【番外編】草野原々『最後にして最初のアイドル』

さあ、アイドルをはじめよう。あなたはキラキラに輝いている!

◇ ◇ ◇

本日は金曜日。どうやら週末にかけて台風がやってくるらしい。今日は雨こそ降らなかったものの、かなり寒い一日だった。

さて本日は番外編として草野原々のSF小説『最後にして最初のアイドル』を取り上げる。なぜ詩と書評のサイト《千日詩路》がSF小説を取り上げるのか、と疑問に思う読者もいるだろう。端的にいえば、その理由とは、著者がわたしの知人のご子息だからである。ただ、実際に手にとってみるとおもしろく読んだので、本稿を書くことにした次第だ。

本作は二〇一六年の第四回ハヤカワSFコンテスト特別作受賞作。著者は一九九〇年生まれ、本作がデビュー作となり、わたしが入手したのはそれを電子書籍化したもの。特別賞以外にも第四十八回星雲賞短編部門(小説)など受賞歴多数。二〇一八年には本作を含めた作品集『最後にして最初のアイドル』を上梓。なお英訳も行われており “Last and First Idol” の題名にて発売されている。本作は五部構成で、長さとしては中編に属すると思われる。

早川書房の公式サイトによると、あらすじは以下のとおり。

「時はアイドル戦国時代。生後6か月でアイドルオタクになった古月みかは、高校のアイドル部で出会った友人とともに、宇宙一最高のアイドルになることを目指す」

おそらく《千日詩路》の読者はここで考え込むだろう。こうした表層ミームの下になにがかくされているのか、というところに興味が湧くと思う。アマゾンで販売されている電子書籍版のあらすじには、次のように加筆されている。

時はアイドル戦国時代。生後6か月でアイドルオタクになった古月みかは、高校のアイドル部で出会った新園眞織とともに宇宙一のアイドルになることを目指す。しかし非情な現実が彼女の望みを打ち砕くのだった。それから数年後、謎の巨大太陽フレアが発生。地球人類は滅亡の危機に陥る。地獄のような世界をサヴァイヴする彼女たちが目にした、〈アイドル〉の最終局面とは? 著者自らが「実存主義的ワイドスクリーン百合バロックプロレタリアートアイドルハードSF」と名付ける、最終選考会に嵐を巻き起こしたSFコンテスト史上最大の問題作。

ここではさらに表層が追加されている。だがあらすじを読むことである程度の著者の戦略がみえてくる。それはいかに《ほんとうのこと》をかたらずにかたるか、という意志であり、それを徹底的に隠匿することによる魔術的効果をかくとくする目的があると推測され、その実現のためにさまざまな華麗な衣装(アイドル、オタク、人類滅亡……おそらくはSFも)が準備されている、ということである。際物のように見える作品の背後に、技巧派の道化・・としての著者の横顔がみえてくる、といえる。

これは一人の少女が最高のアイドルになるまでを描いた小説である。その主人公、古月みかは架空のキャラクターにすぎない。にもかかわらず、ここに書かれていることはすべて真実だ。宇宙とあなたの存在は、この小説の主人公、古月みかに端を発する〈アイドル〉により大きく左右されることとなる。あなたはこの小説を丹念に読まなければならない。古月みかを応援し、共感し、自己同一化して読まなければならない。この小説を最後まで読み、理解したならば、あなたはひとつの使命を帯びていることに気づくであろう。これは、他でもないあなたに向けられた文章だ。

「最後にして最初のアイドル」序文

著者の戦略をさらにここから読みとくことができる。「すべて真実」はすべて嘘と同じであることが詩の読者には了解されている。もちろん一般的な文芸小説の読者にとっても、そうしたかたりが読者を間違った方向に導く装置であることも了解されている。アイドルは〈アイドル〉というタグ付けがなされた名詞へと変換され、それを読むことには「自己同一化」が要請される。つまり、嘘を嘘としてあらかじめ受け止めた上で読むようにとの注意書きが掲示されている、と読める。

古月みかはアイドルが好きだった。アイドル戦国時代と呼ばれる現代においては、アイドル好きはそれほど珍しい存在ではない。雨後のたけのこのようにボンボンと生えてくるアイドルとともに、そのファンも限りなく増大していく。古月みかはそんなニワカとは一線を画していた。なんと、彼女は生後六ヶ月でアイドルオタクとなったのだ。当時、彼女は夜泣きが絶えない赤ん坊であった。昼も夜も四六時中高い声を発し、両親の睡眠を妨害しその脳を混乱させた。悩んだ親は、子どもが夢中になるものを見つけ、精神的安定を図ろうと考えた。人形、カスタネット、ゲーム機、プラモデル、独楽、凧、ロボット、エプロン、懐中電灯、スマホ、ダンボールで作った迷路、ハムスターなどを次々と投与したが、古月みかはどれに対しても興味を持った様子はなかった。
疲れ果てた両親は、夜、テレビをザッピングした。ブラウン管に大統領、営業マン、シェフ、医者、犬、吹奏楽団、自動車が次々と映る。そして、アイドルが。その途端、古月みかは泣き止んだ。眼を丸くして、ブラウン管の奥で踊るアイドルの顔を見つめた。表情筋が活動し、笑いへと到る。屈託のない、あどけない笑顔だ。まさに赤ん坊の笑顔の代表例とでもいえるほど純粋な笑顔を浮かべる。
これだ! 両親は確信した。これこそが夜泣きを防ぐ切り札だ。

第一部 冒頭

主人公「古月みか」がアイドルになりたいと考えるようになった経緯がかたられる。ここで一番興味深いことは、それが幼児の夜泣きを防ぐ方法の一環だったということが、いちばんはじめの出来事としてかたられていることだ。つまりアイドルという存在は幼児の気をそらすためのものにすぎず、別のいい方をすればなんでもよかった・・・・・・・・のである。別のものといつでも置換可能なものに情熱をかたむけることの逆説的な価値がかたられている、とも読める。別のものと置換可能なものが草野の作品ではもっとも価値あるものとして祭壇(あるいはステージ)に設置される、という構図を読むことができる。

物語は主人公が高校生になった時から始まる。彼女は「アイドル部」という部活に入り、アイドルになるための活動を本格的に始めるのだが、そこで新園眞織という友人をえる。

「……あたし、アイドルになるのが夢なの……。それで、新園さんと自分を比較しちゃって。ちょっと落ち込んで……」
沈黙に慌てて、つい本心をさらけ出してしまった。
「なんだ、そんなことなら、わたしがプロデュースしてあげるわ」
予想外のところに会話が転がっていく。
「でも、あたし、ダンスも全然覚えられないから……」
「ちーがーうー、アイドルに求められているのは完璧なダンスでも歌でもないの。下手でもいいから努力する姿なのよ、観客はそれに自分を重ね合わせて共感するの。そういう面では、わたしよりあなたのほうがずっとアイドル向きでしょ」
「そう……なのかな」
内面では、アイドル向きと言われてすごく嬉しかった。
「そうよ! あとは口調と髪型をアイドル向きにすることね。ちょっと考えさせて」
こうして、新園眞織による古月みかのプロデュースが始まった。着目したのは、まず髪型であった。これまでのロングの髪型をツインテールに変更し、一気にキュートな印象を増すことに成功した。病弱な印象を与える白い肌がそれを助ける。次は、一人称である。これまでの『あたし』を『ミカ』にすることにより、幼いキャラを確立させる。ここでも、背の低さと相まって相乗効果が生まれる。
古月みかのキャラをバネに、P-VALUEの雰囲気は変わっていった。アイドルらしい人物が中心になることにより、自分たちが所属しているのはアイドルグループだという自覚が出てきたのだ。古月みかと新園眞織がはじめた早朝練習にも全員参加するようになり、地域のアイドル大会にも出場できた。
その後、二人はことあるごとに会い、親交を深めていき、ついには内外から親友として公認されるに到った。古月みかは幸福な高校時代を過ごした。キラキラした三年間だった。

第一部

ここでかたられているのはいわば道化が道化として完成するための技巧と読める。それは「プロデュース」と呼ばれているが、書くことと翻訳してもさほど違和感はない。ここで書かれているのは夢や情熱そのものではなくその空虚(非存在)を埋めるための外堀としての衣装である。著者はどこまでも冷めたまなざしでアイドルをみていて、「下手でもいいから努力する姿」を意図的にみせることは技術にほかならないという理解がかたられている。それはわざと下手を演じること、愚かさ・・・を表出することだ。それは二〇一八年に生きるわたしたちがよく知っているものである。これは現代についての小説なのだということがわかる。

さて、物語は主人公の高校卒業後も描いていく。ほんもののアイドルになるために事務所に所属するのだが……その夢の実現はきわめて困難なのだった。事務所は破産し、経済的に困窮し、つまり詩人や売れない小説家のような生活を主人公は送ることになる。以下、主人公の妹古月みやが姉にアイドルをやめさせようとするくだり――アイドルに「詩」や「小説」をいれても問題なく読めるだろう。

「なんでここに? その言葉、そっくりあなたにお返しします! わたくしは、あなたを正気に戻すためにやってきたのです。あなたは悪魔に支配されています。アイドルという悪魔に! アイドル! ああ、なんて忌まわしい言葉でしょう。アイドルによって家庭が崩壊し、いままさにアイドルによって姉が破滅している現状! さあ、お姉さま、いまからでも遅くありません。事務所が破産したのは天啓であったのです。アイドルなど辞めて、まともな世界に戻りましょう!」

古月みやは情熱的に語った。彼女はアイドルのせいで離婚が起こったのだと思い、この世からアイドルを消滅させることを心に誓っていた。姉がアイドルになったとどこからか聞き及び、いてもたってもいられなくなりやってきたのだ。

第一部

この後、妹に「現実を見ろ」と罵倒された主人公は、自分の将来に絶望し、飛び降り自殺をしてしまう。だが、この時すでに医学部の学生となっていた親友の新園は、その死を受け入れることができず、将来彼女を蘇らせることを誓い、その遺体をひそかに確保、その脳を遺族から許可を取ることなく勝手に摘出して冷凍保存する。彼女はこの時点ですでに悲しみで発狂している。

新園眞織はカミソリ、メス、電動ドリル、電動ノコギリを用意する。はじめに、カミソリを手にする。
「ごめん、みかちゃん」
新園眞織はそうつぶやき、古月みかの髪をカミソリで剃っていく。チャームポイントであるツインテールは無残にも切れていく。あらわになった頭部の皮膚は、もうすでに黒ずんでいる。古月みかの白く綺麗な皮膚は、酸欠により死んでいった細胞のカスにより、にぶい茶色に変わっていた。
続いて新園眞織が取り出したのは、メスである。メスを使い、頭部の薄い皮膚を切り裂いていく。血液循環はもはや止まったため、血は出ない。桃の皮をむくように、器用な手つきではいでいく。頭部を覆う筋肉に茶色の血管が絡みついている。メスで額から後頭部にかけての筋肉を切り裂き、ピンセットでつまみ、横に開く。どす黒い赤茶色に染まった筋肉繊維の向こう側から、白い頭蓋骨が見えてくる。まるで、生前のみかちゃんの皮膚みたい、新園眞織はそう思った。筋肉はこめかみにいたるまで横に広げられた。その過程で、邪魔になった耳は切除された。

第一部

アイドルが置換可能な、書かれうるプロデュース技巧(作為)にすぎないことはすでに一部において繰り返しかたられてきたが、ここでとうとうそれは単なる肉の塊になり、解体されて捨てられるモノになる。重要なのは考えることができる脳(ことば)だけでありその他のものは不要なものとして、中身を失ったことがわからないように化粧をほどこされた上で火葬されるのだった。

そして第一部は主人公の葬儀で幕を閉じる。第二部からはいよいよ巨大な太陽フレアによる地球滅亡の序曲がはじまり、脳だけの存在となって強制的に蘇えることになった肉塊たる主人公がこの世の理をかきかえる救済の物語へとつながってゆく……のだが、それは著者が注意深く準備した読み物としての舞台装置なのだろうという印象をもった。最初から存在していないものを救済することはできないからである。

◇ ◇ ◇

『最後にして最初のアイドル』は二〇一八年に詩、またはそれに準ずるテキストを書くものにとっても多くの学びがある小説であり、題材の取捨選択も含め、細心の注意を払って組みたてられた作品であるという印象をもっている(そこにはソーシャルメディア向けの戦略的スタンスとその実行も含まれるだろう)。

個人的な印象だが、著者は長期的にはSFというジャンル、あるいは世間が準備する既存の枠組みの内側にとどまることはできなくなるのではないかと感じた。道化はほんらいそこに王(権威)がなければ成立せず、だれもかれもが道化と化した現代においては、道化であり続けることはだれにもできないとはいえないにしろ、きわめて困難な道筋だろう。ただ、そうしたわたしの読みを裏切る(かもしれない)力を感じる作家であることは間違いないように思える。血はあらそえない、ということなのかもしれない。

