為平澪『盲目』

――眼がみえないので、誰も暴力をふるわなかったよ?

◇ ◇ ◇

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佐々木貴子『嘘の天ぷら』

「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもう・・でしょう。もう・・勿論あのことはご存知の方でしょう」

三島由紀夫『仮面の告白』

◇ ◇ ◇

《読むこと》をとりもどす、詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。

さて本日は金曜日。編集部がある関東近郊は一日雨が降り続き、かなり寒さを感じる天候。今週は《千日詩路》では詩誌を特集してきたが、最後に今月出たばかりのあたらしい詩集を取り上げようと思う。先日別の記事でも紹介(#ex002)した佐々木貴子の詩集、『嘘の天ぷら』である。

『嘘の天ぷら』は佐々木貴子の第一詩集。彼女は一九七〇年岩手県盛岡市生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。現在は仙台にて詩誌『ココア共和国』に編集として携わっているとのこと。なお本書は仙台より郵送で頂いた。

わたしは佐々木とその作品のことは数年前から知っていたが、それは当時わたしの家人の詩が『詩と思想』の投稿欄で、よく佐々木貴子と競うようにして並んで掲載されていたからだ。本詩集を読んで、当時のことを懐かしく思い出した。

さて、本詩集は二十六編を九十六頁に収める。巻頭と巻末に行開け詩が置かれる以外の他はすべて散文形式となる。

表紙のイラストレーションは宇野亜喜良の手によるもの。表紙には、天ぷらとおもわれることば「ni」(に)と「shinai」(しない)を箸で持っている女性がいるが、折返しには「hitori」(ひとり)という天ぷらが隠されている。折り返し部分の下のほうにはさらに「uso」(うそ)と吠えるイヌ科の動物が描かれ、つまり組み合わせると次のようないくつかのメッセージが読める。

ひとり/に/しない/嘘
嘘/に/しない/ひとり
詩ない/ひとり/に/嘘

表紙から詩作の戦略が読み取れる。さまざまな含意があるが、ひとつはっきりしているのは、この詩集が嘘をめぐっていること、それも三島由紀夫の『仮面の告白』のように、冒頭からそれが嘘であることが明白に記されているということ。そのことに留意し、読み進めてみよう。

巻頭詩は詩集の題名ともなった「嘘の天ぷら」。

今夜も
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

「嘘の天ぷら」第一、二、三、四、五連

個人的なことから書くが、わたしは下手な料理が趣味で、毎日なにかしら必ずつくっている。だが料理のうちで、もっとも苦手なのが揚げ物だ。温度管理、油の保存方法、経済性、摂取カロリー量、清掃の手間……こうしたことの煩雑さを真剣に考えたとき、いつしかわたしは揚げ物をしなくなった。今晩の夕食も揚げないコロッケをつくった。

天ぷら、は、相対的にみて、家庭料理のうちではかなり手間のかかる部類だ。この詩ではそれをほんらい食べさせるべきだれか・・・との関係性の深さが示唆される一方、その浅さ(嘘)もまた同時に書き込まれている。もちろん、嘘とは、「わたしを一人にしない」という約束がだれにとっても達成不可能なものであるということであり、はじめから約束が成立しないことがあらかじめ了解されていることである。

嘘、にかたちを与えねばならない。高温の油の中でうつくしい花びらのように羽根をひろげる芸術作品としての天ぷらの衣、それは咀嚼され粉々にくだかれる前に、ほんのひととき鑑賞者の眼を楽しませるためにだけつくられるものだ。その嘘を詩として提示することが本詩集の目的とひとまず読む。

ご存知のとおり、漂白しても白くなる子と、白くならない子がいるんです。大変、言いにくいことですが、お子さんは既にかなり濃い。学校で対処できるうちに何とかしましょう。今ならまだ間に合いますよ、お母さん。家庭訪問の日、先生はお母さんの顔をのぞきこみ、丁寧に説明した。お母さんは勝手にわたしの漂白を決めてしまった。通常、女子は一回で漂白できるはずなのに、わたしの場合は難しいとのこと。帰宅したお父さんは、わたしを見てイヤな顔をした。一回目の漂白は失敗したけれど、二回目では僅かに変化があった。三回目では上半身、四回目で初めて下半身がキレイになった。五回目の漂白が終わって、ようやく先生はわたしのことを教室に入れてくれた。わたしには見えない、わたしの表情。先生は満足そうに深くうなずき、わたしの肩を抱いた。先生の安っぽい整髪料の匂いが、せっかくの白さを傷つけるような気がして、わたしはとっさに先生の身体を避けた。白こそ全てなのです。汚れのない白。

