尾久守侑『国境とJK』

――詩はおもしろいかって? たぶん。

◇ ◇ ◇

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岡本啓『グラフィティ』

――アメリカを、すがすがしく、わすれる。

◇ ◇ ◇

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田中さとみ『ひとりごとの翁』

――仮面をとれば、わたしたちはどこにもいない。

◇ ◇ ◇

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十田撓子『銘度利加』(H氏賞受賞詩集)

——わすれ、思いだす。そしてまた、わすれる。

◇ ◇ ◇

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三角みづ紀『舵を弾く』

だれもいない真夜中に、ひとりぼっちの車がもえる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。秋が深まる。十月らしい天気だ。

さて本日の詩集は三角みづ紀の二〇一五年発行の詩集、『舵を弾く』。著者は一九八一年鹿児島県生まれ。二〇〇四年『現代詩手帖』投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。同年、第一詩集『オウバアキル』にて第十回中原中也賞受賞。他、二〇〇六年『カナシヤル』、二〇〇八年『錯覚しなければ』、二〇一〇年『はこいり』、二〇一三年『隣人のいない部屋』など著作多数。本書は五章構成、小分けされた章は「泥濘」「生没同日」「枝垂れる」「クラシックラジオ」「かなでるひと」と名付けられ、百十頁に三十五編を収める。

さてそれでは、いつものように一般読者と同じ目線で、三角の詩に出会ってみよう。巻頭詩「呼ばれる支度」から。

うつぶせで いのちを研ぐ
あおむけで 見開いたまま
屋根って、きれいね

息をするには
どんな布でもよくって
いたむ星を包んだ

そうやってあたためていると
熟した実が、屋根をたたいて

耳はすまして、
呼ばれて、
瞬間、瞼から生まれる

あおむけで 見開いたまま
わたしたち いのちを研ぐ

「呼ばれる支度」第一、二、三、四、五連
第一章「泥濘」内

うつぶせがそのままあおむけであるような存在が想像される冒頭。それはどこか男女両性の、手足が二組、顔が二つずつあるアンドロギュノスを思わせる。そして間をおくことなく、その瞬間わたしたちは屋根を見てもいる。接合、分断、跳躍……がたった三行に凝縮されている。

もう少し詳しく読むと、繁殖、出産、赤子をおおう布、卵、身体に降りそそぐ雨などのイメージが重ねられ、題名も合わさって、これは卒啄同時の祝福についての詩なのかも、ということを考える。だがおそらくそれは生物学的な繁殖ではなく、詩を研ぐということ、性をひとつの身体のなかにふたつ保ったままいのちとしてのことばを繁茂させてゆくことなのだろうと読んだ。こうした書き方は詩以外にはまず不可能だという驚きと納得がある。

わたしは目前で、ひとがしんだとしてもけっして驚かないのだ。その呼吸を確認するつもりはないし、おそらくのことはあるがままである。自らがしんだとしても動揺しないことはわかっている。なんとつめたいことか、騒ぎたてるのは周囲であればよかったし、できるなら海葬にしてほしいときめた。事務的にすりつぶした骨をひどく事務的に知らない海岸線にまいてほしい。わたしが、生前、愛着もなにも持っていなかった名前も知らない海面にまいて、それからひとびとは何事もなく帰宅してお茶やらアルコールやら飲んで、一夜あけたら仕事へでかけるだろう。そのひとびとがしんだとしても驚かないでほしい。毎朝、薬缶を火にかけるような日々であればよい。毎晩、他人をにくんだりあいしたりすればよい。
ひとびとは大地を割れない。

「この家」第一連
第一章「泥濘」内

ひとがしんでもわたしは驚かないのは、「愛着もなにも持っていなかった名前も知らない」ものたち囲まれているからだろういと最初は読めたのだが、ひとが「ひとびと」へ転換され、わたしという個人的な存在の独白から、より広い場へとこぼれてゆく連を読みかえすと、し(私/死/詩/知)が、この家を離れて名前のない海へと広がっていくうつくしいイメージを得られる。ひとは大地を割ることができないので、海はえいえんにそこにある。いかなる名付けも拒否したまま。

夏至も過ぎたけれど
真昼に灼けた地面に
空から打ち水が降り
ようやく、夜となる
そうして、朝を待つ

はげしく―――ゆるやかに
瞬間に立つ―――ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に―――かがやいて