お願いだよ、ご老公、嘘のつき方の先生を附けておくれよ
あんたの道化は、よろこんでそいつから嘘を習わせてもらうからさ

シェイクスピア 『リア王』 第一幕第四場

(2018年9月28日)

 

草野原々『最後にして最初のアイドル』書籍情報(電子書籍)
最後にして最初のアイドル【短編版】
発売 早川書房
発行 2016年
著者 草野原々(くさの げんげん)
価格 130円

橋本シオン『これがわたしのふつうです』

みえることのない不可能燃やし、塔よりゆれる煙をみつめる。

◇ ◇ ◇

《読むこと》を恢復する。詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

さて、本日は木曜日。関東は一日雨が降っていたが、夜遅くになってようやく止んだ。ベランダの窓から、薄く澄んだ雲のかかる月がみえる。

本日の詩集は、以前(#0013)取り上げた橋本シオンの詩集『これがわたしのふつうです』。橋本は一九八九年生まれ、東京都在住。二〇一七年に発行された本書は紙書籍としては彼女の第一詩集にあたる。本書は冒頭に六十頁強におよぶ長編詩「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」が置かれ、これ以外の詩十二編は散文詩となり、合計十三編を百十二頁に収める。

さて、それでは読み始めよう。まずは「東京」から。

わたしは気付いた。東京には不安の種しか落ちていない。みんながみんな、不安の種をばらまいて牽制しあっているだけ。どの家にも沢山の種が床や畳の隙間、排水溝やタッパの中にあって、みんなぼりぼり食って、そのくせ育てたりなんかしない。

わたしの不安の種は燃えている。海沿いの町でひっそりお母さんとお父さんと生活しているときは、こんなもの無かったはずなのに、東京に住民票を移してから、いつのまにか入り込んできた。東京はひとりの街だ。そのくせ眠ることをしらない。食うだけ食って排泄して、そのくせ寝ない。性交渉はいっちょ前にするくせに、眠ることを知らない。三大欲求のひとつが欠けてしまうだけで、こんなにも均衡は危うい。

燃えている。胸で燃えている。足の裏から燃えている。シャワーを浴びても消せやしない。海沿いの町だけがくっきりと浮かんでくる。鉄塔の建つお母さんとお父さんがいる町が、ただ恋しい。でも胸にごろごろと居つくこの種のせいで、もう戻れない。

助けてくれと懇願しても、所詮、彼の胸にもそして家にも、種が沢山落ちている。いちたすいち、が、に、であるなら、取り除くことは不可能に近い。

「東京」第一、二、三、四連

書評のために書き写しながら、これはいいなと思わずつぶやいてしまう魅力が橋本の作品にはある。磁場、重力といおうか。特別な書き手だと思うが、それがなにから来るものなのか、簡単に説明するのはむずかしい。

その文体――語彙、動詞、助動詞、語尾活用などの組み合わせによりあらわれる作家独自の発明品――は平易で可読性が高く、一般読者が迷うようなことばはいっさい用いられていない。にもかかわらず、そこには多くのひそかな曲がり角があり、かくされた秘密がある。この詩においてはそのひとつが「種」と呼ばれている。

「不安」という種を育てるような人間はふつういない。なぜならそれは自分のこころと身体を焼き尽くすような種類の気づきまたは理解だからだ。その炎は自ら点火したものではあるが、どうにもならない衝迫的なこころの動きによってつけられてしまったもので、消したくとも消すことができないものだ。こうした詩連は自分の気持ちがわからないまま、燃えあがりながらさまよっている若者たちの姿を想起させる――実のところ年齢は関係ないが、「青春アドレッセンス」という単語が浮かぶ。

この詩集において東京とは、子宮の羊水にみたされた柔らかい故郷の外側をうめつくす硬質なるものたちを指しているように読める。柔らかいもの、には救いがあるが、その一方で、柔らかいものはしばしばさまざまなものをそのうちに隠蔽してしまう。だから詩は外へ、硬質なるものを用いて肉を引き裂き、その下にあるものを暴かねばならない。だから仮象の東京へのベクトルを保たねばならず、さらに燃えあがる想像力による痛みが必要とされる。

一方、「東京」を前面に出すことで、都会に出てきた地方出身者の孤独、というありがちで表層的な読みへとミスリードするかたり口があちこちで戦略的にとられているようにも感じる。だがそうした演出の層をすり抜けてくる輝きがあり、それがきらきらと光を放っている。

「いちたすいち、が、に」も印象深い行だ。それは一+一=二であるようなこの世の理、つまりことばによる文法体系の中でしか生きられないわたしたちの姿であり、当然、水によって水を洗いながすことができないように、だれもその種を取り除くことはできない。ロゴスから自由になることはだれにもできない、ともいえる。それは最終連近くにてふたたび次のようにかたられ、念押しがされる。「いちといちをに、にせず、燃やした。不可視の不可能を燃やした」と。

みんなが吐き出す死にたいという言葉で、とうきょうの空は真っ黒だ。星もきれいに塗りつぶされて、遠い電車の走る音だけするけど、ここはいたって普通の住宅街。そのなかに、わたしの小さな国家。

窓を開けて息を吸う。あなたと息を吸う。そして吐いて、また繰り返す。息を吸って、吐いていたい。その願望。ひとりタバコを吸いながら呼びかける。のに、そこには誰もいなかったりいたり。する。

墓の下に命があるのなら、仏壇もないわたしの家で生きるのはむつかしい。写真の中で笑うひとに、死にたい、と言って、でも誰かが、その人は墓の下にいるからそんなことは無意味だ、という。でも写真のなかで笑う人と生きているわたしは、墓も仏壇も必要ない。わたしの国家。

「わたしの国家」第一、二、三連

東京はここでは「国家」と読みかえられている。それは空気を裂く鋭い「K」の音をともなって、ことばの亀裂となってあらわれる。東京はひらがなの「とうきょう」となり、亀裂と対比されように置かれる。それは「墓も仏壇も必要ない」場であり、別のいい方をすれば、とむらうことが不可能になったまま、不安をもってさまようものたちがあつまる場、と読める。

「言葉で、とうきょうの空は真っ黒」は、あらゆるものがことばによって汚れているという橋本のみえないものをみようとする視座をよくあらわす一行。たとえば「死にたい」というそれぞれの個人の切実なはずの悩みが、実のところきわめてありきたりな「みんな」のことば(つまり「サブカル」や「ポエム」と揶揄される類型的表現)と化してしまうことへの苛立ちを、二〇一八年に生きるわたしたちはよく知っている。それを超えるためには、あたらしく国/家、そしてそこでのみかたられるべきことばをつくるしかない、と読むことができる。そしてそれは日常的な生活から逸脱しがちな(いわゆる)詩的な言語を、「ふつう」の場へととりもどそうとする、橋本のおそらくは無自覚な挑戦でもあるのだろう。それは作家にしかもちえない課題である。

◇ ◇ ◇

もっとも長く、詩集のほぼ半分以上を占める長編詩、「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」は、六部構成になっている。一部「鉄塔の真下、四畳半の家」、二部「東京への電話帳」、三部「母を忘れて娘は出航する」、四部「うなばらとすなはま」、五部「平行線の生き物は」、六部「死にながら生きている」。

作品は私小説的な物語を基調とし、それはどこかの地方都市と思われる鉄塔の下にある小さな家で育つ「わたし」と母、その都市から東京と呼ばれる鉄塔のない都市へと旅立ってゆく「わたし」という筋書きの上に成り立っている……と要約することができると思うが、そういう読みから意図的に外れて読んだとしても、じゅうぶんおもしろい力作だ。すべての読者に一読を薦めたいが、まずは一部を引用してみよう。

瞳に映る
鉄塔は
ようやく見つけた
母だけのゆりかご

娘を抱き
鉄塔の真下
家を建てた
小屋というべきか
四畳半一間の
小さな家

何かから逃げてきた
櫛も通されていない
くしゃくしゃの髪の毛

汚れないものだけを
選んできたような
無垢だった手を汚して

母だけのゆりかご
母と娘のための
小さな真下

「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」
第一部  八、九頁部分

幾何学的なパターンによってつくられた鋼鉄の構造物がゆりかごに重ねられている。ひとは肉からではなく鉄、しかも電流が流されている構造物(の真下)から生まれるのだという著者の想像力に驚きを覚えるが、それは言語という構造物の電磁的な網の目の中に、母と娘がかたりの装置として置かれているということも意味しているはずだ(よって、父の存在はこれ以降も注意深く除去される)。

聞いたことのない単語や
言葉の羅列や音楽や
東京への一方的な電話を繰り返す

東京への電話帳は
いくらページをめくっても
終わりがないように
思えた

その頃母は
帰りの遅い娘を心配しながら
貝をていねいに湯がいていた
磯の香りが充満する四畳半で
貧相な食事
それでもここまで育ってくれた娘に
感謝をしながら
沸騰した鍋を
ぐるぐる ぐるぐる
かきまぜる

小屋の下に群生する
名前も知らない小さな貝たちを
母は爪がはがれるのも気にせず
がりがり がりがり
はがしていく

あんなに小さかったあの娘も
女性のからだに近づいて
昼間はなにをしているか
わからないが
年頃なのだと言い聞かせる

わたしは母
わたしはあの子のお母さん

「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」
第二部 二十、二十一頁

鉄塔の真下に生きる「わたし」が、電磁的なる通信装置によって遠くはなれた第三者へのつながりをもとめることは自然なことだった。詩においてその装置は「東京への電話帳」と呼ばれている。

「わたし」と母のかたりの境界は曖昧になり、娘=母であるかのような行が繰り返されるようになる。小説的にいうならモノローグの主体が切りかわるが、詩の読者にとってはその不可解な描写ななじみぶかいものだろう。「ぐるぐる/ぐるぐる/かきまぜ」られる円環的構造は、「わたし」と「母」のめぐりめぐる宿命をあらわし、すぐ近くにいるはずなのにえいえんに理解しあえない関係性を雄弁にかたってみせる。もちろんそれを母子関係だけの話に限定する必要はない。

もし、娘と母がわかりあうことができないのであれば、電話帳によるつながりの可能性がいったいなんの意味を持つだろうか――そういう問いを詩はなげかける。

音を聞く
知らない声を聞く
知らない音楽を聞く
知らない人種の言葉を聞く
男と女のセックスを聞く
酒の名前を知る
大きな地震がたくさん起きることを知る
戦争が起きていることを知る
世界という名の世界があることを知る

青山、赤羽、麻布十番、表参道、池袋、池袋西口公園、歌舞伎町、銀座、渋谷、新宿、新宿三丁目、新橋、高田馬場、中目黒、西新宿、円山町、目黒、六本木、誰かが言った、
「東京は眠らない街」

チン、と
娘は黒電話を置き
シミばかりの天井を見上げ
はきつぶして穴のあいた靴から
のぞく親指
ぴくぴくと
けいれんしている

娘は寝静まった月明かりの下
東京への電話帳を指先でなぞりながら
初めて自分の股間をまさぐり
自分に穴が空いていることを
初めて認識する

「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」
第三部 三十、三十一頁

音声によるつながりの不能性がくりかえしかたられる。いくら話しても、いくら伝えようとしても、それは固有名詞、地名の羅列程度の意味でしかない。その「東京」では知ることはついに不可能であり、ただただすでに知られてしまっていることのはてしない繰り返しがあるだけである。知ることはむなしく、ただただ空っぽで、からだのつながりは空虚で、そこには肉の生理的な反射運動しかない。そんな思索のはてに、著者は「世界という名の世界」(!)という凡庸なるものを発見する。だが、その発見にかたちを与えたこの詩を凡庸と呼ぶことはだれにもできない。

交わらない生き物が
この世にあるのに
子宮のせいで
交わってしまった
大切な
母と娘
という言葉
を、娘は誰かから聞いた

「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」
第六部 六十五頁

わたしたちは交わらない生き物になればよかったのか。つながりをもとめるのは人間が欠損(穴)をかかえているからだ、と詩はかたってみせる。つながりはつねに「交わってしまった」あとの破綻した関係をはらみ、こわれたものはとりかえしがつかない。そしてその破綻すらどうしようもなく受け継がれ、ひとは生きてゆく。

母と娘という言葉、あるいは、これまでの詩によってあらわされてきた愛憎の断片的物語は、実のところ関係性を剥奪されたただの伝聞、つまり「誰かから聞いた」ものでしかないのだという告白は、詩を単なるひとりの個人の家族の物語として完結させることなく、それを無限の読者へとひらいてみせた。

◇ ◇ ◇

少し個人的な話になるが、ある種の本というのは――とくに詩集や文芸書は――出会うまでにかなり長い回り道をしなければならない時がある。橋本はわたしにとってそういう詩人で、もっとはやく本詩集を読んでおけばよかったと感じている。

最後に、わたしが本詩集でもっとも好きな作品を紹介したい。
「ヒデシマさん」という友人と「わたし」が、明治通りの歩道橋の上で煙草を吸いながらかたりあう様子をえがく詩。

