奥主榮『日本はいま戦争をしている』

ひとの自然状態ステート・オブ・ネイチャーとはなにか。ふだんわたしたちが目にする報道やソーシャルメディアを経由してつたわってくる事件の数々を思い出す時、それはお互いがお互いに暴力を行使しあう状態である、と書いてみたくなる。だがもちろん、たいていの場合、ひとは平穏な市民生活を営むものであり、そこに流血や暴力が生じることはまれである。暴力と非暴力のどちらをひとの本性とするか、それは世界のかたちを自ら選択することだ、と書いてみる。

あとから思うほど
辛いことばかりでもなかった
ラジオから流れる戦果に歓声をあげ
世界地図に日の丸をたて
いさましさを謳歌さえした

戦況も世界もその実際はどこか遠く
まるで絵空事
滅私奉公の快さに全てを麻痺させ
重箱の隅をつつきあいながら
どれだけの不自由をがまんできるかを競い
これみよがしの誠実さを語り

そうしたことのことごとくが
悪意のない善良さを装い
手首から二の腕へとまとわりつき
ゆったりと自分たちの心を締めつけていき
「立派に死んでください」などと
子どもたちが真顔で口にし
耐えることが生きがいとなり

レクヰエム

『日本はいま戦争をしている』が発行されたのは二〇〇九年。著者は一九五九年東京生まれ。この詩集について多少の解説をすると、これはゼロ年代の日本にいる書き手のものであるが、そこに太平洋戦争のまっただ中の日本にいる書き手が重ね合わされている。この詩集の《戦争》は想像力によってかくとくされたものだ。別の言い方でいうと、太平洋戦争の最中の日本を想像力によってよみがえらせようとする試みだ。いや、より正確にいうならば、この詩集に収められた二十一編に通底するものは、いつの間にかよみがえっていたものについての驚きである。

 

燃えさかる炎の中に投げ入れられる本の群れ
一文字ひともじに願いをこめ織り上げられた物語が
夜空にたちのぼる煙と貸していくさまを
その目で確かめながらエーリヒ・ケストナーは
けして希望を失いはしなかった

つみあげられた

エーリヒ・ケストナーはナチス政権下で著作が焚書にあった作家だが、こうした状況が現在のわたしたちと遠くないように感じられるのは、本を焼くだけが世論を操作マニピュレートする方法ではないからだ。ひとを知らずと操作する方法はいくらでもある。わたしたちは嫌というほどそれを知っている。ひとの気持ちをマニピュレートすることに特化したソーシャルメディアを使えば(そして使わないという選択肢は事実上ない)ひとははてしなく、いくらでも容易に扇動されてしまう。自分とはまったく無関係ないかりやかなしみを、まるで自分のものであるかのように感じてしまうことを、たとえばツイッターをやっていればだれしもが経験しているだろう。

この詩は、単に作家の不屈の精神を礼賛しているのではない。それがいつでも起こりることであり、まさにいまわたしたちの国でも同じことが起きており、あらがうということは現在進行形の課題であるということだ。《いまここ》で戦うことが求められている。だが、わたしたちに、ケストナーが持っていたような希望はあるだろうか。

 

誰にも話すことも出来ないでいるのですが
目を
つぶしたいのです
とんでもないことだとは
思うのですが
内心
御国の役になど
たちたくないと思っているのです
のうのうと生きて
たらふく食い
いいことをして

それ以外のことは
いっさいごめんです

「実は」

徴兵されそうになった若者が、じつは国の役になどたちたくない、と胸の内を吐露する形式で語られる詩「実は」を読みながら、様々な事柄がわたしの頭を去来する。

この国の屋台骨が傾き始めてから、二〇年以上が経過している。技術大国という幻影を粉々に打ち砕いた東日本大震災が二〇一一年に発生し、様々な社会問題の激痛を緩和するモルヒネとしての東京オリンピックが数年後に控えている。表層上は安定した社会の裏側で、表に出ることも、声を上げることも許されないまま、塗炭の苦しみにあえぐ人々がたくさんおり、そのいずれもが孤立している。インターネットでは社会的な弱者が告げ口、暴露、耳目を集めやすい悪口雑言によってかりそめの連帯を行うことが常態化しており、それはある程度成功している。だがひとは絶望によって長期的な連帯をすることはできない。ひとを真につなぐもの……それを希望と書きたいところだが、それこそがもはや《戦争》であるほかないのかもしれない。「それ以外のことは/いっさいごめんです」とつぶやきながら。

