麻生有里『ちょうどいい猫』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

はてしなくかくさんする《わたし》という不可能な夢をみている。

◇ ◇ ◇

続きを読む 麻生有里『ちょうどいい猫』

海老名絢『ひかりがやわい』

あらゆるところで、いつわりの嘘がかたられている。あるいはほんとうの嘘がかたられている。こえることのできない不可能な断絶のはて、詩はなにをかたるだろうか?

◇ ◇ ◇

さて、今日は月曜日。一週間のはじまりだ。

本日の詩集は海老名絢の『ひかりがやわい』。著者は個人詩誌『ことばのざんきょう』小冊子を発行。二〇一八年には『きょりかん』(私家版)にて第二十三回中原中也賞最終候補。本書の奥付によれば、詩の雑誌に投稿した詩を中心に、八十頁に詩二十六編を収める。なお装幀はほぼ正方形で、縦横十三センチ程。ポケットに入る大きさの、持ちやすく読みやすい詩集。二〇一八年ポエケットで販売されていたもの。

著者の名前は以前詩の雑誌の投稿欄で見かけたことがあったような気がして、書架にあった現代詩手帖を一冊抜き出してみると、すぐにひとつ見つけることができた。これは『ひかりがやわい』にも収録されているが、抜き出してみよう。

湖面は絶えずさざ波が立ち
汀のふちまで草が生えて
やわらかな風が吹く

沖合にはヨットが何艇も行き
釣り人たちは糸を垂れ
家族連れはお弁当を広げ
のどかな湖畔、
眺めるわたしは影を落とす

求めるものなどなく
ここへやって来た。
立ち込める匂いに
潮はなくて
静かに水が香る。

輪の中に満ちる
淡水、
漕ぎ出でていけば
川に乗り海へと、
汽水域を越えて。

交わるものが交わり
わたしたちは
わたしを新しくする。

そうして、幾度も生まれる
陽のひかりがやわい。

「汽水域」全文

好きな詩だ。最初は汽水湖を訪れた著者が感じたことなのかもと思いながら読み進めた。詩手帖の選評では強い意志がはっきりと浮かび上がってくる終盤が評価されていたが、わたしは「わたしたちは/わたしを新しくする」の二行をとても刺激的に感じた。交わる(べく定められているはずの)ものが交わり、わたしたちは(それぞれのばらばらの場においてのみ)わたしを新しくする、と読みを補足すると、意志、というよりは、そこに示されているのは気付き、理解であるように思える。

おそらくそれは湖畔で考えられたものではなく、どこか別の場所と時間軸における机上にて、淡水と海水が混ざり合う汽水域が想像されたのだろう。現実の汽水湖ではなく汽水「域」なのは、男と女、生殖と死、詩的なものと非詩的なものが混ざり合う場の可能性が著者の眼によってあらたに発見されているからだ、と読める。

(どこまで歩けば
(雨は落ちてくるだろう

空梅雨で長傘はくすぶり
折りたたみ傘は鞄に仕舞われたまま

わたしの表面はひび割れていて
すれ違ったあの人もたぶん
すり切れた箇所を抱えている

ぱさぱさとした髪の毛が
風に持って行かれて
肩に散らばる くもり空

身体はなまものだから
意志とは関係なく
開いたり閉じたり
乾いたり濡れたり
傷をつけたり
しては
季節と繋がろうとする

「季節と繋がる」第一、二、三、四、五連

「汽水域」でかたられていた交わりが、「繋がる」と言い換えられている。印象的なのは第三連で、語り手と「あの人」の間に共通のなにかが示唆されていると同時に、二人が理解しないまますれ違っていることだ。ソーシャルメディア全盛の時代、わたしたちは「繋がる」ことへの終わることのない渇望の中にいるが、著者はそうした用語タームにもたれかかることなく、自分の肉体の喩を用いてことばが「季節と繋がろうとする」衝迫をかたってみせた。季節とはなにか。最終連にヒントがあった。

なめらかには発語できない
この身体も
遠くの空に
雨雲を見つけたら
すれ違ったあの人にも届いて
潤い
夏を迎え入れる用意をする

「季節と繋がる」第七連

それはばらばらに分断されたわたしたちを繋げる(かもしれない)雨の可能性だということが示唆される。「なめらかには発語できない」と表現されるひび割れた関係性の欠乏が仮象の雨水によって満たされたとき、そこにあの人へ届く(かもしれない)道が想像される。

第一連で雨がやってこないこと、そして最終連で雨のおとずれが予感されるまでの運びは感動的で読者のこころをうつ——そこにどこかやわらかな諦念があることを含めて。

くたびれたいくつもの背中に
文字が刻まれている
きらめいてゆらめいて書き換わるから
読み取り不能の文字群、
眺めて深まる意図になびく言葉として
強引に結びつけた。

