アルビン・パン『かたちづくる名前たち』後編

八月十七日。関東にようやく残暑らしい涼しさがおとずれている。

さて本日は昨日に引き続き、シンガポールの詩人アルビン・パンの『かたちづくる名前たち』を取り上げる。邦訳が存在しない海外詩人を取り扱う場合、できるだけ《千日詩路》編集部にて訳出を行い、どちらかといえば評よりはこちらに焦点を当て、作品観賞の一助となるようこころがける方針をとりたいと考えている。

前編はこちら

◇ ◇ ◇

さて、前半では三つの人生に関する単語を男女関係になぞらえて表現した詩三つを取り上げた。後半では、二〇一八年に住まうわたしたちにとっては、すでに親戚のような存在ともいえる「不安」「絶望」「挫折」のそれぞれの詩を取り上げてみよう。

「不安」とは、かつて忙しくあちこち飛び回っていた頃に、よく出会った。そういうとき、彼女はいつも私を隣に座らせ、おしゃべりをしたいというのだが、実際に話してみると、いつも大したことを喋ってはくれなかった。いつだったか、彼女に突然真夜中に起こされたことがあった。でも結局私が聞くことができたのは、彼女の呼吸する音だけだった。彼女とはかなり長い間カフェでいっしょに時間を過ごしたが、それは私は彼女がカフェイン中毒であり、自分の声の響きを自分で聞きたいだけだということに気がついてからは、そうすることもなくなった。

「不安」はいつも他人に注目されたがっていた。彼女は皆に悪い知らせを持ってくるのが大好きだった。皆が集まる場では、彼女が他のだれかが気の利いたことを言おうとするちょうどその時、その邪魔をして黙らせるのだった。危機的状況にある時、その部屋でいちばん声が大きいのも彼女だった。彼女のことを無視することはむずかしく、一方彼女はひとの話をほとんど聞かなかった。私は彼女から距離を取るすべを学び、ようやく自分の声の響きを知ることができたのだった。

不安Anxiety」 第一、二連

わたしたちがソーシャルメディアでよく見かける光景でもある。声が大きいこと。ひとの邪魔をすること。そして無視することがむずかしいからこそそれが増幅されること。そのすべてが不安によるものであり、そこに明確な理由が存在しない。わたしたちが自らのこころに「なぜ自分は不安なのか」と問うても、答はない。ないからこそそこにある、といえる。

「絶望」は、たったひとつのことしかいってこない——「絶望」は、自分にお世話をさせてほしいと、そう申し出てくるだけだ。長く、つらく、埃にまみれた路上の旅を続けてきたひとの前に、「絶望」は現れ、彼が用意する道端の日陰で一休みしたらどうかと誘ってくるのだ。ミルクと涙でできたお茶と、ため息でできた焼き菓子をふるまいながら。「絶望」は、まずこういう話をはじめるだろう。つまり、自分がいかにこの静かな場所にたどり着いたか。自分が表通りから外れたのは、すでに忘れてしまったがなんらかの危険な冒険の途上で、おとなしくしていたほうが身のためだということに気が付いたからであり、身を落ち着け、ここに店を構えるべきだという決断をしたからだと。そして「絶望」の客の多くは、もうずっとそこに住んでいるのだと。

絶望Despair」第一連

「絶望」のやさしさはわたしたちにとってよく見覚えのあるものであり、その誘惑は魅力的だ。自分とまったく無関係な他人の生活がインターネットのあらゆる場所から文字通り手元まで流入してくる現代において、常に会ったことすらない第三者の人生との比較を強いられることはそれぞれのばらばらの個人に内的な地獄をもたらし、そこに「絶望」が入り込む多くの隙間があることをわたしたちはよく知っている。

最後に、わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である「挫折」を紹介したい。

「挫折」は、皆に好かれる子供ではなかった。彼が生まれた時、その両親ですら失望を隠せなかった。両親が望んだのは、最初の子供である「達成」のように、可愛く、健康的で、えくぼのある赤ん坊であったのだ。そうした期待に反して、「挫折」は小さく、鈍く、血色は悪く、ほとんど笑うことのない赤ん坊だった。赤ん坊を見るために訪れた親類たちも、「挫折」を長い事みつめることはなかった。親類たちは部屋の隅で、何やらささやきあい、頭をそっと振ってみせた。

