川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』

――だれとでも接吻はできるけれども、舌はわたしをいつわっている。

◇ ◇ ◇

続きを読む 川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』

川上未映子『水瓶』

――戦争、傷、そしてえいえんに見つからない喉の石。
――(そのようなものは存在しません)。

◇ ◇ ◇

続きを読む 川上未映子『水瓶』

野崎有以『長崎まで』

ふるさとは遠いのではない。それはいつでもここにある。

◇ ◇ ◇

本日は火曜日。よく晴れ、穏やかな秋の一日。

今日の詩集は野崎有以の『長崎まで』。著者は一九八五年東京生まれ。二〇一五年、『現代詩手帖』詩投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。二〇一六年発行の本詩集にて第二十二回中原中也賞受賞。本詩集は詩編十二編を九十六頁に収める。

中原中也賞の選考では、「全篇行分けの散文詩であり、作者の語りたい欲求の切なさが詩の内容の芯となっている。架空の町の架空の自伝とも読め、しかも演歌調の語りが戦略的。詩的にならないで詩の言葉になっている」とあった。

「詩的にならないで詩の言葉になっている」という選評を解説するならば、いわゆる・・・・詩的なものをつかわずに詩のことばをつくっている、ということだと読めるが、ひとまずはいわゆる詩的なるものは詩と同じものではない、という選評の観点に留意しつつ、読みはじめてみよう。

巻頭詩「ネオン」から。

「珍しい夜景を見せてあげよう」
そう言って男は私を旅行に連れて行った
着いたのはホテルの高層階だった
あたりに高い建物はなく
工業違いがただひたすらのびていた
初めて来たけれど懐かしい場所だった
平たい工場が一面に広がり
煙突からは煙が出て夜空に雲をつくった
雨を降らせるんじゃないか
反射するあてのないネオンがときどき海に映った
薄明かりのなかで遠くの山がぼんやりしている
男は得意になって自分のものではない夜景を自慢した
私はこの男と出会ってから
合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしい生活の指定席券を
生まれたときからもっていたふりをした
だけど結局
ふとんをかぶって泣いてばかりだった
仕事は出来るが不器用で
毎晩帰って一人で晩酌をしているせいで
首のあたりが恒常的に上気したあなたと
一緒になったらよかったのかもしれない
あなたは必死で隠していたけれど
何かの拍子に出てくる訛りに
私の故郷が見え隠れしたのです

「ネオン」第一連

いわゆる詩的なるものを排除するために、行分け詩と散文詩のちょうど中間に位置する体裁が選択されていると読める。余分なものがなく、華美な装飾は省かれ、実用的な文体によってかたられる私小説的なはじまりがある一方、第一連の終わり近くにて「男」であったはずのはいつのまにか「あなた」へと変貌し、日常的なことばにて平易にかたられていたはずの時空間が歪み、詩がその亀裂から展開されてゆく。

小説的な書き方であれば男との記憶にさらに別の第三者――ここでは父だと思うが――の回想がそれとわかるようななんらかの文体の変化を経て重ねられるところなのだが、詩ではそこに解説をいっさい入れることなく、そのまま挿入されている。そこに詩のおもしろさ、難解さがある。

「男」と「あなた」が別人物であるらしきことは、旅行先としてはかなり奇異に感じる工場地帯のホテルの最上階の予約などの逸話から示唆されているが、男に父をみ、父に男をみる構図をつくりだすための装置なのだろうとわたしは読んだ。そして逆に同一人物であったとしても、わたしたちのことを思い起こせば、ふだん一緒にいる相手に複数の第三者を見出してしまうことはごく普通のことだ。詩はそんなわたしたちの複雑な在りようをあらわしている、しかもきわめて日常的なことばで(「詩的にならないで、詩の言葉になっている」)。

昼下がりの電車のなかで
中吊り広告の女優だけがけだるそうな感じでこっちを見ている
彼女を美しいと思う気持ちと拒絶する気持ちがぶつかった
冷たく気の強そうな女性だった
電車のなかで感じる彼女の視線を
うつらうつら席も立たずにかわしていた

夜更けのJR田町駅
駅近くの運河にかかった橋の上で
早く駅に行けばいいのに
ざらざらした橋の欄干に頬杖をついて運河を見つめていた
流れる運河は風が砂場遊びのくまでになって
嘘みたいな流れをつくっていた
少し前まで私は一人でバーにいた
バーボンを何杯か飲んだあとにマンハッタンが出てきた
赤いカクテルのなかで恍惚の表情を浮かべて
サクランボがひとつ沈んでいた
マンハッタンはきっと夕焼けの綺麗な街なんだろう
帰りがけにバーテンダーにマンハッタンがおいしかったと告げると
「リトル・プリンセス」
というカクテルの名前が返ってきた
エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた

「女神」第一、二連

昼の電車、夜更けの田町、その前のバーと、書き手の時間と場所がずれてゆく。改行によって第一連と二連の間にはなんらかの場面転換があることが明示されているが、第二連の最後の三行にはちょっとした仕掛けというか謎があるように思える。その前の部分が相対的に理解しやすいことと比較すると、そこには見えない改行または詩連が隠されているのかもしれない。

ふたつのカクテル「マンハッタン」と「リトル・プリンセス」をなぜか注文した客が間違えていることについての違和感は、そこにかくされただれか別の注文者を想像すれば足りる。それは第三者またはバーテンダー自身なのかもしれない。また、バーテンダーがわざわざ客の間違いを伝えることについての違和感は、そのバーテンダーがその特定の客についてなんらかの理由に基づく悪意を持っていた、と解釈することができるかもしれない。

そのいずれについても、詩はかたることなく省略を行っている(詩の合評会などであれば、さまざまな解釈がされ議論になりそうな部分だ)。その省略、跳躍が魅力をつくっているということを感じる。「エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた」というとき、そこにはなんの解説も、説明もなく、その理由もかたられない。ただひとつづきの出来事たちだけがそこにある。それこそが現実だ、という声がきこえる。書き手にとって詩はつくりものではない、という声も聞こえてくる。

「女神」は次のような連につづく。

終電近くになってやっと電車に乗った
前にいた乗客が立ち上がって降車すると私はそこに腰かけた
うなだれる身体を腕組みするように両手で支えた
顔を上げるとあの中吊り広告の女優が私を見下ろしていた
車内の蛍光灯が白く反射して何の広告なのかよくわからなかった
それは大事なことではないのかもしれない
彼女はバーテンダーの機敏な腕のなかでゆっくりと楕円形を描きながら
撹拌される氷のようにうるんでゆらゆらしていた
相変わらず冷たい表情をしていた
その冷たさは海の群青のようだった
しかしこの日は強くて美しい人に見えた
濃い睫毛は雨に濡れているようで
彼女の唇はいまにも動きそうですらあった
この人をなかなか受け入れられなかったのは
強くなれない自分がうとましかったからなのかもしれない
美しいけれど品はない
場末の酒場にいても違和感はない
それでも私は彼女に惹かれた
人の顔とは一体何なのだろう
転んでしまいそうな心を吹き飛ばしたりしない顔を
女神と呼ぶのではないか
降り際に中吊り広告のなかの彼女がほしくて
ポスターの前で手のひらを広げてさっと結んだ
小さい頃
欲しいものがあるとこんなことをよくやった
欲しいもののちょっと手前で手のひらを大きく広げて結ぶ
こうすると欲しかったものをどこかにしまえる気がした
結んだ手のひらの前にあったものの多くは
大人になってちょっと働いたら簡単に買えてしまうものだった
私は何を取り損なったのだろうか
プラットホームに降りると
水の入ったペットボトルとちりとりとほうきを持った二人の駅員が
酔っ払いの吐瀉物を片づけていた
一人の駅員はベテランでもう一人は若い駅員だった
早朝に押し掛ける勤勉なサラリーマンたちのために
言葉も交わさずに掃除をしていた
この二人だって勤勉な人々であるはずだ
私は軽く息を止めて
女神がとどまっているかもしれないこぶしを握りしめながら改札へ急いだ
改札ではろれつの回らない酔っ払いが
「のりこし精算」という言葉をうっかり忘れてしまったがために
自動改札機を通してもらえないでいる
腹の底から笑ってしまうほどみじめな街じゃないか
でも
たぶんこれでいいんだ

