川上未映子『水瓶』

――戦争、傷、そしてえいえんに見つからない喉の石。
――(そのようなものは存在しません)。

◇ ◇ ◇

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【番外編】葉山美玖『籠の鳥』

ひらかれるてのひらに、イエがもえてくずれてゆくよ。

◇ ◇ ◇

本日は金曜日。三連休前の最終日。冬の気配が日々近づいている。

さて、本日は以前書評でも取り上げた葉山美玖(#0010)の小説『籠の鳥』を番外編として取り上げる(一週間に一度程度、詩以外のものを取り上げてみたい)。本書は二〇一二年刊行なので、最近の彼女の詩作の勢いを思い出す時、少し古いものだという印象がある。本書は著者より頂いたもので、一七六頁。文字数から想像するに、おそらく原稿用紙にして三百枚をゆうに超える長編だと思われる。

さて本書は、詩ではなく小説である。自伝的小説、と評したらよいだろうか。もちろん小説に書かれていることがほんとうである必要などなく、そのように読む必要もないが、書き手が自らの人生の諸要素を題材にして書くときののっぴきならない切迫感がある。詩と違い、小説には登場人物があり、プロットがあり、ストーリーがある。それぞれを見てみよう。

公式な書籍内容紹介は次のようなものである。

嵯峨亜美は、19歳の時の失恋と、その際の家族こころない対応が原因で心身を病み、精神科病院への入院を経て、十数年にわたる長い引きこもり生活を送ることになる。そんな亜美が、ヤクザを親に持つアルコール依存症のまさき、ケースワーカーの木崎、そして臨床心理士志望の瑛一との不器用な恋愛を通して、徐々に大人になってゆく様を、繊細な筆致で描く。

冒頭を引用してみよう。

亜美は目を覚ました。
少し汗の匂いのする、何日も取り替えられていないシーツ。ふかふかの枕。何年の前に買った紺と青のベッドカバー。薄い染みのついた白い木のベッド。
部屋は、年代物だがそれなりに値の張った家具できちんと埋められている。大きめのブラウンの書斎机、お揃いのガラス窓のついたこげ茶色の本棚、同じく茶色の大ぶりの木製のライトスタンド。
窓からは、隣の柿の木がよく見える。ここ十二年間繰り返し繰り返し見てきた朝の風景だ。
亜美は背を伸ばすと瞬きをした。……今日の母親の作り置きの食事はなんだろうか。昨日の夜は自分は風呂に入っただろうか。確か、入ったはずだ。それから着替えをしただろうか。
広い作り付けのクローゼットには高価な外出着がたくさん詰まっているが、着替えといっても、亜美は四色のフリースしか普段着は持っていない。それらは三年前、渋る父親がデスクトップのPCを買ってくれてから、ネットでこっそり買うことを覚えたものだ。ユニクロの水色とピンクとアイボリーと黒のフリース。
それを母親に洗濯してもらって、毎日別の色に着替えるのが亜美の唯一の「お洒落」だった。
少し毛羽立ったアイボリーのフリースを、頭から被り階下に降りると、母親の甘ったるいそれでいてどことなく毒を含んだ声がした。
「亜美ちゃん、今日はクリニックの日よ。お父さんがタクシーを呼ぶわ。お急ぎなさい」
(ああ、またお金がかかる。体も心も弱いこの子のためにお金がかかる。私の贅沢着がもっと欲しいのに。私の老後だってどうなるの。この子のために、この子のために、早く、さっさと電車にでも飛び込んでくれないかしら)
亜美は、黙って焦げたトーストと苺ジャムを、ティーバッグで入れた紅茶でのどに押し込んだ。

「籠の鳥」(P4 – P5)

物語はこの亜美と、その周辺の人間との関係を中心に進んでゆく。冒頭には、主人公亜美の引きこもりの生活の様子、引きこもりとなってからの十二年という時間、そしてその理由の一端と思われる両親との関係性のすべてが凝縮されている。

この物語のはじまりを一読し、さまざまなことがわたしの頭を去来する。おそらく読者も思うのではないか。「ああ、わたしはこの風景を知っている」と思うのではないか。

それは葉山の表現が類型的だからではない。わたしたちの社会にあるなんらかの構造・・・・・・・によって、わたしたちのそれぞれの家庭に、亜美の家に見られるような類型的な問題があることをわたしたちは日本語・・・を通してよく知っているからだ。