さて、だれかにわたしたちのどうしようもない欠落、穴について書いてもらえるだろうか。もし「だれかがやってくれる」とすれば、どの詩人に書いてもらうべきだろうか? それは読者がことばにして伝えなければならないだろう。畢竟、詩(人)をささえているのは、詩(人)ではなく、読者にほかならない。

液晶みたいに透きとおる肌に、ネオンが反射して、いつか割れるなら今こわしたっていいのかな。そんなことを思いながら、ヒデシマさんの顔の前でタバコを揺らして、煙が映り込んできれい。ヒデシマさんはただ笑う。明日も人だらけの電車に乗って、行きたくもない仕事に行って、繰り返される朝と夜。永遠に続く朝と夜、長い、こわい、わたしの不幸、知らない人の、長い、こわい、他人の不幸。しあわせなものなんて書けやしない、そんなのだれかがやってくれるから。少年みたいな笑顔と髪の毛、みんな不幸になればいいのに。みんな不幸になればいいのに。日々顔を出す、死にたい夜の、金属バットと踊れる夜に、死にたいから生きるわたしと、不幸をふりまくはだしのヒデシマさんの、この夜を悪夢だって、きっと知らない人は、笑ってタバコを踏みにじる。胸にひろがる奇妙なあな、を、わたしは両手で引きちぎる。

みんな不幸になればいいのに。
みんな不幸になればいいのに。

「ヒデシマさん」  第十四、十五連

(2018年9月27日)

橋本シオン『これがわたしのふつうです』書籍情報
これがわたしのふつうです
出版 あきは書館
発行 2017
著者 橋本シオン
価格 1400円+税

吉田義昭『結晶体』(小野十三郎賞受賞詩集)

愛と憎しみは分光されて、ゆがんだ結晶体から光こぼれる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。関東は今日も雨だ。読者の皆さんも体調など崩さぬよう。

さて本日の詩集は、吉田義昭『結晶体』。昨日に引き続き、本書は二〇一八年の第二十回小野十三郎賞受賞作、ダブル受賞のうちの一冊。著者は二〇〇三年『ガリレオが笑った』で第十四回日本詩人クラブ新人賞受賞。他詩集に『空にコペルニクス』、『北半球』など。本書は三章構成で、詩三十編を百三十八頁に収め、三章だけが散文詩となる。

小野十三郎賞の選評においては「妻の死やその後の生活などを書くことが自らの生の再発見に繋がった/それを柔らかく表現している点が評価された」とあった。これに留意し、さっそく読み始めてみよう。

この草は雑草であるか草花であるか
その切ない分類法を教えてください
花壇に植えた容姿の逞しさと愛らしさ
私は乱暴にこの草の生き方を
ありふれた雑草と呼んで差別はしませんから

この石はただの石か鉱物であるか
どんな物質でも内部の粒子が規則正しく
自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます
人間には強引に私の後ろや私の隣に
身も心も正して整列せよとは言いませんから

あの人間が善人であるか悪人であるか
顔や体型で見分ける方法なんてありません
まして心の表面の輝きや反射に騙されないこと
強く生きるために たとえ裏切られても人間なら
憎しみの対象になってもらえばいいのですから

「石と雑草」第一、二、三連

「柔らかく表現」とは、つまり平易な日本語によるということだと理解される。それは普段日常的に用いられている語彙、動詞、助動詞、語尾活用などの組み合わせによる総体で、しかも意識的な選択によってつくられるものを指す(対義語は「難解で、わかりにくく、硬い」表現)のだろう。ただ、多くのひとが誤解していると思うのだが、「わかりやすい表現」というものはない。そうみえる表現はある。つまり、いかなる表現も読解はむずかしく、ほんらいわかりにくい。

話がそれた。著者が「雑草であるか草花であるか/その切ない分類法を教えてください」と書くとき、それがなぜ切ないか、簡単に答えることなどできない、ということを書きたかったのだ。

つまり、雑草と草花の差は恣意的で便宜的なものに過ぎず、それは超越的な第三者が勝手に決めて(た)いるものであり、連の最後においてその分類は「差別」だと示唆されている。それが切ないのは、わたしたちは言語のうちで知らず知らずのうちに自然と分類をしていて、そうすることなしには対象をひとつも識別できないからだ。ことばの編み物たる現実は光と影の軸がなければ成立せず、光をつくればかならず影ができる。その時光と影のあいだには、複数の陰影の度合いという差異の数々が創出される。そのわたしたちの在りようが切ない、と詩は書く。さらにいえば、そこには差別は不可避である、という示唆がある。

そうしたこの世の理が、柔らかいことばで語られている。だが、それが柔らかい、平易なことばで書かれているがゆえ・・に、わたしたちはそこに書かれることのむずかしさに、しばしば気がつかないことがある、ともいえるかも知れない。

二連。石と鉱物の違いが、ひとの従属的営為にかさねあわされる。詩は「整列せよ」とはいわない、とかたっている。だがその一方、鉱物の価値とは、「どんな物質でも内部の粒子が規則正しく/自然の法則に従って並ぶと堅く透明に輝けます」とあり、つまり、従属こそが鉱物を石からわかつものであり、それによって初めて価値をもちうる、ということが同時にかたられている。それはひとはなにかに従属することによって輝くことができる、と読みうるだろう。

三連。ひとの心理の綾に踏み込む。詩によれば、善人と悪人の違いを見分ける方法はない。なぜか。それは相手をみるとき、それは「心の表面の輝き/心の反射」であり、自分の姿がそこに投影されていることに気が付かずに、勝手な思い込みを持ってしまうからだ。だから裏切りは不可避であり、自然なことだ。詩は「強く生きる」と説くが、それは憎しみによってのみ成立するようなねじれた強さでもある。

こうした人間的、心理的な事柄に対する詩の洞察と哲学に基づき、かたちを与えられる矛盾。それはありとあらゆる角度から光をうけてきらきらと反射する結晶体にも似て、重層的な読み応えのある詩作品となり、柔らかい表現にてかたられてゆく。

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません
殻が固いのか柔らかすぎたのか
殻の強度と純白さと床に落ちた危ない形が
私の気持ちと合わなかったというか
私が不器用な夢の続きをみていたというか

生物学的に無精卵であると見破り
卵がなぜ殻や膜で包まれているか
人差し指に白身の優しさと生暖かさが触れ
黄身と白身を混ぜた色の変化を想像したり
形の美しさに見とれていてまた失敗しました

それでも私は男らしさを気取り
指の力を強くしすぎたのかもしれません
力を弱くすると人間として堕ちていくようで
なぜか弱い自分を認めたような気もして
私の人生は柔らかさの加減が難しかったのです

「卵の心理学」第一、二、三連

目覚めが悪く卵がじょうずに割れません、を別のいい方で読んでみる。それは自分が理解していないこと、知らないこと、目覚めているのに目覚めていないような状態で生きるほかないこと、などが夢をみている《わたし》によってかたられている。

卵は可能性、生命、未来など、食物としてというよりも、そこから生まれいづるはずだったものたちのイメージをもち、「いかにうまく殺すか」とつぶやくわたしたちの横顔もみえてくる。そこでは殺すことはよろこびであり「男らしさ」でもある。だがそれは「弱い自分」を認めないことによって成立する虚構であることもまた示唆されている。連ごとに複数のアレゴリーの飛び石のような跳躍が重ね合わされ、めまぐるしく語り手の姿が変貌し、読む愉しみがある。

何もすることがない夏の朝
ここ数日私は何をしていたのかと考えた
緑の固い葉の上から
ひっそりと落ちてくる水滴ひとつ
土に強く根を張る草たちを引き抜きながら
この草にも名前があるのかとも考えた

この葉のつきかたも葉脈の線も美しい
葉の固さも根の張り方も人間的で
自分を守るように生きているとしか思えない
私には自分の生活の強さも弱さもわからない
空に向かってこの草は根から茎と葉が
一途に頑固に真っ直ぐに伸びていたのだ

見上げると青空に流れる雲
雲にもひとつひとつ名前があるのだろうか
木にも花にも石にも名前があるのだから
私の周りのものすべてに名前があるに決まっている
この草にもきっと名前があるはずだ
私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた

「草の名前」第一、二、三連

ふたたび名付けという行為について。草を抜くことは殺すこと。それもあくまで便宜的に、自分のためだけにそれを行うこと。その草に名前をつけようとすることは、生きるということは他害にほかならないということであり、それを直視することであるはずだという声がきこえる。

だがもちろんその草には、おそらくなんらかの名前が最初からついている。その名前は特定の言語の枠組みの中において恣意的かつ便宜的に分類され、図鑑に掲載されているだろう。だが、詩は一度その名前を忘れ、それを思い出すことなく・・・・・・・・あらたに名付けるその現場を描いている。

第三連で「私のこの一日にも名前をつけてみようかと考えた」とあるように、名付けるという行為が自分の過ごす一日に重ねられている。それは名前を思い出すことすらできないわたしたちの茫漠たる人生の一日一日に、あらたに意味を創出しようとする試みだと読める。いや、つけてみようじゃないか、という著者の誘惑にみえる。そこには間違えること、誤読への誘惑があるとも読める。

波の音が聞こえてきます。海鳥の声も響いていました。私と妻は盲目の少年の手を引いて歩いていました。偶然に私たちが結婚して住んだ家の近くに、妻の教え子の実家があったのです。その教え子が離婚して戻ってきました。彼女は盲目の少年と一途に育てていたのです。

風の音も聞こえています。「僕はまだ波も海鳥も見たことがない」と少年は呟きました。人の笑い声や猫の鳴き声も聞こえてきます。こうして三人で歩いていると、通りすがりの人たちには、幸福そうな親子三人、いや、孫を連れた老夫婦に見えていたのかもしれません。

柔らかな風でした。猫の鳴き声が大きくなってきました。「けれども僕はまだ、猫に触ったことがない」と少年は呟きました。母親は入退院を繰り返していました。そして夏休みには、時々、少年を私の家で預かったのです。しかし家の中にいると不安そうで、いつも外に出たがりました。

三人で村の民俗資料館に行きました。水車の話をしたら、触ってみたい、なぜ水で水車が回るのか、と尋ねてきたのです。昔の村の写真を観てきました。農耕具や土器や水車の水にも触ってきました。母親はまだ幼かった少年を、美術館や博物館に連れて行ってあげていたようです。

「波と少年」第一、二、三、四連。

ここからは散文詩となる。第一章、第二章とは異なり、具体的なだれかの喪失のイメージが色濃く反映されている。それは著者がいうように家人なのだろうが、どちらかというとわたしは、とある女性が詩の語り手として想像力の場へ召喚されている印象を持った。

この「波と少年」はとても好きな詩。近所に住む盲目の少年が少しずつ世界を知ってゆく手助けをする老夫婦の話なのだが、そこに世界のあり方を知ることの喜びと痛苦がそっと重ね合わされてゆく。「少年はまだ、母親の死を知りません」で終わる最終連は残酷で、知ること、知らないこと、どちらがよいことなのか、その答は示されず、そこにはふいに突き放される感・・・・・・・がある。読者もまた波の前で「なぜ」とつぶやいてしまう――問いに意味はなく、答などあるはずもないが。

空にかすかに星が滲んでいた。その夜、私はバスを一区画だけ乗り、怯えるように降りてしまった。このままバスが空へ舞い上がっていく気がした。閉じ込められた息苦しさを感じた。鼓動が早くなった。全身に熱い血が流れていくのを感じた。体が震えだした。背中を誰かに押されている気がした。

歩道を歩いていると、突然、「生きる」という声が聞こえてきた。確かに私の声だ。国道のアスファルトが雨に濡れ、車のライトが虹のように滲んでいた。「生きろ」と今度は小声で呟いてみた。すると、「生きろ」、「生きろ」と、私の声が冷たい空に反響して聞こえ、涙がさらに溢れだしてきた。

「家族という病」第一、二連

「生きる」が「生きろ」と誤読されている。それは自分が生きるために書き続けてきたものが、いつしか自分を生かしてくれていたという驚きでもあり、またそれは自分を救うために書いていたものが、いつまにかどこかにいる無関係な第三者の人生を救ってしまうことがある、という誤読による奇跡を信じることでもあるように思う。その誤読、ずれを見出してゆくこと、《読む》というありえない奇跡を信じることが、書くということだということをあらためて思い出させてくれる。これもとても好きな詩だ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集で一番好きな詩を。詩集の題名ともなった「結晶体」
だがこれも引用なしとしたい。読者の皆さんも、機会があればぜひ書店や図書館などでぜひ手にとってみてほしい。

「結晶体」

(2018年9月26日)

吉田義昭『結晶体』書籍情報
結晶体
出版 砂子屋書房
発行 2017
著者 吉田 義昭
価格 2400円+税

西岡寿美子『シバテンのいた村』(小野十三郎賞受賞詩集)