「女神」第三連

「ネオン」でもみられた、複数の存在を同じ対象に重ねながら離れさせる手法がここでも取られている。「女神」はバーテンダーが準備したグラスの氷に映る自分自身の姿と重ねられ、女神を電車で見出すきっかけとなったと思われるある直接的な出来事はかたられることなく(だがその欠如によって詩全体に漂う、理解されることへの穏やかな諦念が心地よい)、さまざまなモノに映り込む自分自身の姿と記憶が、大量生産され電車のあらゆる場所に貼り付けられているとある名前を失った女性の写真を通して詩にあふれだす。それは二〇一八年においては、ありとあらゆる場所で無限に拡散されつづけることばたちのなかから意味のある「このわたし」を探しだす、見出す、とりもどすという意志を指し、それが「女神」と呼ばれているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

最後にわたしが本詩集でもっとも好きな詩「鉄板のかいじゅう」を紹介する。
わたしは知らなかったが、「ポンポン菓子」は米でつくるポップコーンのようなものらしく、つくるときにポンと破裂音がするそうだ。わたしは思うが、作家というものは、かれ自身をうみだした音やことばから、完全に離れることはできないのではないか。ほんとうに架空のものなど、書けるはずもない。

そしていつも思うことだが、好きな詩ほど解説をしたくなくなる。ぜひ図書館や本屋などで手にとって全文の一読をおすすめしたい。

冬のはじめに風邪をひいて咳だけがなかなかとれなかった
一ヶ月以上たっても咳が出る場合は喘息の疑いがあるらしい
小児喘息にかかったことはあるかと聞かれ
喘息のことをやっと思い出した
私は子供の頃喘息を患っていた
医者はいくつかの質問をしてから
喘息がまた出たのかもしれないと言った
ベッドで横になって咳の出ない寝方をさぐりながら
いつかの夏休みのことを思い出していた

怪獣映画の怪獣の声は下駄で鉄板をこすって出しているのだと
近所に住んでいた夫婦が言った
何をして生計を立てているのかよくわからない人たちだった
どうでもいいようなことを何でも知っていた
子供にとってそういう人は魅力的だった
私はどうしても怪獣の声を出してみたかった
家近くの土砂堆積場の入口には
出入りする車を通すために数枚の鉄板が敷かれていたことをその時思い出した
夕方のちょっと手前の涼しくなった時間に
ポンポン菓子屋の車が土砂堆積場の横の空き地によく止まっていて
米と砂糖を持ってよく父とポンポン菓子を作ってもらいに行った
土砂堆積場に着くと
父は二段ぐらいしか積まれていないブロック塀の上に腰かけてたばこをふかしていた
私は座っていた父の高下駄を片方持って鉄板にこすりつけてみた
なんとも表現したがい間抜けな音が出た
怪獣と言えば怪獣なのかもしれないが
怪獣と言うよりそれは「かいじゅう」だった
かすれたような変な音で
弱そうなかいじゅうだった
下駄で鉄板をこすっていると汗がたれてきて
汗で下駄が滑って余計に音が出なくなった
怪獣の声を出したら子供がこわがるから
鉄板は間抜けな音しか出さないのだと父は言った
やがてポンポン菓子屋の車が空き地に止まった
かいじゅうの間抜けな声はポンポン菓子ができる音にかき消された
その日の晩にポンポン菓子を食べようとしたらまた喘息の発作が出た
発作が出ると父は私を負ぶって夜でも診てくれる診療所に連れて行ってくれた
じっとしているより父の揺れる背中のなかにいたほうが息が苦しくなったのだが
それは言えなかった
昼間なかなか怪獣の声を出してくれなかた土砂堆積場の鉄板が
月明かりに蒼く光って心配そうにしていた
明け方近くになって発作がおさまると父は寝る間もなくそのまま仕事に行った
大人は寝なくても大丈夫なのだと父は言った
ひとりで家に帰るとボウルに入った昨日のポンポン菓子がそのままになっていた
一日経って砂糖がべたっとしたポンポン菓子を誰もいない部屋で食べた

「鉄板のかいじゅう」第一、二連

(2018年10月2日)

野崎有以『長崎まで』書籍情報
長崎まで
出版 思潮社
発行 2016年
著者 野崎有以 (のざき あい)
価格 2000円+税

吉田義昭『結晶体』(小野十三郎賞受賞詩集)

愛と憎しみは分光されて、ゆがんだ結晶体から光こぼれる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。関東は今日も雨だ。読者の皆さんも体調など崩さぬよう。

さて本日の詩集は、吉田義昭『結晶体』。昨日に引き続き、本書は二〇一八年の第二十回小野十三郎賞受賞作、ダブル受賞のうちの一冊。著者は二〇〇三年『ガリレオが笑った』で第十四回日本詩人クラブ新人賞受賞。他詩集に『空にコペルニクス』、『北半球』など。本書は三章構成で、詩三十編を百三十八頁に収め、三章だけが散文詩となる。

小野十三郎賞の選評においては「妻の死やその後の生活などを書くことが自らの生の再発見に繋がった/それを柔らかく表現している点が評価された」とあった。これに留意し、さっそく読み始めてみよう。

この草は雑草であるか草花であるか
その切ない分類法を教えてください
花壇に植えた容姿の逞しさと愛らしさ
私は乱暴にこの草の生き方を
ありふれた雑草と呼んで差別はしませんから

この石はただの石か鉱物であるか
どんな物質でも内部の粒子が規則正しく
自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます
人間には強引に私の後ろや私の隣に
身も心も正して整列せよとは言いませんから

あの人間が善人であるか悪人であるか
顔や体型で見分ける方法なんてありません
まして心の表面の輝きや反射に騙されないこと
強く生きるために たとえ裏切られても人間なら
憎しみの対象になってもらえばいいのですから

「石と雑草」第一、二、三連

「柔らかく表現」とは、つまり平易な日本語によるということだと理解される。それは普段日常的に用いられている語彙、動詞、助動詞、語尾活用などの組み合わせによる総体で、しかも意識的な選択によってつくられるものを指す(対義語は「難解で、わかりにくく、硬い」表現)のだろう。ただ、多くのひとが誤解していると思うのだが、「わかりやすい表現」というものはない。そうみえる表現はある。つまり、いかなる表現も読解はむずかしく、ほんらいわかりにくい。

