吉田義昭『結晶体』(小野十三郎賞受賞詩集)

愛と憎しみは分光されて、ゆがんだ結晶体から光こぼれる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。関東は今日も雨だ。読者の皆さんも体調など崩さぬよう。

さて本日の詩集は、吉田義昭『結晶体』。昨日に引き続き、本書は二〇一八年の第二十回小野十三郎賞受賞作、ダブル受賞のうちの一冊。著者は二〇〇三年『ガリレオが笑った』で第十四回日本詩人クラブ新人賞受賞。他詩集に『空にコペルニクス』、『北半球』など。本書は三章構成で、詩三十編を百三十八頁に収め、三章だけが散文詩となる。

小野十三郎賞の選評においては「妻の死やその後の生活などを書くことが自らの生の再発見に繋がった/それを柔らかく表現している点が評価された」とあった。これに留意し、さっそく読み始めてみよう。

この草は雑草であるか草花であるか
その切ない分類法を教えてください
花壇に植えた容姿の逞しさと愛らしさ
私は乱暴にこの草の生き方を
ありふれた雑草と呼んで差別はしませんから

この石はただの石か鉱物であるか
どんな物質でも内部の粒子が規則正しく
自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます
人間には強引に私の後ろや私の隣に
身も心も正して整列せよとは言いませんから

あの人間が善人であるか悪人であるか
顔や体型で見分ける方法なんてありません
まして心の表面の輝きや反射に騙されないこと
強く生きるために たとえ裏切られても人間なら
憎しみの対象になってもらえばいいのですから

「石と雑草」第一、二、三連

「柔らかく表現」とは、つまり平易な日本語によるということだと理解される。それは普段日常的に用いられている語彙、動詞、助動詞、語尾活用などの組み合わせによる総体で、しかも意識的な選択によってつくられるものを指す(対義語は「難解で、わかりにくく、硬い」表現)のだろう。ただ、多くのひとが誤解していると思うのだが、「わかりやすい表現」というものはない。そうみえる表現はある。つまり、いかなる表現も読解はむずかしく、ほんらいわかりにくい。

話がそれた。著者が「雑草であるか草花であるか/その切ない分類法を教えてください」と書くとき、それがなぜ切ないか、簡単に答えることなどできない、ということを書きたかったのだ。

つまり、雑草と草花の差は恣意的で便宜的なものに過ぎず、それは超越的な第三者が勝手に決めて(た)いるものであり、連の最後においてその分類は「差別」だと示唆されている。それが切ないのは、わたしたちは言語のうちで知らず知らずのうちに自然と分類をしていて、そうすることなしには対象をひとつも識別できないからだ。ことばの編み物たる現実は光と影の軸がなければ成立せず、光をつくればかならず影ができる。その時光と影のあいだには、複数の陰影の度合いという差異の数々が創出される。そのわたしたちの在りようが切ない、と詩は書く。さらにいえば、そこには差別は不可避である、という示唆がある。

そうしたこの世の理が、柔らかいことばで語られている。だが、それが柔らかい、平易なことばで書かれているがゆえ・・に、わたしたちはそこに書かれることのむずかしさに、しばしば気がつかないことがある、ともいえるかも知れない。

二連。石と鉱物の違いが、ひとの従属的営為にかさねあわされる。詩は「整列せよ」とはいわない、とかたっている。だがその一方、鉱物の価値とは、「どんな物質でも内部の粒子が規則正しく/自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます」とあり、つまり、従属こそが鉱物を石からわかつものであり、それによって初めて価値をもちうる、ということが同時にかたられている。それはひとはなにかに従属することによって輝くことができる、と読みうるだろう。

三連。ひとの心理の綾に踏み込む。詩によれば、善人と悪人の違いを見分ける方法はない。なぜか。それは相手をみるとき、それは「心の表面の輝き/心の反射」であり、自分の姿がそこに投影されていることに気が付かずに、勝手な思い込みを持ってしまうからだ。だから裏切りは不可避であり、自然なことだ。詩は「強く生きる」と説くが、それは憎しみによってのみ成立するようなねじれた強さでもある。

こうした人間的、心理的な事柄に対する詩の洞察と哲学に基づき、かたちを与えられる矛盾。それはありとあらゆる角度から光をうけてきらきらと反射する結晶体にも似て、重層的な読み応えのある詩作品となり、柔らかい表現にてかたられてゆく。

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません
殻が固いのか柔らかすぎたのか
殻の強度と純白さと床に落ちた危ない形が
私の気持ちと合わなかったというか
私が不器用な夢の続きをみていたというか

生物学的に無精卵であると見破り
卵がなぜ殻や膜で包まれているか
人差し指に白身の優しさと生暖かさが触れ
黄身と白身を混ぜた色の変化を想像したり
形の美しさに見とれていてまた失敗しました

それでも私は男らしさを気取り
指の力を強くしすぎたのかもしれません
力を弱くすると人間として堕ちていくようで
なぜか弱い自分を認めたような気もして
私の人生は柔らかさの加減が難しかったのです

「卵の心理学」第一、二、三連

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません、を別のいい方で読んでみる。それは自分が理解していないこと、知らないこと、目覚めているのに目覚めていないような状態で生きるほかないこと、などが夢をみている《わたし》によってかたられている。

卵は可能性、生命、未来など、食物としてというよりも、そこから生まれいづるはずだったものたちのイメージをもち、「いかにうまく殺すか」とつぶやくわたしたちの横顔もみえてくる。そこでは殺すことはよろこびであり「男らしさ」でもある。だがそれは「弱い自分」を認めないことによって成立する虚構であることもまた示唆されている。連ごとに複数のアレゴリーの飛び石のような跳躍が重ね合わされ、めまぐるしく語り手の姿が変貌し、読む愉しみがある。

