采目つるぎ 詩誌『…poison berry』(Vol.0,1,2,3)

――かたってよ、つたわらぬことを。

◇ ◇ ◇

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詩誌『ファントム 3号』

《わたし》とほんの少しずれた幽霊としての《私》。
その亀裂からことばがあらわれる。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。急速に冬が近づきつつあることを肌寒さの中に感じる。
さて今週は詩誌特集ということで、為平澪(#0023 参照)主宰の詩誌『ファントム 3号』を。この詩誌はほぼ一年に一度発行されており、参加詩人は五名から十名前後、主に詩作を中心とし、エッセイや詩論などの小特集コーナーも有する。既刊を含めて装丁は黒色を基調に、都市、夜景、構造物、幾何学的文様などを主なモチーフとし、硬く冷えたなめらかな鉱石を思わせる。本号は参加者は十一名、十四作品、一論考を収め、五十六頁。

詩誌の名前についてだが、二〇一四年発行の創刊号を開いてみると、巻頭に次の一行が置かれている。

詩人は自分の中にもう一人の他人を飼っている
巻頭言、『ファントム』創刊号

ファントム “Phantom” で英英辞典を引いてみると、亡霊、幽霊の意味以外にも、「想像力のうちにしか存在しないもの」という意味が記されている。後者の意味に基づいた単語には Phantom Pain(幻肢痛)や  Phantom Pregnancy(想像妊娠)などがある。

詩誌の題名と巻頭言からは、身体の内側にまぼろしとしての他人を持つこと、そして「詩人は」と定義されていることから、その他人との不可能な対話を通じて詩作品がみちびきだされるイメージが得られる。

その他人とは自分の魂のなかにことばとして存在する肉親かもしれないし、教師かもしれないし、かつてそこにいたが、いまはいなくなっただれかかもしれない。その対話にともなう遅延、ずれ、二重性に「詩」という名前があたえられ、その由来を宣言するために「ファントム」という看板が掲げられている、と読める。

それでは本号を読んでみよう。創刊号から共通するメンバーには、為平のほかには麻生有里、浦世羊島(耀一朗)、奥主榮、一色真理などがいる。かれらの作品からいくつか抜き出してみよう。

不規則な人の流れを
かきわけるのはどうしても苦手だ
曲がり角ならいつも
上手に見分けられるのに
すれ違いざまに宙づりの幽霊が見えて
ふり返ったらキッと睨まれた
(どうしてわかったの)

システムが理解できない
いつだってそう
人の仕組みも回路もネットワークも
分解して知ろうとしても無駄なこと
導かれればいいのだろうか
ついて行けば崩れるのかもしれない
だけど結局は
似たような末路をたどるのなら
自動改札ぐらい通ってもいい

さっきから視野が狭いと思っていたら
(落としましたよ)
誰かが眼球をひとつ拾ってくれた
ありがとう
お礼がしたいので電車に乗りませんか
そんな出会い方だったら
遅刻しそうな子とぶつかるのでもなく
書店で同じ本を手に徒労とするのでもなく

自動改札をリレーのように通り抜けていく
にんげんは本当に
どうやって動いているのだろう
ふいにつきつけられた風の中で思う
促されて名前を書いてしまうぐらいなら
あたらしい文字を作って
読めない名を名乗ればいいと

麻生有里 「地上の電車」
第一、二、三、四連

昨年 詩集『ちょうどいい猫』を刊行した麻生有里の作品。地上の電車、という題名からは、地上を走るものではない、この世のものではない幽霊としての電車というものを想像する。第一連には幽霊が登場するが、これは電車の中で吊り革からぶらさがる生きている肉としての人間の姿なのだろう。電車は個別に分断されたわたしたち肉を乗せたままどこかへ走ってゆく。そうしたシステムの中に閉じこめられているのは、たくさんの線/路によって構成される電磁的ネットワークの上に拡散する膨大なテキストによってつくられる現代社会の中にいるわたしたちの姿でもあり、「にんげんは本当に/どうやって動いているのだろう」というふいに湧き出す疑問は、ことばは本当にどうやって意味をもって・・・・・・働いているのだろう、と読める。その問いには、まるで幽霊のように、と答えるしかない。

舞い上がる砂塵は光を遮り
地上を這う人々の心を煤けさせる
ここにいてはならぬと責めるように
吹き荒れる風は 体温を奪う
大地に刻まれた一千年一万年の呪い
汚されたばかりではない
影に覆われた土の上で 育つ草木も限られ
眩い白色光は伝説として語られるばかり

届かない青空に恋いこがれながら
人はよろめく足を踏みしめて
高くたかく築きあげる 祈りの尖塔を
積み重ねるたびにひび割れ崩落し
祈りを嘲笑うかのように
大海に投じられた一石の頼りない波紋
そんな祈りは誰に向けられたものなのか
存在が不確かな神々に対してか
信じることさえままならぬ我々自身に対してか