話がそれた。著者が「雑草であるか草花であるか/その切ない分類法を教えてください」と書くとき、それがなぜ切ないか、簡単に答えることなどできない、ということを書きたかったのだ。

つまり、雑草と草花の差は恣意的で便宜的なものに過ぎず、それは超越的な第三者が勝手に決めて(た)いるものであり、連の最後においてその分類は「差別」だと示唆されている。それが切ないのは、わたしたちは言語のうちで知らず知らずのうちに自然と分類をしていて、そうすることなしには対象をひとつも識別できないからだ。ことばの編み物たる現実は光と影の軸がなければ成立せず、光をつくればかならず影ができる。その時光と影のあいだには、複数の陰影の度合いという差異の数々が創出される。そのわたしたちの在りようが切ない、と詩は書く。さらにいえば、そこには差別は不可避である、という示唆がある。

そうしたこの世の理が、柔らかいことばで語られている。だが、それが柔らかい、平易なことばで書かれているがゆえ・・に、わたしたちはそこに書かれることのむずかしさに、しばしば気がつかないことがある、ともいえるかも知れない。

二連。石と鉱物の違いが、ひとの従属的営為にかさねあわされる。詩は「整列せよ」とはいわない、とかたっている。だがその一方、鉱物の価値とは、「どんな物質でも内部の粒子が規則正しく/自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます」とあり、つまり、従属こそが鉱物を石からわかつものであり、それによって初めて価値をもちうる、ということが同時にかたられている。それはひとはなにかに従属することによって輝くことができる、と読みうるだろう。

三連。ひとの心理の綾に踏み込む。詩によれば、善人と悪人の違いを見分ける方法はない。なぜか。それは相手をみるとき、それは「心の表面の輝き/心の反射」であり、自分の姿がそこに投影されていることに気が付かずに、勝手な思い込みを持ってしまうからだ。だから裏切りは不可避であり、自然なことだ。詩は「強く生きる」と説くが、それは憎しみによってのみ成立するようなねじれた強さでもある。

こうした人間的、心理的な事柄に対する詩の洞察と哲学に基づき、かたちを与えられる矛盾。それはありとあらゆる角度から光をうけてきらきらと反射する結晶体にも似て、重層的な読み応えのある詩作品となり、柔らかい表現にてかたられてゆく。

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません
殻が固いのか柔らかすぎたのか
殻の強度と純白さと床に落ちた危ない形が
私の気持ちと合わなかったというか
私が不器用な夢の続きをみていたというか

生物学的に無精卵であると見破り
卵がなぜ殻や膜で包まれているか
人差し指に白身の優しさと生暖かさが触れ
黄身と白身を混ぜた色の変化を想像したり
形の美しさに見とれていてまた失敗しました

それでも私は男らしさを気取り
指の力を強くしすぎたのかもしれません
力を弱くすると人間として堕ちていくようで
なぜか弱い自分を認めたような気もして
私の人生は柔らかさの加減が難しかったのです

「卵の心理学」第一、二、三連

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません、を別のいい方で読んでみる。それは自分が理解していないこと、知らないこと、目覚めているのに目覚めていないような状態で生きるほかないこと、などが夢をみている《わたし》によってかたられている。

卵は可能性、生命、未来など、食物としてというよりも、そこから生まれいづるはずだったものたちのイメージをもち、「いかにうまく殺すか」とつぶやくわたしたちの横顔もみえてくる。そこでは殺すことはよろこびであり「男らしさ」でもある。だがそれは「弱い自分」を認めないことによって成立する虚構であることもまた示唆されている。連ごとに複数のアレゴリーの飛び石のような跳躍が重ね合わされ、めまぐるしく語り手の姿が変貌し、読む愉しみがある。

何もすることがない夏の朝
ここ数日私は何をしていたのかと考えた
緑の固い葉の上から
ひっそりと落ちてくる水滴ひとつ
土に強く根を張る草たちを引き抜きながら
この草にも名前があるのかとも考えた

この葉のつきかたも葉脈の線も美しい
葉の固さも根の張り方も人間的で
自分を守るように生きているとしか思えない
私には自分の生活の強さも弱さもわからない
空に向かってこの草は根から茎と葉が
一途に頑固に真っ直ぐに伸びていたのだ

見上げると青空に流れる雲
雲にもひとつひとつ名前があるのだろうか
木にも花にも石にも名前があるのだから
私の周りのものすべてに名前があるに決まっている
この草にもきっと名前があるはずだ
私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた

「草の名前」第一、二、三連

ふたたび名付けという行為について。草を抜くことは殺すこと。それもあくまで便宜的に、自分のためだけにそれを行うこと。その草に名前をつけようとすることは、生きるということは他害にほかならないということであり、それを直視することであるはずだという声がきこえる。

だがもちろんその草には、おそらくなんらかの名前が最初からついている。その名前は特定の言語の枠組みの中において恣意的かつ便宜的に分類され、図鑑に掲載されているだろう。だが、詩は一度その名前を忘れ、それを思い出すことなく・・・・・・・・あらたに名付けるその現場を描いている。

第三連で「私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた」とあるように、名付けるという行為が自分の過ごす一日に重ねられている。それは名前を思い出すことすらできないわたしたちの茫漠たる人生の一日一日に、あらたに意味を創出しようとする試みだと読める。いや、つけてみようじゃないか、という著者の誘惑にみえる。そこには間違えること、誤読への誘惑があるとも読める。

波の音が聞こえてきます。海鳥の声も響いていました。私と妻は盲目の少年の手を引いて歩いていました。偶然に私たちが結婚して住んだ家の近くに、妻の教え子の実家があったのです。その教え子が離婚して戻ってきました。彼女は盲目の少年と一途に育てていたのです。

風の音も聞こえています。「僕はまだ波も海鳥も見たことがない」と少年は呟きました。人の笑い声や猫の鳴き声も聞こえてきます。こうして三人で歩いていると、通りすがりの人たちには、幸福そうな親子三人、いや、孫を連れた老夫婦に見えていたのかもしれません。

柔らかな風でした。猫の鳴き声が大きくなってきました。「けれども僕はまだ、猫に触ったことがない」と少年は呟きました。母親は入退院を繰り返していました。そして夏休みには、時々、少年を私の家で預かったのです。しかし家の中にいると不安そうで、いつも外に出たがりました。

三人で村の民俗資料館に行きました。水車の話をしたら、触ってみたい、なぜ水で水車が回るのか、と尋ねてきたのです。昔の村の写真を観てきました。農耕具や土器や水車の水にも触ってきました。母親はまだ幼かった少年を、美術館や博物館に連れて行ってあげていたようです。

「波と少年」第一、二、三、四連。

ここからは散文詩となる。第一章、第二章とは異なり、具体的なだれかの喪失のイメージが色濃く反映されている。それは著者がいうように家人なのだろうが、どちらかというとわたしは、とある女性が詩の語り手として想像力の場へ召喚されている印象を持った。

この「波と少年」はとても好きな詩。近所に住む盲目の少年が少しずつ世界を知ってゆく手助けをする老夫婦の話なのだが、そこに世界のあり方を知ることの喜びと痛苦がそっと重ね合わされてゆく。「少年はまだ、母親の死を知りません」で終わる最終連は残酷で、知ること、知らないこと、どちらがよいことなのか、その答は示されず、そこにはふいに突き放される感・・・・・・・がある。読者もまた波の前で「なぜ」とつぶやいてしまう――問いに意味はなく、答などあるはずもないが。