二〇一八年、ライトノベルやアニメーションなどの大衆作品のうち、数多くの主人公たちが元引きこもりの経歴を持っている。わたしがよく見る動画配信サービス Netflix でも、何本もそうした原作に基づくアニメーション作品が人気作として掲げられている。それらに共通しているのは、かれらが「この現実」では生きていけないという生きづらさをかかえていること、そしてそれを克服するために自殺とおもわれる契機を通じて、「別の現実」への転生を果たし、なんらかの救済を得ていく物語であるということである。

読み物としての大衆商業作品では転生は可能だ。だがわたしたち生活者に転生などゆるされないし、そのようなものはない。それは読み物と普通は呼ばれる虚構の中でだけ成立するものだ。そうしたものを読むこともまた愉しいものだということをわたしたちは知っている一方、一部の詩や小説は、そうした虚構によってはあらわすことができないものを書こうとする。嘘をもちいてしか書くことができないほんとうのことを書こうとする、といってもいいかもしれない。葉山の小説は、そのような作品であると読める。それはいわば、転生をせずに転生をもとめる物語なのだ。

『籠の鳥』のストーリーはシンプルなもので、イエという仮象の牢獄(それは日本社会のあちこちに見られる学校、会社、それぞれの閉鎖的な村社会の縮図であるという示唆がある)に閉じ込められた主人公が、そこから出ようと決意し、それに成功するまでのこころの動きを描いたものだ。

舞台としては主人公の自宅に加えて、心療内科の病室、「メンタルヘルス」の掲示板やチャットルーム、精神科デイケア、家庭に問題をかかえた者たちがあつまるカウンセリング、教会などがあり、主に三人の男性との関係を中心に物語は進んでゆく。より具体的にはインターネットを通して知り合ったアルコール依存症の男性まさき、デイケアの職員の木崎、それから時計屋に勤める青年北条らである。

最初のふたりとは、親しくなる前に、父親や母親が介入してきてその関係は破綻してしまう。まさきとの破綻のきっかけとなった下りを引用してみよう。

母親の部屋は散らかり放題だった。しかし、今日は構ってはいられない」
「あのね、お母さん」
「気持ち悪いわね。何?」
「あのね。……私、やくざの人を好きになったの」
「あら、そう。じゃ、その人の部屋にお味噌汁でも作りに行ってらっしゃいな」
亜美は、改めてこのエイリアンのような母親をまじまじと見つめた。この人は、何を言っているのだろう。何が言いたいのだろう。
「やくざだよ。危ないよ……」
「でも、あなた、その人のこと好きなんでしょう」
亜美は、この母親の首を締めたい衝動に駆られつつ叫んだ。
「そうよ。好きよ。好きよ。大好きよ……まさきさんは、私のこと分かってくれる。私、まさきさんが、好き」
「何を言っているの。おやめなさい」
「いや。いやあ」
「やめて頂戴」
母親はいつの間にか泣いている。……この人は妖怪だ、と亜美は思った。
亜美はどうしたらいいのか分からなくなる。この人といるといつもそうだ。

(P28 – P29)

非常に印象的なやり取り。主人公とまさきとの関係についてそれを辞めようとしているのは実のところ母親ではなく、どちらかというと「やくざ」という噂を信じている主人公のほうだということが見て取れる(まさきがやくざかもしれないというのはチャットルームの中での噂話であることが前頁にてかたられていて、その確認はされていない)。このあと、主人公とまさきとの関係は疎遠になってゆく。

ここで主人公がたたかっている相手というのは実のところ実在する母親ではなく内在化した母親なのだろう。だから「エイリアン」や「妖怪」ということばが自分を傷つけることばのようにみえる。泣いているのが母親であり、それをつめたく観察している主人公が「どうしたらいいのか分からない」と内省するくだりも印象深い。

物語が大きく進展するのは、中盤にてこうした過干渉の母親との暴力沙汰があり、母親が入院という体裁で、舞台から退場してからだ。実際のところはおそらく世間体を気にした父がふたりを同じ住居に住まわせることを辞めさせたのだろうと思われるが。

その後、主人公は自助グループの作業場で働きはじめ、収入をえる。それによってイエから離れる契機を得て、やがては三番目の男、北条との初めての恋愛関係を築いてゆく……というストーリーなのだが、母親が退場して、ようやく主人公が自立を決心し、それを実現してゆくながれがとても示唆的だった。

