【番外編】草野原々『最後にして最初のアイドル』

さあ、アイドルをはじめよう。あなたはキラキラに輝いている!

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本日は金曜日。どうやら週末にかけて台風がやってくるらしい。今日は雨こそ降らなかったものの、かなり寒い一日だった。

さて本日は番外編として草野原々のSF小説『最後にして最初のアイドル』を取り上げる。なぜ詩と書評のサイト《千日詩路》がSF小説を取り上げるのか、と疑問に思う読者もいるだろう。端的にいえば、その理由とは、著者がわたしの知人のご子息だからである。ただ、実際に手にとってみるとおもしろく読んだので、本稿を書くことにした次第だ。

本作は二〇一六年の第四回ハヤカワSFコンテスト特別作受賞作。著者は一九九〇年生まれ、本作がデビュー作となり、わたしが入手したのはそれを電子書籍化したもの。特別賞以外にも第四十八回星雲賞短編部門(小説)など受賞歴多数。二〇一八年には本作を含めた作品集『最後にして最初のアイドル』を上梓。なお英訳も行われており “Last and First Idol” の題名にて発売されている。本作は五部構成で、長さとしては中編に属すると思われる。

早川書房の公式サイトによると、あらすじは以下のとおり。

「時はアイドル戦国時代。生後6か月でアイドルオタクになった古月みかは、高校のアイドル部で出会った友人とともに、宇宙一最高のアイドルになることを目指す」

おそらく《千日詩路》の読者はここで考え込むだろう。こうした表層ミームの下になにがかくされているのか、というところに興味が湧くと思う。アマゾンで販売されている電子書籍版のあらすじには、次のように加筆されている。

時はアイドル戦国時代。生後6か月でアイドルオタクになった古月みかは、高校のアイドル部で出会った新園眞織とともに宇宙一のアイドルになることを目指す。しかし非情な現実が彼女の望みを打ち砕くのだった。それから数年後、謎の巨大太陽フレアが発生。地球人類は滅亡の危機に陥る。地獄のような世界をサヴァイヴする彼女たちが目にした、〈アイドル〉の最終局面とは? 著者自らが「実存主義的ワイドスクリーン百合バロックプロレタリアートアイドルハードSF」と名付ける、最終選考会に嵐を巻き起こしたSFコンテスト史上最大の問題作。

ここではさらに表層が追加されている。だがあらすじを読むことである程度の著者の戦略がみえてくる。それはいかに《ほんとうのこと》をかたらずにかたるか、という意志であり、それを徹底的に隠匿することによる魔術的効果をかくとくする目的があると推測され、その実現のためにさまざまな華麗な衣装(アイドル、オタク、人類滅亡……おそらくはSFも)が準備されている、ということである。際物のように見える作品の背後に、技巧派の道化・・としての著者の横顔がみえてくる、といえる。

これは一人の少女が最高のアイドルになるまでを描いた小説である。その主人公、古月みかは架空のキャラクターにすぎない。にもかかわらず、ここに書かれていることはすべて真実だ。宇宙とあなたの存在は、この小説の主人公、古月みかに端を発する〈アイドル〉により大きく左右されることとなる。あなたはこの小説を丹念に読まなければならない。古月みかを応援し、共感し、自己同一化して読まなければならない。この小説を最後まで読み、理解したならば、あなたはひとつの使命を帯びていることに気づくであろう。これは、他でもないあなたに向けられた文章だ。

「最後にして最初のアイドル」序文

著者の戦略をさらにここから読みとくことができる。「すべて真実」はすべて嘘と同じであることが詩の読者には了解されている。もちろん一般的な文芸小説の読者にとっても、そうしたかたりが読者を間違った方向に導く装置であることも了解されている。アイドルは〈アイドル〉というタグ付けがなされた名詞へと変換され、それを読むことには「自己同一化」が要請される。つまり、嘘を嘘としてあらかじめ受け止めた上で読むようにとの注意書きが掲示されている、と読める。