空にかすかに星が滲んでいた。その夜、私はバスを一区画だけ乗り、怯えるように降りてしまった。このままバスが空へ舞い上がっていく気がした。閉じ込められた息苦しさを感じた。鼓動が早くなった。全身に熱い血が流れていくのを感じた。体が震えだした。背中を誰かに押されている気がした。

歩道を歩いていると、突然、「生きる」という声が聞こえてきた。確かに私の声だ。国道のアスファルトが雨に濡れ、車のライトが虹のように滲んでいた。「生きろ」と今度は小声で呟いてみた。すると、「生きろ」、「生きろ」と、私の声が冷たい空に反響して聞こえ、涙がさらに溢れだしてきた。

「家族という病」第一、二連

「生きる」が「生きろ」と誤読されている。それは自分が生きるために書き続けてきたものが、いつしか自分を生かしてくれていたという驚きでもあり、またそれは自分を救うために書いていたものが、いつまにかどこかにいる無関係な第三者の人生を救ってしまうことがある、という誤読による奇跡を信じることでもあるように思う。その誤読、ずれを見出してゆくこと、《読む》というありえない奇跡を信じることが、書くということだということをあらためて思い出させてくれる。これもとても好きな詩だ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集で一番好きな詩を。詩集の題名ともなった「結晶体」
だがこれも引用なしとしたい。読者の皆さんも、機会があればぜひ書店や図書館などでぜひ手にとってみてほしい。

「結晶体」

(2018年9月26日)

吉田義昭『結晶体』書籍情報
結晶体
出版 砂子屋書房
発行 2017
著者 吉田 義昭
価格 2400円+税

佐々木貴子『嘘の天ぷら』

「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもう・・でしょう。もう・・勿論あのことはご存知の方でしょう」

三島由紀夫『仮面の告白』

◇ ◇ ◇

《読むこと》をとりもどす、詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。

さて本日は金曜日。編集部がある関東近郊は一日雨が降り続き、かなり寒さを感じる天候。今週は《千日詩路》では詩誌を特集してきたが、最後に今月出たばかりのあたらしい詩集を取り上げようと思う。先日別の記事でも紹介(#ex002)した佐々木貴子の詩集、『嘘の天ぷら』である。

『嘘の天ぷら』は佐々木貴子の第一詩集。彼女は一九七〇年岩手県盛岡市生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。現在は仙台にて詩誌『ココア共和国』に編集として携わっているとのこと。なお本書は仙台より郵送で頂いた。

わたしは佐々木とその作品のことは数年前から知っていたが、それは当時わたしの家人の詩が『詩と思想』の投稿欄で、よく佐々木貴子と競うようにして並んで掲載されていたからだ。本詩集を読んで、当時のことを懐かしく思い出した。

さて、本詩集は二十六編を九十六頁に収める。巻頭と巻末に行開け詩が置かれる以外の他はすべて散文形式となる。

表紙のイラストレーションは宇野亜喜良の手によるもの。表紙には、天ぷらとおもわれることば「ni」(に)と「shinai」(しない)を箸で持っている女性がいるが、折返しには「hitori」(ひとり)という天ぷらが隠されている。折り返し部分の下のほうにはさらに「uso」(うそ)と吠えるイヌ科の動物が描かれ、つまり組み合わせると次のようないくつかのメッセージが読める。

ひとり/に/しない/嘘
嘘/に/しない/ひとり
詩ない/ひとり/に/嘘

表紙から詩作の戦略が読み取れる。さまざまな含意があるが、ひとつはっきりしているのは、この詩集が嘘をめぐっていること、それも三島由紀夫の『仮面の告白』のように、冒頭からそれが嘘であることが明白に記されているということ。そのことに留意し、読み進めてみよう。

巻頭詩は詩集の題名ともなった「嘘の天ぷら」。

今夜も
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

「嘘の天ぷら」第一、二、三、四、五連

個人的なことから書くが、わたしは下手な料理が趣味で、毎日なにかしら必ずつくっている。だが料理のうちで、もっとも苦手なのが揚げ物だ。温度管理、油の保存方法、経済性、摂取カロリー量、清掃の手間……こうしたことの煩雑さを真剣に考えたとき、いつしかわたしは揚げ物をしなくなった。今晩の夕食も揚げないコロッケをつくった。

天ぷら、は、相対的にみて、家庭料理のうちではかなり手間のかかる部類だ。この詩ではそれをほんらい食べさせるべきだれか・・・との関係性の深さが示唆される一方、その浅さ(嘘)もまた同時に書き込まれている。もちろん、嘘とは、「わたしを一人にしない」という約束がだれにとっても達成不可能なものであるということであり、はじめから約束が成立しないことがあらかじめ了解されていることである。

嘘、にかたちを与えねばならない。高温の油の中でうつくしい花びらのように羽根をひろげる芸術作品としての天ぷらの衣、それは咀嚼され粉々にくだかれる前に、ほんのひととき鑑賞者の眼を楽しませるためにだけつくられるものだ。その嘘を詩として提示することが本詩集の目的とひとまず読む。

ご存知のとおり、漂白しても白くなる子と、白くならない子がいるんです。大変、言いにくいことですが、お子さんは既にかなり濃い。学校で対処できるうちに何とかしましょう。今ならまだ間に合いますよ、お母さん。家庭訪問の日、先生はお母さんの顔をのぞきこみ、丁寧に説明した。お母さんは勝手にわたしの漂白を決めてしまった。通常、女子は一回で漂白できるはずなのに、わたしの場合は難しいとのこと。帰宅したお父さんは、わたしを見てイヤな顔をした。一回目の漂白は失敗したけれど、二回目では僅かに変化があった。三回目では上半身、四回目で初めて下半身がキレイになった。五回目の漂白が終わって、ようやく先生はわたしのことを教室に入れてくれた。わたしには見えない、わたしの表情。先生は満足そうに深くうなずき、わたしの肩を抱いた。先生の安っぽい整髪料の匂いが、せっかくの白さを傷つけるような気がして、わたしはとっさに先生の身体を避けた。白こそ全てなのです。汚れのない白。

「漂白」前半 部分

巻頭詩を終えて、本体に含まれる詩作品を読み始めると驚くのは、頁をほぼ正方形に埋めつくす、改行、行開けのない詩連である。そこには意図的な読みにくさが選ばれている、といえる。それは以前の佐々木作品を知るものにはやや驚きだろう(#ex002 にいくつか引用しているので、比較してみてほしい)。

大部分の詩においてこの様式がまもられ、一作品あたりほぼ一頁から二頁。その読みにくさによってなにがあらわされているかだが、嘘を嘘だと告白するときの含羞と考えるのがまずは自然だ。そもそも隠したいことがあるからひとは嘘をつくのであって、それを告白するということにはなみなみならぬ勇気がいるものだからだ。その時、ことばは乱れ、吃音が生じる。いいかえればかたりにくさ・・・・・・が生じる。そうしたひとの有り様そのものにかたちが与えられている。

「漂白しても白くなる子」と「白くならない子」は、嘘をついてきれいになることができるひと、と嘘をついてもきれいにならないひと、と解釈することができる。少しうがった見方をすれば、佐々木の過去作品にみられた、技巧としての改行(空白)の活用こそが、嘘にすぎないのではなかったか。少なくとも著者はそう自ら示唆しているようにみえる。