(…)

生きることと語ることの狭間で
列車の中におさまって揺れている。
口から出てゆかない音を
文字として背負っているのだとしたら
誰ひとりとして透明なその他大勢ではなくて。
空っぽの音がする身体を それでも
諦めないことに似ている。

「文字を背負う」第一、四連

ここでは再びすれ違いがかたられている。とくに目をひくのは第一連。それぞればらばらにわかたれた個別の人間の背中に読み取り不能の文字群が浮かび、お互いにことばによるやりとりができないことが示唆され(電磁的なやりとりに限らない)た上で、著者はそれを「強引に結びつけ」ようとする。

どこかへ向かって疾走する鉄の箱の中に閉じ込められた人々がお互いに無関心なまま携帯端末をそれぞれ違ったことばを用いて眺め続ける光景は、そのまま二〇一八年にわたしたちが生きる場をあらわしてもいる。

つまり、ばらばらになっていること、お互いに繋がりを持ち得ないこと、交わりの可能性が奪われていること、そうした困難な状況下においてなんらかの可能性を見いだそうとする意志がそこにある「空っぽの音がする体を それでも/諦めないことに似ている。」

その可能性が詩に託されている、ともいえる。孤立していること、それによってのみわたしたちは繋がることができる――といった背理がそこにある。これもまた現代についての詩だ、という思いをつよく持つ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが一番好きな詩を紹介して締めくくろう。
なにもかもが、管にすぎない《わたし》を通り抜けてゆく。だがそれがどうした、というしずかな声が聞こえる。一番小さな声こそが、孤立と断絶を超えてだれかを震わせるのかもしれない。そう思いたい気持ちをわたしも持っている。

いっそ透明
わたしはひとつの管
感覚を震わすものを
取り込んで流す

明後日には忘れているかもしれない
濃縮された
空と星、
指先に触れる
密やかな空気。
受け止めて噛み砕く、
そうして文字を、声を発する

(あなたを震わすことができていますか

「感覚の管」第一、二、三連

(2018年9月10日)

海老名絢『ひかりがやわい』書籍情報
ひかりがやわい
私家版
発行 2018
著者 海老名 絢
価格 1000円

カニエ・ナハ『馬引く男』

なにもかもが遅れて・・・とどき、《私》はつねに遅れてあらわれる。「こうであった」に「こうであってほしかった」はえいえんに追いつくことはできないのだ。

◇ ◇ ◇

さて本日は金曜日。一週間はまだ終わっていない。足を踏み外すことなく進もう。

本日の詩集はカニエ・ナハの『馬引く男』(私家版)。カニエは一九八〇年生まれ、「ユリイカ」への詩投稿により二〇一〇年度「ユリイカの新人」選出。詩集『オーケストラ・リハーサル』(二〇一三年)、『MU』(二〇一四年)刊行後、二〇一五年に『用意された食卓』にて第二十一回中原中也賞受賞。装幀を自ら手がける等、多才な活動で知られる。なお本書は二〇一七年ポエケットで入手したもの。

最初に一般文芸読者にむけてのメモとして書いておきたいが、本書はわかりにくい構成を意図的に取っている。よって、そのわかりにくさがなんのため・・・・・のものなのか、というところに読者の関心もあるだろうし、本稿でもそれに答えようとすると同時に、それでもなお答えられないものについても考えてみたい。

構成から見てみよう。
萩原朔太郎「猫の死骸」引用を本扉に、その後に長い巻頭詩「馬」。つづく本文は二部構成となり、一部が「馬引く男」に詩一九編を収め、二部は「植物図鑑」と名付けられ、空白になっている。よって合計二十編。

巻末にある目次をそのまま引用してみよう。

第一部 馬引く男

島 馬 山 馬 海
渦 馬 山 沼 馬
島 馬 座間 馬 島
波照間 馬 島 浦

第二部 植物図鑑

これら詩の題名は本文では表記されず、とくに第一部においては頁番号が本のノド(綴じ部)奥に隠されるよう設置され、それぞれの詩がひとつの大きな作品を構成しているかのような錯覚をもたらす構成になっている。ここではとりいそぎ第一部で詩「馬」や「山」などが何度か繰り返されていること、そしてそこに具体的な地名「座間」と「波照間」が挿入されていることに留意し、読み進める。