古月みかはアイドルが好きだった。アイドル戦国時代と呼ばれる現代においては、アイドル好きはそれほど珍しい存在ではない。雨後のたけのこのようにボンボンと生えてくるアイドルとともに、そのファンも限りなく増大していく。古月みかはそんなニワカとは一線を画していた。なんと、彼女は生後六ヶ月でアイドルオタクとなったのだ。当時、彼女は夜泣きが絶えない赤ん坊であった。昼も夜も四六時中高い声を発し、両親の睡眠を妨害しその脳を混乱させた。悩んだ親は、子どもが夢中になるものを見つけ、精神的安定を図ろうと考えた。人形、カスタネット、ゲーム機、プラモデル、独楽、凧、ロボット、エプロン、懐中電灯、スマホ、ダンボールで作った迷路、ハムスターなどを次々と投与したが、古月みかはどれに対しても興味を持った様子はなかった。
疲れ果てた両親は、夜、テレビをザッピングした。ブラウン管に大統領、営業マン、シェフ、医者、犬、吹奏楽団、自動車が次々と映る。そして、アイドルが。その途端、古月みかは泣き止んだ。眼を丸くして、ブラウン管の奥で踊るアイドルの顔を見つめた。表情筋が活動し、笑いへと到る。屈託のない、あどけない笑顔だ。まさに赤ん坊の笑顔の代表例とでもいえるほど純粋な笑顔を浮かべる。
これだ! 両親は確信した。これこそが夜泣きを防ぐ切り札だ。

第一部 冒頭

主人公「古月みか」がアイドルになりたいと考えるようになった経緯がかたられる。ここで一番興味深いことは、それが幼児の夜泣きを防ぐ方法の一環だったということが、いちばんはじめの出来事としてかたられていることだ。つまりアイドルという存在は幼児の気をそらすためのものにすぎず、別のいい方をすればなんでもよかった・・・・・・・・のである。別のものといつでも置換可能なものに情熱をかたむけることの逆説的な価値がかたられている、とも読める。別のものと置換可能なものが草野の作品ではもっとも価値あるものとして祭壇(あるいはステージ)に設置される、という構図を読むことができる。

物語は主人公が高校生になった時から始まる。彼女は「アイドル部」という部活に入り、アイドルになるための活動を本格的に始めるのだが、そこで新園眞織という友人をえる。

「……あたし、アイドルになるのが夢なの……。それで、新園さんと自分を比較しちゃって。ちょっと落ち込んで……」
沈黙に慌てて、つい本心をさらけ出してしまった。
「なんだ、そんなことなら、わたしがプロデュースしてあげるわ」
予想外のところに会話が転がっていく。
「でも、あたし、ダンスも全然覚えられないから……」
「ちーがーうー、アイドルに求められているのは完璧なダンスでも歌でもないの。下手でもいいから努力する姿なのよ、観客はそれに自分を重ね合わせて共感するの。そういう面では、わたしよりあなたのほうがずっとアイドル向きでしょ」
「そう……なのかな」
内面では、アイドル向きと言われてすごく嬉しかった。
「そうよ! あとは口調と髪型をアイドル向きにすることね。ちょっと考えさせて」
こうして、新園眞織による古月みかのプロデュースが始まった。着目したのは、まず髪型であった。これまでのロングの髪型をツインテールに変更し、一気にキュートな印象を増すことに成功した。病弱な印象を与える白い肌がそれを助ける。次は、一人称である。これまでの『あたし』を『ミカ』にすることにより、幼いキャラを確立させる。ここでも、背の低さと相まって相乗効果が生まれる。
古月みかのキャラをバネに、P-VALUEの雰囲気は変わっていった。アイドルらしい人物が中心になることにより、自分たちが所属しているのはアイドルグループだという自覚が出てきたのだ。古月みかと新園眞織がはじめた早朝練習にも全員参加するようになり、地域のアイドル大会にも出場できた。
その後、二人はことあるごとに会い、親交を深めていき、ついには内外から親友として公認されるに到った。古月みかは幸福な高校時代を過ごした。キラキラした三年間だった。