佐々木は白くあることを告発する。そんなことは不可能であり、ひとははてしなく、技巧のうしなわれた渾沌たることばに真っ黒になるまで支配されている。そうした現実を自らに対してごまかすことによってのみ成立するものこそが、佐々木のたたかう相手である、と読める。それは嘘とたたかうこと、そしてその手法とは、嘘であることがだれにもわからないようなかたちであらわれる、変幻自在の怪物の正体をあきらかにすることである。その怪物は、佐々木の詩集においては便宜的に「先生」や「お母さん」とよばれている。

先生は少し困ったように首をかたむけ、静かに目をそらしました。これは夢だ。だってあの先生、知らない仮面をかぶっていたもの。もう一度、教室をのぞきます。その時、誰かが肩に手を置きました。後ろを振り向くと、お母さんと同じ仮面をかぶった女の人が笑っているのか、泣いているのか分からないような声で、ほら、あなた、忘れ物よ、と言いました。そうでした。仮面を家に忘れてきたのです。でも、どうして学校では仮面をかぶる必要があるのでしょう。女の人とお母さんの仮面が同じだったことも不思議です。同じ仮面もあるのですね。夢の中なのに、今日は吐く息が白いのです。かじかんだ指先も、冷えきった足も、疲れた心も、どれも、わたしでした。

「氷点下」中盤 部分

だれしもが嘘をついていることに無自覚な空間、それが「学校」とよばれている。くりかえされる(空)白は、ことばのない世界があればいいのにという果てのない願いであり、あるいはことばをえる前の佐々木が育った岩手の冬の光景なのかもしれない。

「お母さん」であった存在は分裂し、著者個人の《私》の小さな個人的な物語は拡散し、《私たち》の物語へと変貌してゆく。それは肉となった仮面が顔にへばりついた者たちがすまう画一的なことばの空間スフィア、つまり二〇一八年にいきるわたしたちがよく知っているものである。そこではだれひとりとして仮面をとることができない。なぜならそれは「どれも、わたしでした」というほかないほど、自らにへばりついて取れないからである。

中止にする。一度目は単なる試み。二度目は挑戦。三度目の今日、僕自身の完成を目指し、この企てを実行する。早朝、連絡網で「体育祭の中止」が知らされた。詳しいことは登校後に校長から説明があるという。「お弁当、持って行くのよね」と母さんが台所から顔を出した。母さん、弁当ができても、できなくても、体育祭はいつだって中止なんだよ。去年の体育祭も中止。一昨年も中止。僕が在校生でいるうちは、体育祭は何度でも葬られる。毎年、サトウもキクチも、体育祭の中止をとても喜んでいた。僕らは体育とは最も縁遠い存在としてみんなに知られていた。誰もはっきりと口には出さなかったが、僕よりもサトウ、サトウよりもキクチが体育祭を阻止する「学校爆破予告の犯人」にふさわしいと感じていた。むしろ、実行犯に違いないと誰もが思っていた。登校後、最初に僕らはキクチの自死を知らされた。明け方、校庭の真ん中でキクチは発見されたという。体育祭どころではない。爆破予告の犯人は、学校を爆破せずに自爆。体育祭のこの日を選び、会場でもある校庭を選んだ。誰のために。キクチの遺書が発見された。遺書の最後は感謝の言葉で結ばれていた。「毎年、体育祭を中止にしてくれたこと、心から感謝している。本当にありがとう」

「企て」前半 部分

嘘の蔓延する場をこわすために企図されるものはテロリズムである。それは圧倒的な強者である社会を前にした弱者が唯一選択できる(かのようにみえる)手法だからだ。この詩ではその社会が「体育祭」とよばれている。だが祭りを中止するべく企てたキクチは自死する。着目すべきなのは体育祭の中止という目的が、企てを自ら放棄・・・・・・・することによって、実のところ達成されていることである。それは詩を完成させないことによって、その代償としてえられるものがあるはずだ、という著者の確信を感じさせる。いや、もっと具体的にいうべきかもしれない。それはたとえば「完成度」という実のところ恣意的な基準を、いっさい信じないという宣言のようなものである。

わたしは風に選ばれたのです。屋上の教室に通うために。机も椅子も必要ありません。時間割は風が笑いながら吹き飛ばしていきました。空は青い黒板でした。風が走り寄ってきて、わたしを慣れた手つきでめくっていきます。気持ちいいのです。風に読まれることが。風は始終、わたしという物語に泣いていました。これまでわたしを読んでくれたのは風だけでした。屋上のドアは開閉を忘れていました。わたしも忘れていました。あれから、どれくらい経ったのか。今年、先生は入学したばかりの生徒たちを屋上に連れて来ました。「ほら、とってもいい眺めなんだよ」と言いました。そして「気をつけて。ここは、以前、事故があった場所だから」と。一方で、風はささやいています。「そろそろ新しい読み物が欲しい」と。

「屋上」後半 部分

ことばの牢獄たる言語的構造物(校舎)を抜け出して屋上に出てみても、そこにあるのは出口ではなくまた別の階層に過ぎなかった。それはひとびとの言語化された物語が消費され、読み捨てられる場であり、気持ちのよい風はただあたらしく消費されるものを呼びよせるための道具にすぎない。

選ばれるということ……それには特定の社会的地位も含まれるが……は選ばれる側にとって一時的な恩寵である可能性が(「気持ちいいのです。風に読まれることが」)示唆されるとともに、それは実のところ恣意的に選び出される(しかも悲劇的な)見せ物に過ぎないという現実の有り様が同時に示されている。具体例を思い浮かべるまでもなく、それは嘘と真実の見分けが付けにくくなった、あるいはそのふたつを区別する必要性をだれも感じなくなった扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代を指し示している。

やさしい家に行くならば、心を持っていってはいけません。心を取り出して、いたずらする子鬼がいるからです。わたしの心が真っ白すぎる、弱すぎるといって心を取り上げ、唾液をつけて磨こうとするのです。心は磨かれているのでしょうか、それとも汚されているのでしょうか。黄ばみつつあるわたしの心を母は臭いと言いました。

やさしい家に行くならば、きれいな服を着ていってはいけません。困ったことに母の用意する服はどれも、きれいなものばかり。子鬼は怒りながら、わたしを裸にします。寒がるわたしの前で、わたしの服を子鬼は胸に当て、袖を通し、鏡の前に立ちます。これ似合うでしょ。子鬼は尋ねます。わたしの口からも嘘が生まれるようになりました。わたしの服は子鬼の穿いていた毛糸のパンツと交換です。

やさしい家に行くならば、決して笑ってはいけません。ある日、大人がわたしに頬ずりして言いました。あなたの笑顔、かわいいわ。わたしは、いま笑っていたのでしょうか。子鬼は顔を赤くして抗議しました。ふだん、笑わないから可愛く見えるだけなんだ、とも言いました。わたしから笑顔を取り上げたのは子鬼なのに。わたしは子鬼の赤らんだ顔を見ながら、動物園で見た猿を思い浮かべました。

「愉快な地獄」第一、二、三連。

本詩集でもっともわたしが好きな詩。嘘にまみれ、肉となった仮面をかぶらざるをえないひとびとがすまうことばの牢獄。その怪物の臓腑が「地獄」と呼ばれることに読者はもはやなんの驚きも抱かないだろう。