遠い昔 我々は自分たちの子孫に対し
言い逃れしようのない咎を負いこんだ
大地を陵辱し海へと毒をとめどなく流し
空を忌わしいもので充たしていった
道は汚泥に覆い尽くされ 喉をふさぐものに
祈りの言葉は損なわれていった

そうした中で自分たち自身の首を締め
豊穣の大地も 大漁のわだつみも
羽ばたくことのできる光に溢れた空も失った

生きるよすがとなる
波止場を忘れた そんな方舟

奥主榮 「陸の時代」
第一、二、三、四、五連

奥主榮(#0005 参照)の詩はまっすぐ実体のある読者の身体にぶつかってくる。だがそこには幻への望郷またはいかりがある、というのはわたしの個人的な読みに過ぎないかもしれない。「陸の時代」とは、わたしたちが汚してきた土に復讐される時代。奥主がその主題として見つめてきたのであろう罪悪感は、本邦に住まうすべての倫理的存在が持っているものである。その叱責の指先は、近代社会といった曖昧模糊としたものではなく、具体的で、実体のある、歴史を有する対象にはっきりと向けられている。だが奥主はこの詩においてそれを明記しない。それが昨今のソーシャルメディアに見られるような「反」を冠する扇動的営為——いわば善の凡庸さバナリティ・オブ・グッド——に加担してしまうこと、しかもがそれに加担してしまうことのおそろしさをよく知っているからである。そこに奥主の誠実さ、作家としての矜持がある。

真夜中にウイルス・スキャンを実行して
モニターを見ながら怯えている
ブロックされた危険な接続の中に
今日も同じ顔を見つけた

この顔はファミレスでおなじみの
おばちゃんたちの自慢話と劣等感の駆け引きの中で
泡立ったメロンソーダーの中の不純物
その隅で立ち上がる甲高い声はトロクサイと、高齢者を嗤う
ラインが止まない女子高生のIDとIPアドレス

ファミレスの町ぐるみ検診を何度も起動させると
真夜中に胃がキリキリと痛む
体内に悪いウイルスがいるせいだと 医者は語る

私の胸部も頭部も異常がないのに
悪いことを見つけたら罰したい寂しさが
液晶画面を青に変える

毎日をスキャンして安心したい
(私は安全だ、と
毎日を表示して教えてほしい
(ウイルスはいませんでした、と
毎日を毎日フルスキャンして 私は木端微塵に疲れていく
(駆除したいのか、駆除されたいのか

為平澪 「ウイルス・スキャン」
第一、二、三、四、五連

為平の詩は、ある対象をふたつにわかちながら、それらをひとつにまとめようとする動きに抵抗するため、そのふたつを同じ地点に重ねてゆくことから始まる。この詩では、ウィルスを駆除する《私》と駆除される《私》は、じつのところ同じものではないのか、という疑いからはじまるが、それは清潔に除菌された現代社会ネットワークに対する根本的疑義をわたしたちに突きつけてもいる。わたしたちがなにかを捨てるとき、わたしたちはなにをえているのか、そういう大きな問いがある。

システム、あるいは世間は単純化された世界を好む。わたしたちの社会はことばというウィルスを以前のように許容できなくなりつつある。「悪いことを見つけたら罰したい寂しさ」をだれしもが持ち、お互いに石を投げ付けあう二〇一八年の他罰的な相互監視社会のただ中にいるわたしたちの姿を為平は書いている。これもまた現代についての詩だということを思う。

ことばテキストだけで構成される社会とは、つまり亡霊が闊歩する場でもある。
詩は抵抗する、と為平はいっている。それは加速度をもった永続的なる運動でなければならず、そのために詩があり、詩誌が発行され、詩集がつくられるのだ。

詩誌『ファントム 3号』

詩誌情報
詩誌 ファントム
発行 為平 澪 「ファントム」編集室
号数 2018 3
価格 500

詩誌『Rurikarakusa 9号』

とどくもの、とどかぬもの。詩がかたちをあたえる不可能なものたち。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。少し冷える朝が目立つようになってきた。

本日も引き続き詩誌をとりあげよう。詩誌『Rurikarakusa』は、以前《千日詩路》でも取り上げた詩人たちによる合同個人詩誌で、花潜幸(#0018)、草野理恵子(#0001)、青木由弥子の三名のメンバーの作品を中心とし、ゲスト詩人一名を招待する構成となっている。

メンバー三名がそれぞれ詩を二編、ゲストは詩一・二編とエッセイ。これをA4サイズ上質紙三枚に掲載し、そこに和紙と思われる扉紙を重ねたものを三つに折り畳み、長方形の封書の様式にて頒布されている。わたしの所有する限りでは過去分についても同様の様式がとられ、二〇一六年一月創刊、年三回程度発行、本号は九号で二〇一八年九月付。