本扉には次の引用が置かれている。

「あなた いつも遅いのね」

萩原朔太郎 「猫の死骸」

「猫の死骸」の副題は「ulaと呼ばれる女」。朔太郎はおそらく自身が愛読していたポオの「ユーラリューム」(Ulalume)や「レノア」といった、愛する女性の死や葬送に関する詩をイメージしていたのではないかと推測するが、本稿においてはとりあえず「あなた いつも遅いのね」ということばが朔太郎の詩では「瓦斯體の衣裳」をまとった亡霊の台詞であるということ、さらにulaが「浦」としても書かれていることを頭の中にメモ書きし、再びカニエの巻頭詩「馬」を見てみよう。これは一三頁にわたる長大な詩だ。

みるとちょうど
幕を閉じた歴史は、
令下に、
動かされて
最後には
私がいた。
虚偽を生きてきた
終わっていた世界の
取り戻すことが不可能な
私たちが今、
持っているあらゆるものに
再び目を開いて、
関与する
そのために、私たちは振り返る必要がある
あなたが戦ってきた
侵略の
線によって分割され、
傀儡されて安置されている
戦線を離すと統一される、
圧倒的な量を取って屈する
むしろ
繰り返しながら追い詰めてそして最終的に崩壊されて追い出されて、
長い、
戦下で迎える時間の動きはこのような流れの一つとしての大きな過程で、
敗北を喫した
最後の
放棄している
あるいはされている、連帯
結果、遠くからのより少ない、
呼び出しに応答して、
視点、物語、大きな、
鮮やかなその深さを示すことで、非常に不均質な
焦点を、
結論を言っている場合にも、
極北である代わりに遠くからの
言うまでもなく、文字通りの端から端まで横断した
旅をしながら、あからさまに現実は、目を駆使することによって動的に構成される
地球の内戦を
後にすると
裏切り者にされていた、
絶え間ない現実の爆撃、
話を聞くことを見つめて、時間をかけて、
最後の記録と呼ばれる
最初の時のために
風は、
轟音を落下して、その下の地面の、深部の人々は、
静かな劇場として、

「馬」(P3 – P5)

いくつかある違和感のある言い回しに注目してみる。「令下」「傀儡されて」「崩壊されて」など。意図的なものに違いないが、そこには削除された単語または文が隠されているはずだ。「(戒厳)令下」「傀儡(化またはなんらかの動詞)されて」「崩壊(し、XによるYがな)されて)」などが考えられる。その内容については想像するしかないが、はっきりしているのは、そこには隠されていることが明らかになっているものと、明らかになっていないものがあることだ。

著者の意図をこう言いかえることができるかもしれない。つまり、削除されていながらも、削除されたことがわからないもの、あるいは、歴史から抹消されていながらも、抹消されたこと自体が抹消されているもの、それをカニエはあらわそうとしている、と。一部残された違和感はいわばミステリー小説における伏線・ヒントであるように思える。

また、巻頭詩「馬」の突出した長さをみると、これをいわば長歌として、その後ろに反歌としての短い詩が連なっているようにも感じられる。長歌を反復、補足、または要約するものとしての反歌を考えたとき、ひとつの長文詩の注釈としての複数の短文詩という構図を思い浮かべることができる。まずは「馬」というキーワードを追って、第一部の詩「馬」からいくつか引用してみよう。この「馬」という短い詩は、合計七回繰り返されて登場する(といっても、それぞれ二頁以上あるが)。

おびえた目に
永遠に達することができない
この闇のすべてを持っている
巨大な熱を
どこかで満たさなければならない
得られた言葉は、裏切り、降伏する、黄色い視覚に
失われた国のような
感情、そして
言語を撃退するために夜、砂の海の端で
すべてのネガを焼き、
燃やし、
昏睡する、すべての
目に見えない
沈黙の中で待機するように
少し遠い場所にいて
呼応していた
音の上にある
人類の歴史は
言葉だけ常に価値がない

「馬」(p29-P30)

「失われた国」「得られた言葉」「人類の歴史」などが巻頭詩と響き合う。

到着した子供らは消えて
すべての罪は与えられた
人間を運ぶために
石鹸の中で
水に圧倒されている
数十年放棄された履歴
より多くの戦前が
以前として拡張する血液が
無国籍の状態で残され、
過言する
よく知られている物語をたどる
植民地のような時間に
土が回復しようとし、
恐怖で生まれた国に
同行する
報復を避けるために
放棄する血統を

「馬」(p41-P42)

「無国籍」「植民地」「報復」「放棄する血統」など、核心にせまるキーワードが記される一方、具体的な参照はきわめて注意深く避けられている。たとえば「石鹸」は、わたしはアウシュビッツ強制収容所の石鹸を連想したが、そういう読みは詩の可能性を狭めてしまうことがあるので、固有名詞を排除したのだろうと推測する(それはまた二〇一八年の扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代に抵抗するために必要な戦略なのかもしれない)。「植民地」にもじつは具体的な国名または地域が入りそうだ。