この詩では本詩集ではめずらしく行分けがなされ、全部で五連、それぞれが長方形を構成するよう文字数は調整されて、その様子は、どこか、居間にたちならぶ複数の磨きあげられた銀の鏡を思わせる。そこに穢れとしての文字があらわれる。

「やさしい家」などないことはすでに読者には了解されている。あるいは嘘のない家、個人に理解のある社会、「わたしを一人にしない」恋人、などといったものが存在しないことがすでに了解されている。それはだれかが悪いから、ではない。社会が悪いから、ではない。それはことばによって嘘と真実をみわけることがそもそも不可能だからで、そこには根本的な欠損が内在しているからだ。

書き手がいくら考えてみても、いじわるをする「子鬼」の真意はわからない。あるいは、娘を傷つける「母」のこころはわからない。わからないものをわかろうとしたとき、ことばは壊れ、嘘がつくられる。嘘を憎んでいたはずなのに、いつの間にか自分そのものが嘘になってしまう。そうした姿は、つらくかなしい。だが、それをかたちにしようとする詩に、真の人間らしさ、勇敢さを感じる。

佐々木貴子は過去の作品と決別し、あたらしい文体とともにここにあらわれた。
ことばの不能性のうまれる場に立ちかえろうとした第一詩集。

(2018年9月21日)

佐々木貴子『嘘の天ぷら』書籍情報
嘘の天ぷら
出版 土曜美術社出版販売
発行 2018
著者 佐々木貴子(ささき たかこ)
価格 1400円+税

花潜幸『初めの頃であれば』

なぜいま詩を《読む》のか。孤立と断絶の時代を越える不可能な解に必要なものとはなにか。こうした疑問にこたえる前に、ひとつはっきりしていることがある。それは連帯アソシエーションをつくることではなにもなしえないということだ。よって《千日詩路》は、過去に会ったこともなく、未来に会うこともなく、まるで理解しあうことができないそれぞれの孤立と断絶の彼方にいる読者を、その遠さゆえに・・・信じる。

◇ ◇ ◇

さて一週間のはじまり、月曜日だ。関東はすっかり秋の雰囲気だが、まだずいぶんと暑さが残っている。

本日、わたしたちがめぐり会う詩集は花潜幸の『初めの頃であれば』(二〇一五年発行)。著者は一九五〇年東京生まれ、本詩集に収められた詩「初めの頃であれば」で第二十三回『詩と思想』新人賞を受賞。他詩集に『薔薇の記憶』(二〇一一年)、『雛の帝国』(二〇一三年)があり、本書は第三詩集にあたる。百頁に三十七編を収める。

幼くして亡くした母のことを何も覚えていない。ただ、母が教えたというこの歌を唄いながら眠ると、ぼくは夢の階で母を感じることができる。

父は母のことを語らなかった。母を忘れさせるため、自分も言葉を忘れたのだろう。

だから母はいつも蜜柑の形をしている。

「みかんの花咲く丘」第一、二、三連
※題名には「」があらかじめ付されている

「みかんの花咲く丘」は一九四六年、敗戦後まもない日本でつくられた歌謡曲。この詩でいちばん印象に残るのは、第四連にあらわれる一文字分の空白だ。それは「父」と「母」という単語たちに挟まれてさりげなく(まるで誤植のように)配置されている。その空白から詩があふれてくるように感じられる。ことばが逆流する磁場の中心にあるのは欠損で、その私的/詩的な核心をあらわす空白の一文字の存在を明らかにするために、文字をまわりに敷き詰めて埋めてゆく戦略が取られたのではないかと想像する。そこにあるのは喪失こそがえるための方法であるという逆説だ。

名前を呼ぶのであれば、明日のものにしなさい
とあなたは言ったけど

母が消えた後のこと、石にも火をつけようと、犬形の庭の灯籠を割った。中には黄桃の灯が隠されていて、私の肉に包まれた希望や感情を照らしていた。冬の雪は柔らかく、夏には冷たいあられが降っていたけど、私の履いた靴の踵は、小さく地の声を聴いていた。

「母が消えた後のこと」第一、二連

著者の選び取った方法がもう少し明らかになる。母と名付けられたなにか・・・を失った作品内の書き手が見いだした「あなた」は、「明日のもの」である名前を呼ぶことにしなさいと説くが、それはいまだ存在していないものの名前をもって、いまここにあるものを知るべきだということを意味するはずだ。それは思い出すためには不可能な跳躍をしなければならない、と解釈される。その跳躍とは、石に火をつけようとすること、あるいは石灯籠をたたき壊してなかにかくされた黄桃を見つけることだと書き手はかたっている。優しくゆがめられた現実のずれに詩があらわれる。

樺太から戻る五月の船に、魚は銅のように重く、月のように輝いていた。初めの頃であれば、宇宙の背中にも手を伸ばし、春の海を渡る風と話をし、浜で生きることを夢見ることもできたのだ、とあなたは語った。
そう初めの頃であれば、私もまだ母の手を握り、角々で出会う不思議な妖精や、花の声のことをあなたに話して、竹かごの作り方をぎこちなく笑って語ることもできたのだろう。

「初めの頃であれば」第一、二連

戦地から帰還した父の物語に基づき書き手が想像力の源泉をかたる。それは「初めの頃」と記され、ここではない代替的世界がさまざまなかたちで同時に存在していた可能性にみちた場だ。いまこの場にいる「わたし」と、かつてあらゆる道を選択することができた「わたし」の間を架橋することでもあり、その絶望的なまでに遠い距離をあらためて知ることでもある。それは不可能な旅であるからこそ痛切であり、わたしたちはみなこのような「初めの頃」をもっている。

第三連以降、より具体的な戦地の描写がつづき、わたしたちはふたたび社会派にかたよる読みへの誘惑にかられる。だがわたしたちは、昨今のソーシャルメディアに満ちあふれる、なんらかの企図に基づいたひとを操作マニピュレートする扇動的な《読み》から離れる加速度をたもたねばならない。

たとえば、うまれなかった胎児はあらゆる可能性をもっている。うまれなかったことば、伝えられなかったことばもまたあらゆる可能性をもっている。だが現実はひとつしかなく失われたものはえいえんに失われたままである。その現実以前の場へとたちかえる不可能な道をつくるのが詩の仕事だということを思い出させる。

次のような詩も印象に残る。

朝になると寝台を畳んで、熱いお茶を飲みながら湯気の行き先を確かめます。くもった窓を掌でこすると写し絵のように雪の風景が出て来る。紅いシグナルと青いランプが、交互に瞬いて、ゴトゴトという列車の走る音を引き立てます。いったい何処へ、と聞かれれば、今は忘れた国へと応えるしかありません。

「冬の家族」第一連

目的地はこたえられない。すでに名前すら忘れた国というしかない。そこに重ねられているのはたとえば戦後日本が失った(そしてすみやかに忘れた)満州、朝鮮、台湾など、名前と歴史を損ねられた国たちなのだろうと思う。第二連には姿の見えない父母がえがかれ、書き手は家族でどこかに向かっていること、そして行き先と帰る先もわからないことが示唆される。それは仮象の雪原を螺旋をえがいてのぼる魂たちがつくる列車の姿を想像させる。