「漂白」前半 部分

巻頭詩を終えて、本体に含まれる詩作品を読み始めると驚くのは、頁をほぼ正方形に埋めつくす、改行、行開けのない詩連である。そこには意図的な読みにくさが選ばれている、といえる。それは以前の佐々木作品を知るものにはやや驚きだろう(#ex002 にいくつか引用しているので、比較してみてほしい)。

大部分の詩においてこの様式がまもられ、一作品あたりほぼ一頁から二頁。その読みにくさによってなにがあらわされているかだが、嘘を嘘だと告白するときの含羞と考えるのがまずは自然だ。そもそも隠したいことがあるからひとは嘘をつくのであって、それを告白するということにはなみなみならぬ勇気がいるものだからだ。その時、ことばは乱れ、吃音が生じる。いいかえればかたりにくさ・・・・・・が生じる。そうしたひとの有り様そのものにかたちが与えられている。

「漂白しても白くなる子」と「白くならない子」は、嘘をついてきれいになることができるひと、と嘘をついてもきれいにならないひと、と解釈することができる。少しうがった見方をすれば、佐々木の過去作品にみられた、技巧としての改行(空白)の活用こそが、嘘にすぎないのではなかったか。少なくとも著者はそう自ら示唆しているようにみえる。

佐々木は白くあることを告発する。そんなことは不可能であり、ひとははてしなく、技巧のうしなわれた渾沌たることばに真っ黒になるまで支配されている。そうした現実を自らに対してごまかすことによってのみ成立するものこそが、佐々木のたたかう相手である、と読める。それは嘘とたたかうこと、そしてその手法とは、嘘であることがだれにもわからないようなかたちであらわれる、変幻自在の怪物の正体をあきらかにすることである。その怪物は、佐々木の詩集においては便宜的に「先生」や「お母さん」とよばれている。

先生は少し困ったように首をかたむけ、静かに目をそらしました。これは夢だ。だってあの先生、知らない仮面をかぶっていたもの。もう一度、教室をのぞきます。その時、誰かが肩に手を置きました。後ろを振り向くと、お母さんと同じ仮面をかぶった女の人が笑っているのか、泣いているのか分からないような声で、ほら、あなた、忘れ物よ、と言いました。そうでした。仮面を家に忘れてきたのです。でも、どうして学校では仮面をかぶる必要があるのでしょう。女の人とお母さんの仮面が同じだったことも不思議です。同じ仮面もあるのですね。夢の中なのに、今日は吐く息が白いのです。かじかんだ指先も、冷えきった足も、疲れた心も、どれも、わたしでした。

「氷点下」中盤 部分

だれしもが嘘をついていることに無自覚な空間、それが「学校」とよばれている。くりかえされる(空)白は、ことばのない世界があればいいのにという果てのない願いであり、あるいはことばをえる前の佐々木が育った岩手の冬の光景なのかもしれない。

「お母さん」であった存在は分裂し、著者個人の《私》の小さな個人的な物語は拡散し、《私たち》の物語へと変貌してゆく。それは肉となった仮面が顔にへばりついた者たちがすまう画一的なことばの空間スフィア、つまり二〇一八年にいきるわたしたちがよく知っているものである。そこではだれひとりとして仮面をとることができない。なぜならそれは「どれも、わたしでした」というほかないほど、自らにへばりついて取れないからである。

中止にする。一度目は単なる試み。二度目は挑戦。三度目の今日、僕自身の完成を目指し、この企てを実行する。早朝、連絡網で「体育祭の中止」が知らされた。詳しいことは登校後に校長から説明があるという。「お弁当、持って行くのよね」と母さんが台所から顔を出した。母さん、弁当ができても、できなくても、体育祭はいつだって中止なんだよ。去年の体育祭も中止。一昨年も中止。僕が在校生でいるうちは、体育祭は何度でも葬られる。毎年、サトウもキクチも、体育祭の中止をとても喜んでいた。僕らは体育とは最も縁遠い存在としてみんなに知られていた。誰もはっきりと口には出さなかったが、僕よりもサトウ、サトウよりもキクチが体育祭を阻止する「学校爆破予告の犯人」にふさわしいと感じていた。むしろ、実行犯に違いないと誰もが思っていた。登校後、最初に僕らはキクチの自死を知らされた。明け方、校庭の真ん中でキクチは発見されたという。体育祭どころではない。爆破予告の犯人は、学校を爆破せずに自爆。体育祭のこの日を選び、会場でもある校庭を選んだ。誰のために。キクチの遺書が発見された。遺書の最後は感謝の言葉で結ばれていた。「毎年、体育祭を中止にしてくれたこと、心から感謝している。本当にありがとう」

