北川清仁『冴』

さて、本日は金曜日。《千日詩路》開設から一月が経過した日でもある。ウェブサイト運営編集部としては、ページビューはまだまだ望ましい水準に到達していないと考えており、詩がいかに一般社会から興味を持たれていないかという事実を身体で理解している状況下で、ウェブサイトの存続可能性について悩みがあったりしながらも、じつは正直にいえば、それほど悲観的でもない。適切な場でかたることさえできれば、読者におもしろいものはつたわる・・・・・・・・・・・・・・・からである。

だが本ウェブサイトははっきりいえば認知度が低く、そもそも知られてさえいないようだ。このため編集部としては、読者の皆さんがおもしろいと思った詩集や記事を知人などに広めてくれると嬉しく思う。

◇ ◇ ◇

本日わたしたちが向き合う詩集は北川清仁の『冴』。著者は一九四六年奈良県生まれ、同時期に発売された詩集に『ぼくと冴 : ものがたり詩集』がある。本書は「冴」という人物に関する作品を中心に編まれた詩集。まずはこの冴がだれか、というところに読者の興味もあると思う。作品からは、冴は女性であるらしきことがその言葉遣いからうかがえる。たとえば次のような詩。

ほの暗い
夢の岸辺には
白い花が咲きこぼれています

冴は よくしゃがんで
じっとその花を見ています
夢の中で
花となった冴は
囁きます

わたしは ふるえる花
虹色のかなしみよ

夢の中の
丘の上の塔に
閉じ込められた
冴は
いいます

「夢のなかの冴」 第一、二、三、四、五連

この詩が冒頭におかれ、冴が実在する存在ではないことが暗示される。夢の中にだけ登場する女、記憶の中の女、不可能な塔に住む女……と頭の中でメモを取りながら次の頁をめくると、短い詩「揺れる」があり、「虹色のひなげしの花は/春の死者たちの/通り道にあるらしい」とある。死者たちの国への途上にいる女、と思い直し、読み進める。

ときどき冴は ふいに
この世のあるすべてによそよそしくなる

そんなとき
冴は一種の焦がれのようなものに取りつかれている
冴の内部の何かが
どこかしきりに帰りたがるのだ

そこはいつか 冴とぼくが気づかぬまま車窓を通りすぎていった
風景のようである

あるいは
それは この世でけっしてたどり着けない
冴の 氷のような陽の光のふりそそぐ
ほんとうの故郷の街のようでもある

「映し世」 第一、二、三、四連

ここではより踏み込んで、望郷の思いに冴という名前があたえられていることがうかがえる。それはけして手に入らないもの、あるいはけっしてたどり着けないものに与えられる名だ。喪失の痛みは遠くなり、あきらめにも似たしずかなかなしみが満ちる。

冴が冬の寒さは苦手なのは
生まれたのが八月末ということでもないだろうが
母は冴のせいでさぞかし暑い夏をすごしたことだろう

冴は生まれ育ったのが雪の降らない地方からか
寒さはさておき
雪野を見るのが好きでたまらない
この冬も雪を見に山陰に連れて行かされた
あいにく雨にたたられたが

冴は雨の街を手もちぶさたに歩きながら
思い出したようにいう

消えるより
ただ埋もれてゆくのがいいのね

「雪野」 第一、二、三、四連

より具体的な月と出身地が登場する。だがモデルが実在する/したようには思えない。ぼんやりと女性の姿が浮かび上がってくるが、そこには肉と骨が欠けているように感じられる。雪は降るが、そこにあるはずの体を通り過ぎているような、そんな透明感がある。非なる風景、ということばが頭に浮かぶ。書かれている、あるいは書こうとされているもののはかなさに、どこか見覚えがあるような気がする。

三原峠を超えて久美浜に行った
鬱蒼とした隘路を過ぎると
目の前に湖のような湾が開けた
冴はきゅうにはしゃいでいう
ここにわたしはつぎにうまれてくるのよ
そのときあなたは はるばるここにきて
わたしをみつけだすのよ ひょいと