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

「定点観測」全文
第二章「生没同日」内

とても好きな詩。生没同日、は、うまれたしゅんかんにいのちを落としたものであり、「きみに うつりこむ」花火は、うまれたものたちがながれつく先の水面にうつる花火と読むことができる。あるいは「きみ」はすでに空におり、なにも反射しない空虚に光がさし、その不可能な反射に詩がかたちを与える、とも読める。けして声高にかたられてはいないのに、感情のバイブレーションが短い詩連からほとばしる。

(ずいぶんと雑多な庭で
感情はふしだらに波及
アスターもたんぽぽも
われもこうも水くさも
かぞえきれないくらい
何度でも、しぬ)

だれもいないと
信じて
真夜中に舞う
意識があらゆる上半身を揺らし
ちっとも根づかない
わたしは かなしい
だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」 第三、四連
第三章「枝垂れる」内

乞い、ごい、こひ、恋、来い……何度でも死ぬものたちが真夜中にあつまる。アスターとたんぽぽと吾亦紅と水草が同時に存在する不可能な場が詩と呼ばれていて、それがすぐに死ぬことが了解されている。それを信じることはかなしい。

意識が上半身だけを揺らすならば、下半身は忘れられ、つまり足が庭にあり、踊りを舞うときその足裏が踏みつけて殺しているものが忘れられている、とも読める。よってなにひとつ根づかず、そこに深い悲しみが満たされている――が、それは「わたし」だけのものでなく、「わたしたち」のものであり、それは読者にひらかれたかなしみだ。そこに特権的なものなどなにもない。

あたらしいわたしの国は
えんえん雨が降っていて
いまにも折れてしまう枝
起きたら中庭の車も炎上する

時折、
じぶんに
あたらしい名前を
つけたくて
逃亡者として移住する
わかっている わたしは
ほんとうはやさしいから
身体の空気を冷たくして
ほんとうは全て憎みたい

あたらしいわたしの人と
春になったら森へ行く
ほら、あの病院の近くの。
あなたが提案したのでしょう。

「つめたい珪砂」第三、四、五連
第四章「クラシックラジオ」内

えんえんと降る雨は子供の涙を連想させる。乳幼児は大人には意味がわからないままよく泣くが、大人は意味があると信じこんでいるだけで、大人もまた実はただなんの意味もなく泣いているだけなのかもしれない。

珪砂は、ガラスの原料となる白色粗粒の砂。つめたい砂は、幾千億に分解されてしまったなにかで、元のかたちはエントロピーの法則によってえいえんに失われている。そんな砂に雨が降る光景がみえる。あたらしい国にはあたらしい名前が必要だと書き手は考えるが、それをえることはできないことがあらかじめ示唆されている。あたらしい街にいってもあたらしいわたしはえられない――というよりもあたらしいものなどどこにもないからだ。ただ砂は流れ、雨は降り、どこかの中庭で車が炎上している。

たくさんのへその緒は
つらなって
無表情のひとびとを縦断する

導線だっていうことは
わかっているのだから
なぞることはしないが
揺らしてみれば
重なって
ふるえる

わたしたちを奏で
奏でられるままに
これからつながる
わたしたちの動機

車内は涼やか
座席に深く落ちていく――

「ストリングス」第二、三、四、五連
第五章「かなでるひと」内

命をつなぐへその緒が管楽器の道具になぞらえられている。おそらくはバスの中にいるのであろう書き手は、車体(肉体)の中でつめたく閉じ込められながら、相対的な世界に対してなぜか・・・動きつづけている、そういう様子がえがかれていると読める。「導線」はひとの魂がうごく道、またはひとがいきる動機がはこばれる「動線」なのだろう。

わたしたちはすでに母体から切断され、へその緒は乾燥しきってただのモノになっている。そんな切断された宿命を弦楽器と読みかえて詩をかなでる――そうした強靭な意図を、本詩集から読みとればよいだろうか。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、上でも紹介した「木曜日、乞い」をふたたび挙げておきたい。だれも、いなくとも……のあとは、読者がみいだすのである。

だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」

(2018年10月3日)