第一部

ここでかたられているのはいわば道化が道化として完成するための技巧と読める。それは「プロデュース」と呼ばれているが、書くことと翻訳してもさほど違和感はない。ここで書かれているのは夢や情熱そのものではなくその空虚(非存在)を埋めるための外堀としての衣装である。著者はどこまでも冷めたまなざしでアイドルをみていて、「下手でもいいから努力する姿」を意図的にみせることは技術にほかならないという理解がかたられている。それはわざと下手を演じること、愚かさ・・・を表出することだ。それは二〇一八年に生きるわたしたちがよく知っているものである。これは現代についての小説なのだということがわかる。

さて、物語は主人公の高校卒業後も描いていく。ほんもののアイドルになるために事務所に所属するのだが……その夢の実現はきわめて困難なのだった。事務所は破産し、経済的に困窮し、つまり詩人や売れない小説家のような生活を主人公は送ることになる。以下、主人公の妹古月みやが姉にアイドルをやめさせようとするくだり――アイドルに「詩」や「小説」をいれても問題なく読めるだろう。

「なんでここに? その言葉、そっくりあなたにお返しします! わたくしは、あなたを正気に戻すためにやってきたのです。あなたは悪魔に支配されています。アイドルという悪魔に! アイドル! ああ、なんて忌まわしい言葉でしょう。アイドルによって家庭が崩壊し、いままさにアイドルによって姉が破滅している現状! さあ、お姉さま、いまからでも遅くありません。事務所が破産したのは天啓であったのです。アイドルなど辞めて、まともな世界に戻りましょう!」

古月みやは情熱的に語った。彼女はアイドルのせいで離婚が起こったのだと思い、この世からアイドルを消滅させることを心に誓っていた。姉がアイドルになったとどこからか聞き及び、いてもたってもいられなくなりやってきたのだ。

第一部

この後、妹に「現実を見ろ」と罵倒された主人公は、自分の将来に絶望し、飛び降り自殺をしてしまう。だが、この時すでに医学部の学生となっていた親友の新園は、その死を受け入れることができず、将来彼女を蘇らせることを誓い、その遺体をひそかに確保、その脳を遺族から許可を取ることなく勝手に摘出して冷凍保存する。彼女はこの時点ですでに悲しみで発狂している。

新園眞織はカミソリ、メス、電動ドリル、電動ノコギリを用意する。はじめに、カミソリを手にする。
「ごめん、みかちゃん」
新園眞織はそうつぶやき、古月みかの髪をカミソリで剃っていく。チャームポイントであるツインテールは無残にも切れていく。あらわになった頭部の皮膚は、もうすでに黒ずんでいる。古月みかの白く綺麗な皮膚は、酸欠により死んでいった細胞のカスにより、にぶい茶色に変わっていた。
続いて新園眞織が取り出したのは、メスである。メスを使い、頭部の薄い皮膚を切り裂いていく。血液循環はもはや止まったため、血は出ない。桃の皮をむくように、器用な手つきではいでいく。頭部を覆う筋肉に茶色の血管が絡みついている。メスで額から後頭部にかけての筋肉を切り裂き、ピンセットでつまみ、横に開く。どす黒い赤茶色に染まった筋肉繊維の向こう側から、白い頭蓋骨が見えてくる。まるで、生前のみかちゃんの皮膚みたい、新園眞織はそう思った。筋肉はこめかみにいたるまで横に広げられた。その過程で、邪魔になった耳は切除された。

第一部

アイドルが置換可能な、書かれうるプロデュース技巧(作為)にすぎないことはすでに一部において繰り返しかたられてきたが、ここでとうとうそれは単なる肉の塊になり、解体されて捨てられるモノになる。重要なのは考えることができる脳(ことば)だけでありその他のものは不要なものとして、中身を失ったことがわからないように化粧をほどこされた上で火葬されるのだった。