冴と旅をすると ぼくは
今の冴はいわば幻のようなもので
冴とはほんとうはまだ出会っていないのであって
来世に たとえば旅先のこのような真昼の街で
出会うはずであるかもしれないとふと思うことがある

「久美浜」第一、二連

久美浜というのは市町村合併で十数年前に消失した市の名前だという。 だから冴が「ここにわたしはつぎにうまれてくるのよ」というとき、彼女は存在しない中に生まれてくる、と読める。そして詩は存在しないものを見つけ出すのが仕事だという北川の理路がみえてくる――そしてそれは「出会うはずであるかもしれない」という小さな願いだけをたずさえた、遠く不可能な旅路であるほかない。

わたしは雪の下の埋もれ火
魂の輪唱よ

「声だけ」 全文

(2018年8月31日)

北川清仁『冴』書籍情報

出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018
著者 北川 清仁(きたがわ きよひと)
価格 1400円+税

【番外編】詩誌『侃侃』(2018年-30号)

さて、本日は木曜日。詩の書評をひらかれたインターネットに提示するウェブサイト、《千日詩路》へようこそ。

本日は番外編として詩誌『侃侃』を紹介する。
詩誌とは、一般的なことばでいえば同人誌なのだが、以前「詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在」(#0006) と書いたことを思い出してほしい。そのグループが作っているのが詩誌、と考えるとややわかりやすい。

詩誌『侃侃』は、福岡の出版社、「書肆侃侃房」発行。書肆侃侃房は詩、短歌、小説等を扱う文芸出版社で、インターネット上では、勢いのあるソーシャルメディア向け企画と、数々の歌集の出版社として知っているひとも多いだろう。同社発行の総合文芸誌「たべるのがおそい」からは芥川賞候補を続けて輩出し、しずかな話題ともなった。

詩誌『侃侃』三十号は、詩十九編、論考・エッセイ四本を収め、参加メンバーは九名。なお、本記事が番外編なのは、詩誌は入手が比較的困難で、原則としての「一般流通する詩集を取り上げる」という本サイトポリシーから逸脱するというただそれだけの理由による。

◇ ◇ ◇

本日ポストに届けられた詩誌を読んでみよう。そのうちからふたつほど。
#0007)でも紹介した井上瑞貴の詩から。

愛を高めるためにはがきを買いに出た。
どこを吹く風もずるずるとあたたかい
ぼくが勉強しているあいだ遊んでくれるぼくの分身が
木陰で休んでいる
彼のために木陰があり
木陰のために彼がある

(木陰は木陰のありかたを彼にしめす)

井上瑞貴 「数行のはがきを書いている」第一、二連

「彼のために木陰があり/木陰のために彼がある」、AはBのためにあり、BはAのためにあるという相互補完的な関係が記されている、はずなのだが、二行が循環することでそこにA=Bという背理がかたられているように見え、わけもなく魅力を感じる(たとえば、インターネットにはわかりやすいことばばかりが氾濫しているが、それは完全な嘘――というのが言い過ぎであれば、わかりやすさというのもまた一種の虚構のたぐいではないか)。

愛を高めるために、のあとに見えない一行「愛を低めるために」を想像する。愛は高めることも低めることもできない(はずである)。書き手は勉強しながら遊び、あるいは遊びながら勉強し、じつはそのどちらも行うことができない。木陰のあり方とは、その矛盾そのものを一時的に分身に仮託し、かれを休ませる場所を想像力によって遠望することなのかもしれない。目の前にあるはずの木陰への距離感に惹きつけられる。その木陰、にはおそらく幾千の陰影がちらばっているのだろう。それは断片化されただれかの記憶なのかもしれない。

小さな鼠の骨で花をつくる人がいる。
莫大な時間をかけて花ひらかせていくのだ。
徳重秀樹は「骨花」と書いて「こつばな」と読ませる。
透き通るように白い影。
彼は、写真に収めたあと、土に還すという。
その鼠の薄い骨で作られた骨花を眺める。
心に薄い膜がかかる。