「挫折」は、孤独な少年時代を過ごした。学校で、「挫折」は優れた資質を示した。たくさんのことを学び、実際にひとに与えられるものをたくさん持っていた。「挫折」は授業で教科書にない多くの質問を投げ掛け、授業の範囲を越えた事柄について知ろうとした。しかし教師たちは、「挫折」を問題児だと考えた。ほとんどの生徒たちは、彼を避けた。「挫折」は変わり者で、そして醜いとの評判が広がり、「挫折」は一人で過ごすようになっていった。

後年、仕事をはじめた「挫折」は、世の中の役に立ちたいと考えた。彼はできるだけ多くの仕事に関わった。新しい案件を先陣を切って始めることに挑戦し、所属する組織でまだ誰も思いついていなかったようなアイディアを発案した。しかしやがて、彼は自分の考えを評価しようとしてくれるものはほとんどいないということに気が付いた。彼が燃え尽きるまでに、さほど長い時間はかからなかった。そして物事がうまくいかなくなったとき、皆はそれを彼のせいにした。そもそも「挫折」がそこに問題があることを最初に発見したことがほとんどであったのにも関わらず。そして「挫折」はやがて職を失うことになった。

挫折Failure」第一、二、三連

どこか宮沢賢治の「猫の事務所」を思わせるくだり。「挫折」はこの後、詩の後半部分で、障害を持つ子供を教える教師である「謙虚」という女性とめぐり逢い、ようやく自分の資質を活かせる場を見つけ出し、やがては結婚する。

だが、ここまでこの詩集をともに読んできた読者には明らかなことだと思うが、これは理解者を見つけることでひとは幸せになれる、という物語ではない。「挫折」も「不安」も「絶望」も、すべてひとのこころのうちにあるものであり、そうしたものにとらわれすぎることなく、これらの諸要素を自分のものとして受け入れ、認め、いま眼の前にある問題に取り組むことによって、よりよく生きる道がひらけるはずだ——著者はそう示唆している。そこにこころが動く人間的なメッセージがある。

いかに生きるかという問いには常に困難がともなう。
詩はとどかぬ理解者としてそこにあるほかない。

(2018年8月17日)

Alvin Pang "What Gives Us Our Names"書籍情報
原題 What Gives Us Our Names
出版社 Math Paper Press
発行 2011年
著者 Alvin Pang (アルビン・パン)
価格 10 SGD

アルビン・パン『かたちづくる名前たち』前編

窓の外には巨大な雲が広がっている。

夏から残暑にかけては、日本に住まうわたしたちにとって喪失の季節であり、終わりなき追悼のための時間でもある。テレビが、メディアが、昨今ではソーシャルメディアが、ありとあらゆる手段でそうした物語を流布しようとする。それはわたしの記憶する限り、もう何十年も変わっていない。だがそうした流布にくみすることなく、それぞれの夏と向きあおう。いまここにある孤立と分断の時代と向きあおう。

◇ ◇ ◇

さて本日わたしたちが取り上げるのはシンガポールの詩人、アルビン・パン。彼は一九七二年シンガポール生まれ、わたしとは同世代に当たる。第一詩集を一九九七年に刊行、それ以降多数の詩の著作を持ち、いくつかの作品は十以上の言語にて翻訳されている。ただ残念ながら邦訳はまだのようだ。わたしの知る限り彼の詩集はすべて英語で書かれ、本日取り上げる『かたちづくる名前たちWhat Gives Us Our Names』はいわゆる小冊子チャップ・ブック、ポケットに入るサイズで、散文詩による詩集。五十二頁に十七編を収める。

なお本稿は二部構成である。後編はこちら

※本稿の訳文はすべて《千日詩路》編集部による

◇ ◇ ◇

『かたちづくる名前たち』では、作品にはそれぞれ「繁栄Success」「情熱Passion」「目標Purpose」等と題名がつけられ、それぞれ擬人化され、物語があたえられている。たとえば上記三名はそれぞれ男、男、女であり、ひそかな三角関係にある。それぞれ抜き出してみる。