三角みづ紀『舵を弾く』書籍情報
舵を弾く
出版 思潮社
発行 2015
著者 三角みづ紀(みすみ みづき)
価格 2000円+税

野崎有以『長崎まで』

ふるさとは遠いのではない。それはいつでもここにある。

◇ ◇ ◇

本日は火曜日。よく晴れ、穏やかな秋の一日。

今日の詩集は野崎有以の『長崎まで』。著者は一九八五年東京生まれ。二〇一五年、『現代詩手帖』詩投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。二〇一六年発行の本詩集にて第二十二回中原中也賞受賞。本詩集は詩編十二編を九十六頁に収める。

中原中也賞の選考では、「全篇行分けの散文詩であり、作者の語りたい欲求の切なさが詩の内容の芯となっている。架空の町の架空の自伝とも読め、しかも演歌調の語りが戦略的。詩的にならないで詩の言葉になっている」とあった。

「詩的にならないで詩の言葉になっている」という選評を解説するならば、いわゆる・・・・詩的なものをつかわずに詩のことばをつくっている、ということだと読めるが、ひとまずはいわゆる詩的なるものは詩と同じものではない、という選評の観点に留意しつつ、読みはじめてみよう。

巻頭詩「ネオン」から。

「珍しい夜景を見せてあげよう」
そう言って男は私を旅行に連れて行った
着いたのはホテルの高層階だった
あたりに高い建物はなく
工業違いがただひたすらのびていた
初めて来たけれど懐かしい場所だった
平たい工場が一面に広がり
煙突からは煙が出て夜空に雲をつくった
雨を降らせるんじゃないか
反射するあてのないネオンがときどき海に映った
薄明かりのなかで遠くの山がぼんやりしている
男は得意になって自分のものではない夜景を自慢した
私はこの男と出会ってから
合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしい生活の指定席券を
生まれたときからもっていたふりをした
だけど結局
ふとんをかぶって泣いてばかりだった
仕事は出来るが不器用で
毎晩帰って一人で晩酌をしているせいで
首のあたりが恒常的に上気したあなたと
一緒になったらよかったのかもしれない
あなたは必死で隠していたけれど
何かの拍子に出てくる訛りに
私の故郷が見え隠れしたのです

「ネオン」第一連

いわゆる詩的なるものを排除するために、行分け詩と散文詩のちょうど中間に位置する体裁が選択されていると読める。余分なものがなく、華美な装飾は省かれ、実用的な文体によってかたられる私小説的なはじまりがある一方、第一連の終わり近くにて「男」であったはずのはいつのまにか「あなた」へと変貌し、日常的なことばにて平易にかたられていたはずの時空間が歪み、詩がその亀裂から展開されてゆく。

小説的な書き方であれば男との記憶にさらに別の第三者――ここでは父だと思うが――の回想がそれとわかるようななんらかの文体の変化を経て重ねられるところなのだが、詩ではそこに解説をいっさい入れることなく、そのまま挿入されている。そこに詩のおもしろさ、難解さがある。

「男」と「あなた」が別人物であるらしきことは、旅行先としてはかなり奇異に感じる工場地帯のホテルの最上階の予約などの逸話から示唆されているが、男に父をみ、父に男をみる構図をつくりだすための装置なのだろうとわたしは読んだ。そして逆に同一人物であったとしても、わたしたちのことを思い起こせば、ふだん一緒にいる相手に複数の第三者を見出してしまうことはごく普通のことだ。詩はそんなわたしたちの複雑な在りようをあらわしている、しかもきわめて日常的なことばで(「詩的にならないで、詩の言葉になっている」)。

昼下がりの電車のなかで
中吊り広告の女優だけがけだるそうな感じでこっちを見ている
彼女を美しいと思う気持ちと拒絶する気持ちがぶつかった
冷たく気の強そうな女性だった
電車のなかで感じる彼女の視線を
うつらうつら席も立たずにかわしていた

夜更けのJR田町駅
駅近くの運河にかかった橋の上で
早く駅に行けばいいのに
ざらざらした橋の欄干に頬杖をついて運河を見つめていた
流れる運河は風が砂場遊びのくまでになって
嘘みたいな流れをつくっていた
少し前まで私は一人でバーにいた
バーボンを何杯か飲んだあとにマンハッタンが出てきた
赤いカクテルのなかで恍惚の表情を浮かべて
サクランボがひとつ沈んでいた
マンハッタンはきっと夕焼けの綺麗な街なんだろう
帰りがけにバーテンダーにマンハッタンがおいしかったと告げると
「リトル・プリンセス」
というカクテルの名前が返ってきた
エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた

