カニエ・ナハ『用意された食卓』

――さあ、わたしたちのあたらしい食卓へかえろう。

◇ ◇ ◇

続きを読む カニエ・ナハ『用意された食卓』

大崎清夏『新しい住みか』

——あたらしいことばを、愛していて、同時に、憎んでいる。

◇ ◇ ◇

続きを読む 大崎清夏『新しい住みか』

川上未映子『水瓶』

――戦争、傷、そしてえいえんに見つからない喉の石。
――(そのようなものは存在しません)。

◇ ◇ ◇

続きを読む 川上未映子『水瓶』

大崎清夏『指差すことができない』

わからないことをわからずにいる。

◇ ◇ ◇

続きを読む 大崎清夏『指差すことができない』

多和田葉子『シュタイネ』

あらかじめあたえられているものを、どうしてえることができるだろうか?

◇ ◇ ◇

今日は月曜日、本日から十月。台風一過、少し暑さが戻ってきた。

本日取り上げる詩集は多和田葉子の『シュタイネ』。著者は一九六〇年東京生まれ。一九九三年「犬婿入り」で芥川賞。日本語とドイツ語二ヶ国語で作品を発表している小説家であり詩人。日独両国にて著作および受賞歴多数。本邦での詩集は、二〇〇六年の『傘の死体とわたしの妻』に続き二冊目。本詩集は百二十頁に二十編を収める。

著者のことから連想して、本邦の詩の世界にいる、日本語で詩を書く外国出身の詩人たちが何名か頭に浮かぶ。かれらの作品は「外国出身」とわざわざ余計な情報をそこに付与することなく、ただおもしろい。そうした境界を踏み越えた詩からは、言語の習熟度だけがおもしろさを生むわけではない、ということがわかる。母国語であることは優れた創作の必須条件ではないのだろう。

本詩集の題名「シュタイネ」は、わたしの乏しいドイツ語知識によれば、「石」の複数形。よく見るとこれは「主体、ね」「詩、たいね」「詩、みたいね」とも読めるし、つなげると、「ありふれた石ころ、それらと主体および詩」へと誘おうとする作品の戦略が読み取れる。題名からすでに誤読を誘発しようとする織物になっている。ドイツ語の知識があればこうした駄洒落パンももっとおもしろく読めるのでは……ということを思うが、無い袖はふれないため、ひとまずは注意しつつ読んでみよう。

◇ ◇ ◇

君の名を言い当てるそしたら
引っ越しはやめるね?
膝を逆に折り曲げて電電虫を
たれ流したり
肘に鉛をそそぎ削ぎ混んだり
奥歯の根っ子を腫れ上がたらたら
瞼の裏側にミミズを這わせたり
兆候を小出しにして
フェイントのつもり
パスをつないで
そぞろ身体を
医者へ運ぶ前に治ってしまう
名前のない腐敗が
缶詰の花弁で中指の腹を切った
男根を囲む花弁みたいにぎざぎざだった
Oのキーを打つ度にひりっとする
キー容詞が鍵で
穴に入れてここぞと回す名詞
指と書く前に細いと書いてしまう
そういう思い込みだけの女が
縦書きなのでどこまでも背が高くて
字数が多くてもその分
家賃を余分に払う必要もないまま
書いていたら一字ごとに傷が

「ジプトーム(症状か)」 前半、中盤

詩のタイトルはドイツ語とその日本語訳がセットになっているのだが、合わせて読むと辞書を読み上げながら、自分自身を納得させているかのような心持ちになる( “symptom” ……ジプトーム……症状……か?)。

それぞれの詩作の題名は末尾が「か」が自分へと問いかけるかたちで統一されており、それはわたしたちが当たり前のように使いこなしていると思っている母国語の自明性に疑問符をつきつけるかたちになっている。

「膝を逆に折り曲げる」ことは、通常の用途から離れてことばを用いること。しばしば「難解」で「わかりにくい」と呼ばれる詩の世界の釈明または解説文のようなものだが、通常の用途とはたとえば「指と書く前に細いと書いてしまう」ような思い込みを思い込みと思わないまま書いてしまうことだろう。

別に指は細くもなければ短くもなく、慣用としてそう書いてしまいがちで、そこにはとくにこれといった理由もない。その行が「穴に入れてここぞと回す名詞」のすぐ後に置かれていることは示唆的だ。「ここぞ」をだれが/なにが決めるのか。そこには実はなにもなく、ただ書くたびに一字ごとに傷ができるような気づきの体験があるだけなのだ。

二行目の「引っ越し」は、一度母国語から離れた著者がふたたび外国語から母国語へ戻ってこようとする往還の所作ではないかと推測するのだが、それは簡単な道程ではないらしきことがうかがえる詩。なにしろそれは病状の一種なのだから。