そして第一部は主人公の葬儀で幕を閉じる。第二部からはいよいよ巨大な太陽フレアによる地球滅亡の序曲がはじまり、脳だけの存在となって強制的に蘇えることになった肉塊たる主人公がこの世の理をかきかえる救済の物語へとつながってゆく……のだが、それは著者が注意深く準備した読み物としての舞台装置なのだろうという印象をもった。最初から存在していないものを救済することはできないからである。

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『最後にして最初のアイドル』は二〇一八年に詩、またはそれに準ずるテキストを書くものにとっても多くの学びがある小説であり、題材の取捨選択も含め、細心の注意を払って組みたてられた作品であるという印象をもっている(そこにはソーシャルメディア向けの戦略的スタンスとその実行も含まれるだろう)。

個人的な印象だが、著者は長期的にはSFというジャンル、あるいは世間が準備する既存の枠組みの内側にとどまることはできなくなるのではないかと感じた。道化はほんらいそこに王(権威)がなければ成立せず、だれもかれもが道化と化した現代においては、道化であり続けることはだれにもできないとはいえないにしろ、きわめて困難な道筋だろう。ただ、そうしたわたしの読みを裏切る(かもしれない)力を感じる作家であることは間違いないように思える。血はあらそえない、ということなのかもしれない。

お願いだよ、ご老公、嘘のつき方の先生を附けておくれよ
あんたの道化は、よろこんでそいつから嘘を習わせてもらうからさ

シェイクスピア 『リア王』 第一幕第四場

(2018年9月28日)

 

草野原々『最後にして最初のアイドル』書籍情報(電子書籍)
最後にして最初のアイドル【短編版】
発売 早川書房
発行 2016年
著者 草野原々(くさの げんげん)
価格 130円

橋本シオン『ep.』

意味のないことの意味・・・・・・・・・・について考える。手を動かす、手をつなぐ、手をきりおとす、あるいは落とされた手を拾い上げればそれは祈りのかたちとなる。だがこれらの所作にほんらい意味はなく、ただいずれかの点Aからいずれかの点Bをむすぶ複数の連続した動きがあるだけだ。

だがそこには意味をもとめてしまうこころの動きがある。だれしもが生に意味をもとめ、そしてそれはけしてえられない。いや、こう言いかえよう。だれしもが《書くこと》に意味をもとめ、そしてそれはえられない、と。

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橋本シオンは一九八九年生まれ、東京都在住。『詩と思想』にて二〇一六年度「現代詩の新鋭」選出、同誌新人賞入選。二〇一七年、詩集『これがわたしのふつうです』にて中原中也賞およびH氏賞候補。

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猛暑が去った。関東を嵐の前触れともいえるしずかな残暑の気配が覆っている。

本日取り上げる詩集『ep.』は電子書籍で、二〇一四年発行、アマゾン社のKindleプラットフォームを経由して一般に販売されている。やや短めの詩集で、詩五編を含み、巻末詩「イーピー」は三部構成。表紙には椅子に座った裸体の女性を横から見た構図のデッサンがあしらわれており、その横顔はぼかされている。

わたしは橋本のことは『詩と思想』誌上で最初に知った。その詩を引用してみよう。

ミキちゃんの小さな足で、夜の東京を歩くと、コンクリートしかなくて、何年経っても道は変わらないのにお店ばかりがかわっていって、わたしの家はどこだろうって、探してみるんだって。お母さんの料理を思い出して、ひとしきり泣いたりするんだって。うちゅうの中の、ちっぽけなわたし、の、ちいさな生活が、屋根に降り積もって灰の様に飛ばされちゃって、わたしいま、どこにいるんだろう、って。

そしたら夜は、死にたくなるじゃん。だって夜だもの。社会にあぶれたなにもない家に。だれもいないこの家に。でも、わたしはいるじゃない。だから、ミキちゃんを呼んでみるじゃない。それでも、いるんだ、わたしが。胃液を吐き出したミキちゃんの横で、ツイッターして、布団にもぐるわたしが、いたんだ、わたしが。