「女神」第一、二連

昼の電車、夜更けの田町、その前のバーと、書き手の時間と場所がずれてゆく。改行によって第一連と二連の間にはなんらかの場面転換があることが明示されているが、第二連の最後の三行にはちょっとした仕掛けというか謎があるように思える。その前の部分が相対的に理解しやすいことと比較すると、そこには見えない改行または詩連が隠されているのかもしれない。

ふたつのカクテル「マンハッタン」と「リトル・プリンセス」をなぜか注文した客が間違えていることについての違和感は、そこにかくされただれか別の注文者を想像すれば足りる。それは第三者またはバーテンダー自身なのかもしれない。また、バーテンダーがわざわざ客の間違いを伝えることについての違和感は、そのバーテンダーがその特定の客についてなんらかの理由に基づく悪意を持っていた、と解釈することができるかもしれない。

そのいずれについても、詩はかたることなく省略を行っている(詩の合評会などであれば、さまざまな解釈がされ議論になりそうな部分だ)。その省略、跳躍が魅力をつくっているということを感じる。「エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた」というとき、そこにはなんの解説も、説明もなく、その理由もかたられない。ただひとつづきの出来事たちだけがそこにある。それこそが現実だ、という声がきこえる。書き手にとって詩はつくりものではない、という声も聞こえてくる。

「女神」は次のような連につづく。

終電近くになってやっと電車に乗った
前にいた乗客が立ち上がって降車すると私はそこに腰かけた
うなだれる身体を腕組みするように両手で支えた
顔を上げるとあの中吊り広告の女優が私を見下ろしていた
車内の蛍光灯が白く反射して何の広告なのかよくわからなかった
それは大事なことではないのかもしれない
彼女はバーテンダーの機敏な腕のなかでゆっくりと楕円形を描きながら
撹拌される氷のようにうるんでゆらゆらしていた
相変わらず冷たい表情をしていた
その冷たさは海の群青のようだった
しかしこの日は強くて美しい人に見えた
濃い睫毛は雨に濡れているようで
彼女の唇はいまにも動きそうですらあった
この人をなかなか受け入れられなかったのは
強くなれない自分がうとましかったからなのかもしれない
美しいけれど品はない
場末の酒場にいても違和感はない
それでも私は彼女に惹かれた
人の顔とは一体何なのだろう
転んでしまいそうな心を吹き飛ばしたりしない顔を
女神と呼ぶのではないか
降り際に中吊り広告のなかの彼女がほしくて
ポスターの前で手のひらを広げてさっと結んだ
小さい頃
欲しいものがあるとこんなことをよくやった
欲しいもののちょっと手前で手のひらを大きく広げて結ぶ
こうすると欲しかったものをどこかにしまえる気がした
結んだ手のひらの前にあったものの多くは
大人になってちょっと働いたら簡単に買えてしまうものだった
私は何を取り損なったのだろうか
プラットホームに降りると
水の入ったペットボトルとちりとりとほうきを持った二人の駅員が
酔っ払いの吐瀉物を片づけていた
一人の駅員はベテランでもう一人は若い駅員だった
早朝に押し掛ける勤勉なサラリーマンたちのために
言葉も交わさずに掃除をしていた
この二人だって勤勉な人々であるはずだ
私は軽く息を止めて
女神がとどまっているかもしれないこぶしを握りしめながら改札へ急いだ
改札ではろれつの回らない酔っ払いが
「のりこし精算」という言葉をうっかり忘れてしまったがために
自動改札機を通してもらえないでいる
腹の底から笑ってしまうほどみじめな街じゃないか
でも
たぶんこれでいいんだ