その物語の下には、引きこもりが変わる契機があるとすれば、どうしても「母親」と呼ばれるなにかをとりのぞくことが必要となる、という著者の理解が透けてみえる。その母親の存在は、「優しさ」や「甘え」や「自己愛と気づかれない保護欲」などと翻訳されるだろう。そのいずれもわたしたちにとってきわめて身近な猛毒である。

そうした著者の示した理解は、上述した大衆作品において元引きこもりの主人公たちが、みずからの牢獄的存在と決別するためには、「異世界」という死後の世界へと旅立たなければならなかったこと、そしてそこでしか救済されなかったことを想起させる。

◇ ◇ ◇

われわれの生活において「転生」なるものは不可能かもしれないが、みずからを閉じ込める牢獄なるものの正体をつきとめることは可能である。それは本邦では「イエ」と呼ばれるなにかであり、葉山はそれを「籠」と書いている。そこから出ることは不可能ではないにしろ容易なことではない。それはみずからの肉体(ことば)こそがその牢獄をつくっているという困難な認識をえることでしかなしえないからだ。

本作において主人公はそれをなしとげたが、その後の彼女がどうなったのか。それはだれにもわからない。そこに希望をみるか否かは、読者にゆだねられるだろう。

(2018年10月5日)

葉山美玖『籠の鳥』書籍情報
籠の鳥
発売 文芸社
発行 2012年
著者 葉山美玖(はやま みく)
価格 900円+税

為平澪『割れたトマト』

毎日だれか・・・と会っていながら、だれともめぐりあえない。
詩は問いかける。だれかとめぐりあうこと、それはなぜこれほどむずかしいのかと。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。関西の台風に続いて、今朝方は北海道で大きな地震があったとのこと。読者のみなさんの無事をこころより願っている。

今日の記事にて、わたしたちが向き合う詩集は為平澪の第一詩集『割れたトマト』(二〇一二年発行)。二〇一四年、第二十二回「詩と思想」新人賞受賞。他詩集に『盲目』(二〇一六年)があり、詩誌『ファントム』を主宰。彼女は一九七五年生まれで、わたしとは同世代にあたる。『割れたトマト』は百十二頁、詩二十八編を収める。

『割れたトマト』に入る前に、印象的だった最近の詩を紹介しよう。

一日の終わりに西日を拝める者と 西日と沈む者
上り坂を登り終えて病院に辿り着く者と そうでない者
病院の坂を自分の足で踏みしめて降りられる者と 足のない者
西日の射す山の境界線で鬩ぎあいの血が空に散らばり山並みを染めていく
そこから手を振る者と こちらから手を振る者
「いってきます」なのか、「さよなら」なのか

為平澪 「西日」  第一連
詩誌『モノクローム』 創刊号  2018年夏

対比されているふたつ、「西日を拝める者」と「西日と沈む者」。まったく異なるものであるはずなのだが、この相反するものがひとつの書き手に同時に内在しうること、その書き手の気付きにまず新鮮な驚きがある。だれかを見送っているはずが、いつのまにか自分が旅立っている。あるいは、だれかに殴られていたはずが、いつのまにか・・・・・・自分が殴っている。そういうしゅんかんの驚きがある。

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

母は心臓が悪い
母は老化がはやい
母は寝たきり

(…)

割れたトマトは
私の頭だったのか
母の心だったのか

先端から まっしぐらに
数々の ヒビが入り
ふたつとも
赤い涙を流していた

「割れたトマト」第一、二、四、五連

第一詩集、冒頭に置かれた表題詩「割れたトマト」からもすでにその二重性への気付きがうかがえる。二〇一八年のソーシャルメディアが扇動する善と悪、あるいは加害者と被害者、支配者と被支配者のあまりにも単純すぎるつくられた構図に倦んでいるわたしたちは、トマトを投げつけている者こそが投げつけられている者なのだという、その気付きにこころが震える。そしてその気付きによる傷、あるいはことばの欠損から詩が生まれ出づる、ということが理解される。