「ミキちゃん」 第三、四連
『詩と思想』二〇一六年四月号

くりかえされる「わたし」が分裂し、並列され、かさなりそして離れる様子は、ソーシャルメディアにあらわれるたくさんの「わたし」の物語そのものだ。そうした現代をえがくために選び取られた文体をみる驚きがまずある。都市においては店がどんどん変わるように、母国語においては標識である語彙もまたころころと変化してゆく。その空間の中で自分自身もしばしば行方不明であり、わかたれた自分(わたし、ミキ、わたし)を通じて、ばらばらになった《このわたし》の物語も無限に励起されてゆく。

どうしようもない夜に眠る芋虫は夢を見る。ぎざぎざの柔らかな歯に煙草を挟んで、だらしなく寝ていた海岸線を思い出す。白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉と涙を腹の中に抱えて、眠る芋虫は髪の毛をだらしなく伸ばして夢を見る。

星空は半円の深い闇の中で瞬いていた。ひっそり小さな身体を滑り込ませぱちぱちと。芋虫の横にいる人のツラをした芋虫も、またきっと夢を見ていた。飛び込んだ大都市の近未来を嗅がされて、皆一様に芋虫になっていく。

「いもむし」 第一、二連

だれしもが見覚えのある「どうしようもない夜」はつづく。選択肢のうばわれた(かのように見える)生活において、わたしたちはことばだけを抱え、いつか変態を遂げる可能性を夢見ながら眠るだけの一匹の虫になっている。ここでいう芋虫はどちらかというと樹木上のものではなく土の中にいる甲虫類のそれを想像させるが、手(足)が複数ついていながら、移動がゆるされない生き物がえがかれているということに留意し、読み進める。

エビって気持ちが悪いよね、あの形状なんともいえないよね。だってよくみてよこの沢山ついた足と尻尾。食べたらとても美味しいけどこんな形でよく生きているよ、と、蛇口に向かって話しかける。シンクをうちつける音で彼は相づち代わりをする。

お喋りを続ける最中、春と言う言葉で誤魔化した侵入者を発見した。寄ってたかって蟻の行列みたいに、あれは子鬼の群れか、それとも小さな母親か。冷蔵庫の裏、靴底の隙間、シャワーヘッドの中まで。この家は幻想に包まれて同化していくんだ。

(…)

隙間の街からは遠く離れた、土曜日の午前中。空には雲が敷き詰められていて、四月だというのに風がとても冷たくて、小さな雨粒が子鬼の口を満たしていた。エビの殻をむきながらわたしは蛇口とお喋りをして、鎮痛剤を飲み、赤い斑点が宇宙を知りたくて爆発を開始した。そのうちエビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢を見て、気づけば夜になるのかもしれない。

「住む」 第二、三、七連

再びたくさんの手(足)のある生き物について、今度は口を通じて体内に取り込まれる準備がなされている。それは外殻を剥がれ、手(足)を切断され、内蔵を摘出された状態で調理され、咀嚼されるはずだった。しかしこの「白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉」を取り戻す工程は、やはり幻想で、最終連において「エビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢」としてえがかれ、そのことばの行方もまた宙吊りにされている。変化はゆるされない。

東京での生活もかれこれ二年になろうとしている。小さな田舎町を飛び出したのは夏になる前のことで、あの時私は二十三歳だった。東京はいつもぐるぐる回りまわって、ファンデーションまみれの精子と卵子の巣窟だと思っていた。中心に立つ馬鹿でかいタワーのしたに、私と私達の知りたいなにか大切なものが埋まっていて、探り当てに行かなければならないと思っていた。

アスファルトが毛細血管みたいに伸びて、ところどころにある小さな公園は私の爪みたいだった。その中で家さえ借りれば白血球とか赤血球とか、なにかひとつの細胞気取りで、ぐるぐる回りまわる東京の近未来に乗れると信じていた