「女神」第三連

「ネオン」でもみられた、複数の存在を同じ対象に重ねながら離れさせる手法がここでも取られている。「女神」はバーテンダーが準備したグラスの氷に映る自分自身の姿と重ねられ、女神を電車で見出すきっかけとなったと思われるある直接的な出来事はかたられることなく(だがその欠如によって詩全体に漂う、理解されることへの穏やかな諦念が心地よい)、さまざまなモノに映り込む自分自身の姿と記憶が、大量生産され電車のあらゆる場所に貼り付けられているとある名前を失った女性の写真を通して詩にあふれだす。それは二〇一八年においては、ありとあらゆる場所で無限に拡散されつづけることばたちのなかから意味のある「このわたし」を探しだす、見出す、とりもどすという意志を指し、それが「女神」と呼ばれているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

最後にわたしが本詩集でもっとも好きな詩「鉄板のかいじゅう」を紹介する。
わたしは知らなかったが、「ポンポン菓子」は米でつくるポップコーンのようなものらしく、つくるときにポンと破裂音がするそうだ。わたしは思うが、作家というものは、かれ自身をうみだした音やことばから、完全に離れることはできないのではないか。ほんとうに架空のものなど、書けるはずもない。

そしていつも思うことだが、好きな詩ほど解説をしたくなくなる。ぜひ図書館や本屋などで手にとって全文の一読をおすすめしたい。

冬のはじめに風邪をひいて咳だけがなかなかとれなかった
一ヶ月以上たっても咳が出る場合は喘息の疑いがあるらしい
小児喘息にかかったことはあるかと聞かれ
喘息のことをやっと思い出した
私は子供の頃喘息を患っていた
医者はいくつかの質問をしてから
喘息がまた出たのかもしれないと言った
ベッドで横になって咳の出ない寝方をさぐりながら
いつかの夏休みのことを思い出していた

怪獣映画の怪獣の声は下駄で鉄板をこすって出しているのだと
近所に住んでいた夫婦が言った
何をして生計を立てているのかよくわからない人たちだった
どうでもいいようなことを何でも知っていた
子供にとってそういう人は魅力的だった
私はどうしても怪獣の声を出してみたかった
家近くの土砂堆積場の入口には
出入りする車を通すために数枚の鉄板が敷かれていたことをその時思い出した
夕方のちょっと手前の涼しくなった時間に
ポンポン菓子屋の車が土砂堆積場の横の空き地によく止まっていて
米と砂糖を持ってよく父とポンポン菓子を作ってもらいに行った
土砂堆積場に着くと
父は二段ぐらいしか積まれていないブロック塀の上に腰かけてたばこをふかしていた
私は座っていた父の高下駄を片方持って鉄板にこすりつけてみた
なんとも表現したがい間抜けな音が出た
怪獣と言えば怪獣なのかもしれないが
怪獣と言うよりそれは「かいじゅう」だった
かすれたような変な音で
弱そうなかいじゅうだった
下駄で鉄板をこすっていると汗がたれてきて
汗で下駄が滑って余計に音が出なくなった
怪獣の声を出したら子供がこわがるから
鉄板は間抜けな音しか出さないのだと父は言った
やがてポンポン菓子屋の車が空き地に止まった
かいじゅうの間抜けな声はポンポン菓子ができる音にかき消された
その日の晩にポンポン菓子を食べようとしたらまた喘息の発作が出た
発作が出ると父は私を負ぶって夜でも診てくれる診療所に連れて行ってくれた
じっとしているより父の揺れる背中のなかにいたほうが息が苦しくなったのだが
それは言えなかった
昼間なかなか怪獣の声を出してくれなかた土砂堆積場の鉄板が
月明かりに蒼く光って心配そうにしていた
明け方近くになって発作がおさまると父は寝る間もなくそのまま仕事に行った
大人は寝なくても大丈夫なのだと父は言った
ひとりで家に帰るとボウルに入った昨日のポンポン菓子がそのままになっていた
一日経って砂糖がべたっとしたポンポン菓子を誰もいない部屋で食べた

「鉄板のかいじゅう」第一、二連

(2018年10月2日)

野崎有以『長崎まで』書籍情報
長崎まで
出版 思潮社
発行 2016年
著者 野崎有以 (のざき あい)
価格 2000円+税

颯木あやこ『七番目の鉱石』

さて本日は火曜日。平成を代表する漫画家が昨日亡くなり、わたしたちはいよいよ平成の終わりを身近に感じつつある。昭和と比較すれば、まるでなかった・・・・かのように扱われてきた平成という時代が、その消失によってついにその存在をえる――そういう光景と、わたしたちは向き合っているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

