長谷川忍『女坂まで』

そういえば
一度とて
肌に触れたことがなかったと気づいた。
不思議だった。
もう長い間親しくさせてもらっているのに
握手ひとつ
交わしたことがないのだ。

今日、あなたから
葉書が届いた。
古い詩集だった。

詩集

本日もやや個人的な話から書き始める。わたしは山の手沿線をそのまま熱帯の海に浮かべたような狭苦しい大都市で育ったが、今年の八月に入ってからの関東の暑さはまるで熱帯か、それ以上に感じられる(なお《千日詩路》編集部は房総半島の隅に位置)。

こうした気候だと幼年時代を思い出すが、熱帯にいた時のことでよくおぼえているのは、そこに昔から住んでいたひとびと、つまりマレー人たちの褐色の肌のうつくしさだ。魅了されていたといってもいい。つややかで、肌理がこまかく、強い雨を水玉のようにはじき、暑さにも強い、そういう肌だ。それは熱帯という過酷きわまりない気候に順応するための肌であり、赤土と森と海と危険な動物相で構成される自然を生き抜くための肉体だったのだろう。

本日の詩集、『女坂まで』は長谷川忍の第三詩集。著者は一九六〇年神奈川県川崎市生まれ、京浜地区の下町で育ったという。「女坂」とは、神社や寺の参道などで、相対する二つの坂のうち、傾斜のゆるやかな方を意味する(傾斜の強い方は「男坂」)。

詩集は九四頁、二十三編を収める。全編を通じて特徴的なのは、読む者の過去の五感の記憶をつよく喚起する文体だが、それがなんによってもたらされているのか、具体的にこれと取り出すことはむずかしい。上の「詩集」という詩を読んで、わたしはマレー人のクラスメイトの背中からうなじ部分にかけての肌のことを思い出したが、それはもう二十年以上前の記憶であり、さらにいえばそのことをいままで完全に忘れていた。いや、喚起されたことによって記憶が創出されたのかもしれない。詩にはそういう力がある。

 

清楚な路上に
蹲っているものがあった。

鳩だった。

蹲っているのではない
死んでいたのだ。

亡骸に触れてみた
それから
慌しく傍らを通り過ぎる
通勤者たちの口元を見つめた。

亡骸を目立たない場所に移し
再び朝の顔のひとつに戻る。

腹の底のほうから
突き上げてくるものを
かろうじて呑み込んだ
久しく忘れていた意志だ
どうしようもない意志
ぼろきれのようなもの。

今夜
ごつごつとした肌に触れた時
鳩の感触が
甦ってきたのだ。

全身を硬直させながら
私の底でじっと蹲っている
塊を引き寄せてみた。

同じように、子供の頃に河口でみた巨大な魚の死骸を思い出す。棒で押すと、水にうかぶそれは丸太のように、ゆっくりと沈んでいった。それは腐ってはいたが、どこかごつごつとしていた。わたしたちの生活にとって不要なもの、いらないもの、おそろしいもの、は、どこか角ばっていて、容易には消えてなくなってはくれない。そしてそうした死骸がわたしのこころのどこかに浮かんでいることを感じる。それは自分が殺したものかもしれないし、他人が殺したけれども自分に責があるものかもしれないし、あるいは自分が見殺しにしたなにかかもしれない。書くことはそれを自らの手元に引き寄せることであり、こころのうちに死を取り込むことでもあるということを思う。長谷川は忘れてはならない、と書いている。それがいかにぼろきれのようなものであろうとも。

 

赤い花がいい
内側からとめどなく零れてくる、抑えきれない、赤
花弁に触れたとたん
赤さだけが
触れた人の内蔵にまで入り込んでくるような。
マッチを擦っている老女にきな臭い懐かしさを憶えた
果実も、雨水も、昆虫も、男も、女も、子供も、空も、川も
体液を塗ったきな臭さがある。

営み

引用した部分の外に、その光景は写真のもので、インドネシアのバリで撮影したものを鑑賞している書き手の姿が示唆されている。だがわたしたちはかつて戦後もの凄い速度で成長したこの国の記憶をも持っている。それは公害で灰色になった大気の記憶であり、きれいに清掃される前の泥まみれの街路の雨のにおいであり、あるいは体液の汚れを隠さなかった子どもたちの記憶でもある。それはもう日本ではほとんど見なくなったものだが、バリ島に重ね合わされる風景は、著者の想像力の源泉がかつてあった路地にあることを示唆しているように感じられる。

「触れる」という詩も、触覚を通じてつよく喚起されるものがある。「汀に/盛りを過ぎてしまった/半夏生の花//ふるえながら/咲いている。//ひっそりとした
つぶつぶの白い花に触れると/忘れかけていた生々しさが/指先の奥から甦ってくる。」なにかを五感を通じて蘇らせることによって、詩がはじまっている。

 

宵の狭間に
カンパニュラが咲いている
濃い花弁を見つめた。
一年経ったのだ。
女坂を下りたところで
身体に溜まっていた
陰を
おもむろに突き放してみた。
昏れていく路地の隅
花の青さが
わずかに残っている。
夏にはまだ早い
春とも違う。
陰は
匂いに被さったまま
こちらをじっと窺っている。

「天神下」

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。詩集の題名の由来でもあるはずだ。
詩集の全体を通して、書き手たる個人の物語が断片的に語られるが、そこにはある一人の喪失が見え隠れする。「一年」はおそらくその喪失より数えた月日なのだろうということを想像するが、それについて第三者がなにかかたるべきではないだろう。

語り手はゆるい傾斜をくだり終えた後に陰を突き放す。そして突き放した陰にみつめられている。陰は花に偽装し、いつか書き手のところにふたたび戻ってくるだろう。女坂までたどり着いた後それを下るにせよ登るにせよ、その背中には陰がぴったりとついてくる。

愛しているのか、愛していないのか。求めているのか、求めていないのか。登るのか、それとも下るのか。その両義的な、曖昧な昼と夜の狭間に花がひっそりと咲いている。うしなわれたあのひとがいる、そしていない光景。その不可能な光景を、想像力によってかくとくする。こころが思わず動く驚きがある。

遅い冬日は
人々と
町をも潤ませる
そんな時
町もひとつの肉体なのだ

暮色

(2018年8月10日)

長谷川忍『女坂まで』書籍情報
女坂まで
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 長谷川忍(はせがわ しのぶ)
価格 2000円+税