おいらの家は解体屋だから、難しいことはよくわからねえ。
今日も親方に呼ばれて仕事をする。
扉を叩いて壊す。
瓦礫をトラックに摘む。

そうしているうちに、近隣所の女の子が一人、おいらに向かって喋りかけた。
「おじさん。おじさんは、どれだけの思い出を壊してきたの? その家にはある家族が住んでいて、犬を飼っていたよ。おばさんは陽気で近所の人気者、おじさんは大工で家を建てる仕事をしてたよ。その夫婦には子供がいて、子供はお嫁さんになって、また子供を産んだよ。本当に幸せな家族だったけど、いろいろあって、この家を手放さなきゃいけなくなったの。この家のおじさんは出て行く前日、昔の思い出を語っていったよ。前の池でジャコ取りをしたこと、大工として腕が認められたこと、一人前になっておばさんをお嫁さんにもらって、この家を建てたこと、子供を産んで親になることの喜び、帰ってくる家の灯りのありがたさ。近所の人の温かさ、孫に帰る故郷のない事実の辛さ。自分の責任のなさ、それらをみんな言ったら、ただ黙って泣いていたよ。それがここの主人の最後の姿だった……」

「ハンマー」 第一、二連

詩集の表紙の話を少しすると、装画は著者自筆で、そこにはハンマーでなにか・・・を殴りつける手が描かれている。背景には力による亀裂が走るように見え、あるいは充溢した力がそこから空気としてあふれる様子がうかがえる。

詩「ハンマー」は、解体屋だという「おいら」の一人称によるかたりに、どこからともなく現れた少女が話しかける、という構造をとっている。だが詳しく読むと、たとえば少女が「子供がいて、子供がお嫁さんになって、また子供を産んだ」という家族の歴史を口にする違和感から推察されるのは、少女は時間を超越した第三者つまり著者なのだろうということだ。おいら=少女。わたしたちはふたたび、ハンマーをふるっているのは著者自身であり、またそれを咎めるのも著者であるという二重性、あるいは決定的な気付きをめぐっている。

わたしたちはけしてたんなる被害者であることはできない、詩はそうかたっている。そしてつけくわえるならば……ハンマーをふるうことは、快楽でもある。表紙に描かれたハンマーを握る力強い手はそう示唆している。著者がそれに無自覚であるはずがない。

寝食 風呂に入る時でさえ
あてがわれた
バーコードの名札は
左手首を縛め
私を白い箱の囚人にした

手首に巻かれた
コードナンバーが
数多の人の眼から
私の第一印象を
スライドさせながら
すり替えられる

左手首に
鋭角な視線を向ける
外来の面会人

昔 両親が
神主様に頼んで
名付けられた祈りは
商品化され
手首の名を棒読みで呼ぶ

「人に非ず」第一、二、三、四連

人ではないものとは何か、と為平は問う。それは番号で人間が識別される社会だろうか。それは人間がモノのように扱われる社会だろうか。あるいは人間が「生産性」と「非生産性」で分別される社会だろうか。

詩は《この自分》の小さな物語を越え、いまここにいる《わたし》に届く。別のいい方をすると、自分とは異なる人生を送ってきた無関係な他人の人生の結晶体を経由してばらばらにわかたれたことばの光が、読者の人生を照らし出す。

わたしたちは知っている。あるいは知ることを強いられている。わたしたちがその一部であるところの社会または世界は、とてつもなく残酷な場所であり、そしてそれは為平が書くように、わたしたち自らが残酷な矛盾した存在であるからだ。

「人」になるとは、それを知ること。その痛みを真正面から引き受けることである。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集でもっとも好きな詩を紹介しよう。

詩を書こうとしたけれど
文字は夜しか生まれないと
啼いていたのは
卵をひとつ産んでから
樹海に身投げした雌鶏

さあ、詩を書こうか
原稿用紙に まず
「夜」というタイトルで
唐揚げになた鶏の脂の臭いや
庭の井戸から落ちる水滴の音や
天の川から降ってくるようなロマンスを
書きたかったのだけれど

ケンタッキー屋は二十四時間営業だし
今やイオン浄水器はどこでもあるし
七百円で星空は人工的にぐるぐる廻っているし

詩はどこにも落ちてはいなかった
文字は言林に収まったまま声を発しない
リアリティーが眠らないまま
頭の中で暴走し飽和して
ノートが窒息しそうになる

けれど
ポツ ポツ と窓明かり
けれど
投げ込まれる丸まった朝刊

気がつけば
卵の殻は破られて
一夜で育ったひよこが初めてあげた鳴き声に
言林から「朝」という文字が姿を現し
「おはよう」と空が照れくさそうに頬を染め
詩が 原稿用紙からはみ出して
夜を超えていた