本日の詩集、『七番目の鉱石』は、颯木あやこの第三詩集。これより前に『やさしい窓口』(二〇〇九年)と『うす青い器は傾く』(二〇一二年)の詩集がある。著者は旧西ドイツベルリン生まれ、本詩集で第二十六回日本詩人クラブ新人賞受賞。詩集は三部構成、本文九十三頁に二十九編を収める。なお本書はとある共通の知人を経て著者より頂いた。

詩集の終盤に、とある固有名詞が冠された詩がぽつりと置かれている。

明日の起点は いつも白い斜塔だ

蚊柱を四つくぐり抜けると
斜塔は見えてくる
高窓から銀の糸が垂れていて
夕風に運ばれてくる失神した魚を
釣り上げる

窓の内では 部屋の中心に
オーブンが黒い顎を開いて
意識に最後の一撃を食らわそうと
燃えている

斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい
細長く伸びた影は 冬の橋のように
わたしを何処かへと導く

「しるべ――シルヴィア・プラスに」 第一、二、三、四連。

シルヴィア・プラスは一九五〇年代に活躍したアメリカの詩人、自伝的要素を強く含んだ詩作で知られ、自らの精神疾患、失敗した結婚生活、親との確執などを作品の形に昇華させた、いわゆる告白詩の書き手として知られる。三〇歳にオーブンを用いてガス自殺。

現在では双極性障害と呼ばれる疾患に苦しめられていたらしく、一九五八年の彼女の日記では、自分の気持ちについて「ほとんど激情的とも思える絶望に溺れてしまって、窒息してしまいそう。強くて大きな梟が胸の上にとまって、そのタロンで私の心臓を握りつぶそうとしているみたい」と綴っている。

颯木の詩においてプラスが「しるべ」と名付けられていること、プラスが自死した斜塔が「明日の起点」とえがかれていること、そして「心臓を握り潰そうとする爪」のことを思い出しつつ、これらに留意して読み進めてみる。

だがまずは個人的な趣味について語ろう。わたしは次のような詩がとても好きだ。短いので書き写してみる。

夜に 卵ひとつ
ずれる
ゆっくり
テーブルの上で

つややかなまるみは
初夏の少年のひたい
水滴に打たれる

螺旋を降りて
いっそう透きとおった
水を受ける

でも 卵は
ずれていってしまう

〈もっとも愛される位置とは何処か〉

螺旋は 脆くなったわたしの背骨

水は
背骨を 損ないながら
注がれつづけ

「さよ」

少年は少女でもあり、まだわかたれていない魂でもある。男女それぞれの性がまだ確定していない存在、あるいは生きているのか、死んでいるのかわからない量子力学的な卵を想像する。それがテーブルの上をひっそりとずれてゆく。卵は割れてしまうのか、否か。そこに水滴が落ちてきて、一度は額にうけられ、なんらかの幸福な出会いが示唆されるが、いつしか水は背骨を損なうものとなってゆく。

「もっとも愛される位置」はそこねられ、そのそこねられたものに「さよ」という名があたえられている。夜のテーブルでずれていってしまうもの、それは愛であり、祝福であり、意味であり、ことばそのものなのだと感じられる。そのずれが起こるまさにその現場を目撃する驚きがある。

刺し傷の穴から
古いことばの連なりが 呻きながら
わたしに臍の緒のように巻きつく

腕は それでも 土の匂いがしない
わたしの肌に爪を立てれば
すぐに地層があらわになるのに

「はるかな実験室」第二、三連

プラスが自死したオーブンは黒い口腔としてえがかれていた。体にははじめから空いている孔と、自らあける孔があり、後者はふつう傷とよばれる。口腔からは通常のことばが産出されるが、詩を生み出すのは「刺し傷の穴」である。傷こそが世界へ接近するための方法であり、その傷穴からことばが溢れだすという読みがみえる。

創るという漢字から連想されるのが創傷であることを想起しつつ、もっとも身近なもので傷をつけることができるものが爪であることも思い出される。やわらかいやさしさやいとしさに埋没してしまい忘れられがちなほんとうのことばを引きずりだすために爪が必要とされている。それはプラスが書いた猛禽の爪タロンに似た、鋭くとがる感覚の爪なのだろう。