「企て」前半 部分

嘘の蔓延する場をこわすために企図されるものはテロリズムである。それは圧倒的な強者である社会を前にした弱者が唯一選択できる(かのようにみえる)手法だからだ。この詩ではその社会が「体育祭」とよばれている。だが祭りを中止するべく企てたキクチは自死する。着目すべきなのは体育祭の中止という目的が、企てを自ら放棄・・・・・・・することによって、実のところ達成されていることである。それは詩を完成させないことによって、その代償としてえられるものがあるはずだ、という著者の確信を感じさせる。いや、もっと具体的にいうべきかもしれない。それはたとえば「完成度」という実のところ恣意的な基準を、いっさい信じないという宣言のようなものである。

わたしは風に選ばれたのです。屋上の教室に通うために。机も椅子も必要ありません。時間割は風が笑いながら吹き飛ばしていきました。空は青い黒板でした。風が走り寄ってきて、わたしを慣れた手つきでめくっていきます。気持ちいいのです。風に読まれることが。風は始終、わたしという物語に泣いていました。これまでわたしを読んでくれたのは風だけでした。屋上のドアは開閉を忘れていました。わたしも忘れていました。あれから、どれくらい経ったのか。今年、先生は入学したばかりの生徒たちを屋上に連れて来ました。「ほら、とってもいい眺めなんだよ」と言いました。そして「気をつけて。ここは、以前、事故があった場所だから」と。一方で、風はささやいています。「そろそろ新しい読み物が欲しい」と。

「屋上」後半 部分

ことばの牢獄たる言語的構造物(校舎)を抜け出して屋上に出てみても、そこにあるのは出口ではなくまた別の階層に過ぎなかった。それはひとびとの言語化された物語が消費され、読み捨てられる場であり、気持ちのよい風はただあたらしく消費されるものを呼びよせるための道具にすぎない。

選ばれるということ……それには特定の社会的地位も含まれるが……は選ばれる側にとって一時的な恩寵である可能性が(「気持ちいいのです。風に読まれることが」)示唆されるとともに、それは実のところ恣意的に選び出される(しかも悲劇的な)見せ物に過ぎないという現実の有り様が同時に示されている。具体例を思い浮かべるまでもなく、それは嘘と真実の見分けが付けにくくなった、あるいはそのふたつを区別する必要性をだれも感じなくなった扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代を指し示している。

やさしい家に行くならば、心を持っていってはいけません。心を取り出して、いたずらする子鬼がいるからです。わたしの心が真っ白すぎる、弱すぎるといって心を取り上げ、唾液をつけて磨こうとするのです。心は磨かれているのでしょうか、それとも汚されているのでしょうか。黄ばみつつあるわたしの心を母は臭いと言いました。

やさしい家に行くならば、きれいな服を着ていってはいけません。困ったことに母の用意する服はどれも、きれいなものばかり。子鬼は怒りながら、わたしを裸にします。寒がるわたしの前で、わたしの服を子鬼は胸に当て、袖を通し、鏡の前に立ちます。これ似合うでしょ。子鬼は尋ねます。わたしの口からも嘘が生まれるようになりました。わたしの服は子鬼の穿いていた毛糸のパンツと交換です。

やさしい家に行くならば、決して笑ってはいけません。ある日、大人がわたしに頬ずりして言いました。あなたの笑顔、かわいいわ。わたしは、いま笑っていたのでしょうか。子鬼は顔を赤くして抗議しました。ふだん、笑わないから可愛く見えるだけなんだ、とも言いました。わたしから笑顔を取り上げたのは子鬼なのに。わたしは子鬼の赤らんだ顔を見ながら、動物園で見た猿を思い浮かべました。

「愉快な地獄」第一、二、三連。

本詩集でもっともわたしが好きな詩。嘘にまみれ、肉となった仮面をかぶらざるをえないひとびとがすまうことばの牢獄。その怪物の臓腑が「地獄」と呼ばれることに読者はもはやなんの驚きも抱かないだろう。

この詩では本詩集ではめずらしく行分けがなされ、全部で五連、それぞれが長方形を構成するよう文字数は調整されて、その様子は、どこか、居間にたちならぶ複数の磨きあげられた銀の鏡を思わせる。そこに穢れとしての文字があらわれる。