田島安江「骨の花」 第一連

今回の詩誌でとても好きな詩のひとつ。ハムスターなどのげっ歯類を飼ったことがあるひとはわかると思うが、かれらの体はとても小さく、骨は脆く、げっ歯類に限らず小動物は死んだあとに火葬するとほとんどなにも残らない。骨花またはなんらかの祭儀のために亡骸が残されるのは、そこに遺骸を利用しようという意思があるからである。そこにはどこかグロテスクなものがあり、それを見るわたしたちの「心に薄い膜」がかかる。その膜が骨から距離を置くものなのか、それとも骨をつつみ中に取り込むためのものなのか、それは明示されず読者は宙吊りにされる。生も、死も、骨がうつくしい意味も、それを見ている自分の気持ちも、なにひとつわからない。そのことが魅力なのだ。

田舎でも、都心でも、街にも自然にも死があふれている。土は昆虫たちの死骸の堆積であり、砂浜はくだかれた骨の堆積だ。詩はくだかれたことばの埋葬場であると書いてみたい気がする。いや、それは考え過ぎかもしれない。おそらく、これを書いているいまが本邦の八月三十日であり、弔う、ということばについて、考えざるをえないからなのだろう。

◇ ◇ ◇

最後に、装丁について。紙の厚さや寸法など複数の要素によると思うが、『侃侃』は詩誌として物理的に持ちやすく、頁をめくりやすく、リーダビリティが高い。あまり注目されない点だと思うが、毎回わりと驚いているので書き残しておきたい。

(2018年8月30日)

詩誌『侃侃』詩誌情報
詩誌 侃侃
出版 書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)
号数 2018年 30号
価格 300円

松井ひろか『デラ・ロッビア・ブルーの屋根』

《書く》ことはひとりでやるしかない。だが《読む》ことはひらかれている。ひとりぼっちの場所に立ちかえるまえ、わたしたちにはともに読むことがゆるされる。

◇ ◇ ◇

本書は松井ひろかの第二詩集。著者は一九八三年生まれ、埼玉県川口市出身。第一詩集は『若い戦果』(二〇一二年)で、五年ぶりの詩集ということになる。本詩集にてH氏賞候補。なお本書はわたしが二〇一八年のとある詩のイベントにて購入したもので、署名が入っている。

詩集題名ともなった詩から。

冬の晴れ間 父とふたりで
錆が浮いたトタン屋根に裸足で登ると
ざらつく足裏に太陽の温かさが伝達した
父が金ブラシ わたしは紙やすりで
トタンの錆や汚れを削り取り 表面を滑らかにし
いよいよペンキを塗る 色は
空よりも 海よりも 澄んだ青色
デラ・ロッビア・ブルー
——『欲望という名の電車』で心病む主人公ブランチが
病院へ連れて行かれる直前に身にまとったドレスの色——
わたしはローラーにその色をたっぷりつけて屋根の広い面を塗り
父は刷毛で細かい部分を塗った
仰ぐ空よりも
漂う海よりも
哀しみと 清々しさを湛えたその色を
塗れば 塗るほど
わたしたちの心までも彩られていった

「デラ・ロッビア・ブルーの屋根」 第一連

作中に登場する『欲望という名の電車』は、一九四七年制作、米国のテネシー・ウィリアムズの戯曲だが、二〇年ぐらい前に読んでほとんど内容を忘れていたので、そのくだりを再読してみる。

具体的に書けばそれは没落貴族の出身の主人公ブランチが妹の夫である野卑な労働者スタンリーに暴行され、そのショックで精神病院に連れていかれる前のシーンで、デラ・ロッビア・ブルーはブランチ自身のことばを借りれば「聖母マリア画で用いられていたローブの色」を指し、そこにはマリアの処女性を外見だけでも身にまとおうとする彼女のこころの動きがある……のだが、上の詩からは、『欲望という名の電車』の重苦しい主題に関連する要素をほとんど読み取ることができない。