雪降るホームの待合室。頬を濡らした幼児が蜜柑をつまみ口に入れる。小さな、とても小さな笑い顔。お婆さんは、しわになった広告を伸ばして、ほら、これを買ってあげようと玩具の象を指差している。戸口の近くに立つ男は、硝子に映した髭を触って独り言「何処まで行ったことか」と。向こうのホームに、青い駅員の影が二つ、カンテラを差し出して消えた線路の淵を確かめている。春の観光ポスターの下に、茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした婦人と、白い手袋の女の子。開いた掌に約束はもう何もない。

「待つひとたち」第一連

一行、他とことなる文がある。「茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした夫人——」そこで深く息を整えているのはだれ・・なのかという疑問が湧く。そしてそのあとに「右手」とある。編み物は両手でしか行うことができないから、その右手は婦人のものではない。すると自然にそこには息をなんらかの理由で深く整えなければならなかっただれかがおり、その右手に婦人がいる、と読める。

それは忘れられた記憶の待合室にふと立ち寄った書き手の姿なのかもしれない。その書き手は春がけして来ないこと、自分が遅れて(かつそれを死者たちに隠すために息を深く整えて)そこに到着してしまったこと、そしてかれらがそこでえいえんに待ち続けることになることを知っている。その場所に到達したかったが到達しえなかったこと、その透明な喪失感をわたしたちは共有する。書き手のことを個人的に知らなくとも、詩はその欠損のかたちを教えてくれる。

詩はわたしたちが忘れたかったが、けして忘れられなかった欠損としての愛、その記憶の空虚を、時も場所も越えてどこかでつないでしまう。わたしが本詩集でもっとも好きな詩である。

何時までも待っている人たち、
春を待つひとたち、
永遠と名付けられた人たち

「待つひとたち」最終連

(2018年8月27日)

花潜幸『初めの頃であれば』書籍情報
初めの頃であれば
出版 土曜美術社出版販売
発行 2015
著者 花潜幸(はなむぐり ゆき)
価格 2000円+税

アルビン・パン『かたちづくる名前たち』後編

八月十七日。関東にようやく残暑らしい涼しさがおとずれている。

さて本日は昨日に引き続き、シンガポールの詩人アルビン・パンの『かたちづくる名前たち』を取り上げる。邦訳が存在しない海外詩人を取り扱う場合、できるだけ《千日詩路》編集部にて訳出を行い、どちらかといえば評よりはこちらに焦点を当て、作品観賞の一助となるようこころがける方針をとりたいと考えている。

前編はこちら

◇ ◇ ◇

さて、前半では三つの人生に関する単語を男女関係になぞらえて表現した詩三つを取り上げた。後半では、二〇一八年に住まうわたしたちにとっては、すでに親戚のような存在ともいえる「不安」「絶望」「挫折」のそれぞれの詩を取り上げてみよう。

「不安」とは、かつて忙しくあちこち飛び回っていた頃に、よく出会った。そういうとき、彼女はいつも私を隣に座らせ、おしゃべりをしたいというのだが、実際に話してみると、いつも大したことを喋ってはくれなかった。いつだったか、彼女に突然真夜中に起こされたことがあった。でも結局私が聞くことができたのは、彼女の呼吸する音だけだった。彼女とはかなり長い間カフェでいっしょに時間を過ごしたが、それは私は彼女がカフェイン中毒であり、自分の声の響きを自分で聞きたいだけだということに気がついてからは、そうすることもなくなった。

「不安」はいつも他人に注目されたがっていた。彼女は皆に悪い知らせを持ってくるのが大好きだった。皆が集まる場では、彼女が他のだれかが気の利いたことを言おうとするちょうどその時、その邪魔をして黙らせるのだった。危機的状況にある時、その部屋でいちばん声が大きいのも彼女だった。彼女のことを無視することはむずかしく、一方彼女はひとの話をほとんど聞かなかった。私は彼女から距離を取るすべを学び、ようやく自分の声の響きを知ることができたのだった。

不安Anxiety」 第一、二連

わたしたちがソーシャルメディアでよく見かける光景でもある。声が大きいこと。ひとの邪魔をすること。そして無視することがむずかしいからこそそれが増幅されること。そのすべてが不安によるものであり、そこに明確な理由が存在しない。わたしたちが自らのこころに「なぜ自分は不安なのか」と問うても、答はない。ないからこそそこにある、といえる。

「絶望」は、たったひとつのことしかいってこない——「絶望」は、自分にお世話をさせてほしいと、そう申し出てくるだけだ。長く、つらく、埃にまみれた路上の旅を続けてきたひとの前に、「絶望」は現れ、彼が用意する道端の日陰で一休みしたらどうかと誘ってくるのだ。ミルクと涙でできたお茶と、ため息でできた焼き菓子をふるまいながら。「絶望」は、まずこういう話をはじめるだろう。つまり、自分がいかにこの静かな場所にたどり着いたか。自分が表通りから外れたのは、すでに忘れてしまったがなんらかの危険な冒険の途上で、おとなしくしていたほうが身のためだということに気が付いたからであり、身を落ち着け、ここに店を構えるべきだという決断をしたからだと。そして「絶望」の客の多くは、もうずっとそこに住んでいるのだと。

絶望Despair」第一連

「絶望」のやさしさはわたしたちにとってよく見覚えのあるものであり、その誘惑は魅力的だ。自分とまったく無関係な他人の生活がインターネットのあらゆる場所から文字通り手元まで流入してくる現代において、常に会ったことすらない第三者の人生との比較を強いられることはそれぞれのばらばらの個人に内的な地獄をもたらし、そこに「絶望」が入り込む多くの隙間があることをわたしたちはよく知っている。

最後に、わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である「挫折」を紹介したい。

「挫折」は、皆に好かれる子供ではなかった。彼が生まれた時、その両親ですら失望を隠せなかった。両親が望んだのは、最初の子供である「達成」のように、可愛く、健康的で、えくぼのある赤ん坊であったのだ。そうした期待に反して、「挫折」は小さく、鈍く、血色は悪く、ほとんど笑うことのない赤ん坊だった。赤ん坊を見るために訪れた親類たちも、「挫折」を長い事みつめることはなかった。親類たちは部屋の隅で、何やらささやきあい、頭をそっと振ってみせた。

「挫折」は、孤独な少年時代を過ごした。学校で、「挫折」は優れた資質を示した。たくさんのことを学び、実際にひとに与えられるものをたくさん持っていた。「挫折」は授業で教科書にない多くの質問を投げ掛け、授業の範囲を越えた事柄について知ろうとした。しかし教師たちは、「挫折」を問題児だと考えた。ほとんどの生徒たちは、彼を避けた。「挫折」は変わり者で、そして醜いとの評判が広がり、「挫折」は一人で過ごすようになっていった。

後年、仕事をはじめた「挫折」は、世の中の役に立ちたいと考えた。彼はできるだけ多くの仕事に関わった。新しい案件を先陣を切って始めることに挑戦し、所属する組織でまだ誰も思いついていなかったようなアイディアを発案した。しかしやがて、彼は自分の考えを評価しようとしてくれるものはほとんどいないということに気が付いた。彼が燃え尽きるまでに、さほど長い時間はかからなかった。そして物事がうまくいかなくなったとき、皆はそれを彼のせいにした。そもそも「挫折」がそこに問題があることを最初に発見したことがほとんどであったのにも関わらず。そして「挫折」はやがて職を失うことになった。

