍しい但し書きからも、その成立のユニークさがうかがい知れる。宮尾節子は高知県出身、多数の詩集の著作を持ち、朗読をはじめ幅広い活動ですでによく知られる詩人だ。

◇ ◇ ◇

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

明日戦争がはじまる」 前半

複数のソーシャルメディアによって構成される総体としてのインターネット。そこはひとを傷つけることばで満ちあふれている。いや、こういいかえたほうがよいかもしれない。ひとを傷つける無理解であふれている、と。だれしもが理解を毎日もとめてさまよっているが、だれもその理解をえられない。だれしもが理解をえられると誤解しているが、えられるのは理解のかたちをした誤解だけである。だれもが理解を「いいね!」の数に比例してえられると考えているいるが、実際にえられるものはむなしい。これを別の言い方でいえば、だれしもがベストセラー作家はよく・・読まれていると誤解している。それではよく読むとはなにか。そもそも理解とはなにか?

わたしは

かかなかった
戦争詩を。

わたしは

しなかった
苛めを。

(…)

わたしは

とめなかった。

とめなかった

詩の連の改行にあらわれる空隙を、つい埋めたくなってしまう一読者としてのわたしはよごれている。なぜならその空隙を見つめると、さまざまな私的な記憶が喚起されてしまうからだ。それらは子供に「このばか」と叫ぶ父の紅潮した頬であり、家人に「そんなこともできないのか」と叱責する声であり、障害者が駅で困っているところを見てみぬふりをして通り過ぎるクリーニング済みのスーツの香りなどだ。

ひとは「しなかったこと」と「してしまったこと」との間の絶望的な乖離の中に生きている。ひとは「してしまったこと」を、なぜしてしまったのかと考える永続的な問いの中に生きている。答をえることはできないし、答はけして見つからない。そこにあるのは「とめなかった」自分であり、そしてそれは事後的にしか見出されない。

みんな
てのひらになにかのってた
ひびのはんどる
あかんぼう
はくぼく
つちのふくろ
くすりばこ
じゅんばんひょう
(…)
みんな
てのひらになにか
のせてた
みんなでない
からっぽの
てのひらがなにか
いのった
みんなのために

てのひら

だが、祈りはとどくだろうか。いかなる大切なものも事後的にしか見出されないのであれば、ひとはいま手のひらに乗っているものをあたりまえの、つまらないものとしか思わないのではないか。その遅れ、不可避の遅れについて宮尾が知らないはずもなく、この詩作品では一見成立したかのように見える祈りもまた「のってた」から「からっぽ」への推移によってうしなわれることが示唆される。

たとえインターネットでわたしたちはいつでもだれとでもつながっているが、そこには実のところつながりがだれからも剥奪された空虚しか存在していない。そういうことを思い起こさせる。

言ってくれたらと
思うことが、何度もあった

言ってくれたら、そうしたのに
言ってくれたら、そばにいたのに
言ってくれたら、それを買ったのに
言ってくれたら、そこに行ったのに
言ってくれたら、それが分かったのに

惜別」 冒頭

ことばはつねに遅れて届く。わたしたちの理解もまたかならず遅れて届く。この世に、遅延せずにとどくものはなく、わたしたちの祈りはつねに遅れ、今日もソーシャルメディアが傷を無限に再生産し、インターネットに拡散しつづける。《あのひと》がいなくなった場において、あのひとがかえってこない場において、わたしたちはあのひとへ届かないメッセージを送り続ける。

読むことは、その遅れについて知ること。そして書くとは、理解されることのないことばを、とりもどせぬ過去へと送ろうとすることだ。宮尾の詩は不可避の遅延について書く。その矛盾と真正面から向き合った時、ことばは壊れる。それが「戦争」だとわたしは理解している。

(2017年10月2日 初稿)
(2018年8月15日 改稿)

宮尾節子『明日戦争がはじまる : 宮尾節子アンソロジー』書籍情報
宮尾節子アンソロジー:明日戦争がはじまる
出版 集英社
発行 2014年
著者 宮尾節子(みやお せつこ)
価格 1000円+税

草野理恵子『パリンプセスト』

筆を人差し指と親指でつまむように持ち
描いていた
彼はいない
「彼はもういない」
私の声帯は寂しい音色を奏で
それが終わるとできるだけ曖昧に濁した

膝の上に重ねた両手をじっと見ていた
そしていつの間にか失ってしまった味の葉を食んだ
彼は植物の絵を描いていた
きっと人にはわからない混乱が彼を襲ったのだろう
森の中に膨大な薔薇の絵を積み上げ火を放った
時が緋のように満ちていた

パリンプセスト

この世界の結び目はどこにあるのか。その結び目が解かれるとき、何が起こるのか。わたしたちがけして得ることのできない《答》はどこにあるのか。わたしたちはどのようにわたしたちみずからを見いだすことができるのか。草野の詩作品はさまざまな問いを重ねたかたちで包含し、きわめて奇怪な一冊の書物を構成している。

森の中から彼を発見することはできなかった
霧が深い
私は手探りで靴の結び目をほどき
間違ったかのように結びなおした

(同上)