「朝」 全文

いつのまにか「夜を越えていた」祝福のしゅんかんのうつくしさ。こんな朝をむかえるためにだけ人生はあるのかもしれないと思える。なにひとつほんとうにえることができないのかもしれないわたしたちの困難な人生に、夜を越えて詩がとどく——だれともめぐりあうことができないまま。

(2018年9月6日)

為平澪『割れたトマト』書籍情報
割れたトマト
出版 土曜美術社出版販売
発行 2012
著者 為平 澪(ためひら みお)
価格 1800円+税

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』

最後の日から半年経つけど
ぼくたちはまだここにいて
日々は穏やかに発狂し
時々は優しく腐敗して
鳩に餌をやっている小柄な老婆を
黒い大きなカラスがついばんでいるのを
日がな一日眺めている

希望の日々

昨日取り上げた奥主の詩集に引き続き、わたしたちはふたたび希望についての詩を読んでいる。だが勝嶋の書く希望もまた無限遠点にあるものであり、けして手元にあり自らを安心させてくれるようなものではなく、体温を感じさせるような灯火でもない。その光はしずかに冷えていて、ぎらぎらと夜を照らす真夜中の不可能な太陽といえる。「だけどもうすぐ来るだろう/きっと何かが来るだろう」という終わりの二行は、最後の日から何日経過してもけしてやってこない希望のかわりに訪れる不吉ななにかを予感させる。

『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』は、勝嶋啓太の第一詩集。著者は一九七〇年生まれ、わたしより五歳年上で、所属は潮流詩派の会(なじみのない読者のために補足すると、詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在する。潮流詩派の会は一九五五年設立「詩の社会性、批評性、現実性、記録性、風刺性を重視」することを掲げる会)。

この《千日詩路》の前身となったウェブサイト(「仮象の帝国」「千日詩行」)を読んでいた読者にむけて書くと、勝嶋は『今夜はいつもより星が多いみたいだ』を二〇一七年に発行した詩人である。著者によれば、本第一詩集に収められた五十六編は、おもにゼロ年代の十年にわたって書かれたもので、著者勝嶋の三十代とほぼ呼応している。端的にいえば、バブル崩壊後の日本の「失われた二十年」のただ中に書かれたものだ。

こうした時代背景を念頭に置かないじゅんすいな読みもあると思うが、《千日詩路》ではそのようなアプローチを採用しない。なぜならどのような詩集も時代という巨大な潮流の中におり、たとえ著者がどれほど自らの作品の自立性を声高に主張しようとも、時代性から自由であるものなど、存在しないと考えるからだ。

ふたたび詩集に戻ろう。

 

駅前にある掲示板に貼ってある
スズキタカシという
行方不明者のポスターの顔写真が
どうも自分に
似てきたような気がしてならない
三週間前に見た時はそれほど似ていなかった
三か月前に見た時はまったく似ていなかった
しかし
三日前に見たらかなり似てきていた

わたしたちの生活には様々な不気味なるものがあるが、普段はそれを意識しないように生きている。鏡をじっとみつめるとそこには他人がいる。たとえばゼロ年代に青春を過ごした者にとって、不気味さとは、同じ世代のたくさんの苦しみについて見てみぬふりをすることであり、日々起きている同世代による自殺、行方不明、そして暴力を振るう側つまり犯罪者として報じられるニュース、その彼らの年齢と自分とのあきらかな類似性を見なかったことにすることでもある。わたしたちの隣にはいつでもスズキタカシがいる。

似てゆくということは、知ってゆくということ。そしてそれは自らの顔を映す仮象の鏡を手に入れることである。それはいかなるものだろうか?

 

四丁目のカドで見た空が
まるでウソのようだった
まるでウソのように青く
まるでウソのような雲が
まるでウソのようにポッカリと浮いていて
まるでウソのような鳥が一羽
まるでウソのように飛んでいって
まるでウソのような太陽は
まるでウソのように耀いていた

ウソのような青空

だれもかれもがウソつきだ、とは若者の弁である。「大人」であるわたしたちはその若者をわらう。「大人」であるわたしたちは、彼らの幼さをわらう。自由民主党はウソをつき、立憲民主党もウソをつき、メディアはウソをつき、ソーシャルメディアでは作家ですらウソを書く。だがときにウソはとてもうつくしいことがあり、あまつさえ、ひとを救ってしまうことすらある。その背理にとどまることが生きるということであり、若者につたえるべきことは「大人」になるとはウソをつくことではなく、ウソとなるほかないわたしたちの姿を受けいれることだということである。かつて若者だったわたしもウソに救われたことがある、そういうことをこの詩は思い出させる。