忘れたものを思いだすことなく、うつほに今日も風が吹く。

◇ ◇ ◇

さて本日は三連休明けの火曜日。肌寒く、一日雨が降っている。

本日の詩集は西岡寿美子の『シバテンのいた村』。著者は一九二八年高知県生まれ。一九六三年より詩誌「二人」編集発行。一九七四年『杉の村の物語』で第七回小熊秀雄賞。一九九五年『へんろみちで』にて富田砕花賞受賞、他詩集多数。本詩集『シバテンのいた村』にて、第二十回小野十三郎賞を受賞。

詩の賞には有名なH氏賞以外にさまざまなものがある(そのうち特集を組みたいと思っている)。《千日詩路》が取り上げた詩集では、先日取り上げた『九月十九日』(#0028)が同じ賞を受賞しているので参考にしてほしいと思う。

本詩集は二十九編を百二十八頁に収め、賞の選評では「高知の土着的風俗性と、長い生涯から醸成された突き抜けた人生観が絶妙に溶け合った、比類ない秀作」とあり、各報道向けの発表では「妖怪や生き物との交流を、生き生きとした言葉遣いで描いた」とある。そうしたことを頭におきつつ、読んでみよう。

キンモクセイに十二
モッコク マキの下枝に五
今年わが庭から十七のセミが生まれた
恐らくクマゼミであろう
ふた昔まえはアブラゼミが主であったが

ツクツクボーシやカナカナを
ここから巣立たせたいとずっと願って来たが
それは叶わないことらしい
あれは種の中でも霊的な存在で
選ばれたどこかに彼等の聖地が卜されていそうに思える

数を頼むことなく
他が競う油照りの昼には声を発せず
人や鳥や虫のまだ起き出さない暁闇や
大方が黙す黄昏時にひっそりとうたを届ける
カナ カナ カナ カナ と
ツクツクボーシ ツクツクボーシ ツクイヨー ツクイ と

内に籠る声の質からか
耳を潜めさせる間の取り方からか
何よりうらさびしげな独りうただからであろう
あれらの声を聞くと遠く逸らせたわが心が
うつつの世界へ呼び戻される

「ことづて」第一、二、三、四連

硬質な文体でかたられる《私》をめぐる風景。そこに土からわきでてくる(かのように思える)虫たちの声が重ねあわされる。題の「ことづて」はことばを伝えることだが、空気を震わせてすぐに消えてゆくであろう音が、さまざまな生き物の肉体を経て受け継がれてゆく様子をみることができる。その「うつつの世界」は虫とひとが等価にならべられている場であり、ツクツクボーシやヒグラシを庭に待ち望む著者の姿はどこか孫の誕生をこころまちにする者の姿を思わせる。

詩はめぐりめぐる円環的な生を祝福しながらも、そこにはどこかかなしさがある。伝えられるべきものは失われ、失われたことそのものもまた失われることを詩は知っている。その気付きは、幹についた空蝉をとくに意味もなく数えてしまう姿にあらわれている。生まれるもの、死ぬもの、その数をわたしたちは忘れてしまう、いや忘れざるをえないからだ。

詩集全体を通じてあえて選ばれているとおぼしき語尾の硬さ(「あろう」「あったが」)は、なにか・・・への永続的な距離、抵抗を示唆しているのだろうと感じる。だが、そのなにかを第三者が著者にかわってかたることはできない。

幼児には
大人には見えない仲間が
駆けて来るのが見えているのに違いない
あんなにも足を踏ん張って
腕を輪っかにして一所懸命に待ち受け
後ろざまによろめきながら抱き留めると
実に嬉しげにワッワッと押し合うのだから

ある時はまた
長いことしゃがんで見入った後
誘うのだか釣るのだか
側溝の割れ目にそろそろと手を差し入れる
そんなところには何もいないよ
などと大人は口を挟んではいけない

ごらん
心を澄ませて彼は何かを誘い出す
たとえばシーラカンスのようなもの
ドラゴンの仔のようなもの
小さな神コロポックルのようなもの
手のお椀をくすぐるのはこの地上の生き物ではない

「春」第一、二、三連

詩はふたたびみえないものをめぐっている。だが幼児だけにみえるものなどがほんとうにあるだろうか。すこし注意深く読んでみると、この詩でかたられる「見えない仲間」は、「側溝の割れ目」や「手のお椀」、つまり空白そのもののことであることがわかる。それは物自体を触り、味を確かめ、吐き出し、壊してしまう幼児の仕草にそぐわない。

幼児はことばによってはてしなく分解される前の世界、あるいはその過渡期たる混沌たる場に生きており、そこに空虚、うつほを見出すことができるのは幼児ではなく、その姿を借りてかたっている著者に違いない。その発見された欠損が「春」と名付けられている、と読める。その春を呼び寄せるために幼児という装置が用意されている、といってもいいのかもしれない。おそらくその子にも現実に詩のモデルとなった人物がいると思われるのだが、ここでも徹底してある距離が保たれている印象をもつ。

桜の花の散り屑がそこに吹き寄せている
わずかな風が
まだ温かな色を残したそれらを揺り上げ
揉みながら岸へ押しやる
花びらや萼や花梗や
可憐なものらがその度に搓られて
やがてまことの塵屑になるのであろう

何時も
そこには小さなつむじ風が立っている
坂の半ばの道の岐れ
家と家の間の
空き地とも言えない空き地

なぜわたしはそこを見るのだろう
誰もいない
見るべきものがあるわけでもない
西と東と
下から上へと
十文字に道が交差して
ほんの少しはみだした袋のような余り地を

晩秋から晩春までの肌寒い季節に
ここに自転車に大筒を乗せてやってきて
路上で火を燃やし
不思議な商いをする人がいた

少量のザラメをまぶし
ポン と大きな音を響かせると
金網の筒一杯に弾け膨れた黍や米や豆
坂の家々を爆発音が貫く
すると縁日でもあるかのように
何となく人々が寄って来て

「風を見る」第一、二、三連

ふたたびみえないものをみることがかたられている。そういえば、わたしは著者が育ったという高知県に足を運んだことはないのだが、房総半島の片隅にある地方都市でも似たような閑散とした光景があることは知っている。「家と家の間の/空き地とも言えない空き地」が街のあちこちにある空間であり、「なぜわたしはそこを見るのだろう」と思わず口ずさんでしまう瞬間がある。著者にとって詩は、みえないことそのものにかたちを与える営為なのだろうということを思わせる。そしておそらくは、なぜ書くのだろう、と常に自問し、現実からの距離をとりながら。

次の詩「花を」では、著者はかつてふるさとと呼んでいた街に墓参のために帰る。

墓参花を抱くわたしが
これから歩ごとに見なければならないのは
更に更に痛い風景である

六十戸の人家は七戸に
三百人の住民は十二人に
棚田段畑の九分九厘まで山に還り
植林の下闇に二つずつ青光るのは棄畜の目か
化鳥さながら梢に叫び翔ける
野生化した家禽の群れはこの世の景とも思えない

住民は屋内に老い屈まってか
無音の陽の下
滅びへとひた向かう集落
――ここがわたしのふるさとだ
この国の山地集落大方の現在だ

丸ごと墓山となり行く父祖の地へ手向けるには
あまりに些少な供花をわたしはどこへささげればいい

「花を」第四、五、六、七連

そこで著者が発見するのは欠損による痛みである。それを本邦の地方に住まうだれもが共有している……と書いてみたいところだが、じつのところ詩はその欠損が、経済的要因あるいは社会的要因によるものではないことを知っている。それは空蝉の数を数えることができないのと同じように、ただ世界とはそうであり、これまでも、これからも、ただただわたしたちと無関係に起こり、わたしたちのあずかり知らぬところで勝手に・・・滅びるものだからだ。それは無慈悲な光景でもあり、だがどこか、浜に流れ着いた流木の塊のように、グロテスクでうつくしい。

そのみえないふるさとに意味をなくした風が吹きすさぶ。そしてそのうつほの場に不可能な花をたむける、それが詩の仕事だ、と著者はいっている。とむらえないものをとむらうことが詩になっている。その所作にこころをうたれる。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしがこの詩集でもっとも好きな詩を。
小野十三郎賞の選評では、「長い時を経て初めて獲得される詩があることを深く実感させられる」ともあった。それには同感せざるを得ない。やや内輪向けのことばを少しだけ書くとするならば、長い人生を経たときはじめてえられるさとりと気付きの凄みに近づくために若手(または新人)詩人にできることは、愚かさそのもの・・・・・・・となって抵抗することでしかないのではないか、ということを思った。

この土地では
命尽きることを「満てる」という
生の極みの意であろう

わたしがこの言葉に接した最初は
病んでおられた師について
仲間のお一人である長老からお知らせ頂いた時だ
――先生がただ今お満てになりました

若かったわたしは
泣きに泣いて場の貰い泣きを誘ったものだが
それでも初めて現れとしてわたしに来たこの事態から
類い稀に広々と豊かに実り
まさに満ちた師の全体像は過たず受容した気がする

いまひとつ
四十年来の友がふと洩らした
――わたしこの頃熟れ満ちた気がするの

失礼ながら粗忽人で軽躁と見えた
その人にしては過ぎた言葉に
密かに顔を窺わずにはいられなかったものの
期するところのある人の決然とした口ぶりは
わたしの疑義を制する威があった

あの時
ふふ と含み笑いした友よ
嬉しげにも
幾分悲しげにも見えたその笑みは
彼女の中に満ちてきた
有無を言わせぬものの力であったのか

日ならず友は急逝し

喘ぎ喘ぎ歩いてきたわたしの長旅も
間もなく果てが見えて来ように
経てきたいずれの道程もことごとく瑕疵と恥まみれだ

時はやがてわたしをも満てさせてくれようが
未だに何の啓示も受けぬこの不覚者のことなら
人並みに満ちることは難しかろう
まして従容と出で立つことなど望外の夢であろう

熟す心地は
急か
徐々にか
自ずから湧いて満ちるのか
何者かの教示を得てか
思えば友にあの時押しても聞くべきであった

「一つの言葉から」全文

(2018年9月25日)

西岡寿美子『シバテンのいた村』書籍情報
シバテンのいた村
出版 土曜美術社出版販売
発行 2017
著者 西岡寿美子(にしおか すみこ)
価格 2000円+税

佐々木貴子『嘘の天ぷら』

「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもう・・でしょう。もう・・勿論あのことはご存知の方でしょう」

三島由紀夫『仮面の告白』

◇ ◇ ◇

《読むこと》をとりもどす、詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。

さて本日は金曜日。編集部がある関東近郊は一日雨が降り続き、かなり寒さを感じる天候。今週は《千日詩路》では詩誌を特集してきたが、最後に今月出たばかりのあたらしい詩集を取り上げようと思う。先日別の記事でも紹介(#ex002)した佐々木貴子の詩集、『嘘の天ぷら』である。

『嘘の天ぷら』は佐々木貴子の第一詩集。彼女は一九七〇年岩手県盛岡市生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出、「姥捨」にて同誌新人賞受賞。現在は仙台にて詩誌『ココア共和国』に編集として携わっているとのこと。なお本書は仙台より郵送で頂いた。

わたしは佐々木とその作品のことは数年前から知っていたが、それは当時わたしの家人の詩が『詩と思想』の投稿欄で、よく佐々木貴子と競うようにして並んで掲載されていたからだ。本詩集を読んで、当時のことを懐かしく思い出した。

さて、本詩集は二十六編を九十六頁に収める。巻頭と巻末に行開け詩が置かれる以外の他はすべて散文形式となる。

表紙のイラストレーションは宇野亜喜良の手によるもの。表紙には、天ぷらとおもわれることば「ni」(に)と「shinai」(しない)を箸で持っている女性がいるが、折返しには「hitori」(ひとり)という天ぷらが隠されている。折り返し部分の下のほうにはさらに「uso」(うそ)と吠えるイヌ科の動物が描かれ、つまり組み合わせると次のようないくつかのメッセージが読める。

ひとり/に/しない/嘘
嘘/に/しない/ひとり
詩ない/ひとり/に/嘘

表紙から詩作の戦略が読み取れる。さまざまな含意があるが、ひとつはっきりしているのは、この詩集が嘘をめぐっていること、それも三島由紀夫の『仮面の告白』のように、冒頭からそれが嘘であることが明白に記されているということ。そのことに留意し、読み進めてみよう。

巻頭詩は詩集の題名ともなった「嘘の天ぷら」。

今夜も
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

「嘘の天ぷら」第一、二、三、四、五連

個人的なことから書くが、わたしは下手な料理が趣味で、毎日なにかしら必ずつくっている。だが料理のうちで、もっとも苦手なのが揚げ物だ。温度管理、油の保存方法、経済性、摂取カロリー量、清掃の手間……こうしたことの煩雑さを真剣に考えたとき、いつしかわたしは揚げ物をしなくなった。今晩の夕食も揚げないコロッケをつくった。