(つぎの行をさがすため明く窓辺まで
『白川静 常用字解』の
「探す」の頁をさがす
索引から、かさかさと
四二八頁をさがす
「探」という漢字の形の発端は
「穴の中のものを火で
照らして捜す形」で、
「穴の中で火をかざしてものを
捜すことを探という」とある)
洞窟で
屈している
百頭の馬が一万五千年
照らされるのを待って、淡淡と
沈黙の中で、火と呼ばれるものを知らず
時間を持っていなかった
夜に
何も知らず
失った森で、異なる時間を開いて、
呼ばれている物語で
浄化する、たくさんの
祈りを食べて

「馬」(p59-p60)

カニエの「馬引く男」という題名を読んだ時、わたしが最初に連想したのは落語の「付き馬」や黙示録の「蒼ざめた馬」だったが、ここまで読んで「馬」のメインモチーフを発見することができた。それは洞窟の中で発見された、一万五千年前の古代人が描いた馬だったことがわかる。

馬は農耕の道具であり、運搬の道具であり、戦争の道具でもある。すると題名の馬を引くとは、人類の歴史をひもとくこと、火のない暗闇の中で想像力によってえがかれた、忘れられたことさえ忘れられてしまった仮象を、時間に沿って《外》へと連れ出すことを意味するのではないか、と読める。別の言い方をすれば、思い出そうとする前に、忘れたことを忘れたままのかたち・・・・・・・・・で思い出す、というねじれた戦略がある。

そこには血と鉄と骨によって汚れた歴史――それは必ずしも本邦のものである必要はないが、そこには米軍基地や沖縄諸島の太陽の光がたしかに埋め込まれている――を埋もれた洞窟の中から外へと導き出し、正しく埋葬しようとする側面もあると感じる。だがこうした試みが失敗することもまたあらかじめ予感されている。「いつも遅い」と朔太郎がいったように。あるいはカニエがいうように、それは「植民地のような時間に/土が回復しようとする」に過ぎないからだ。馬を引いてどこかへ行くことはできない。葬送は失敗する。そこに知ること、あるいは詩の遅延があるからである。

あなたは本当に懐かしい真っ白な時間でした
さよならはあなたを祝福するための
心臓
包まれた
書物と彫刻を渡してください
そうして(私は名前をそこに入れています)
封印された「その後」に
訪問する
あなたはあなたの銃を与える

「馬」(P86)

「馬」の最後の詩。「祝福するための/心臓」「封印された「その後」」「あなたはあなたの銃を与える」など、ここまでたどり着いた読者あるいは著者の心臓を貫く弾丸が仕組まれていることがうかがえ、馬を引く試みはここに終焉を迎える。

◇ ◇ ◇

他にも私小説的に読める興味深い詩などあるのだが紙面が尽きてしまった。全体の印象として、具象と自らを接続することに困難をおぼえる同時代性を感じ(それはソーシャルメディアでよくみられる政治や社会活動を忌避する空気と同じものと思われる)、これはたしかにいまここにある現代についての詩に違いないという思いをつよく持つ。

詩は小説とは違う。詩には登場人物も、プロットも、ストーリーもない。すると詩の武器とは、文章そのものの包含する意味を用いるだけではなく、その切断、破壊、撹乱によって、わたしたちがいきるこの社会とその歴史という曖昧模糊とした非意味・・・そのものにかたちを与えることなのだろう。詩集を読み終えて、カニエはそれに挑戦する一人のように思われた。

なお、第二部は「植物図鑑」と名付けられ、そこは詩のない空欄になっている。それは馬が消失した世界において、意味が失われ、ただ繁茂する植物だけがえいえんに広がる空間を指すのだろう。それについて書くことができない理由はいうまでもない。

◇ ◇ ◇

最後に、朔太郎=カニエの亡霊、「ula」を引用して締めることとしよう。
わたしたちは遅れる。そしてわたしたちはいつも失う。

失望のように深く
無意識のうちに知覚されていることの
波が壊す、
屋根
見たものの表面のような
無であることを徘徊している
その間に行って、おずおずと、
角度を変えて
何度も奪われて
また統合することで、抽象化することの
その見返りに、自分の過去を話すとき、
必ず伝聞のように話して
落ちたときには、非常によく見える
馬には、生の不安が
覚えていた、
植物としての恐れが
記憶が、徐々に
同じことを繰り返しながら
もう十分な長さ
彼は時々、話していたことを
覚えておくようになって

(あなた いつも遅いのね――)

「浦」(P95-P96)

(2018年9月7日)

カニエ・ナハ『馬引く男』書籍情報
馬引く男
私家版
発行 2016
著者 カニエ・ナハ