アルビン・パン『かたちづくる名前たち』後編

八月十七日。関東にようやく残暑らしい涼しさがおとずれている。

さて本日は昨日に引き続き、シンガポールの詩人アルビン・パンの『かたちづくる名前たち』を取り上げる。邦訳が存在しない海外詩人を取り扱う場合、できるだけ《千日詩路》編集部にて訳出を行い、どちらかといえば評よりはこちらに焦点を当て、作品観賞の一助となるようこころがける方針をとりたいと考えている。

前編はこちら

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さて、前半では三つの人生に関する単語を男女関係になぞらえて表現した詩三つを取り上げた。後半では、二〇一八年に住まうわたしたちにとっては、すでに親戚のような存在ともいえる「不安」「絶望」「挫折」のそれぞれの詩を取り上げてみよう。

「不安」とは、かつて忙しくあちこち飛び回っていた頃に、よく出会った。そういうとき、彼女はいつも私を隣に座らせ、おしゃべりをしたいというのだが、実際に話してみると、いつも大したことを喋ってはくれなかった。いつだったか、彼女に突然真夜中に起こされたことがあった。でも結局私が聞くことができたのは、彼女の呼吸する音だけだった。彼女とはかなり長い間カフェでいっしょに時間を過ごしたが、それは私は彼女がカフェイン中毒であり、自分の声の響きを自分で聞きたいだけだということに気がついてからは、そうすることもなくなった。

「不安」はいつも他人に注目されたがっていた。彼女は皆に悪い知らせを持ってくるのが大好きだった。皆が集まる場では、彼女が他のだれかが気の利いたことを言おうとするちょうどその時、その邪魔をして黙らせるのだった。危機的状況にある時、その部屋でいちばん声が大きいのも彼女だった。彼女のことを無視することはむずかしく、一方彼女はひとの話をほとんど聞かなかった。私は彼女から距離を取るすべを学び、ようやく自分の声の響きを知ることができたのだった。

不安Anxiety」 第一、二連

わたしたちがソーシャルメディアでよく見かける光景でもある。声が大きいこと。ひとの邪魔をすること。そして無視することがむずかしいからこそそれが増幅されること。そのすべてが不安によるものであり、そこに明確な理由が存在しない。わたしたちが自らのこころに「なぜ自分は不安なのか」と問うても、答はない。ないからこそそこにある、といえる。

「絶望」は、たったひとつのことしかいってこない——「絶望」は、自分にお世話をさせてほしいと、そう申し出てくるだけだ。長く、つらく、埃にまみれた路上の旅を続けてきたひとの前に、「絶望」は現れ、彼が用意する道端の日陰で一休みしたらどうかと誘ってくるのだ。ミルクと涙でできたお茶と、ため息でできた焼き菓子をふるまいながら。「絶望」は、まずこういう話をはじめるだろう。つまり、自分がいかにこの静かな場所にたどり着いたか。自分が表通りから外れたのは、すでに忘れてしまったがなんらかの危険な冒険の途上で、おとなしくしていたほうが身のためだということに気が付いたからであり、身を落ち着け、ここに店を構えるべきだという決断をしたからだと。そして「絶望」の客の多くは、もうずっとそこに住んでいるのだと。

絶望Despair」第一連

「絶望」のやさしさはわたしたちにとってよく見覚えのあるものであり、その誘惑は魅力的だ。自分とまったく無関係な他人の生活がインターネットのあらゆる場所から文字通り手元まで流入してくる現代において、常に会ったことすらない第三者の人生との比較を強いられることはそれぞれのばらばらの個人に内的な地獄をもたらし、そこに「絶望」が入り込む多くの隙間があることをわたしたちはよく知っている。

最後に、わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である「挫折」を紹介したい。

「挫折」は、皆に好かれる子供ではなかった。彼が生まれた時、その両親ですら失望を隠せなかった。両親が望んだのは、最初の子供である「達成」のように、可愛く、健康的で、えくぼのある赤ん坊であったのだ。そうした期待に反して、「挫折」は小さく、鈍く、血色は悪く、ほとんど笑うことのない赤ん坊だった。赤ん坊を見るために訪れた親類たちも、「挫折」を長い事みつめることはなかった。親類たちは部屋の隅で、何やらささやきあい、頭をそっと振ってみせた。

「挫折」は、孤独な少年時代を過ごした。学校で、「挫折」は優れた資質を示した。たくさんのことを学び、実際にひとに与えられるものをたくさん持っていた。「挫折」は授業で教科書にない多くの質問を投げ掛け、授業の範囲を越えた事柄について知ろうとした。しかし教師たちは、「挫折」を問題児だと考えた。ほとんどの生徒たちは、彼を避けた。「挫折」は変わり者で、そして醜いとの評判が広がり、「挫折」は一人で過ごすようになっていった。

後年、仕事をはじめた「挫折」は、世の中の役に立ちたいと考えた。彼はできるだけ多くの仕事に関わった。新しい案件を先陣を切って始めることに挑戦し、所属する組織でまだ誰も思いついていなかったようなアイディアを発案した。しかしやがて、彼は自分の考えを評価しようとしてくれるものはほとんどいないということに気が付いた。彼が燃え尽きるまでに、さほど長い時間はかからなかった。そして物事がうまくいかなくなったとき、皆はそれを彼のせいにした。そもそも「挫折」がそこに問題があることを最初に発見したことがほとんどであったのにも関わらず。そして「挫折」はやがて職を失うことになった。

挫折Failure」第一、二、三連

どこか宮沢賢治の「猫の事務所」を思わせるくだり。「挫折」はこの後、詩の後半部分で、障害を持つ子供を教える教師である「謙虚」という女性とめぐり逢い、ようやく自分の資質を活かせる場を見つけ出し、やがては結婚する。

だが、ここまでこの詩集をともに読んできた読者には明らかなことだと思うが、これは理解者を見つけることでひとは幸せになれる、という物語ではない。「挫折」も「不安」も「絶望」も、すべてひとのこころのうちにあるものであり、そうしたものにとらわれすぎることなく、これらの諸要素を自分のものとして受け入れ、認め、いま眼の前にある問題に取り組むことによって、よりよく生きる道がひらけるはずだ——著者はそう示唆している。そこにこころが動く人間的なメッセージがある。

いかに生きるかという問いには常に困難がともなう。
詩はとどかぬ理解者としてそこにあるほかない。

(2018年8月17日)

Alvin Pang "What Gives Us Our Names"書籍情報
原題 What Gives Us Our Names
出版社 Math Paper Press
発行 2011年
著者 Alvin Pang (アルビン・パン)
価格 10 SGD