さて、本号の構成を見てみよう。過去分も通して同じ構成なのだが、目次は次のようになっている。詩誌としてとくに特徴的なのは、ゲスト詩人にはエッセイの枠があり、これがその詩人の人となりを知る機会を読者にあたえてくれること。

表紙/扉紙 (裏に編集後記)
一枚目 ゲスト詩人による詩作品 二つ およびエッセイ
二枚目 花潜幸、草野理恵子、青木由弥子による詩作品三編
三枚目 同上

今回のゲストは詩人の上手宰。一九四八年生まれ。詩集に壺井繁治賞受賞の『星の火事』、ほか『夢の続き』、『香る日』、二〇一八年には『しおり紐のしまい方』刊行。本号ではふたつの詩が掲載されている。そのうちのひとつを抜き出してみる。

文字の台紙が紙であるように
言葉の台紙は息だという
夢の台紙が眠りであるように
愛の台紙は寂しさだという

記憶の台紙が最近たわみはじめた
光と影の感光板が波打つ河に変貌する
舟を出すと空が暗く覆われ
なにもかも忘れ去ってしまう
忘れたことにも気付かず
河のなかに自分を置き去りにすると
はてしない安らぎが訪れる
紙からずり落ちていった文字たち
止まった息が密かに逃がした言葉たち
浅い眠りに溺れていった夢たち
それらを見送ったあと
寂しさの扉をあけた愛が
使われなくなった鍵のふりをして失われる

上手宰 「白夜」
第一、二、三連

白夜とは昼と夜の境目がなくなること。それは上手のことばを借りれば、文字が紙であり、紙が文字であるかのような状態、あるいは息がことばであり、ことばが息であるかのような認識のことである。ドーナツの穴は存在するのかという有名な問いがあるが、上手の詩を読んだ上ではこう答えられるかもしれない。穴(ことば)を存在させているのは周辺にあるものであり、穴(愛)そのものが存在しているのではない、と。とても好きな詩。

また、エッセイをおもしろく読んだ。著者は自分が歳をとったことにより、目やにが出やすくなるという自らの身体についてかたり、そんなある日のこと、眠りに落ちる前に目やにが気になったが、「洗面所に行って目を洗ってすっきりさせずには眠る気にはなれなかった」ため、目を洗ってから眠ったという出来事についてかたってみせる。

目が何かを見るという行為は、その中に見える対象だけに依存しているのではない、と私には思われた。見るということは、見るという行為そのものへの愛着がある。だから具体的に網膜に映る像がないとしても、目は何かを見ることの可能な態勢に居たいのではないか。私の目はその夜、目をきれいに洗われ世界がよく見えるよう身支度して何も見えない世界に向かったのであった。

上手宰 エッセイ「闇に入っていく目」
第二連

別のことばでいいかえれば、存在しない穴=ことば=愛を見る、発見する、つくるためには、汚れていない眼球が必要であり、その汚れていない眼球をもって、光をうしなった闇の中に入っていかなければならない、という逆説的な手法がみえてくる。「汚れてはいないが、見ることのできない目」をもって進むことがいわば「身支度」することであり、詩を書くということが書き手にとってどのようなものであるのか、そこからくっきり読み取ることができる。詩とエッセイが相互補完的な関係になるよう企図されていることがうかがえる。

詩誌『Rurikarakusa』は三名の詩人のメンバーの詩作品を展開する場でもあると同時に、このような紙面上の編集、組み合わせの妙によって詩、そして詩にとりくむ個人をひろく紹介しようとする試み、と読める。その試み自体がまず刺激的だ。

インターネットの一般読者・・・・にむけて詩についてかたる詩と書評のサイト《千日詩路》は、昨日とりあげた詩誌や、『Rurikarakusa』のような詩誌を応援している。

◇ ◇ ◇

三名の詩人メンバーの詩については、別の機会にまた取り上げるとして、最後にそのうちのひとつ、わたしが好きな草野理恵子の詩を。

雪まじりの雨が降り注ぐつめたく残酷な世界の浜辺に流れ着く、かつてひとであったものの一部。それは靴下になぞらえられ、そのことばはとどかず、つめたい水辺に沈んでゆく。とどかないもの、ただながれてゆくものたち。

冷たい雨が降り続いた
水滴な病室の窓を伝い部屋の隅に溜まった
見知らぬ君は靴下を脱いでいた
僕は雨のカーテンの隙間から見た

雨のカーテンは開き 君の姿を見せた
君の荒い息が水面をよじり
さざ波をおこしていた
波が僕のベッドの足元まで押し寄せた時
両手ですくい口をつけたかった

長い時間をかけて靴下を脱ぎ終えた君はまた
高く脚を上げてベージュの肌を剥ぎ取り始めた
美しく白い脚は幾度となく高く上げられ
雨が上がったあと
月が幾度となく苦しみの表情を照らし続けた