「繁栄」は来週あたらしいコンドミニアムを購入するという。彼はすでに自分の部屋を所有し、さらに自分の両親のものも購入している。彼によれば、それは投資目的なのだという。彼はまた自分の両親である「進歩」と「不安」を喜ばせるために、先日も車を買ったばかりだった。彼によれば、二人は近いうちにあらためて世界一周旅行に出かけるらしい。自分自身にはスポーツカーを購入したが、その性能には満足しかねるらしく、新しく買い直そうか悩んでいるそうだ。

(…)

「繁栄」は、いつでも成績優秀で、魅力的な外見をしていた。だいぶ昔の話になるが、同じ大学に通っていた頃は、彼は皆が一緒にいたいと思うタイプの人間だった。当時、彼は「目標」という女性に熱をあげていた。そして二人をともに知るまわりの人間は、彼らは完璧なカップルではないかと考えていた。しかし時がたつにつれ、二人はだんだんお互い会うことがなくなり、第三者の結婚式でたまに会うだけの関係になった。その後、「目標」は自分が愛するようになった「情熱」の後を追って、海外に旅立ってしまった。その「情熱」はもう長いこと行方がわからなくなっていたのだ。

繁栄Success」 第一、三連

一見ショートショート小説のようにも見えるが、こころが強く動かされるものがある。わたしたちの周りにも「繁栄」や「目標」のようなだれかがいた、あるいはおり、そうしたわたしたち個人の記憶がそれぞれの生活にともなって喚起されるからだ。そこには人間同士の関係が不可避的にかわってしまうことのかなしみが透けてみえ、さらにそうした男女に特定の名詞を割り当てることによって、そこにもう一層別の読みの可能性をくわえている。

行方不明になった「情熱」をみてみよう。

もう長いこと「情熱」の姿をだれもみていない。あるものはかれは身を隠しているのだといい、またあるものは海外で住んでいるはずだといい、またあるものは裁判も受けていないのに勾留されているはずと主張していたが、こうした噂話のいずれも証拠があるかといえば、だれも確証を持っていなかったのだった。彼の不在そのものが、多くのものにとっては眉をひそめるような事件だったし、それはさまざまな疑惑の源泉だった。
だが「情熱」自身は、そうしたことを喜んでいるかもしれない。わたしたちが彼を初めて知った学生時代も、彼はいつも奇妙な質問をする男として知られていた。つまり、だれもすぐには答えられないようなむずかしい質問をする男として。

情熱Passion」第一連

そして問題の「目標」は次のような女性として描写される。ここでもやはりわたしたちは既視感を覚える。まったく無関係な第三者の書いた詩によって、時も空間もばらばらになって生きているそれぞれのわたしたちの生活の記憶の中にいるだれか・・・がよみがえる。

「目標」は付き合うのが簡単な女ではなかったが、友人を大切にすることは忘れなかった。彼女とつきあった男たちは、そのほとんどが彼女の高い理想に応えることができなかった。そうした男たちは、いつも自分の側から彼女に別れを切り出した。彼女はいつも、彼らが聞きたいことではなく、彼らが知らねばならないことを伝え、男たちの気持ちを逆撫でした。

なぜ「情熱」と「目標」があれほどお互い強く惹かれ合ったのかわかる気がする。彼女は彼の熱意や集中力に魅力を感じ、彼は彼女が大切にするものや、彼女が自分の道を貫くその毅然とした姿勢に敬意を払い、惹かれていた。彼女は彼の気持ちをやさしく落ち着かせ、彼は彼女が前に生きられる力を与えてくれていたのだ。

目標Purpose」第三、四連

印象的だったのは、「情熱」が「目標」と恋仲になった後、「情熱」のほうはいつしか行方不明になってしまうのだが、その理由も経緯も作品内ではいっさい明示されないことだ。そういうものかもしれないとふと思う。わたしたちがこころのうちにあるものは、いかなるものも理由などなく必ずほろぶということを思いださせる。

数年前のこと、「情熱」はある仕事を手がけるさなか、「目標」に出会った。そしてすぐに恋に落ちた。かれは「目標」と付き合うようになり、その後はあらたな人生にしっかりと取り組み、さらに仕事を頑張るようになった。それが、かれの行方がわからなくなる直前の話だった。

情熱Passion」第四連

(2018年8月16日)

Alvin Pang "What Gives Us Our Names"書籍情報
原題 What Gives Us Our Names
出版社 Math Paper Press
発行 2011年
著者 Alvin Pang (アルビン・パン)
価格 10 SGD