 

おかあさま
僕は昨日 柊の壁のそばまで行ってまいりました
先の面会日にお話した
あの広い療養所のそばの生け垣まで
近寄ってはならぬと言いつけられていたことは
けして忘れてはおりません
でも土地の子たちに
都会っ子は意気地なしだと
空襲がおそろしくて逃げてきたなどと
言わせておくのはシャクなので
僕たちにも度胸があるのだということを
見せつけてやりたかったのです

柊の壁

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。「柊の壁」とは、ハンセン病患者が入院していた国立療養所多磨全生園の敷地を、外部と隔離するためにつくられていた壁のことだ。語り手の「僕」は、母親に行くことを禁じられた療養所まで、「度胸がある」ことをまわりに示すために忍び込み、そこで見かけた少女の姿について母親に説明する。すると母親は息子を叱責し、あそこの人間は「不具者は不忠者」で汚らわしいから近寄るなという。その後起こった現実の事件(自民党議員の「生産性」暴言や相模原事件)を想起させるくだりだ。

少年は母親をなだめるため、次のように答える。

わかりました おかあさま
やまいとなることが不忠なこころのあらわれ
この非常時に
天子様のお役に立たぬ身体を持っていることなど
許しがたい不名誉です
年端がゆかぬいたいけな子であるほどに
不届きな血筋をあらわしています
けれど おかあさま
ああしたものどものがいることを知ったればこそ
僕は心に刻みます
不忠さ故に無念に生きながらえる
おかっぱの子の哀しげなまなざしを
そうして  それらのすべてを負い
僕自身は自らの肉体を強くすこやかに鍛え上げ
見事股肱の御楯となり
東洋平和の礎として果てたいのであります

(同上)

「強くすこやかに鍛え上げ」られた肉体を称揚すれば、そうではない病人、不具者、障害者などが切り捨てられる場におのずから加担することになる。それは「生産性のない」ものを切り捨てようとする姿勢とまったく同じものだ。ひとのうちには、ひとつの強さではなく、さまざまな種類の強さ、いまだかたちをとっていない可能性としての強さがある。それらを見ようとすること、それがひとと向き合うということだ。一方、「僕」は、母親をなだめるため、おそらくこころにもない嘘をついたのだろうと思われるが、その彼がたどり着いたことばが「股肱の御楯/東洋平和の礎」だということ、そのあまりのグロテスクさに、身体がふるえるほど戦慄する。作家の書くべきものはこれだ、という書き手の自信にみなぎる二行だ。

 

最後に、題名にもなった詩を紹介したい。

二〇一八年、無料でひらかれたウェブに、マニピュレーターたちが毎日息をするように嘘を拡散させている。一方、詩はその作品において嘘を書け/かない。少なくとも、奥主は嘘を書くことなく、希望のない場所に希望があるなどという絵空事を述べたてることもない。

ただ、奥主はこういっているように感じる。だれかがこの国の《ほんとうのこと》を書かねばならない。わたしたちにはまだできることがある、と。

日本はいま戦争をしている
けしてことばにはされることがないまま
いつの間にか戦争をしているのだけれど
それを誰も戦争と呼ばない
そう呼ばないことで誰もが
戦争をしているのだという事実から
目をそらすことができ
つみの意識からは逃れ
日本はまだ戦争をしていないのだと
そう思いこもうとする

日本はいつのまにか戦争をしていた

日本はいま戦争をしている

(2018年8月7日)

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

書籍情報
日本はいま戦争をしている
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2009年
著者 奥主榮 (おくぬし えい)
価格 1800円+税