深夜 氷の浮いた海に君の靴下が浮いた
半透明のベージュ色の薄布は
羽衣のように震え消えた
皮を剥ぐように苦しげに脱いでいた
月は君だけを照らしていた

草野理恵子「靴下」
第一、二、三、四連

『詩誌 Rurikarakusa 9号』詩誌情報
Rurikarakusa
発行人 青木由弥子
号数 2018年 9号

詩誌『季刊ココア共和国 Vol.20』

詩を《読む》とは、世の中に必要とされない《私》を読み直すリ・リードこと。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。
本日は祝日三連休明けの火曜日。外からは秋の虫の声がきこえてくる。今週は平日が少ないこともあり、少し詩集を離れ、詩誌を特集してゆきたいと思っている。

本日は詩誌『ココア共和国』を紹介する。『ココア共和国』は、詩人の秋亜綺羅が主宰する個人詩誌で、既刊として二十一冊が発行されている。個人詩誌という位置づけながらも、詩だけにとどまらず、ミュージシャンや歌人をはじめジャンルを横断する作家を招待し、作品を掲載しているユニークな詩誌。「小特集」として一人の詩人にスポットを当てるコーナーを有することも特徴。わたしの知人(#ex002)が編集に携わっていることもあり、本日はそのうちすぐに入手できた第二十号を取り上げる。本号は、詩について四名による四作品、詩の小特集一名につき五作品、歌人一名の二十八首を、三十四頁に収める。

脳は孤独だ
誰にもわかってもらえない
オレの脳は
オレにもわかってもらえない

脳がなんなのか誰もわからない

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか
ほらほら
それさえはっきり言えないくせに
よくも平気で生きてるもんだ

あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに
人は自分たちが作ったと思っている
そう思いながら
笑ったり
怒ったり
悲しんだり
苦しんだり
魚食いまくって
鶏を食いまくって
豚を食いまくって
牛を食いまくって
何十万人も殺し
何百万人も殺し
何千万人も殺し
テロしたり
「神様」とか言ってみたり

(…)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
その時オレはどこでなにをしているんだ

いがらしみきお 「孤独な脳」
第一、二、四連

説明する必要もないかもしれないが、いがらしみきおは『ぼのぼの』で知られる国民的漫画家。第一線の作家はなにを書(描)いてもおもしろいという見本のような作品だが、ここでいわれている「脳」が「ことば」や「意味」のことだということに読む驚きがある。

これはことばによってことば(私)を考えることはできない、という不可能についての詩であり、ソーシャルメディア全盛の時代、すなわち過剰なテキストの氾濫のなかに住まうわたしたちについての詩、つまり現代についての詩に違いない、という思いを持つ。高度情報社会とは脳を脳たらしめることばによる社会であり、考えているはずの脳の所在が曖昧で不確かになる(「あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに」)時代のことでもあるからだ。

そして、たかがことば、または「脳」が作り出した虚構にすぎないものによって、わたしたちは生き、殺し合い、《私》を見失う。わたしたちという存在の(普段は考えられることのない)軽さ、不確実さ、寄る辺のなさは、その虚構の上にのみ成立する砂上の楼閣にすぎないという事実によっている。だから脳はいつも孤独なのだ、といがらしの詩はいっている。そこにはジャンルのことなる漫画家に詩をしてやられた・・・・・・感があり、これは編集プロデュースの成果に違いないと思う。

もう一つ、ジャンルを横断する作品を。シンガーソングライターの佐藤龍一によるもの。長い詩で、一部を抜き出してみよう。

16時。初夏の電車は寒い。ここは共和国。ことば共和国。電車のアナウンスが詩であるならば、全ての路線は開かれた迷路だ。時間という嘘と移動という迷宮が私という不明を上書きする。お待たせしテンションプリーズ。夕方。この駅には出口がない。いやこれは駅ではない。形而上学的なイソギンチャクだ。

19時半。本日のライブが開演する。見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する。ものを考えたら負けだ。ブルースが錯乱する。時の彼方から認知症がゆっくりと近づいてくる。現在、現代、永遠の現在。ここより遠く我が陣地なく、今より他に時はない。

2時。夏休みの宿題。この世で幻想でないものを見つけなさい。

銃弾。紋白蝶。海。

佐藤龍一 「銃弾・紋白蝶・海」
第一四、十五、十六、十七連

十七連にわたる散文詩で、時間順に語り手の行動が二日間にわたってかたられてゆく構成になっている。いがらしの詩と(おそらくは)はからずも共通しているのは、これがことばについての詩だということで、「見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する」ことには、読まれるものとして作品を書くとき、そこには特権的または超越的な立場など存在せず、書き手もまたひとりの読者にすぎないという当たり前の理解がある。だがその当たり前のはずの理解は、専業的作家になればなるほど遠ざかるものでもある。だからこそ「ものを考えたら負け」なのだ。