他の詩作品にも固有名詞が頻出する。具体的にはイマニュエル・カント、ジャンヌ・サマリー、マリーナ・ツヴェターエワ、トラウデル・ユンゲ、ウニカ・チュルン、などなど。詩連の最後に解説として人物紹介が付されている。たとえば次のように。

むねの開いたドレス
ゆめみがちな青い瞳
みずみずしい肌の艶
珊瑚色のリップとチークを付けたあなたの微笑みの背後は
あかるい花色の世界
ジャンヌ・サマリーさん
あなたのすべてが若さに満ち満ちてわたしを打ちのめします
三月のモスクワ まつげに積もる小雪をはらいながら
あなたの微笑みに初めて出会ったとき
わたしたちは二十歳でしたね

※ジャンヌ・サマリー(Jeanne Samary 1857〜1890)はフランスの女優。脇役ばかりで大きな成功は収められなかった。

「夢想――ジャンヌ・サマリーの微笑み」 前半、注釈は部分

昨日、シルヴィア・プラスの人生を受け止めた詩人の本を読んだわたしたちは、松井の書き方はあまりにも当事者性に欠けるのではないか、と批判することもできるかと思う。詩に借用される固有名詞は、たまたま目についただれでも・・・・いいのではないか。

一方、これは固有名詞を詩作品に借用しながらも、それらに紐づいている固有の重苦しい物語から、詩を意図的に遠ざけようとする戦略ではないかとも読める。

つまり遠いこと、当事者性を喪失していること、デタッチメントそのものとなって無関係性を生きるほかないこと、そうした生存の距離感そのものが、詩のかたちで、それもおそらく著者の世代に特有の抜き差しならぬパースペクティブとして提示されているように見える。そう解釈したとき、おもしろさが出てくる。

ただわたし個人の好みとしては、私小説的なものが好きだ。
たとえばこの詩集で一番好きな詩をあげる。

古典的な劇薬をいつもより少し多めに飲んで
もう覚めることはないと思ったのに
眼が覚めたら
母がわたしの顔を見て哭いていた
十七歳
死にたいと
生きたいとが
同義語だった季節
母が言った
――あんたの人生はこれから
だんだんよくなるほっけのたいこだよ
わたしはその言葉の意味が良くわからなかったけれど
わたしのひろいおでこは清涼感を覚えた
外ではハイビスカスの花が雨粒の重さに耐えかねていた

「鎮める六月」第一連

実際に起きたことであるかどうかとはなんの関係もなく、読者であるわたしたちにも、自殺を試みた娘に母がかたりかける「だんだんよくなるほっけのたいこ」ということば、それが雨の中で輝いてみえる。意味はわからないが、わからないことそのものが必要とされていて、それが書けるのはやはり詩なのだということを思う。

また、屋根の上で父とペンキを塗る冒頭の詩もきわめて印象に残った。《千日詩路》では、現代を「孤立と断絶の時代」と仮に呼んでいるが、松井もまたそのデタッチメントの中で手法を模索しつつ格闘する書き手なのかもしれない。

(2018年8月29日)

松井ひろか『デラ・ロッビア・ブルーの屋根』書籍情報
デラ・ロッビア・ブルーの屋根
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017年
著者 松井ひろか
価格 1200円+税

颯木あやこ『七番目の鉱石』

さて本日は火曜日。平成を代表する漫画家が昨日亡くなり、わたしたちはいよいよ平成の終わりを身近に感じつつある。昭和と比較すれば、まるでなかった・・・・かのように扱われてきた平成という時代が、その消失によってついにその存在をえる――そういう光景と、わたしたちは向き合っているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

本日の詩集、『七番目の鉱石』は、颯木あやこの第三詩集。これより前に『やさしい窓口』(二〇〇九年)と『うす青い器は傾く』(二〇一二年)の詩集がある。著者は旧西ドイツベルリン生まれ、本詩集で第二十六回日本詩人クラブ新人賞受賞。詩集は三部構成、本文九十三頁に二十九編を収める。なお本書はとある共通の知人を経て著者より頂いた。

