《千日詩路》第二十七回文学フリマ東京出店のお知らせ(G-12)

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーは、2018年11月25日(日)に開催される第二十七回文学フリマ東京に下記のブース位置にて出店します。

東京流通センター第二展示場
Eホール(1F) G-12 ブース
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【広報】「現代詩 闘うことばの祭典」宮城県詩人会 詩祭 2018 + α

さて月曜日。一週間のはじまりだ。近く日本列島には台風が上陸するそうだが、房総の風景はすっかり秋にかわった。外では虫たちの鳴き声がかさなりあい、日々おとろえつづける夜をみたしてゆく。

◇ ◇ ◇

宮城県詩人会「現代詩 闘うことばの祭典」本日は、宮城県、仙台市にて九月三十日(日)に開催される現代詩のイベントを紹介する。

《千日詩路》編集部にイベントを知らせてくれたのは登壇者の佐々木貴子。彼女は一九七〇年岩手県生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。告白の装いをまとい傷にまみれながらもなお他者にひらかれた詩を指向する技巧派――という印象を個人的にもっている。

仙台近郊にお住まいの読者諸氏の参考になれば幸いだ。

 

宮城県詩人会 詩祭 2018「現代詩 闘うことばの祭典」

日時:二〇一八年九月三十日(日)午後一時~午後四時半
1.講演:高橋玖未子「東北——その詩的視点」
青森県在住、日本現代詩人会・日本詩人クラブ会員、「飾画」「青い花」同人。詩集『けもの落とし』『アイロニー・縫う』『夢虫』、評論集『詩を問い続けて—私的詩論集』ほか

2.朗読劇:西澤由美子
Gin’s Bar 演出・女優、グラフィックデザイナー。1960年松島町生まれ。劇団I.Q150に1980年より参加。「BLUE CITY」から2000年「女ともだち・5」まで350以上のステージに出演。2001年よりGin’s Barにフリーの演出として参加。現在まで15作品を演出。4作品に出演。2008年、原田勇男さんの選詩集「抒情の宇宙」を朗読しCD化される

3.演奏、トーンチャイム奏

4.会員朗読:
秋亜綺羅+井上英司+伊藤文恵
大林美智子、佐々木貴子、武田こうじ
伊達泳時、千葉貴史、日野修

会場:仙台市民活動サポートセンター
仙台市青葉区1番町4丁目1-3
入場料:1,000円(入退場自由)

予約/問い合わせ先
宮城県詩人会詩祭実行委員会 〒980-0801 仙台市青葉区木町通2丁目6-53 あきはビル4F TEL 022-205-8510

◇ ◇ ◇

イベントに関連し、そこで朗読を行うという佐々木の詩をいくつか紹介してみよう。いま手元に彼女の詩を特集したあおい満月による個人誌『下弦の月』(2018年、ポエケットにて入手)があり、そこから引用する。

翼を持たない者にも開かれた空
青は染みやすいから、と
天上の人は言う

指先から青が入ると
青は隅々まで行き渡り 静かに
わたしを縁どって
やがて、深い海をつくる

あれは、鳥ですね
向こうは、魚

空の歯車は
音もなく正確に回る
(放たれた鳥も魚も喜んで
天上の海を駆け
いつまでも泳ぎ続ける)

風で動かしているのではないのです
翼だけでは飛べないし
言葉だけでは飢えるから
天上の人は目を細め
わたしの海に舟を出す

「天上の海」第一、二、三、四連

「翼を持たない者にも開かれた空」は、ことばによるひらかれた空間を指し、日常的なことばを使って書かれる佐々木の戦略のことなのだろうということを思う。そこにはだれでも足を踏み入れることができる、と書く。別の言い方をすれば多くのものが「難解」で「わかりにくい」と感じる詩とは明らかに異なる文体が意識的にえらびとられている。だがそうした読みを脇において素直に・・・読んでも、青に縁取られたイマージュはうつくしい。

いつの間にか飾られていた。隣には眼のないイノシシがいて、眼球のない窪んだ痕跡を見開き、わたしを一生懸命、見ようとしていた。あんた、いつからここに、と言おうとしたら、わたしには舌がなかった。「きみは愛される存在になったんだよ」。イノシシは、わたしの口の中に舌がないことを黙って確認すると、舌の代わりに、わたしに相応しい言葉を選び、そっと滑り込ませてきた。わたしが知っていたのは、飾られ、汚され、孕まされ、捨てられる、そういう種類の剥製だったけれど。わたしは自分で舌を抜いたのかしら。

「剥製」第一連 前半

不毛と豊饒、過度な関心と無関心の往還を強いられる女性性をみる読みがある。一方、舌をうしなうことによってのみ愛される存在になることができること、さらに「眼球のない」存在によってのみ自分に相応しいことばを選んでもらえるということ、こうした背理をわたしたちはどこかで、いや毎日のようにこの社会で目撃しているように感じる。剥製、はわたしたちのすぐ隣にそっと配置されている。

姉は雲形定規、わたしは分度器だった。形のない愛に輪郭を与える日々。朝も昼も、日が沈むまで居場所を探している。家族の中に。

この街は空に委ねられていた。雲が見張る。雨が濡らす。姉の視線に怯えるわたし。街よ、絶えず注がれる目に泣くな。泣いてはダメ。

ワンピースの裾と姉の心はよく揺れた。姉は勢いにまかせて飛んで行った。風がなくても、身体も心もスカートも、家族も捲れたまま。

「分度器の空」第一、二、三連

「分度器の空」はわたしが知っている佐々木作品ではもっとも好きな詩。

ウェブ上のテキストでは再現できずわかりにくいが、紙面ではそれぞれの連が短冊形に三行ずつ、なんらかの石碑のように並べられている。「姉」と名付けられた喪失が雲形定規として記されているのは、その定規が空虚そのものを周辺の線によって明らかにする道具だからである。その空虚はまた「愛」とも呼ばれている。

《世界》は曖昧で、不定形である。だから定規や分度器によってみえない線を引く、それによってばらばらになってしまった喪失そのものの在処を明らかにしようとする。その線を引くための困難な道程、それが彼女にとって詩なのだろう。線を引けたとしても、そこにはなにもないとわかっていても。

ひとは詩によって喪失をえることができる、そういうことを教えられる。
そこには希望がある、と、嘘を書くことはゆるされるだろう。

(2018年9月3日)