天ぷら、は、相対的にみて、家庭料理のうちではかなり手間のかかる部類だ。この詩ではそれをほんらい食べさせるべきだれか・・・との関係性の深さが示唆される一方、その浅さ(嘘)もまた同時に書き込まれている。もちろん、嘘とは、「わたしを一人にしない」という約束がだれにとっても達成不可能なものであるということであり、はじめから約束が成立しないことがあらかじめ了解されていることである。

嘘、にかたちを与えねばならない。高温の油の中でうつくしい花びらのように羽根をひろげる芸術作品としての天ぷらの衣、それは咀嚼され粉々にくだかれる前に、ほんのひととき鑑賞者の眼を楽しませるためにだけつくられるものだ。その嘘を詩として提示することが本詩集の目的とひとまず読む。

ご存知のとおり、漂白しても白くなる子と、白くならない子がいるんです。大変、言いにくいことですが、お子さんは既にかなり濃い。学校で対処できるうちに何とかしましょう。今ならまだ間に合いますよ、お母さん。家庭訪問の日、先生はお母さんの顔をのぞきこみ、丁寧に説明した。お母さんは勝手にわたしの漂白を決めてしまった。通常、女子は一回で漂白できるはずなのに、わたしの場合は難しいとのこと。帰宅したお父さんは、わたしを見てイヤな顔をした。一回目の漂白は失敗したけれど、二回目では僅かに変化があった。三回目では上半身、四回目で初めて下半身がキレイになった。五回目の漂白が終わって、ようやく先生はわたしのことを教室に入れてくれた。わたしには見えない、わたしの表情。先生は満足そうに深くうなずき、わたしの肩を抱いた。先生の安っぽい整髪料の匂いが、せっかくの白さを傷つけるような気がして、わたしはとっさに先生の身体を避けた。白こそ全てなのです。汚れのない白。

「漂白」前半 部分

巻頭詩を終えて、本体に含まれる詩作品を読み始めると驚くのは、頁をほぼ正方形に埋めつくす、改行、行開けのない詩連である。そこには意図的な読みにくさが選ばれている、といえる。それは以前の佐々木作品を知るものにはやや驚きだろう(#ex002 にいくつか引用しているので、比較してみてほしい)。

大部分の詩においてこの様式がまもられ、一作品あたりほぼ一頁から二頁。その読みにくさによってなにがあらわされているかだが、嘘を嘘だと告白するときの含羞と考えるのがまずは自然だ。そもそも隠したいことがあるからひとは嘘をつくのであって、それを告白するということにはなみなみならぬ勇気がいるものだからだ。その時、ことばは乱れ、吃音が生じる。いいかえればかたりにくさ・・・・・・が生じる。そうしたひとの有り様そのものにかたちが与えられている。

「漂白しても白くなる子」と「白くならない子」は、嘘をついてきれいになることができるひと、と嘘をついてもきれいにならないひと、と解釈することができる。少しうがった見方をすれば、佐々木の過去作品にみられた、技巧としての改行(空白)の活用こそが、嘘にすぎないのではなかったか。少なくとも著者はそう自ら示唆しているようにみえる。

佐々木は白くあることを告発する。そんなことは不可能であり、ひとははてしなく、技巧のうしなわれた渾沌たることばに真っ黒になるまで支配されている。そうした現実を自らに対してごまかすことによってのみ成立するものこそが、佐々木のたたかう相手である、と読める。それは嘘とたたかうこと、そしてその手法とは、嘘であることがだれにもわからないようなかたちであらわれる、変幻自在の怪物の正体をあきらかにすることである。その怪物は、佐々木の詩集においては便宜的に「先生」や「お母さん」とよばれている。

先生は少し困ったように首をかたむけ、静かに目をそらしました。これは夢だ。だってあの先生、知らない仮面をかぶっていたもの。もう一度、教室をのぞきます。その時、誰かが肩に手を置きました。後ろを振り向くと、お母さんと同じ仮面をかぶった女の人が笑っているのか、泣いているのか分からないような声で、ほら、あなた、忘れ物よ、と言いました。そうでした。仮面を家に忘れてきたのです。でも、どうして学校では仮面をかぶる必要があるのでしょう。女の人とお母さんの仮面が同じだったことも不思議です。同じ仮面もあるのですね。夢の中なのに、今日は吐く息が白いのです。かじかんだ指先も、冷えきった足も、疲れた心も、どれも、わたしでした。

「氷点下」中盤 部分

だれしもが嘘をついていることに無自覚な空間、それが「学校」とよばれている。くりかえされる(空)白は、ことばのない世界があればいいのにという果てのない願いであり、あるいはことばをえる前の佐々木が育った岩手の冬の光景なのかもしれない。

「お母さん」であった存在は分裂し、著者個人の《私》の小さな個人的な物語は拡散し、《私たち》の物語へと変貌してゆく。それは肉となった仮面が顔にへばりついた者たちがすまう画一的なことばの空間スフィア、つまり二〇一八年にいきるわたしたちがよく知っているものである。そこではだれひとりとして仮面をとることができない。なぜならそれは「どれも、わたしでした」というほかないほど、自らにへばりついて取れないからである。

中止にする。一度目は単なる試み。二度目は挑戦。三度目の今日、僕自身の完成を目指し、この企てを実行する。早朝、連絡網で「体育祭の中止」が知らされた。詳しいことは登校後に校長から説明があるという。「お弁当、持って行くのよね」と母さんが台所から顔を出した。母さん、弁当ができても、できなくても、体育祭はいつだって中止なんだよ。去年の体育祭も中止。一昨年も中止。僕が在校生でいるうちは、体育祭は何度でも葬られる。毎年、サトウもキクチも、体育祭の中止をとても喜んでいた。僕らは体育とは最も縁遠い存在としてみんなに知られていた。誰もはっきりと口には出さなかったが、僕よりもサトウ、サトウよりもキクチが体育祭を阻止する「学校爆破予告の犯人」にふさわしいと感じていた。むしろ、実行犯に違いないと誰もが思っていた。登校後、最初に僕らはキクチの自死を知らされた。明け方、校庭の真ん中でキクチは発見されたという。体育祭どころではない。爆破予告の犯人は、学校を爆破せずに自爆。体育祭のこの日を選び、会場でもある校庭を選んだ。誰のために。キクチの遺書が発見された。遺書の最後は感謝の言葉で結ばれていた。「毎年、体育祭を中止にしてくれたこと、心から感謝している。本当にありがとう」

「企て」前半 部分

嘘の蔓延する場をこわすために企図されるものはテロリズムである。それは圧倒的な強者である社会を前にした弱者が唯一選択できる(かのようにみえる)手法だからだ。この詩ではその社会が「体育祭」とよばれている。だが祭りを中止するべく企てたキクチは自死する。着目すべきなのは体育祭の中止という目的が、企てを自ら放棄・・・・・・・することによって、実のところ達成されていることである。それは詩を完成させないことによって、その代償としてえられるものがあるはずだ、という著者の確信を感じさせる。いや、もっと具体的にいうべきかもしれない。それはたとえば「完成度」という実のところ恣意的な基準を、いっさい信じないという宣言のようなものである。

わたしは風に選ばれたのです。屋上の教室に通うために。机も椅子も必要ありません。時間割は風が笑いながら吹き飛ばしていきました。空は青い黒板でした。風が走り寄ってきて、わたしを慣れた手つきでめくっていきます。気持ちいいのです。風に読まれることが。風は始終、わたしという物語に泣いていました。これまでわたしを読んでくれたのは風だけでした。屋上のドアは開閉を忘れていました。わたしも忘れていました。あれから、どれくらい経ったのか。今年、先生は入学したばかりの生徒たちを屋上に連れて来ました。「ほら、とってもいい眺めなんだよ」と言いました。そして「気をつけて。ここは、以前、事故があった場所だから」と。一方で、風はささやいています。「そろそろ新しい読み物が欲しい」と。

「屋上」後半 部分

ことばの牢獄たる言語的構造物(校舎)を抜け出して屋上に出てみても、そこにあるのは出口ではなくまた別の階層に過ぎなかった。それはひとびとの言語化された物語が消費され、読み捨てられる場であり、気持ちのよい風はただあたらしく消費されるものを呼びよせるための道具にすぎない。

選ばれるということ……それには特定の社会的地位も含まれるが……は選ばれる側にとって一時的な恩寵である可能性が(「気持ちいいのです。風に読まれることが」)示唆されるとともに、それは実のところ恣意的に選び出される(しかも悲劇的な)見せ物に過ぎないという現実の有り様が同時に示されている。具体例を思い浮かべるまでもなく、それは嘘と真実の見分けが付けにくくなった、あるいはそのふたつを区別する必要性をだれも感じなくなった扇動的なソーシャルメディアとフェイクニュースの時代を指し示している。

やさしい家に行くならば、心を持っていってはいけません。心を取り出して、いたずらする子鬼がいるからです。わたしの心が真っ白すぎる、弱すぎるといって心を取り上げ、唾液をつけて磨こうとするのです。心は磨かれているのでしょうか、それとも汚されているのでしょうか。黄ばみつつあるわたしの心を母は臭いと言いました。

やさしい家に行くならば、きれいな服を着ていってはいけません。困ったことに母の用意する服はどれも、きれいなものばかり。子鬼は怒りながら、わたしを裸にします。寒がるわたしの前で、わたしの服を子鬼は胸に当て、袖を通し、鏡の前に立ちます。これ似合うでしょ。子鬼は尋ねます。わたしの口からも嘘が生まれるようになりました。わたしの服は子鬼の穿いていた毛糸のパンツと交換です。

やさしい家に行くならば、決して笑ってはいけません。ある日、大人がわたしに頬ずりして言いました。あなたの笑顔、かわいいわ。わたしは、いま笑っていたのでしょうか。子鬼は顔を赤くして抗議しました。ふだん、笑わないから可愛く見えるだけなんだ、とも言いました。わたしから笑顔を取り上げたのは子鬼なのに。わたしは子鬼の赤らんだ顔を見ながら、動物園で見た猿を思い浮かべました。

「愉快な地獄」第一、二、三連。

本詩集でもっともわたしが好きな詩。嘘にまみれ、肉となった仮面をかぶらざるをえないひとびとがすまうことばの牢獄。その怪物の臓腑が「地獄」と呼ばれることに読者はもはやなんの驚きも抱かないだろう。

この詩では本詩集ではめずらしく行分けがなされ、全部で五連、それぞれが長方形を構成するよう文字数は調整されて、その様子は、どこか、居間にたちならぶ複数の磨きあげられた銀の鏡を思わせる。そこに穢れとしての文字があらわれる。

「やさしい家」などないことはすでに読者には了解されている。あるいは嘘のない家、個人に理解のある社会、「わたしを一人にしない」恋人、などといったものが存在しないことがすでに了解されている。それはだれかが悪いから、ではない。社会が悪いから、ではない。それはことばによって嘘と真実をみわけることがそもそも不可能だからで、そこには根本的な欠損が内在しているからだ。

書き手がいくら考えてみても、いじわるをする「子鬼」の真意はわからない。あるいは、娘を傷つける「母」のこころはわからない。わからないものをわかろうとしたとき、ことばは壊れ、嘘がつくられる。嘘を憎んでいたはずなのに、いつの間にか自分そのものが嘘になってしまう。そうした姿は、つらくかなしい。だが、それをかたちにしようとする詩に、真の人間らしさ、勇敢さを感じる。

佐々木貴子は過去の作品と決別し、あたらしい文体とともにここにあらわれた。
ことばの不能性のうまれる場に立ちかえろうとした第一詩集。

(2018年9月21日)

佐々木貴子『嘘の天ぷら』書籍情報
嘘の天ぷら
出版 土曜美術社出版販売
発行 2018
著者 佐々木貴子(ささき たかこ)
価格 1400円+税

詩誌『ファントム 3号』

《わたし》とほんの少しずれた幽霊としての《私》。
その亀裂からことばがあらわれる。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。急速に冬が近づきつつあることを肌寒さの中に感じる。
さて今週は詩誌特集ということで、為平澪(#0023 参照)主宰の詩誌『ファントム 3号』を。この詩誌はほぼ一年に一度発行されており、参加詩人は五名から十名前後、主に詩作を中心とし、エッセイや詩論などの小特集コーナーも有する。既刊を含めて装丁は黒色を基調に、都市、夜景、構造物、幾何学的文様などを主なモチーフとし、硬く冷えたなめらかな鉱石を思わせる。本号は参加者は十一名、十四作品、一論考を収め、五十六頁。

詩誌の名前についてだが、二〇一四年発行の創刊号を開いてみると、巻頭に次の一行が置かれている。

詩人は自分の中にもう一人の他人を飼っている
巻頭言、『ファントム』創刊号

ファントム “Phantom” で英英辞典を引いてみると、亡霊、幽霊の意味以外にも、「想像力のうちにしか存在しないもの」という意味が記されている。後者の意味に基づいた単語には Phantom Pain(幻肢痛)や  Phantom Pregnancy(想像妊娠)などがある。