如雨露を傾け
句読点をふりかけていたら
ゼラニウム
小雨が降り出した
向かいのバルコニーに立った老人が
こちらを指さして
笑っている
雨の中で花に水をやる人
意味がないという意味の四文字熟語に
雨天水人
なりたくない
やめられない
何をしても何もしなくても
あおあおと育つんだよ原稿は
天気を見ないで推敲する

「ギースカンネ(如雨露か)」前半、中盤

ふたたび書くことについて。如雨露(じょうろ)はひらがなにすると水がながれる音がする。この詩では書き手は、そんな如雨露によってひらがなでもかたかなでも漢字でもなく、「句読点」をふりかけている。そこからは「何をしても何もしなくても/あおあおと育つ」ことばを所定の文法体系にて区切り意味をとりだしてゆくだけ、という書くということに対するスタンスが読み取れる。

それはすでに水(意味)があふれる世界にあたらしく水(詩)をながすことだ、とも読める(「老人が/こちらを指さして/笑っている/雨の中で花に水をやる人」)。そんなものにだれもなりたくないが、やめられない、という二行に共感しつつ、世界を多孔に穿ち意味をつくる仮象の雨がふる風景がとてもうつくしい。

夜をふり切れない冬の車窓に
隣人のディスプ
レイが蒼く移り
危機を手鏡のように支える
爪のある指が
文字を次々と地獄に引きずり落とす
すらいどどどどど
首から下は窓の暗みに吸い込まれ
指が しゃくとりむし
ナルシスの水面で
関節を折っては 伸ばし
こする 待ちわびる メッセ
ージ、一時、一次、いちじくの
葉で陰毛かくして
つるつるで、けばけばの表層と
愛フォンに須磨フォンの源氏
むきだしであらわれる
途切れ途切れの愛息を
指が撫でる いと惜しげに

「ツーク(電車か)」前半、中盤

書き手は電車の中、四角い箱の中にいる。四角い箱は液晶ディスプレイの箱でもあり、それはもちろんスマートフォンの液晶をじっと見つめながら、その中の牢獄に閉じ込められている二〇一八年のわたしたちの姿でもある。自己愛、自己満足、自慰的なみぶりで動かされる指はしゃくとりむしのように動き、スライドし、ほんらいもっている肉体は失われ(「首から下は窓の暗みに吸い込まれ」)、ただただ目と指と頭(ことば)だけのグロテスクな生き物がうまれている。文字があつまる地獄があらわれている、現代についての詩

◇ ◇ ◇

最後に、わたしがこの詩集でいちばん好きな詩を紹介したい。「フリーゲ(蝿か)」
どこからともなく無限に湧き出してくる(かのようにみえる)ことばが蝿になぞらえられる。それは追いはらっても、追いはらっても戻ってくる。なぜなら蝿をつくるのは自我であり母国語にほかならないから。それを叩きつぶそうとすることは「自分の顔を叩いて」いるのと同じことだ。

「国家の祭り」から飛んで逃げよと詩は説く。だがその逃避が不可能なことは、あらかじめ書き込まれている。いつしか「たたけ」は「たたえよ」に変換または誤読されてしまう。あるいは「おはらい」が真逆の「おまねき」と読まれてしまう。飛んで逃げた先においてもふたたび別の蝿が集まる。そのつらさは「叩いたつもりが/自分の顔を叩いている/ぱんぱん/のわたし、なわたし、ならわたし」として締めくくられる。

だが最後の「ならわたし」が好きだ。その先の道はひらかれている。この詩が詩集の最後に置かれているのは、「なら……」の後に続く連の空白、それをひらくのは読者にほかならない、というメッセージだと読んだ、いや、読みたい気持ちでいる。

バナナの縫い目から湧いてきた
黒インクの集積が
濡れた唇にまといつく
ぬめり
手ではらうと蝿
はらりと
飛び立っていった卒業生
としての蝿
はらう、はらり
おはらい
仕草が猫になる
マネく 金を 災難を
公害をおまねき
オリンピックをおまねき
建築闇金裏取引
おまねき姿のママで
君は国家の祭りから飛んで逃げよ
ふり蝿っても、ふり蝿っても
くたびれた句読点を
集めて団子にしたみたいな蝿
しつこく
たかってくる自我
その黒の濃さ普通じゃない
追っても脅しても
もとの唇に戻ってきて
奪い、むさぼる蝿
たたけ
たたけ、たたえよ
叩いたつもりが
自分の顔を叩いている
ぱんぱん
のわたし、なわたし、ならわたし

「フリーゲ(蝿か)」 全文

(2018年10月1日)

多和田葉子『シュタイネ』書籍情報
シュタイネ
出版 青土社
発行 2017
著者 多和田葉子(たわだ ようこ)
価格 1600円+税