「やさしい家」などないことはすでに読者には了解されている。あるいは嘘のない家、個人に理解のある社会、「わたしを一人にしない」恋人、などといったものが存在しないことがすでに了解されている。それはだれかが悪いから、ではない。社会が悪いから、ではない。それはことばによって嘘と真実をみわけることがそもそも不可能だからで、そこには根本的な欠損が内在しているからだ。

書き手がいくら考えてみても、いじわるをする「子鬼」の真意はわからない。あるいは、娘を傷つける「母」のこころはわからない。わからないものをわかろうとしたとき、ことばは壊れ、嘘がつくられる。嘘を憎んでいたはずなのに、いつの間にか自分そのものが嘘になってしまう。そうした姿は、つらくかなしい。だが、それをかたちにしようとする詩に、真の人間らしさ、勇敢さを感じる。

佐々木貴子は過去の作品と決別し、あたらしい文体とともにここにあらわれた。
ことばの不能性のうまれる場に立ちかえろうとした第一詩集。

(2018年9月21日)

佐々木貴子『嘘の天ぷら』書籍情報
嘘の天ぷら
出版 土曜美術社出版販売
発行 2018
著者 佐々木貴子(ささき たかこ)
価格 1400円+税

花潜幸『初めの頃であれば』

なぜいま詩を《読む》のか。孤立と断絶の時代を越える不可能な解に必要なものとはなにか。こうした疑問にこたえる前に、ひとつはっきりしていることがある。それは連帯アソシエーションをつくることではなにもなしえないということだ。よって《千日詩路》は、過去に会ったこともなく、未来に会うこともなく、まるで理解しあうことができないそれぞれの孤立と断絶の彼方にいる読者を、その遠さゆえに・・・信じる。

◇ ◇ ◇

さて一週間のはじまり、月曜日だ。関東はすっかり秋の雰囲気だが、まだずいぶんと暑さが残っている。

本日、わたしたちがめぐり会う詩集は花潜幸の『初めの頃であれば』(二〇一五年発行)。著者は一九五〇年東京生まれ、本詩集に収められた詩「初めの頃であれば」で第二十三回『詩と思想』新人賞を受賞。他詩集に『薔薇の記憶』(二〇一一年)、『雛の帝国』(二〇一三年)があり、本書は第三詩集にあたる。百頁に三十七編を収める。

幼くして亡くした母のことを何も覚えていない。ただ、母が教えたというこの歌を唄いながら眠ると、ぼくは夢の階で母を感じることができる。

父は母のことを語らなかった。母を忘れさせるため、自分も言葉を忘れたのだろう。

だから母はいつも蜜柑の形をしている。

「みかんの花咲く丘」第一、二、三連
※題名には「」があらかじめ付されている

「みかんの花咲く丘」は一九四六年、敗戦後まもない日本でつくられた歌謡曲。この詩でいちばん印象に残るのは、第四連にあらわれる一文字分の空白だ。それは「父」と「母」という単語たちに挟まれてさりげなく(まるで誤植のように)配置されている。その空白から詩があふれてくるように感じられる。ことばが逆流する磁場の中心にあるのは欠損で、その私的/詩的な核心をあらわす空白の一文字の存在を明らかにするために、文字をまわりに敷き詰めて埋めてゆく戦略が取られたのではないかと想像する。そこにあるのは喪失こそがえるための方法であるという逆説だ。

名前を呼ぶのであれば、明日のものにしなさい
とあなたは言ったけど

母が消えた後のこと、石にも火をつけようと、犬形の庭の灯籠を割った。中には黄桃の灯が隠されていて、私の肉に包まれた希望や感情を照らしていた。冬の雪は柔らかく、夏には冷たいあられが降っていたけど、私の履いた靴の踵は、小さく地の声を聴いていた。

「母が消えた後のこと」第一、二連

著者の選び取った方法がもう少し明らかになる。母と名付けられたなにか・・・を失った作品内の書き手が見いだした「あなた」は、「明日のもの」である名前を呼ぶことにしなさいと説くが、それはいまだ存在していないものの名前をもって、いまここにあるものを知るべきだということを意味するはずだ。それは思い出すためには不可能な跳躍をしなければならない、と解釈される。その跳躍とは、石に火をつけようとすること、あるいは石灯籠をたたき壊してなかにかくされた黄桃を見つけることだと書き手はかたっている。優しくゆがめられた現実のずれに詩があらわれる。