 

おじいちゃんは
とても悲しそうな顔で ただ 黙々と
〈そいつ〉を釣っていた
でも〈そいつ〉ときたら
なまっ白くて ぐにゃぐにゃしてて
ぬるぬるしてて ぶよぶよしてて
目もないし 耳もないし 鼻もないし

手も 足も 尻尾もないし
ただ 口だけが ぽっかり あいていて
だけど おじいちゃんは 〈そいつ〉を
何十匹も 何百匹も 何千匹も
ただ 黙々と 釣っていた
悲しそうな顔で 釣っていた

釣りの日の思い出

だが嘘をつくこともできないこともある。死者について嘘を書くことは冒涜ではないか。死者がなにに苦しんだか、なにに悩んだか、なにを乗り越えようとしたのか、それらについて嘘を書くことは許されるのか、そうした問いがある。喪失について考えるとき、あるいは罪の意識について考えるとき、この国の衰退と同時にあらわれはじめたいわゆる特殊な保守たちの存在を想起せざるをえない。それはこの書評を書いているいまが終戦の八月十五日に近いせいでもあり、また勝嶋の詩になみなみならぬ切迫感と痛みが感じられるからでもある。「そいつ」とはなんなのか。なぜ「そいつ」は釣りあげられるのか。そしてもっとも重要なことは、なぜ悲しそうな顔だったのか、そして書き手がなぜそれを憶えていたのか。いや、憶えていなければならない、と思うこと。それがおそらく必要なのだということを思う。

 

少女は 僕の腕を必死に掴んで
鶴を折ってください
鶴を折ってください
と言って 泣くから
ごめん
本当に知らないんだ
と言って
僕は
少女を突き飛ばして
一目散に 走って 逃げた

鶴を折ってください

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である。
わたしは上の連で憶えていることがおそらく必要だ、と書いた。だが一人の個人としては、忘れるということ、罪の意識をも忘れるということ、自分の人生に起こった苦しい出来事を忘却するということ、それもまた大切な、人間の営為のひとつなのではないか、それは許されてもいいのではないか、ということも同時に思う。

上の詩では、書き手が鶴を折らないのは、ほんとうに鶴の折り方を知らないのか、それとも単に知らないふりをしているのかは明示されていない。だがおそらく後者であることが詩の連から考えられる。わたしたちの人生には、この詩のような少女の記憶がひとつかふたつはある。傷つけただけではなく、助けを求めてきたのに拒否したこともあるだろう。

冒頭の「三丁目の来々軒で/ひどくまずいワンタンメンを食べた帰り/四丁目の角で/鶴を折ってください/と声をかけられた/振り返ると/真っ白な服を着た/五歳ぐらいの少女が/真っ赤な紙を一枚/僕の方に/哀しいぐらい真っ直ぐに/指し出していたので」を読むと、真っ白な服、そして真っ赤な紙が示唆している存在、とくに日本人にとってなんなのかついて考えさせられる。忘れるということ、そして背負うということ、そのふたつの間のいずれを選ぶか、答は出ない。少なくとも勝嶋は忘れようとはしていないことに、どこか勇気づけられる。詩は、ただ記録する。

平成という時代は終わりかけている。
共同体は崩壊し、成長神話は霧散し、グローバリゼーションによって世界は果てしなく狭くなり、連帯をもたらすはずだったインターネットはわたしたちを引き裂き、男女は毎日匿名の陰口でいがみ合うようになり、それぞれの場で孤立化が進んでいる。携帯端末の普及によって、ありていにいえばそのインターフェイスの小ささによって、《この世界》と《このわたし》についての読みは断片化し、時系列を失いつつある。わたしたちはばらばらになっている。

そうした時代の中、《千日詩路》は、頬を上気させ大きな声で理念を世間に訴えるのではなく、ただただ粛々と、毎日の書評を通じて詩を――いや、こころを動かし、このばらばらになった世界を架橋せしめることができる、そうしたテキストを書き続ける、作家と詩人・・・・・を応援する。

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』書籍情報
カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です
出版社 潮流出版社
発行 2012年
著者 勝嶋啓太(かつしま けいた)
価格 2000円+税