こうした行の鮮烈さは、肉体を駆使するミュージシャン(あるいは、肉体労働としての漫画執筆)のすぐれた身体的感覚によるところが大きいのかもしれないということを感じる。また、「この世で幻想でないものを見つけなさい」は、思わず口にして何度も読み上げたくなるすばらしい一行。もちろんそんなものがないことは書き手がいちばんよくわかっているはずで、だからこそそれは「宿題」として最後に置かれている。

『ココア共和国』の編集前記では、それぞれの作家について秋亜綺羅による紹介がされている。佐藤については「70年代のシンガーソングライターたちを現代詩人として迎えなかったのは、文学の失敗だったと、わたしは思っています」とある。文学――あるいは現代についての詩――の失敗とは、端的にいえばこの数十年で読者が消滅し、社会からほとんど必要とされなくなったことを指すのだろう。

では、それではどうしたらよかった・・・・・・・・・のか、ということに対する答のひとつ、それがこの詩誌なのだろうということを思う。佐藤が示唆しているように、ことばによる連帯、あるいは、いま・ここにあるみえない連帯をつくりあげること。「電車のアナウンスが詩」になりうるような場を用意すること。それが「ココア」と名付けられているのはおそらく、編集部の含羞なのだろう。

なにもかもが露呈し、さらされ、拡散される二〇一八年、そうした含羞をすべての詩人、あるいはまっとうなものを書こうと日々苦闘するあらゆる書き手が共有しているはずである。わたしたちの困難とは、世の中に「必要とされるもの」の圧倒的な退屈さに耐えること、さらにいえば、必要とされないものを必要としてしまう自らをなんの根拠もなく信じることである――つまり、脳なく、ものを考えずに。

◇ ◇ ◇

最後に、詩人の宇佐美孝二を特集した小詩集からわたしがもっとも好きな詩をひとつ。
わたしたちの人生をなんの意味もない白いことばが満たしてくれる。そういうしゅんかんがあること、それをしずかに思い出させてくれる。

夏の休みに厭きて音楽に手をだすと
水の底から汲み上げられてきたみたいに
音が満ちてきて
いままで聴いてきた音楽だのにまだ満ちてくるものがある

立秋を過ぎていまごろ会社にはまったく人がいないだろう
それどころか
この夏にはあちこちに散り散りになり
つまりは残された最後のひとりが
おれってわけだ

(…)

あかさたな
しはしろい
なんて、
意味もないことを口の中でころがす

逝ってしまったともだち
まだ満ちてあるもの

宇佐美孝二 「あかさたな、と呟けば」
第一、二、四、五連

詩誌『ココア共和国 Vol.20』詩誌情報
季刊 ココア共和国
出版 あきは書館
号数 2016  20号
価格 500

【番外編】詩誌『水盤』(2018年-19号)

本日は水曜日。週の折り返し地点だが、台風の被害を受けたかもしれない読者諸氏のことが心配だ。わたしも経験があるが、本を含めた家財をうしなうのはきわめてつらい。長い間手元にあったものは、関連する記憶も含めてほとんど自分の魂そのものだからだ。だが大丈夫だ。なくしたものは、別のかたち・・・で還ってくる。

◇ ◇ ◇

詩誌『水盤』本日は偶然詩誌が二冊ポストに届いたのでそのうちの一冊を紹介したい。

詩誌『水盤』(2018年19号)は、北九州近郊に在住する詩人たちによる詩誌で、参加メンバーは五名、本号は四十四頁に詩作品等九編他を収める。非売品として頒布されており、過去号についても編集部書架にいくつかが保管されている。

 

 

雨の匂いがして窓を開け放つと
季節は移ろっていた
雨はやわらかく跳ねていた
蔓豆もつるは
意志とは無関係にのびるのだ
すでにわたしを置き去りにして

両手を広げる形の半島の突端では
祈りのような寂しい雨が振る
過去に過ぎない故郷の海に
何を残してきたというのか
あかね色に染まった西の海
わたしはそこへ回帰するというのか
おもしろくもない物語だ

福間 明子「蔓豆を蒔いた」 第二、三連

個人的な話をすると、わたしは房総半島出身で、子供時代はマレー半島の突端にある島国で育ち、半島には縁がある。だがそれらが故郷かというとそうとは思っておらず、いちばん長く暮らした東京西部がわたしのふるさとだと思っている。