詩誌の題名と巻頭言からは、身体の内側にまぼろしとしての他人を持つこと、そして「詩人は」と定義されていることから、その他人との不可能な対話を通じて詩作品がみちびきだされるイメージが得られる。

その他人とは自分の魂のなかにことばとして存在する肉親かもしれないし、教師かもしれないし、かつてそこにいたが、いまはいなくなっただれかかもしれない。その対話にともなう遅延、ずれ、二重性に「詩」という名前があたえられ、その由来を宣言するために「ファントム」という看板が掲げられている、と読める。

それでは本号を読んでみよう。創刊号から共通するメンバーには、為平のほかには麻生有里、浦世羊島(耀一朗)、奥主榮、一色真理などがいる。かれらの作品からいくつか抜き出してみよう。

不規則な人の流れを
かきわけるのはどうしても苦手だ
曲がり角ならいつも
上手に見分けられるのに
すれ違いざまに宙づりの幽霊が見えて
ふり返ったらキッと睨まれた
(どうしてわかったの)

システムが理解できない
いつだってそう
人の仕組みも回路もネットワークも
分解して知ろうとしても無駄なこと
導かれればいいのだろうか
ついて行けば崩れるのかもしれない
だけど結局は
似たような末路をたどるのなら
自動改札ぐらい通ってもいい

さっきから視野が狭いと思っていたら
(落としましたよ)
誰かが眼球をひとつ拾ってくれた
ありがとう
お礼がしたいので電車に乗りませんか
そんな出会い方だったら
遅刻しそうな子とぶつかるのでもなく
書店で同じ本を手に徒労とするのでもなく

自動改札をリレーのように通り抜けていく
にんげんは本当に
どうやって動いているのだろう
ふいにつきつけられた風の中で思う
促されて名前を書いてしまうぐらいなら
あたらしい文字を作って
読めない名を名乗ればいいと

麻生有里 「地上の電車」
第一、二、三、四連

昨年 詩集『ちょうどいい猫』を刊行した麻生有里の作品。地上の電車、という題名からは、地上を走るものではない、この世のものではない幽霊としての電車というものを想像する。第一連には幽霊が登場するが、これは電車の中で吊り革からぶらさがる生きている肉としての人間の姿なのだろう。電車は個別に分断されたわたしたち肉を乗せたままどこかへ走ってゆく。そうしたシステムの中に閉じこめられているのは、たくさんの線/路によって構成される電磁的ネットワークの上に拡散する膨大なテキストによってつくられる現代社会の中にいるわたしたちの姿でもあり、「にんげんは本当に/どうやって動いているのだろう」というふいに湧き出す疑問は、ことばは本当にどうやって意味をもって・・・・・・働いているのだろう、と読める。その問いには、まるで幽霊のように、と答えるしかない。

舞い上がる砂塵は光を遮り
地上を這う人々の心を煤けさせる
ここにいてはならぬと責めるように
吹き荒れる風は 体温を奪う
大地に刻まれた一千年一万年の呪い
汚されたばかりではない
影に覆われた土の上で 育つ草木も限られ
眩い白色光は伝説として語られるばかり

届かない青空に恋いこがれながら
人はよろめく足を踏みしめて
高くたかく築きあげる 祈りの尖塔を
積み重ねるたびにひび割れ崩落し
祈りを嘲笑うかのように
大海に投じられた一石の頼りない波紋
そんな祈りは誰に向けられたものなのか
存在が不確かな神々に対してか
信じることさえままならぬ我々自身に対してか

遠い昔 我々は自分たちの子孫に対し
言い逃れしようのない咎を負いこんだ
大地を陵辱し海へと毒をとめどなく流し
空を忌わしいもので充たしていった
道は汚泥に覆い尽くされ 喉をふさぐものに
祈りの言葉は損なわれていった

そうした中で自分たち自身の首を締め
豊穣の大地も 大漁のわだつみも
羽ばたくことのできる光に溢れた空も失った

生きるよすがとなる
波止場を忘れた そんな方舟

奥主榮 「陸の時代」
第一、二、三、四、五連

奥主榮(#0005 参照)の詩はまっすぐ実体のある読者の身体にぶつかってくる。だがそこには幻への望郷またはいかりがある、というのはわたしの個人的な読みに過ぎないかもしれない。「陸の時代」とは、わたしたちが汚してきた土に復讐される時代。奥主がその主題として見つめてきたのであろう罪悪感は、本邦に住まうすべての倫理的存在が持っているものである。その叱責の指先は、近代社会といった曖昧模糊としたものではなく、具体的で、実体のある、歴史を有する対象にはっきりと向けられている。だが奥主はこの詩においてそれを明記しない。それが昨今のソーシャルメディアに見られるような「反」を冠する扇動的営為——いわば善の凡庸さバナリティ・オブ・グッド——に加担してしまうこと、しかもがそれに加担してしまうことのおそろしさをよく知っているからである。そこに奥主の誠実さ、作家としての矜持がある。

真夜中にウイルス・スキャンを実行して
モニターを見ながら怯えている
ブロックされた危険な接続の中に
今日も同じ顔を見つけた

この顔はファミレスでおなじみの
おばちゃんたちの自慢話と劣等感の駆け引きの中で
泡立ったメロンソーダーの中の不純物
その隅で立ち上がる甲高い声はトロクサイと、高齢者を嗤う
ラインが止まない女子高生のIDとIPアドレス

ファミレスの町ぐるみ検診を何度も起動させると
真夜中に胃がキリキリと痛む
体内に悪いウイルスがいるせいだと 医者は語る

私の胸部も頭部も異常がないのに
悪いことを見つけたら罰したい寂しさが
液晶画面を青に変える

毎日をスキャンして安心したい
(私は安全だ、と
毎日を表示して教えてほしい
(ウイルスはいませんでした、と
毎日を毎日フルスキャンして 私は木端微塵に疲れていく
(駆除したいのか、駆除されたいのか

為平澪 「ウイルス・スキャン」
第一、二、三、四、五連

為平の詩は、ある対象をふたつにわかちながら、それらをひとつにまとめようとする動きに抵抗するため、そのふたつを同じ地点に重ねてゆくことから始まる。この詩では、ウィルスを駆除する《私》と駆除される《私》は、じつのところ同じものではないのか、という疑いからはじまるが、それは清潔に除菌された現代社会ネットワークに対する根本的疑義をわたしたちに突きつけてもいる。わたしたちがなにかを捨てるとき、わたしたちはなにをえているのか、そういう大きな問いがある。

システム、あるいは世間は単純化された世界を好む。わたしたちの社会はことばというウィルスを以前のように許容できなくなりつつある。「悪いことを見つけたら罰したい寂しさ」をだれしもが持ち、お互いに石を投げ付けあう二〇一八年の他罰的な相互監視社会のただ中にいるわたしたちの姿を為平は書いている。これもまた現代についての詩だということを思う。

ことばテキストだけで構成される社会とは、つまり亡霊が闊歩する場でもある。
詩は抵抗する、と為平はいっている。それは加速度をもった永続的なる運動でなければならず、そのために詩があり、詩誌が発行され、詩集がつくられるのだ。

詩誌『ファントム 3号』

詩誌情報
詩誌 ファントム
発行 為平 澪 「ファントム」編集室
号数 2018 3
価格 500

詩誌『Rurikarakusa 9号』

とどくもの、とどかぬもの。詩がかたちをあたえる不可能なものたち。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。少し冷える朝が目立つようになってきた。

本日も引き続き詩誌をとりあげよう。詩誌『Rurikarakusa』は、以前《千日詩路》でも取り上げた詩人たちによる合同個人詩誌で、花潜幸(#0018)、草野理恵子(#0001)、青木由弥子の三名のメンバーの作品を中心とし、ゲスト詩人一名を招待する構成となっている。

メンバー三名がそれぞれ詩を二編、ゲストは詩一・二編とエッセイ。これをA4サイズ上質紙三枚に掲載し、そこに和紙と思われる扉紙を重ねたものを三つに折り畳み、長方形の封書の様式にて頒布されている。わたしの所有する限りでは過去分についても同様の様式がとられ、二〇一六年一月創刊、年三回程度発行、本号は九号で二〇一八年九月付。

さて、本号の構成を見てみよう。過去分も通して同じ構成なのだが、目次は次のようになっている。詩誌としてとくに特徴的なのは、ゲスト詩人にはエッセイの枠があり、これがその詩人の人となりを知る機会を読者にあたえてくれること。

表紙/扉紙 (裏に編集後記)
一枚目 ゲスト詩人による詩作品 二つ およびエッセイ
二枚目 花潜幸、草野理恵子、青木由弥子による詩作品三編
三枚目 同上

今回のゲストは詩人の上手宰。一九四八年生まれ。詩集に壺井繁治賞受賞の『星の火事』、ほか『夢の続き』、『香る日』、二〇一八年には『しおり紐のしまい方』刊行。本号ではふたつの詩が掲載されている。そのうちのひとつを抜き出してみる。

文字の台紙が紙であるように
言葉の台紙は息だという
夢の台紙が眠りであるように
愛の台紙は寂しさだという

記憶の台紙が最近たわみはじめた
光と影の感光板が波打つ河に変貌する
舟を出すと空が暗く覆われ
なにもかも忘れ去ってしまう
忘れたことにも気付かず
河のなかに自分を置き去りにすると
はてしない安らぎが訪れる
紙からずり落ちていった文字たち
止まった息が密かに逃がした言葉たち
浅い眠りに溺れていった夢たち
それらを見送ったあと
寂しさの扉をあけた愛が
使われなくなった鍵のふりをして失われる

上手宰 「白夜」
第一、二、三連

白夜とは昼と夜の境目がなくなること。それは上手のことばを借りれば、文字が紙であり、紙が文字であるかのような状態、あるいは息がことばであり、ことばが息であるかのような認識のことである。ドーナツの穴は存在するのかという有名な問いがあるが、上手の詩を読んだ上ではこう答えられるかもしれない。穴(ことば)を存在させているのは周辺にあるものであり、穴(愛)そのものが存在しているのではない、と。とても好きな詩。

また、エッセイをおもしろく読んだ。著者は自分が歳をとったことにより、目やにが出やすくなるという自らの身体についてかたり、そんなある日のこと、眠りに落ちる前に目やにが気になったが、「洗面所に行って目を洗ってすっきりさせずには眠る気にはなれなかった」ため、目を洗ってから眠ったという出来事についてかたってみせる。

目が何かを見るという行為は、その中に見える対象だけに依存しているのではない、と私には思われた。見るということは、見るという行為そのものへの愛着がある。だから具体的に網膜に映る像がないとしても、目は何かを見ることの可能な態勢に居たいのではないか。私の目はその夜、目をきれいに洗われ世界がよく見えるよう身支度して何も見えない世界に向かったのであった。

上手宰 エッセイ「闇に入っていく目」
第二連

別のことばでいいかえれば、存在しない穴=ことば=愛を見る、発見する、つくるためには、汚れていない眼球が必要であり、その汚れていない眼球をもって、光をうしなった闇の中に入っていかなければならない、という逆説的な手法がみえてくる。「汚れてはいないが、見ることのできない目」をもって進むことがいわば「身支度」することであり、詩を書くということが書き手にとってどのようなものであるのか、そこからくっきり読み取ることができる。詩とエッセイが相互補完的な関係になるよう企図されていることがうかがえる。

詩誌『Rurikarakusa』は三名の詩人のメンバーの詩作品を展開する場でもあると同時に、このような紙面上の編集、組み合わせの妙によって詩、そして詩にとりくむ個人をひろく紹介しようとする試み、と読める。その試み自体がまず刺激的だ。

インターネットの一般読者・・・・にむけて詩についてかたる詩と書評のサイト《千日詩路》は、昨日とりあげた詩誌や、『Rurikarakusa』のような詩誌を応援している。

◇ ◇ ◇

三名の詩人メンバーの詩については、別の機会にまた取り上げるとして、最後にそのうちのひとつ、わたしが好きな草野理恵子の詩を。

雪まじりの雨が降り注ぐつめたく残酷な世界の浜辺に流れ着く、かつてひとであったものの一部。それは靴下になぞらえられ、そのことばはとどかず、つめたい水辺に沈んでゆく。とどかないもの、ただながれてゆくものたち。

冷たい雨が降り続いた
水滴な病室の窓を伝い部屋の隅に溜まった
見知らぬ君は靴下を脱いでいた
僕は雨のカーテンの隙間から見た

雨のカーテンは開き 君の姿を見せた
君の荒い息が水面をよじり
さざ波をおこしていた
波が僕のベッドの足元まで押し寄せた時
両手ですくい口をつけたかった

長い時間をかけて靴下を脱ぎ終えた君はまた
高く脚を上げてベージュの肌を剥ぎ取り始めた
美しく白い脚は幾度となく高く上げられ
雨が上がったあと
月が幾度となく苦しみの表情を照らし続けた