樺太から戻る五月の船に、魚は銅のように重く、月のように輝いていた。初めの頃であれば、宇宙の背中にも手を伸ばし、春の海を渡る風と話をし、浜で生きることを夢見ることもできたのだ、とあなたは語った。
そう初めの頃であれば、私もまだ母の手を握り、角々で出会う不思議な妖精や、花の声のことをあなたに話して、竹かごの作り方をぎこちなく笑って語ることもできたのだろう。

「初めの頃であれば」第一、二連

戦地から帰還した父の物語に基づき書き手が想像力の源泉をかたる。それは「初めの頃」と記され、ここではない代替的世界がさまざまなかたちで同時に存在していた可能性にみちた場だ。いまこの場にいる「わたし」と、かつてあらゆる道を選択することができた「わたし」の間を架橋することでもあり、その絶望的なまでに遠い距離をあらためて知ることでもある。それは不可能な旅であるからこそ痛切であり、わたしたちはみなこのような「初めの頃」をもっている。

第三連以降、より具体的な戦地の描写がつづき、わたしたちはふたたび社会派にかたよる読みへの誘惑にかられる。だがわたしたちは、昨今のソーシャルメディアに満ちあふれる、なんらかの企図に基づいたひとを操作マニピュレートする扇動的な《読み》から離れる加速度をたもたねばならない。

たとえば、うまれなかった胎児はあらゆる可能性をもっている。うまれなかったことば、伝えられなかったことばもまたあらゆる可能性をもっている。だが現実はひとつしかなく失われたものはえいえんに失われたままである。その現実以前の場へとたちかえる不可能な道をつくるのが詩の仕事だということを思い出させる。

次のような詩も印象に残る。

朝になると寝台を畳んで、熱いお茶を飲みながら湯気の行き先を確かめます。くもった窓を掌でこすると写し絵のように雪の風景が出て来る。紅いシグナルと青いランプが、交互に瞬いて、ゴトゴトという列車の走る音を引き立てます。いったい何処へ、と聞かれれば、今は忘れた国へと応えるしかありません。

「冬の家族」第一連

目的地はこたえられない。すでに名前すら忘れた国というしかない。そこに重ねられているのはたとえば戦後日本が失った(そしてすみやかに忘れた)満州、朝鮮、台湾など、名前と歴史を損ねられた国たちなのだろうと思う。第二連には姿の見えない父母がえがかれ、書き手は家族でどこかに向かっていること、そして行き先と帰る先もわからないことが示唆される。それは仮象の雪原を螺旋をえがいてのぼる魂たちがつくる列車の姿を想像させる。

雪降るホームの待合室。頬を濡らした幼児が蜜柑をつまみ口に入れる。小さな、とても小さな笑い顔。お婆さんは、しわになった広告を伸ばして、ほら、これを買ってあげようと玩具の象を指差している。戸口の近くに立つ男は、硝子に映した髭を触って独り言「何処まで行ったことか」と。向こうのホームに、青い駅員の影が二つ、カンテラを差し出して消えた線路の淵を確かめている。春の観光ポスターの下に、茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした婦人と、白い手袋の女の子。開いた掌に約束はもう何もない。

「待つひとたち」第一連

一行、他とことなる文がある。「茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした夫人——」そこで深く息を整えているのはだれ・・なのかという疑問が湧く。そしてそのあとに「右手」とある。編み物は両手でしか行うことができないから、その右手は婦人のものではない。すると自然にそこには息をなんらかの理由で深く整えなければならなかっただれかがおり、その右手に婦人がいる、と読める。

それは忘れられた記憶の待合室にふと立ち寄った書き手の姿なのかもしれない。その書き手は春がけして来ないこと、自分が遅れて(かつそれを死者たちに隠すために息を深く整えて)そこに到着してしまったこと、そしてかれらがそこでえいえんに待ち続けることになることを知っている。その場所に到達したかったが到達しえなかったこと、その透明な喪失感をわたしたちは共有する。書き手のことを個人的に知らなくとも、詩はその欠損のかたちを教えてくれる。

詩はわたしたちが忘れたかったが、けして忘れられなかった欠損としての愛、その記憶の空虚を、時も場所も越えてどこかでつないでしまう。わたしが本詩集でもっとも好きな詩である。

何時までも待っている人たち、
春を待つひとたち、
永遠と名付けられた人たち

「待つひとたち」最終連

(2018年8月27日)

花潜幸『初めの頃であれば』書籍情報
初めの頃であれば
出版 土曜美術社出版販売
発行 2015
著者 花潜幸(はなむぐり ゆき)
価格 2000円+税