半島、と聞いたとき、わたしはことばの海をわかつもの、ひらくもの、きりさくものとしての突起といったものを想起する。それは不定形のふるさとと呼ばれる場へと土による道をひらくものであり、それによってわたしたちは帰ることができる。だが、福間のいうとおり、そんなものは「おもしろくもない物語」ではないだろうか。どこにも帰らず、どこにも行かず、繁茂することばの豆をいま・ここで蒔く。「わたしを置き去り」にすることばこそ、いま生きる帰るところのないわたしたちに必要なものではないかということを思う。

陽は稜線を転がりながら
今日を暮れようとする
入り海では魚が跳ね
波の色を忙しなく変えて
水は膨らんだかと思うともんどり打って
祭りの踊り子みたいだ

永遠に失われる一日と
わたしの〈今日〉が重ならない
厳かに見送られるものを
わたしは何ひとつ持たず
くり返してしまう今日と明日
二度と出会えないものの喪失に
わたしたちは慣れようとして必死だ

森永かず子 「落日」 第一、二連 部分

海の近くで育つと、落日はとくに珍しくもない光景だ。巨大な灼けつく光球が粉々にくだけながら水平線を越えやがては夜がおとずれる眺めは、なにか偉大なものがこの世にはたしかにある、と錯覚する一瞬をもたらしてくれる。だがしばしばそのことに気付くのは、なにもかもなくなってからである。具体的には、海がコンクリートで埋め立てられ、大気は汚れ薄灰色になり、思い出のあった家屋は跡形もなく取り壊された後、記憶の中でそうした光景がはじめてよみがえるのだった。

そこには森永がいうようにずれがある。森永はそれを「永遠に失われる一日と/わたしの〈今日〉が重ならない」と書く。わたしたちはそのずれに慣れることなどできない。だがわたしたちは、そのずれによって、自分がいまいる場所がまがいものにすぎないこと、だがそこにはかつてほんとうのなにか・・・があったことを知るのである。それが詩の力なのだ。

◇ ◇ ◇

詩誌の最後に、「140-Net」と記された、複数の詩人による連詩の試みが置かれている。ソーシャルメディアである Twitter の文字数一四〇文字という制限の中で、次々と詩を作ってゆくもの……なのだが、これはそのままソーシャルメディア上でアカウントを製作し実施したほうがおもしろいのではないかと思えた(が、やらない理由もよくわかる。わからない詩人が本邦にいるだろうか?)

書籍なのか、雑誌なのか、詩誌なのか、それとも電磁的媒体なのか、ソーシャルメディアであればそれが Instagram なのか Twitter なのかそれとも Facebook なのか、そうした形式のどれを選ぶのかというのもまた、詩という作品における重大な戦略であることは疑いようがなく、そうした形式たちがなにを意味するのかあらためて言語化することが二〇一八年の詩人に求められているような気がしている。

だがやはり六連が好きかもしれない。だれもが友だち、インターネット。

気づかない愛によってだれもが友だちで
休んでいるときは死んでいる風に吹かれている

「140-Net」 第六連

◇ ◇ ◇

詩はおもしろい。

《千日詩路》編集部がほんとうに・・・・そう思っているかどうか。それはわたしたちが紹介している作品によって判断してもらいたいと思っている。というよりも、読者を騙すことなど、ほんとうはだれにもできないのである。

《千日詩路》は、ソーシャルメディアから一定の距離を保つウェブサイトだが、それには理由はある。だがわたしたちはその理由について長々とかたることなく、ただ粛々と、おもしろいものをおもしろいと書くことに注力したい。

(2018年9月5日)

【広報】「現代詩 闘うことばの祭典」宮城県詩人会 詩祭 2018 + α

さて月曜日。一週間のはじまりだ。近く日本列島には台風が上陸するそうだが、房総の風景はすっかり秋にかわった。外では虫たちの鳴き声がかさなりあい、日々おとろえつづける夜をみたしてゆく。

◇ ◇ ◇

宮城県詩人会「現代詩 闘うことばの祭典」本日は、宮城県、仙台市にて九月三十日(日)に開催される現代詩のイベントを紹介する。

《千日詩路》編集部にイベントを知らせてくれたのは登壇者の佐々木貴子。彼女は一九七〇年岩手県生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。告白の装いをまとい傷にまみれながらもなお他者にひらかれた詩を指向する技巧派――という印象を個人的にもっている。

仙台近郊にお住まいの読者諸氏の参考になれば幸いだ。

 

宮城県詩人会 詩祭 2018「現代詩 闘うことばの祭典」

日時:二〇一八年九月三十日(日)午後一時~午後四時半
1.講演:高橋玖未子「東北——その詩的視点」
青森県在住、日本現代詩人会・日本詩人クラブ会員、「飾画」「青い花」同人。詩集『けもの落とし』『アイロニー・縫う』『夢虫』、評論集『詩を問い続けて—私的詩論集』ほか