「イーピー」 一部、第一、二連

私小説を思わせる三部構成の表題詩。「馬鹿でかいタワー」のファルスがあらゆる場所と場面で誇示される都市をみながら、その真下にはそれと真逆の傷つきやすい内蔵(白子)が隠され埋められている風景が発見されている。だがそれは掘り返されることなく、書き手は塔のまわりを、近づこうとする加速度をもって円をえがいて落下することしかできない。掘り返すためには手(足)がなければならないが、その爪も細胞もばらばらになり、ことばは毛細血管ネットワークを通してすでに拡散してしまっている。

灰色に均した近未来のにおいを嗅がされて、私達の脳みそはつるつるに磨かれていく。緑に耕されていた頭の中が、今では海のにおいも風景も忘れて、ちかちか輝くタワーの光で目の中まで一辺倒だ。狭い土地の半円でおしくらまんじゅうみたいに人々が飛び込んでは何も無いと気づいていく。均す必要も無いアスファルトを綺麗にしようと必死になる。そういう人々の群れでただ愉快な街になる。

若い私達に気づく目はあるはずなのに、精子と卵子の工作でピンク色のホテルにばかり興味が移って、月と同じ高さのビル、夜を曖昧にするコンビニの灯り、なんの疑問も抱かない。平成という称号、八十九年という時代の事実、ただの数字の羅列だとのたまってはいけないのに。でなければ私は君と出会わなかった。手を繋ぐこともなかった。

「イーピー」二部、第一、二連

「つるつるに磨かれた脳みそ」や「夜を曖昧にするコンビニの灯り」によって均された灰色の風景、それをわたしたちはあまりにもよく知っている。しかしもそれはすでに都市だけの話ではない。地方のあらゆる場所に偏在する巨大商業施設、コンビニエンスストア、飲食店フランチャイズ店舗の提供するサービスと物品のおそるべき画一性を想起するだけで足りる。個人は溶解し、手(足)を失い、ばらばらになった関係性をかかえ、ゆく場所もかえる場所もなくした《このわたし》の物語にみちあふれる二〇一八年の風景がそこにある。

不意に登場する(昭和)「八十九年」が、詩と《いま・ここ》にある現実をつなぐ。
別の言い方でいえば想像力によってしか到達できない、ありえないいつわりの場所へと詩をつなぐ。その存在しえない場所でのみ詩は手(足)を取り戻し、だれかとめぐりあうこと、そして奪われた手をつなぐことがゆるされる。

二年が経つこの木造アパートで、話すのはもっぱらタワーの下に隠された知りたいなにか大切なものの話で、昔はもっと夢に溢れていたような気がするが、もはや私達は知っている。知っているけどそれでも話してしまうのは、あの囁き声が聞こえるからだ。隠されているものなんてとっくに畳の裏で骨になっている。君が居なきゃ何も出来ない鏡張りのトーキョーイーピー。隠された種達の悲痛な叫び。探り当てに行く必要ももはやないタワーのしたで、骨になったあいつを隠す必要もない。

「イーピー」三部、第三連

遠くから見ていた時は輝いてみえたものたちは、手元においた瞬間にその魅力をうしなう。よってわたしたちは不可能にとどまらねばならない。現実の灰色の東京ではなく芋虫たちの夢の中にしかないトーキョーをめざさねばならない。

なにもかもが鏡張りとなった外部化された内面の牢獄の内に閉じ込められたまま、現実にはけして存在しえない場所へどう向かえばいいのか? そのためには、やはり《わたし》だけが見出しうる隘路をゆくしかないのだ――橋本の詩は、そういうことをわたしに考えさせる。

(2018年8月20日)

橋本シオン『ep.』書籍情報(電子書籍)
ep.
出版 キリンスタジオ
発売 Amazon Services International, Inc.
発行 2014年
著者 橋本しおん(※原文ママ)
価格 100円