何もすることがない夏の朝
ここ数日私は何をしていたのかと考えた
緑の固い葉の上から
ひっそりと落ちてくる水滴ひとつ
土に強く根を張る草たちを引き抜きながら
この草にも名前があるのかとも考えた

この葉のつきかたも葉脈の線も美しい
葉の固さも根の張り方も人間的で
自分を守るように生きているとしか思えない
私には自分の生活の強さも弱さもわからない
空に向かってこの草は根から茎と葉が
一途に頑固に真っ直ぐに伸びていたのだ

見上げると青空に流れる雲
雲にもひとつひとつ名前があるのだろうか
木にも花にも石にも名前があるのだから
私の周りのものすべてに名前があるに決まっている
この草にもきっと名前があるはずだ
私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた

「草の名前」第一、二、三連

ふたたび名付けという行為について。草を抜くことは殺すこと。それもあくまで便宜的に、自分のためだけにそれを行うこと。その草に名前をつけようとすることは、生きるということは他害にほかならないということであり、それを直視することであるはずだという声がきこえる。

だがもちろんその草には、おそらくなんらかの名前が最初からついている。その名前は特定の言語の枠組みの中において恣意的かつ便宜的に分類され、図鑑に掲載されているだろう。だが、詩は一度その名前を忘れ、それを思い出すことなく・・・・・・・・あらたに名付けるその現場を描いている。

第三連で「私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた」とあるように、名付けるという行為が自分の過ごす一日に重ねられている。それは名前を思い出すことすらできないわたしたちの茫漠たる人生の一日一日に、あらたに意味を創出しようとする試みだと読める。いや、つけてみようじゃないか、という著者の誘惑にみえる。そこには間違えること、誤読への誘惑があるとも読める。

波の音が聞こえてきます。海鳥の声も響いていました。私と妻は盲目の少年の手を引いて歩いていました。偶然に私たちが結婚して住んだ家の近くに、妻の教え子の実家があったのです。その教え子が離婚して戻ってきました。彼女は盲目の少年と一途に育てていたのです。

風の音も聞こえています。「僕はまだ波も海鳥も見たことがない」と少年は呟きました。人の笑い声や猫の鳴き声も聞こえてきます。こうして三人で歩いていると、通りすがりの人たちには、幸福そうな親子三人、いや、孫を連れた老夫婦に見えていたのかもしれません。

柔らかな風でした。猫の鳴き声が大きくなってきました。「けれども僕はまだ、猫に触ったことがない」と少年は呟きました。母親は入退院を繰り返していました。そして夏休みには、時々、少年を私の家で預かったのです。しかし家の中にいると不安そうで、いつも外に出たがりました。

三人で村の民俗資料館に行きました。水車の話をしたら、触ってみたい、なぜ水で水車が回るのか、と尋ねてきたのです。昔の村の写真を観てきました。農耕具や土器や水車の水にも触ってきました。母親はまだ幼かった少年を、美術館や博物館に連れて行ってあげていたようです。

「波と少年」第一、二、三、四連。

ここからは散文詩となる。第一章、第二章とは異なり、具体的なだれかの喪失のイメージが色濃く反映されている。それは著者がいうように家人なのだろうが、どちらかというとわたしは、とある女性が詩の語り手として想像力の場へ召喚されている印象を持った。

この「波と少年」はとても好きな詩。近所に住む盲目の少年が少しずつ世界を知ってゆく手助けをする老夫婦の話なのだが、そこに世界のあり方を知ることの喜びと痛苦がそっと重ね合わされてゆく。「少年はまだ、母親の死を知りません」で終わる最終連は残酷で、知ること、知らないこと、どちらがよいことなのか、その答は示されず、そこにはふいに突き放される感・・・・・・・がある。読者もまた波の前で「なぜ」とつぶやいてしまう――問いに意味はなく、答などあるはずもないが。

空にかすかに星が滲んでいた。その夜、私はバスを一区画だけ乗り、怯えるように降りてしまった。このままバスが空へ舞い上がっていく気がした。閉じ込められた息苦しさを感じた。鼓動が早くなった。全身に熱い血が流れていくのを感じた。体が震えだした。背中を誰かに押されている気がした。

歩道を歩いていると、突然、「生きる」という声が聞こえてきた。確かに私の声だ。国道のアスファルトが雨に濡れ、車のライトが虹のように滲んでいた。「生きろ」と今度は小声で呟いてみた。すると、「生きろ」、「生きろ」と、私の声が冷たい空に反響して聞こえ、涙がさらに溢れだしてきた。

「家族という病」第一、二連

「生きる」が「生きろ」と誤読されている。それは自分が生きるために書き続けてきたものが、いつしか自分を生かしてくれていたという驚きでもあり、またそれは自分を救うために書いていたものが、いつまにかどこかにいる無関係な第三者の人生を救ってしまうことがある、という誤読による奇跡を信じることでもあるように思う。その誤読、ずれを見出してゆくこと、《読む》というありえない奇跡を信じることが、書くということだということをあらためて思い出させてくれる。これもとても好きな詩だ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集で一番好きな詩を。詩集の題名ともなった「結晶体」
だがこれも引用なしとしたい。読者の皆さんも、機会があればぜひ書店や図書館などでぜひ手にとってみてほしい。

「結晶体」

(2018年9月26日)

吉田義昭『結晶体』書籍情報
結晶体
出版 砂子屋書房
発行 2017
著者 吉田 義昭
価格 2400円+税