挫折Failure」第一、二、三連

どこか宮沢賢治の「猫の事務所」を思わせるくだり。「挫折」はこの後、詩の後半部分で、障害を持つ子供を教える教師である「謙虚」という女性とめぐり逢い、ようやく自分の資質を活かせる場を見つけ出し、やがては結婚する。

だが、ここまでこの詩集をともに読んできた読者には明らかなことだと思うが、これは理解者を見つけることでひとは幸せになれる、という物語ではない。「挫折」も「不安」も「絶望」も、すべてひとのこころのうちにあるものであり、そうしたものにとらわれすぎることなく、これらの諸要素を自分のものとして受け入れ、認め、いま眼の前にある問題に取り組むことによって、よりよく生きる道がひらけるはずだ——著者はそう示唆している。そこにこころが動く人間的なメッセージがある。

いかに生きるかという問いには常に困難がともなう。
詩はとどかぬ理解者としてそこにあるほかない。

(2018年8月17日)

Alvin Pang "What Gives Us Our Names"書籍情報
原題 What Gives Us Our Names
出版社 Math Paper Press
発行 2011年
著者 Alvin Pang (アルビン・パン)
価格 10 SGD

アルビン・パン『かたちづくる名前たち』前編

窓の外には巨大な雲が広がっている。

夏から残暑にかけては、日本に住まうわたしたちにとって喪失の季節であり、終わりなき追悼のための時間でもある。テレビが、メディアが、昨今ではソーシャルメディアが、ありとあらゆる手段でそうした物語を流布しようとする。それはわたしの記憶する限り、もう何十年も変わっていない。だがそうした流布にくみすることなく、それぞれの夏と向きあおう。いまここにある孤立と分断の時代と向きあおう。

◇ ◇ ◇

さて本日わたしたちが取り上げるのはシンガポールの詩人、アルビン・パン。彼は一九七二年シンガポール生まれ、わたしとは同世代に当たる。第一詩集を一九九七年に刊行、それ以降多数の詩の著作を持ち、いくつかの作品は十以上の言語にて翻訳されている。ただ残念ながら邦訳はまだのようだ。わたしの知る限り彼の詩集はすべて英語で書かれ、本日取り上げる『かたちづくる名前たちWhat Gives Us Our Names』はいわゆる小冊子チャップ・ブック、ポケットに入るサイズで、散文詩による詩集。五十二頁に十七編を収める。

なお本稿は二部構成である。後編はこちら

※本稿の訳文はすべて《千日詩路》編集部による

◇ ◇ ◇

『かたちづくる名前たち』では、作品にはそれぞれ「繁栄Success」「情熱Passion」「目標Purpose」等と題名がつけられ、それぞれ擬人化され、物語があたえられている。たとえば上記三名はそれぞれ男、男、女であり、ひそかな三角関係にある。それぞれ抜き出してみる。

「繁栄」は来週あたらしいコンドミニアムを購入するという。彼はすでに自分の部屋を所有し、さらに自分の両親のものも購入している。彼によれば、それは投資目的なのだという。彼はまた自分の両親である「進歩」と「不安」を喜ばせるために、先日も車を買ったばかりだった。彼によれば、二人は近いうちにあらためて世界一周旅行に出かけるらしい。自分自身にはスポーツカーを購入したが、その性能には満足しかねるらしく、新しく買い直そうか悩んでいるそうだ。

(…)

「繁栄」は、いつでも成績優秀で、魅力的な外見をしていた。だいぶ昔の話になるが、同じ大学に通っていた頃は、彼は皆が一緒にいたいと思うタイプの人間だった。当時、彼は「目標」という女性に熱をあげていた。そして二人をともに知るまわりの人間は、彼らは完璧なカップルではないかと考えていた。しかし時がたつにつれ、二人はだんだんお互い会うことがなくなり、第三者の結婚式でたまに会うだけの関係になった。その後、「目標」は自分が愛するようになった「情熱」の後を追って、海外に旅立ってしまった。その「情熱」はもう長いこと行方がわからなくなっていたのだ。

繁栄Success」 第一、三連

一見ショートショート小説のようにも見えるが、こころが強く動かされるものがある。わたしたちの周りにも「繁栄」や「目標」のようなだれかがいた、あるいはおり、そうしたわたしたち個人の記憶がそれぞれの生活にともなって喚起されるからだ。そこには人間同士の関係が不可避的にかわってしまうことのかなしみが透けてみえ、さらにそうした男女に特定の名詞を割り当てることによって、そこにもう一層別の読みの可能性をくわえている。

行方不明になった「情熱」をみてみよう。

もう長いこと「情熱」の姿をだれもみていない。あるものはかれは身を隠しているのだといい、またあるものは海外で住んでいるはずだといい、またあるものは裁判も受けていないのに勾留されているはずと主張していたが、こうした噂話のいずれも証拠があるかといえば、だれも確証を持っていなかったのだった。彼の不在そのものが、多くのものにとっては眉をひそめるような事件だったし、それはさまざまな疑惑の源泉だった。
だが「情熱」自身は、そうしたことを喜んでいるかもしれない。わたしたちが彼を初めて知った学生時代も、彼はいつも奇妙な質問をする男として知られていた。つまり、だれもすぐには答えられないようなむずかしい質問をする男として。

情熱Passion」第一連

そして問題の「目標」は次のような女性として描写される。ここでもやはりわたしたちは既視感を覚える。まったく無関係な第三者の書いた詩によって、時も空間もばらばらになって生きているそれぞれのわたしたちの生活の記憶の中にいるだれか・・・がよみがえる。

「目標」は付き合うのが簡単な女ではなかったが、友人を大切にすることは忘れなかった。彼女とつきあった男たちは、そのほとんどが彼女の高い理想に応えることができなかった。そうした男たちは、いつも自分の側から彼女に別れを切り出した。彼女はいつも、彼らが聞きたいことではなく、彼らが知らねばならないことを伝え、男たちの気持ちを逆撫でした。

なぜ「情熱」と「目標」があれほどお互い強く惹かれ合ったのかわかる気がする。彼女は彼の熱意や集中力に魅力を感じ、彼は彼女が大切にするものや、彼女が自分の道を貫くその毅然とした姿勢に敬意を払い、惹かれていた。彼女は彼の気持ちをやさしく落ち着かせ、彼は彼女が前に生きられる力を与えてくれていたのだ。

目標Purpose」第三、四連

印象的だったのは、「情熱」が「目標」と恋仲になった後、「情熱」のほうはいつしか行方不明になってしまうのだが、その理由も経緯も作品内ではいっさい明示されないことだ。そういうものかもしれないとふと思う。わたしたちがこころのうちにあるものは、いかなるものも理由などなく必ずほろぶということを思いださせる。

数年前のこと、「情熱」はある仕事を手がけるさなか、「目標」に出会った。そしてすぐに恋に落ちた。かれは「目標」と付き合うようになり、その後はあらたな人生にしっかりと取り組み、さらに仕事を頑張るようになった。それが、かれの行方がわからなくなる直前の話だった。

情熱Passion」第四連

(2018年8月16日)

Alvin Pang "What Gives Us Our Names"書籍情報
原題 What Gives Us Our Names
出版社 Math Paper Press
発行 2011年
著者 Alvin Pang (アルビン・パン)
価格 10 SGD