2.朗読劇:西澤由美子
Gin’s Bar 演出・女優、グラフィックデザイナー。1960年松島町生まれ。劇団I.Q150に1980年より参加。「BLUE CITY」から2000年「女ともだち・5」まで350以上のステージに出演。2001年よりGin’s Barにフリーの演出として参加。現在まで15作品を演出。4作品に出演。2008年、原田勇男さんの選詩集「抒情の宇宙」を朗読しCD化される

3.演奏、トーンチャイム奏

4.会員朗読:
秋亜綺羅+井上英司+伊藤文恵
大林美智子、佐々木貴子、武田こうじ
伊達泳時、千葉貴史、日野修

会場:仙台市民活動サポートセンター
仙台市青葉区1番町4丁目1-3
入場料:1,000円(入退場自由)

予約/問い合わせ先
宮城県詩人会詩祭実行委員会 〒980-0801 仙台市青葉区木町通2丁目6-53 あきはビル4F TEL 022-205-8510

◇ ◇ ◇

イベントに関連し、そこで朗読を行うという佐々木の詩をいくつか紹介してみよう。いま手元に彼女の詩を特集したあおい満月による個人誌『下弦の月』(2018年、ポエケットにて入手)があり、そこから引用する。

翼を持たない者にも開かれた空
青は染みやすいから、と
天上の人は言う

指先から青が入ると
青は隅々まで行き渡り 静かに
わたしを縁どって
やがて、深い海をつくる

あれは、鳥ですね
向こうは、魚

空の歯車は
音もなく正確に回る
(放たれた鳥も魚も喜んで
天上の海を駆け
いつまでも泳ぎ続ける)

風で動かしているのではないのです
翼だけでは飛べないし
言葉だけでは飢えるから
天上の人は目を細め
わたしの海に舟を出す

「天上の海」第一、二、三、四連

「翼を持たない者にも開かれた空」は、ことばによるひらかれた空間を指し、日常的なことばを使って書かれる佐々木の戦略のことなのだろうということを思う。そこにはだれでも足を踏み入れることができる、と書く。別の言い方をすれば多くのものが「難解」で「わかりにくい」と感じる詩とは明らかに異なる文体が意識的にえらびとられている。だがそうした読みを脇において素直に・・・読んでも、青に縁取られたイマージュはうつくしい。

いつの間にか飾られていた。隣には眼のないイノシシがいて、眼球のない窪んだ痕跡を見開き、わたしを一生懸命、見ようとしていた。あんた、いつからここに、と言おうとしたら、わたしには舌がなかった。「きみは愛される存在になったんだよ」。イノシシは、わたしの口の中に舌がないことを黙って確認すると、舌の代わりに、わたしに相応しい言葉を選び、そっと滑り込ませてきた。わたしが知っていたのは、飾られ、汚され、孕まされ、捨てられる、そういう種類の剥製だったけれど。わたしは自分で舌を抜いたのかしら。

「剥製」第一連 前半

不毛と豊饒、過度な関心と無関心の往還を強いられる女性性をみる読みがある。一方、舌をうしなうことによってのみ愛される存在になることができること、さらに「眼球のない」存在によってのみ自分に相応しいことばを選んでもらえるということ、こうした背理をわたしたちはどこかで、いや毎日のようにこの社会で目撃しているように感じる。剥製、はわたしたちのすぐ隣にそっと配置されている。

姉は雲形定規、わたしは分度器だった。形のない愛に輪郭を与える日々。朝も昼も、日が沈むまで居場所を探している。家族の中に。

この街は空に委ねられていた。雲が見張る。雨が濡らす。姉の視線に怯えるわたし。街よ、絶えず注がれる目に泣くな。泣いてはダメ。

ワンピースの裾と姉の心はよく揺れた。姉は勢いにまかせて飛んで行った。風がなくても、身体も心もスカートも、家族も捲れたまま。

「分度器の空」第一、二、三連

「分度器の空」はわたしが知っている佐々木作品ではもっとも好きな詩。

ウェブ上のテキストでは再現できずわかりにくいが、紙面ではそれぞれの連が短冊形に三行ずつ、なんらかの石碑のように並べられている。「姉」と名付けられた喪失が雲形定規として記されているのは、その定規が空虚そのものを周辺の線によって明らかにする道具だからである。その空虚はまた「愛」とも呼ばれている。

《世界》は曖昧で、不定形である。だから定規や分度器によってみえない線を引く、それによってばらばらになってしまった喪失そのものの在処を明らかにしようとする。その線を引くための困難な道程、それが彼女にとって詩なのだろう。線を引けたとしても、そこにはなにもないとわかっていても。

ひとは詩によって喪失をえることができる、そういうことを教えられる。
そこには希望がある、と、嘘を書くことはゆるされるだろう。

(2018年9月3日)