肌の下に隠された地層は血の層を連想させ、そこにはことばによってつくられている肉体があることが感じられる。わたしたちの身体の部位にはそれぞれに固有の記憶があり、それぞれの痛みや傷の記憶がことばとして埋め込まれている。それをひとつひとつ喚起するためには、ただの肉のかたまりである指では足りない。切り、裂き、刻むためには、鉱物のようなかたさのなにかがなければならない。

本詩集でわたしがもっとも好きで、かついちばん読み返したのが次の詩「花結び」だ。娘と母の独白が作品内にて重ね合わされる。

やわらかな肌が大好き 小鳥も好き
でも抱きしめれば 爪が喰いこんで止まらない

娘「お母さん あなたのやさしい指先は尖っている
昔からそうだった
だからわたしも突きとおしてばかりです
父の寡黙さを受け継いだ分 ますます残酷に

体じゅうから生えでている鉄の爪を
未明に
抜いても抜いても
創口からどす黒い夜が噴きだして
すぐに一日を終わらせてしまう

「花結び」第一、二連、三連部分

爪の魔力というもの。乳幼児は、体にうまれる最初の武器である爪(その後は歯が追加される)を用いて、様々な暴力をふるうことをまずはおぼえる。紙を切り、裂き、あるいは親の肌に赤くうすい傷をのこして遊ぶようになる。その暴力の愉しさがいつしか罪悪感に変わるのは、爪は鋭く、それが傷つけてしまったものが、たいていの場合は二度と修復できないものであること、そして傷によって痛みを感じることをやがて知るからだ。作品冒頭ではそうした爪の魔力、それを使いたくなる誘惑がまずそこにあることがかたられる。「でも抱きしめれば/爪が喰いこんで止まらない」

娘と母
「私たちは爪の種族
やわらかな肌を突き破って生えてくるもので
互いの眼球を 耳たぶを
古い乳房と萌えでたばかりの乳房を穿ちあう

「花結び」 第十連

母から娘に受け継がれる爪は、言語化された人間の弱さの継承を思わせると同時に、わたしたちがよく知る社会、つまり家庭内の暴力は一度も絶えることなく、親が子を殴り、子は親となり、その親がふたたび子を殴るという宿命的な連鎖の光景を想起させる。だがその暴力から自由になろうとしても、それはすぐに自生する爪によってさまたげられてしまう「体じゅうから生え出ている鉄の爪を/未明に/抜いても抜いても」。そして「創口」は創る口でもある。

ふたり揃いの髪飾り 花結びの古い緒も
けっして切れないではありませんか
でも強く抱き合うほどに
私とあなたの間に宿る
うららかに啼く鳥が 死んでゆくのをどうしましょう」

「花結び」 第九連

花としての宿命を負わされた存在がお互いを抱擁した瞬間、爪と傷もまた同時に受け継がれてしまうということがはっきりと認識される。美しいとは残酷なこと、という気づきがあり、本詩集でもっともつよく惹きつけられた連。

◇ ◇ ◇

最後に、詩集名について少し。国会図書館データベースによれば、本詩集は正式な題名は副題に英訳である “seventh ore” を付すそうだ。”ore” は、鉱物を抽出することができる岩または土層を指すことばで、鉱”石”よりは少し幅広い意味を感じる。やわらかい土(肉)に散らばり、埋め込まれたなにかを、爪をもった道具でひとつひとつ掘りおこしてゆく。題名からはそういう所作を想像する。

爪は両刃の剣でもあり自分のみならず自分にもっとも近いもの――しばしば、愛するものたち――を傷つけるものであることをわたしたちは知っている。というよりも、知らざるをえない。詩を書く果てになにがあるのかと自問したとき、そこにはたとえばプラスのいる白い斜塔がしずかに立っていて、「斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい/細長く伸びた影は/冬の橋のように/わたしを何処かへと導く」。だがそのたどりつけない何処かの果てへのしるべが光を放っているという明日、それをわたしも信じたい気がしている。

(2018年8月28日)

颯木あやこ『七番目の鉱石』書籍情報
七番目の鉱石
出版 思潮社
発行 2015年
著者 颯木あやこ(さつき あやこ)
価格 2200円+税