深夜 氷の浮いた海に君の靴下が浮いた
半透明のベージュ色の薄布は
羽衣のように震え消えた
皮を剥ぐように苦しげに脱いでいた
月は君だけを照らしていた

草野理恵子「靴下」
第一、二、三、四連

『詩誌 Rurikarakusa 9号』詩誌情報
Rurikarakusa
発行人 青木由弥子
号数 2018年 9号

詩誌『季刊ココア共和国 Vol.20』

詩を《読む》とは、世の中に必要とされない《私》を読み直すリ・リードこと。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。
本日は祝日三連休明けの火曜日。外からは秋の虫の声がきこえてくる。今週は平日が少ないこともあり、少し詩集を離れ、詩誌を特集してゆきたいと思っている。

本日は詩誌『ココア共和国』を紹介する。『ココア共和国』は、詩人の秋亜綺羅が主宰する個人詩誌で、既刊として二十一冊が発行されている。個人詩誌という位置づけながらも、詩だけにとどまらず、ミュージシャンや歌人をはじめジャンルを横断する作家を招待し、作品を掲載しているユニークな詩誌。「小特集」として一人の詩人にスポットを当てるコーナーを有することも特徴。わたしの知人(#ex002)が編集に携わっていることもあり、本日はそのうちすぐに入手できた第二十号を取り上げる。本号は、詩について四名による四作品、詩の小特集一名につき五作品、歌人一名の二十八首を、三十四頁に収める。

脳は孤独だ
誰にもわかってもらえない
オレの脳は
オレにもわかってもらえない

脳がなんなのか誰もわからない

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか
ほらほら
それさえはっきり言えないくせに
よくも平気で生きてるもんだ

あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに
人は自分たちが作ったと思っている
そう思いながら
笑ったり
怒ったり
悲しんだり
苦しんだり
魚食いまくって
鶏を食いまくって
豚を食いまくって
牛を食いまくって
何十万人も殺し
何百万人も殺し
何千万人も殺し
テロしたり
「神様」とか言ってみたり

(…)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
その時オレはどこでなにをしているんだ

いがらしみきお 「孤独な脳」
第一、二、四連

説明する必要もないかもしれないが、いがらしみきおは『ぼのぼの』で知られる国民的漫画家。第一線の作家はなにを書(描)いてもおもしろいという見本のような作品だが、ここでいわれている「脳」が「ことば」や「意味」のことだということに読む驚きがある。

これはことばによってことば(私)を考えることはできない、という不可能についての詩であり、ソーシャルメディア全盛の時代、すなわち過剰なテキストの氾濫のなかに住まうわたしたちについての詩、つまり現代についての詩に違いない、という思いを持つ。高度情報社会とは脳を脳たらしめることばによる社会であり、考えているはずの脳の所在が曖昧で不確かになる(「あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに」)時代のことでもあるからだ。

そして、たかがことば、または「脳」が作り出した虚構にすぎないものによって、わたしたちは生き、殺し合い、《私》を見失う。わたしたちという存在の(普段は考えられることのない)軽さ、不確実さ、寄る辺のなさは、その虚構の上にのみ成立する砂上の楼閣にすぎないという事実によっている。だから脳はいつも孤独なのだ、といがらしの詩はいっている。そこにはジャンルのことなる漫画家に詩をしてやられた・・・・・・感があり、これは編集プロデュースの成果に違いないと思う。

もう一つ、ジャンルを横断する作品を。シンガーソングライターの佐藤龍一によるもの。長い詩で、一部を抜き出してみよう。

16時。初夏の電車は寒い。ここは共和国。ことば共和国。電車のアナウンスが詩であるならば、全ての路線は開かれた迷路だ。時間という嘘と移動という迷宮が私という不明を上書きする。お待たせしテンションプリーズ。夕方。この駅には出口がない。いやこれは駅ではない。形而上学的なイソギンチャクだ。

19時半。本日のライブが開演する。見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する。ものを考えたら負けだ。ブルースが錯乱する。時の彼方から認知症がゆっくりと近づいてくる。現在、現代、永遠の現在。ここより遠く我が陣地なく、今より他に時はない。

2時。夏休みの宿題。この世で幻想でないものを見つけなさい。

銃弾。紋白蝶。海。

佐藤龍一 「銃弾・紋白蝶・海」
第一四、十五、十六、十七連

十七連にわたる散文詩で、時間順に語り手の行動が二日間にわたってかたられてゆく構成になっている。いがらしの詩と(おそらくは)はからずも共通しているのは、これがことばについての詩だということで、「見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する」ことには、読まれるものとして作品を書くとき、そこには特権的または超越的な立場など存在せず、書き手もまたひとりの読者にすぎないという当たり前の理解がある。だがその当たり前のはずの理解は、専業的作家になればなるほど遠ざかるものでもある。だからこそ「ものを考えたら負け」なのだ。

こうした行の鮮烈さは、肉体を駆使するミュージシャン(あるいは、肉体労働としての漫画執筆)のすぐれた身体的感覚によるところが大きいのかもしれないということを感じる。また、「この世で幻想でないものを見つけなさい」は、思わず口にして何度も読み上げたくなるすばらしい一行。もちろんそんなものがないことは書き手がいちばんよくわかっているはずで、だからこそそれは「宿題」として最後に置かれている。

『ココア共和国』の編集前記では、それぞれの作家について秋亜綺羅による紹介がされている。佐藤については「70年代のシンガーソングライターたちを現代詩人として迎えなかったのは、文学の失敗だったと、わたしは思っています」とある。文学――あるいは現代についての詩――の失敗とは、端的にいえばこの数十年で読者が消滅し、社会からほとんど必要とされなくなったことを指すのだろう。

では、それではどうしたらよかった・・・・・・・・・のか、ということに対する答のひとつ、それがこの詩誌なのだろうということを思う。佐藤が示唆しているように、ことばによる連帯、あるいは、いま・ここにあるみえない連帯をつくりあげること。「電車のアナウンスが詩」になりうるような場を用意すること。それが「ココア」と名付けられているのはおそらく、編集部の含羞なのだろう。

なにもかもが露呈し、さらされ、拡散される二〇一八年、そうした含羞をすべての詩人、あるいはまっとうなものを書こうと日々苦闘するあらゆる書き手が共有しているはずである。わたしたちの困難とは、世の中に「必要とされるもの」の圧倒的な退屈さに耐えること、さらにいえば、必要とされないものを必要としてしまう自らをなんの根拠もなく信じることである――つまり、脳なく、ものを考えずに。

◇ ◇ ◇

最後に、詩人の宇佐美孝二を特集した小詩集からわたしがもっとも好きな詩をひとつ。
わたしたちの人生をなんの意味もない白いことばが満たしてくれる。そういうしゅんかんがあること、それをしずかに思い出させてくれる。

夏の休みに厭きて音楽に手をだすと
水の底から汲み上げられてきたみたいに
音が満ちてきて
いままで聴いてきた音楽だのにまだ満ちてくるものがある

立秋を過ぎていまごろ会社にはまったく人がいないだろう
それどころか
この夏にはあちこちに散り散りになり
つまりは残された最後のひとりが
おれってわけだ

(…)

あかさたな
しはしろい
なんて、
意味もないことを口の中でころがす

逝ってしまったともだち
まだ満ちてあるもの

宇佐美孝二 「あかさたな、と呟けば」
第一、二、四、五連

詩誌『ココア共和国 Vol.20』詩誌情報
季刊 ココア共和国
出版 あきは書館
号数 2016  20号
価格 500

森水陽一郎『九月十九日』

ひとは自分のうまれる国を選ぶことができないが、ふるさとは選ぶことができる。ふるさととは、後天的に見出されるもの、自らの手でえらびとられるものである。

◇ ◇ ◇

さて本日は金曜日。少しずつ風が肌寒さを増し、我が家では娘に一枚厚着をさせた。わたしたちはこうして少しずつ老いてゆくのだ。

本日の詩集は、森水陽一郎の『九月十九日』。著者は一九七六年生まれ。二〇一二年「青い意志」で第三十八回部落解放文学賞詩部門入選。二〇一五年に発行された本書は第一詩集で、第十八回小野十三郎賞を受賞。詩二十九編を百六頁に収める。また、二〇一八年には第二詩集『月影という名の』を上梓したばかりだ。

詩集に入る前に、初期の詩「青い意志」を読んでみよう。

僕たちは城下町を蛇行する
それぞれ別の川のほとりに、生まれ育った
田んぼに神社、寺に公園
ただ一つ異なるのは、君の村に
牛皮にまつわる歴史が生きていたこと
かつては別の名で、皆から呼ばれていたこと

僕たちは高校で出会い、三年間同じクラスで
馬鹿を言いあい、笑いあい、ときに背中を向けた
そして高校生活、最後の冬休み
僕たちはゴム手袋をはめて、頼まれたわけでも
アルバイトでもない、君の村でのドブさらいに
顔をほころばせて、奉仕した

夏に忍ばせた、二十個ばかりの白い小石は
すでに牛皮を染める、鼻につんとくる染料で
空の色に、ほの青く染まっていた

そうして卒業とともに、僕たちは村を離れ
一つ目の青い石を、アパートに庭先に埋めた
異国の旅先で、見知らぬ自分と出会うたびに
ポケットのなかの小石を、減らしていった

「青い意志」第一、二、三、四連
『部落解放』六六五号

とくに眼をひくのは、「僕」と「牛皮にまつわる歴史」がある村に住む「君」の境界線がぼかされ、溶け合う様子をみせる三連、だれが・・・忍ばせたのかわからない二十個ばかりの白い小石がいつの間にか青く染まっているくだりだ。当時の選評を読み返すと、「単純に差別反対という従来のスタイルを超えて、差別反対と向き合う、自分の内と読む人という外に同時に問いかける」(金時鐘、『部落解放』同号)とある。わたしも同じ感想を持ったが、つけくわえるならば、ここにはわかたれているものをわかたれる前の状態へと還元しようとする意志または戦略がうかがえる。それは別のことばでいえば、差別する者がそのまま差別される者と同一であるかのような場のことである。

それでは詩集のほうへ。

私が死への行脚を始めた九月十九日
正岡子規は長年の床ずれから解放され
アルプスの氷河に横たわるアイスマンは
五千三百年の眠りから揺すり起こされた
スヌーピーはご自慢の住処から火を出し
壁にかけたヴァン・ゴッホを失い涙した

(…)

シナプスの電子の網張り巡らされた
百科事典に列挙された九月十九日が
いまこの瞬間にも、三年後にも
はたまた二十億光年後にも
匿名も、無辜の書き手に塗り替えられ
終わりなき絵巻物の白波を打ち広げていく

「九月十九日」第一、三連

巻頭詩でもあり、詩集の題名ともなった詩。一年を三百六十五日に分割し、そのうちのひとつを抜き出し、その日に起きた歴史的出来事を、ウィキペディアからの引用(「電子の網張り巡らされた/百科事典に列挙された」)で重ねる。

ある日付に特定の意味がほんらいあるはずもないが、わたしたちはなんらかの意味をもとめるものだ。それは誕生日であったり、結婚記念日であったり、なにかを喪失した日であったり、あるいはなんらかの大切なものをえた日であったりするからだ。そしてその幾億の物語はそれぞれいっさい重なることなく、あらゆる意味を喪失したまま堆積してゆく。そういう様子が絵巻物の白波になぞらえられる。

ふだん特権的にあつかわれるべきもの――そこには詩も含まれるが――がきわめてなにげない身振りで、その他大勢のひとつとしてあつかわれていることに著者の膂力を感じる。

分けへだてなくやってくる
いたずら心で、へその緒をねじらせる
うつぶせに寝かせて、そっと口ふさぐ
ベランダに置かれたクーラーボックスに
意気揚々とのぼらせ、手すり乗り越えさせる
ボール追いかけ、ブレーキ音に連れ去られる

(…)

たかだか百年と、マントルがほくそ笑み
さりとて五十億年足らずと、銀河の星たちが
こぞってせせら笑い、沈黙に還るとき
宇宙のへりを押し広げる息吹の風が
墓地の片隅で薄桃色の揺りかごを編み上げる

「息吹の風」第一、三連

第一連、胎児から児童までの事故死の原因が列挙される。「青い意志」と「九月十九日」でもみられた、対象を直接的に描写するのではなく、ほんの少し迂回して接近してゆくかたり口が魅力をあたえている。その「ほんの少し」の微細な匙加減が技巧なのだが……くわしくみると、隠された主語はそれぞれ(胎児)、(乳幼児)、(幼児)、(児童)であるだろう。

ひとはだれでも偶然の「分けへだてなくやってくる」死と隣合わせであることを知っている。その摂理は残酷でも無慈悲でもなく、ただそうであるというほかない。それが風、可能性のへりを押し広げ、あたらしい命を呼び寄せる息吹としてえがかれ、そこに墓地で編み上げられる揺りかごがあらわれる。とてもうつくしい連だ。