詩集の終盤に、とある固有名詞が冠された詩がぽつりと置かれている。

明日の起点は いつも白い斜塔だ

蚊柱を四つくぐり抜けると
斜塔は見えてくる
高窓から銀の糸が垂れていて
夕風に運ばれてくる失神した魚を
釣り上げる

窓の内では 部屋の中心に
オーブンが黒い顎を開いて
意識に最後の一撃を食らわそうと
燃えている

斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい
細長く伸びた影は 冬の橋のように
わたしを何処かへと導く

「しるべ――シルヴィア・プラスに」 第一、二、三、四連。

シルヴィア・プラスは一九五〇年代に活躍したアメリカの詩人、自伝的要素を強く含んだ詩作で知られ、自らの精神疾患、失敗した結婚生活、親との確執などを作品の形に昇華させた、いわゆる告白詩の書き手として知られる。三〇歳にオーブンを用いてガス自殺。

現在では双極性障害と呼ばれる疾患に苦しめられていたらしく、一九五八年の彼女の日記では、自分の気持ちについて「ほとんど激情的とも思える絶望に溺れてしまって、窒息してしまいそう。強くて大きな梟が胸の上にとまって、そのタロンで私の心臓を握りつぶそうとしているみたい」と綴っている。

颯木の詩においてプラスが「しるべ」と名付けられていること、プラスが自死した斜塔が「明日の起点」とえがかれていること、そして「心臓を握り潰そうとする爪」のことを思い出しつつ、これらに留意して読み進めてみる。

だがまずは個人的な趣味について語ろう。わたしは次のような詩がとても好きだ。短いので書き写してみる。

夜に 卵ひとつ
ずれる
ゆっくり
テーブルの上で

つややかなまるみは
初夏の少年のひたい
水滴に打たれる

螺旋を降りて
いっそう透きとおった
水を受ける

でも 卵は
ずれていってしまう

〈もっとも愛される位置とは何処か〉

螺旋は 脆くなったわたしの背骨

水は
背骨を 損ないながら
注がれつづけ

「さよ」

少年は少女でもあり、まだわかたれていない魂でもある。男女それぞれの性がまだ確定していない存在、あるいは生きているのか、死んでいるのかわからない量子力学的な卵を想像する。それがテーブルの上をひっそりとずれてゆく。卵は割れてしまうのか、否か。そこに水滴が落ちてきて、一度は額にうけられ、なんらかの幸福な出会いが示唆されるが、いつしか水は背骨を損なうものとなってゆく。

「もっとも愛される位置」はそこねられ、そのそこねられたものに「さよ」という名があたえられている。夜のテーブルでずれていってしまうもの、それは愛であり、祝福であり、意味であり、ことばそのものなのだと感じられる。そのずれが起こるまさにその現場を目撃する驚きがある。

刺し傷の穴から
古いことばの連なりが 呻きながら
わたしに臍の緒のように巻きつく

腕は それでも 土の匂いがしない
わたしの肌に爪を立てれば
すぐに地層があらわになるのに

「はるかな実験室」第二、三連

プラスが自死したオーブンは黒い口腔としてえがかれていた。体にははじめから空いている孔と、自らあける孔があり、後者はふつう傷とよばれる。口腔からは通常のことばが産出されるが、詩を生み出すのは「刺し傷の穴」である。傷こそが世界へ接近するための方法であり、その傷穴からことばが溢れだすという読みがみえる。

創るという漢字から連想されるのが創傷であることを想起しつつ、もっとも身近なもので傷をつけることができるものが爪であることも思い出される。やわらかいやさしさやいとしさに埋没してしまい忘れられがちなほんとうのことばを引きずりだすために爪が必要とされている。それはプラスが書いた猛禽の爪タロンに似た、鋭くとがる感覚の爪なのだろう。

肌の下に隠された地層は血の層を連想させ、そこにはことばによってつくられている肉体があることが感じられる。わたしたちの身体の部位にはそれぞれに固有の記憶があり、それぞれの痛みや傷の記憶がことばとして埋め込まれている。それをひとつひとつ喚起するためには、ただの肉のかたまりである指では足りない。切り、裂き、刻むためには、鉱物のようなかたさのなにかがなければならない。