詩集『パリンプセスト』、その耳慣れない題名 “Palimpsest” は「もとの字句を消した上に字句を記した羊皮紙」を意味する単語であり、ふたたび(palin)+ けずられたもの(psestos)を語源とする。かつて書き記すものが貴重品であった時代、手間ひまをかけ生皮から作られた羊皮紙は、一度文字が書かれ書籍になった後も、再利用されることがあった。その場合、素材の表面から文字を物理的に削り落とすか、または薬液によってインクの除去が行われたという。「消された文字」の痕跡が残った羊皮紙、それがパリンプセストである。

抽斗に入れてある
あの時の小石
残酷に瞳の奥に
舟は緑の輪郭だけになった
眼差しが揺らぎ
私を見つめなくなった

―胎児
言うべきではない
川へ…など
真冬から真夏への息を引き抜き
羽音の氾濫を聞く
澱をさぐってゆく指の動きを
黙って見ていた

黒い舟

かたるべきではない禁忌を胎児がかたっている。わたしたちはわたしたちの口をして自由にかたらせることなどできない。言い方をかえれば、自由にかたることはできない。それは外在的な社会的要因(社会的地位、経済力の有無、「空気」)のためではなく、わたしたちが内面化された鎖にがんじがらめに拘束されており、かつそのことに無自覚だからである。禁忌をかたる口は不可能なもの、たとえば、生まれなかったものたちにたよらねばならない。そこには《ほんらいかたられるべきだったが、けしてかたられなかった》ことばたち、人生の表層から削り落とされ忘れられてしまったことばたちが含まれるだろう。

手紙を書かなければならない
鳥たちが天空から見ている
手紙は書き終えることが出来ない
ペンを置いたその時に
顔を鳥に覆われた猿は
私のところに降りてくるだろう
そして私の青い頭巾をもぎ取る
私は私の顔を見ることになる それが怖い

次は鳥が私の顔を覆ってくれるかもしれない
だが天空の鳥に手を振ってはならない
それは鳥ではない 幻だ
ひとつひとつの鳥の
ひとつひとつの燠火の

焼かれる街

手紙は、いや《ほんとうのこと》を書いたことばは秘匿せねばならない。それがかたられた時、街は焼かれ、ひとは自分の隠された顔をみてしまう。「青い頭巾」に隠された顔をみてしまう。それはいかなる顔か。

上田秋成の『雨月物語』の一編、「青頭巾」では、愛する稚児を喪った悲しみから鬼道に堕ちた僧に、高僧たる快庵禅師は次のように説く。「江月照らし松風吹く、永夜清宵何の所為ぞ——この句の真意が分かる時、おまえは本来の仏心を取り戻せるだろう」と。そして藍色の頭巾を鬼となった僧に預け、その場を立ち去る。鬼となった僧はその教えを忠実に守り、青頭巾をかぶったまま屍となる。かれはその真意を理解したのか? それは物語の上では語られない。ふたたび戻ってきた高僧は、その二句をいつまでもつぶやき続ける亡者を杖で打ち据え、成仏させるだけだ。

意味などない。風は吹く。夜はつづく。稚児も死ぬ。そこに意味はない。あるいは、この世界に《わたし》がいること、そこに苦しみがあること、そこに悲しみがあること、世界がその世界の姿をとったこと、そこにいっさい、なんの意味もない。だから鳥は幻のまま空でもえている。草野の詩はその隠された光景にかたちを与える。

大木が世界を分断していた

君は赤ん坊を生き返らせようとしていたのかい?
僕は向こうを向いた
下半身を露出したまま木の洞を見ていた
樹皮はめくれ君の顔を思い出した

赤ん坊は水を欲しがっていたのか
それは君のただの思い込みではないのかと
言いたかったがやめた
もうすでに赤ん坊は死んでいる
水をあげてもあげなくても同じだ
僕と君の間の大木はどんどん大きくなる
そして君も赤ん坊もどんどん遠くなる
僕がままごとのような君の家に辿り着くには
きっと無限と言える時間が必要になる

大木

羊皮紙の手触りは、わたしたちを愛してくれた祖父母の手を思い出させる。その手は荒れていて、がさがさしていて、ところどころひび割れている。それは剝がれかけた樹皮にも似ている。わたしたちのこころに書き込まれたことばは、日々削り落とされ、そこに新しいことばが上書きされる。痕跡は残っているはずだが、すぐに忘れられる。それは成長するために、古い肉体を殺さねばならないからだ。赤ん坊は生まれ、老人は死ぬ。場合によっては赤ん坊も死に、老人が生きる。

二〇一八年、わたしたちの生きる列島はさまざな自然災害に襲われ、年齢や性別を問わず、たくさんの人命が奪われている。わたしたちの世界は《こうであってほしかったが、そうはならなかった》代替的オルタネイトな可能性で満ち、そのふたつの絶望的な隔たりのはざまに宙吊りにされている。ことばもまた損ねられ、わたしたちは自分たちの人生から遠ざけられ、大切な物事を日々うしなっている。

水を欲しがっていた赤ん坊に、《いま》水をあげることができるのか。

問いはそこに収斂される。あるいは、かつて削り落とされた命に、ことばに、《いま》意味を見いだすことができるのか、問いはそこに重ねられる。重ね合わされたぎりぎりの問いを、わたしたちは、草野の詩とともに生きるほかない。

(2018年8月1日)

草野理恵子『パリンプセスト』

書籍情報
パリンプセスト
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2014年
著者 草野理恵子
価格 2000円+税