個を識別する顔はなく
他者とつながる手足なく
涙あふるる瞳なく
行くあてを指す触角もなく

シナプスの網描く脳はなく
痛み走らす中枢神経なく
未来を託す生殖器なく
言の葉持たぬ口はあるが
肛門はないチンウズムシよ

(…)

そして穢された真一文字の
聖痕を首に刻まれた若人たちの声は
時勢の偏西風にかき消され
すでに二十有余年
若狭を見下ろし頑強にうずくまる
知恵の菩薩を名乗る出口なき
不死の金食い虫に、群がる白蟻たちに
無慈悲にかき消され

「チンウズムシ」第一、二、四連

わたしは知らなかったが、珍渦虫(チンウズムシ)というのは実在する虫で、バルト海など一部海域でしかみつからないめずらしい生き物なのだそうだ。第四連にふいに登場する地名「若狭」や「知恵の菩薩」や「不死の金食い虫」が意味するものを考えたとき、この虫がなぞらえられているものがみえてくる。

ふたたびわたしたちは、その他大勢の「個を識別する顔」のない虫けらとなって世界の前に平等に立ちすくむかたりを目撃している。そこでは、反原発(および「反」をかかげるあらゆる煽動的営為)という安易なことばを使うことによってうしなわれるものが示唆されている、とも読める。金時鐘が示唆していたように、向き合う、とは、人間をイデオロギーや主張で二つにわけることができるという決定的かつ重大な誤謬を抜け出すこと、あるいは、自分もまた一匹の顔のない虫けらに過ぎないのではないのか、という勇気ある認識をえることだからだ。

最終連は「出口なき円環の浄化を夢見る/心持たぬ鋼のチンウズムシを/沈黙の揺りかごにひしと抱きかかえ」で締めくくられる。その結論または夢にふかく共感する。

母は近づくなと釘を刺したけれど
僕たちは毎日、橋の下の
青いビニールシートと端材で組み立てられた
ちっぽけな小屋に暮らす白髪の
山羊ひげの老人に会いにいった

表紙がぼろぼろに破けた
しみだらけの聖書をひらき
いくらかしゃがれた、酒やけした声で
得意満面、神の言葉をといた
流木を削り出したお手製の
不戦の勲章を、胸にぶら下げて

(…)

僕たちはうつ伏せに浮かぶ老人を
なかば恐れ、期待しながら
河口まで自転車をこぎ進め
夕日に染まる欄干に、身をもたせかけ
心静かに捧げたのだった
父のポケットから抜いた一本のタバコと
あなたを最後まで縛りつけた、一輪の菊花を。

「橋の下の聖人」第一、二、五連

差別、原発……そして戦争。ふたたび「反」をめぐる詩、そういいたくなる読みの貧しさを避けてゆきたい。山羊ひげの老人は、自らかたるところによればかつて赤紙による徴兵を拒否し、投獄され、いまはホームレスとなって少年たちの好奇心の対象となっている(「若きあなたは、赤紙から逃れ/冬の山野に身をひそめ/山狩りに駆り出された、血気盛んな/首を縦にしかふれない犬たちに/取り囲まれ、とがった竹やりでつかれた」)。ある秋の日、立てつづけの台風に襲われ、老人はペットの猫と行方不明になる。最終連は、少年たちが老人を探しに行くくだりで幕となる。

「なかば恐れ、期待しながら」の一行の残酷さがきわだっている。第三者にとって、「聖人」の死がある種の見世物に過ぎないことを著者はいっさい隠そうとしない。また、老人が拘束されていた「菊の花」は天皇家の紋章であり、日本語そのものであり、本邦の歴史そのものであり、そこから自由になるためには死しかないというどうしようもない滑稽さを、著者は書いた、いや、書いてしまった・・・・・・・、のだと想像する。夕日に染まる欄干に立つ少年たちの、けして書かれることのないその表情――それは、わたしたちが想像しうる、もっとも醜いなにかであることは疑いようがない。

詩はうつくしいもの、醜悪なるものに同時にかたちをあたえることができる。森水の詩集は、そういうことをわたしたちに教えてくれる――ある驚嘆をもって。

◇ ◇ ◇

最後に、本詩集で一番好きな詩を紹介したいが、これは引用なしとしたい。
気になる読者は、ぜひ書店や図書館などで確認してみてほしい。とても好きな詩。

「慈雨の矢」

(2018年9月14日)

森水陽一郎『九月十九日』書籍情報
九月十九日
出版 ふらんす堂
発行 2015年
著者 森水陽一郎(もりみず よういちろう)
価格 2600円+税

梁川梨里『ひつじの箱』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって全面的に加筆修正を加えた

秋深まり、わたしたちは今日もことば少なく——あるいはことば多く——詩集と向き合う。本日の詩集は梁川梨里の『ひつじの箱』。著者は一九六七年生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出。第一詩集に『月を剝く』(私家版)がある。本書は詩の雑誌等へ投稿したものを中心に、百四十頁、二十七編を収める。

◇ ◇ ◇

冒頭に引用が置かれている。

本当に大切なものは目には見えないんだよ
サン=テグジュペリ

サン=テグジュペリの『星の王子さま』の二十一章のやり取りからの引用だが、『星の王子さま』は童話として幅広く読まれている作品であると同時に、謎に満ちた重層的な文芸作品でもあるので、「本当に大切なものは目に見えない」という台詞を字面通りに受け取ることはむずかしい。

また、梁川の詩集の題名である『ひつじの箱』は、同書から着想したことがうかがえるが、その一方で、『星の王子さま』における「羊の箱」とは、羊の絵を画く能力を持たなかった語り手が、それをごまかすために描いた「羊が入っているという設定の箱」であることに注目したい。そこには戦略的にえらびとられた作為としての技巧があり、またはサン=テグジュペリになぞらえていえば「大人は嘘をつく」と主張する大人がいるのではないだろうか。

こうしたことに留意し、読み進めてみよう。

乱視がいいね
やっと、星の仲間入りをした
精確に見え過ぎるがために見過ごした目は
小瓶の中で凝視したまま足を抱えた姿勢で
溝に流されていった

*ふらんしす

一文字多い死の色を白と黒の丸い玉で追う
いかした舶来の名を呼べ
土に還る仕事は蚯蚓に任せた
さよなら、ささくれたさいせい

*      ふらんしす

きみの名をシャボン玉に込めた
無加護に放たれた呼気のごとく
わたしの腐りきった魂いの欠片がちいさく瞬いている
気狂いの着ぐるみを着た きみの瞳に

*         ふらんしす

「らんざつならんし」 第一、二、三連

さまざまな意味がばらばらにされたかたちで配置されているようにみえる巻頭詩。「一文字多い死の色」が「ふらんしす」の「し」だとすると、それは「ふらんす」であり、「腐乱す」であり「孵卵す」でもあり、「し」を抜くことがなくともそれは「腐乱、死す」でもある。

またそれは「し」(私=死=詩)を意図的に除去することによって、「見え過ぎるがために見過ご」すそのことを避ける詩法の姿勢でもあるだろう。「一文字多い」文字がどれなのか明示されないことによって、読みに複雑さをあたえていることにも注目したい。

この詩に限らず、梁川の詩集を通してくりかえされる、ひらかれた漢字=カタカナは、一般的な使い方である抒情性を作品にあたえるためというよりは、多義性と重層性をあたえるために意識的に技巧として活用されている。

おそらく、著者が書こうとするなにか・・・を書くためには、リリシズムだけでは足りなかったのだろう。そこには避けようとしても避けられなかった、いやだれにも避けることのできない悲劇的なるもの、あるいはながされるものたちがあつまる砂辺または砂漠が広がっているように感じる。

この雨の漕ぎ手は誰ですか
ビー玉に閉じこめられた行き先が
捻じれながら振り返った先で
零れ落ちた一滴の話しをしようか

漕ぎ手はいつも、あなた、と呼ばれる人です
規則性はなく、櫂を渡された野原の露を
整理する清掃員も兼ねています
雨粒は少な過ぎたら雨でなくなり
多過ぎたら天地創造になってしまうので、
匙加減が大事です

漕ぎ手は、わたし、です
傘をかさねて持つ手の先から
雨がスタートしてしまうので
何度もやり直すのだけれど
今日も、やはり上手くまとめることが出来ず、
落とした粒を拾いながら
なく、のです
なくす、のです

あなたの拾った雨が
わたしがここでなくしたもので
あなたの喉から始まっていました

「雨を漕ぐ」 第一、二、三、四連

ゆれる雨にながされるイメージがうつくしい。雨は仮象の砂の上に降り注ぎ、読者はくだかれた雨粒――それはガラス玉のかたちをしている――となって、それぞれの風景へばらばらに拡散してゆく。「わたし」と「あなた」がやわらかく重なり合い、詩はその不可能なつながりの可能性にかたちをあたえる。

だがそのなめらかな風景を乱す櫂も詩は準備する。櫂がなければそこに沈んでしまったものをあきらかにすることはできないからだ。傘を持っていたはずの重ねられた手のやさしさを取り戻すこともできない。だが、手に入れることによってふたたび喪失がえられてしまう「落とした粒を拾いながら/なく、のです/なくす、のです」。避けることができないのは、ながしたはずの喪失がふたたび雨となって降り注ぐからである。

蓋をした
せかいは消えた
終わりは わたしの手

ひかりを意識下に置くために
微細な静けさの触手で
消えて、見えて、最後に
蓋をする

手首の内側に 首筋に 皮膚の下から
波打つ点滅に 注視せよ

黒くぽっかり空いた口から吸い込んだ
見えない生き物をまた あまた吸い込んだ
腹で溶け出すまで 食堂は渋滞のまま
整理券を配布している

「黒い瞬きの蓋」 第一、二、三、四連

 

ちいさな声で骨を叩く
皮の下のことは何も知らない
人体模型の構造を知っていますか
「わたし」に例外はある

レントゲンで白く映った影
目でみる世界と反転した体内を
目の玉を裏返して移動できたら
胃カメラなんていらなかった

見た時にだけ差し替えされた
内臓は擬態ですね
見ていない時 そこは空洞ですね

* *

「白い瞬きの蓋」 第一、二、三連

対になっているかのようにみえる詩ふたつ。どちらも内臓、あるいは身体(ことば)の中心につくられたうつほが書かれていることに共通点がある。蓋をすることによって、ことばのなかにある意味は隠される。サン=テグジュペリの羊の箱のように、なかになにが入っているかわからないとき、箱の所有者はちいさな可能性を手にすることになる――が、じつのところ所有者は、ほんとうは・・・・・なにがそこに入っているのか知っており(「胃カメラなんていらな」い)、そこには自分につく嘘が必要とされている。

なぜひとが嘘を必要とするのか、わたしたちはそう問うまでもなく、その理由をよく知っている。あるいは知ることを強いられている。観測していないとき、あの月は存在していないと主張した量子力学学者のように、わたしたちが気づかないとき、傷も痛みもかなしみも存在していない、といいたくなる。だが蓋をして消し去ることができれば、と思う気持ちがある反面、そうしてしまってよいのか、という問いがある。それは蓋をされてながされたものをだれが弔うのか、という問いでもある。

梁川は見ることには錯誤があり、あるいは嘘が内在すると告発する。そのかたりの道程は「ひかりを意識下」に置く困難であり、「目でみる世界と反転した体内を/目の玉を裏返して移動」するかのような不可能な視点をえる困難でもある。それを書くために、あるいは詩を引き受けて生きるために、嘘とほんとうのことがひとつの箱のなかに同時に存在するかのような、意味のこわれたアクロバティックな文体が要請される、と読める。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが一番好きな詩を紹介したいが、二つで悩んだ。「(わたしに降りて来る時/すべてが幻に分類される夜が好きだ)」という魅力あふれる二行を有する詩「夜のからだ」を紹介しようかと思ったのだが、ここは「未認」を紹介し、本稿を締めくくろうと思う。

まだ生きていない港で
もう死んでいない夜が
泳ぎつかのま晴れ上がる
転がされた飴玉が
溶けた居留守をつかう

その名が伝承でしかない
拠りどころの解けたささくれの空が
ぱっかりと口を閉じている

(飴がほしいか)

僅かに濃い菫の花弁まで
閉じた気配のない寡黙な夜を抱き
まぶたをぬう重みの
まるい瑠璃の帳

中はまだ見慣れぬ輝きに満ちた浜で
わたしはまだ見知らぬわたしだった

「未認」 全文

ガラス玉がここでは飴玉に言い換えられている。
わたしたちも、いつの日か、未だ認めることができない「見知らぬわたし」を取り戻せるだろうか――からっぽである箱の中身を信じ、大切にもちはこびながら。

(2018年09月13日 改稿)
(2017年10月13日 初稿)

梁川梨里『ひつじの箱』書籍情報
ひつじの箱
出版 七月堂
発行 2017
著者 梁川梨里(やながわ りり)
価格 1500円+税