【番外編】詩誌『侃侃』(2018年-30号)

さて、本日は木曜日。詩の書評をひらかれたインターネットに提示するウェブサイト、《千日詩路》へようこそ。

本日は番外編として詩誌『侃侃』を紹介する。
詩誌とは、一般的なことばでいえば同人誌なのだが、以前「詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在」(#0006) と書いたことを思い出してほしい。そのグループが作っているのが詩誌、と考えるとややわかりやすい。

詩誌『侃侃』は、福岡の出版社、「書肆侃侃房」発行。書肆侃侃房は詩、短歌、小説等を扱う文芸出版社で、インターネット上では、勢いのあるソーシャルメディア向け企画と、数々の歌集の出版社として知っているひとも多いだろう。同社発行の総合文芸誌「たべるのがおそい」からは芥川賞候補を続けて輩出し、しずかな話題ともなった。

詩誌『侃侃』三十号は、詩十九編、論考・エッセイ四本を収め、参加メンバーは九名。なお、本記事が番外編なのは、詩誌は入手が比較的困難で、原則としての「一般流通する詩集を取り上げる」という本サイトポリシーから逸脱するというただそれだけの理由による。

◇ ◇ ◇

本日ポストに届けられた詩誌を読んでみよう。そのうちからふたつほど。
#0007)でも紹介した井上瑞貴の詩から。

愛を高めるためにはがきを買いに出た。
どこを吹く風もずるずるとあたたかい
ぼくが勉強しているあいだ遊んでくれるぼくの分身が
木陰で休んでいる
彼のために木陰があり
木陰のために彼がある

(木陰は木陰のありかたを彼にしめす)

井上瑞貴 「数行のはがきを書いている」第一、二連

「彼のために木陰があり/木陰のために彼がある」、AはBのためにあり、BはAのためにあるという相互補完的な関係が記されている、はずなのだが、二行が循環することでそこにA=Bという背理がかたられているように見え、わけもなく魅力を感じる(たとえば、インターネットにはわかりやすいことばばかりが氾濫しているが、それは完全な嘘――というのが言い過ぎであれば、わかりやすさというのもまた一種の虚構のたぐいではないか)。

愛を高めるために、のあとに見えない一行「愛を低めるために」を想像する。愛は高めることも低めることもできない(はずである)。書き手は勉強しながら遊び、あるいは遊びながら勉強し、じつはそのどちらも行うことができない。木陰のあり方とは、その矛盾そのものを一時的に分身に仮託し、かれを休ませる場所を想像力によって遠望することなのかもしれない。目の前にあるはずの木陰への距離感に惹きつけられる。その木陰、にはおそらく幾千の陰影がちらばっているのだろう。それは断片化されただれかの記憶なのかもしれない。

小さな鼠の骨で花をつくる人がいる。
莫大な時間をかけて花ひらかせていくのだ。
徳重秀樹は「骨花」と書いて「こつばな」と読ませる。
透き通るように白い影。
彼は、写真に収めたあと、土に還すという。
その鼠の薄い骨で作られた骨花を眺める。
心に薄い膜がかかる。

田島安江「骨の花」 第一連

今回の詩誌でとても好きな詩のひとつ。ハムスターなどのげっ歯類を飼ったことがあるひとはわかると思うが、かれらの体はとても小さく、骨は脆く、げっ歯類に限らず小動物は死んだあとに火葬するとほとんどなにも残らない。骨花またはなんらかの祭儀のために亡骸が残されるのは、そこに遺骸を利用しようという意思があるからである。そこにはどこかグロテスクなものがあり、それを見るわたしたちの「心に薄い膜」がかかる。その膜が骨から距離を置くものなのか、それとも骨をつつみ中に取り込むためのものなのか、それは明示されず読者は宙吊りにされる。生も、死も、骨がうつくしい意味も、それを見ている自分の気持ちも、なにひとつわからない。そのことが魅力なのだ。

田舎でも、都心でも、街にも自然にも死があふれている。土は昆虫たちの死骸の堆積であり、砂浜はくだかれた骨の堆積だ。詩はくだかれたことばの埋葬場であると書いてみたい気がする。いや、それは考え過ぎかもしれない。おそらく、これを書いているいまが本邦の八月三十日であり、弔う、ということばについて、考えざるをえないからなのだろう。

◇ ◇ ◇

最後に、装丁について。紙の厚さや寸法など複数の要素によると思うが、『侃侃』は詩誌として物理的に持ちやすく、頁をめくりやすく、リーダビリティが高い。あまり注目されない点だと思うが、毎回わりと驚いているので書き残しておきたい。

(2018年8月30日)

詩誌『侃侃』詩誌情報
詩誌 侃侃
出版 書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)
号数 2018年 30号
価格 300円