本詩集でわたしがもっとも好きで、かついちばん読み返したのが次の詩「花結び」だ。娘と母の独白が作品内にて重ね合わされる。

やわらかな肌が大好き 小鳥も好き
でも抱きしめれば 爪が喰いこんで止まらない

娘「お母さん あなたのやさしい指先は尖っている
昔からそうだった
だからわたしも突きとおしてばかりです
父の寡黙さを受け継いだ分 ますます残酷に

体じゅうから生えでている鉄の爪を
未明に
抜いても抜いても
創口からどす黒い夜が噴きだして
すぐに一日を終わらせてしまう

「花結び」第一、二連、三連部分

爪の魔力というもの。乳幼児は、体にうまれる最初の武器である爪(その後は歯が追加される)を用いて、様々な暴力をふるうことをまずはおぼえる。紙を切り、裂き、あるいは親の肌に赤くうすい傷をのこして遊ぶようになる。その暴力の愉しさがいつしか罪悪感に変わるのは、爪は鋭く、それが傷つけてしまったものが、たいていの場合は二度と修復できないものであること、そして傷によって痛みを感じることをやがて知るからだ。作品冒頭ではそうした爪の魔力、それを使いたくなる誘惑がまずそこにあることがかたられる。「でも抱きしめれば/爪が喰いこんで止まらない」

娘と母
「私たちは爪の種族
やわらかな肌を突き破って生えてくるもので
互いの眼球を 耳たぶを
古い乳房と萌えでたばかりの乳房を穿ちあう

「花結び」 第十連

母から娘に受け継がれる爪は、言語化された人間の弱さの継承を思わせると同時に、わたしたちがよく知る社会、つまり家庭内の暴力は一度も絶えることなく、親が子を殴り、子は親となり、その親がふたたび子を殴るという宿命的な連鎖の光景を想起させる。だがその暴力から自由になろうとしても、それはすぐに自生する爪によってさまたげられてしまう「体じゅうから生え出ている鉄の爪を/未明に/抜いても抜いても」。そして「創口」は創る口でもある。

ふたり揃いの髪飾り 花結びの古い緒も
けっして切れないではありませんか
でも強く抱き合うほどに
私とあなたの間に宿る
うららかに啼く鳥が 死んでゆくのをどうしましょう」

「花結び」 第九連

花としての宿命を負わされた存在がお互いを抱擁した瞬間、爪と傷もまた同時に受け継がれてしまうということがはっきりと認識される。美しいとは残酷なこと、という気づきがあり、本詩集でもっともつよく惹きつけられた連。

◇ ◇ ◇

最後に、詩集名について少し。国会図書館データベースによれば、本詩集は正式な題名は副題に英訳である “seventh ore” を付すそうだ。”ore” は、鉱物を抽出することができる岩または土層を指すことばで、鉱”石”よりは少し幅広い意味を感じる。やわらかい土(肉)に散らばり、埋め込まれたなにかを、爪をもった道具でひとつひとつ掘りおこしてゆく。題名からはそういう所作を想像する。

爪は両刃の剣でもあり自分のみならず自分にもっとも近いもの――しばしば、愛するものたち――を傷つけるものであることをわたしたちは知っている。というよりも、知らざるをえない。詩を書く果てになにがあるのかと自問したとき、そこにはたとえばプラスのいる白い斜塔がしずかに立っていて、「斜塔の外壁のタイルは穏やかに冷たい/細長く伸びた影は/冬の橋のように/わたしを何処かへと導く」。だがそのたどりつけない何処かの果てへのしるべが光を放っているという明日、それをわたしも信じたい気がしている。

(2018年8月28日)

颯木あやこ『七番目の鉱石』書籍情報
七番目の鉱石
出版 思潮社
発行 2015年
著者 颯木あやこ(さつき あやこ)
価格 2200円+税

花潜幸『初めの頃であれば』

なぜいま詩を《読む》のか。孤立と断絶の時代を越える不可能な解に必要なものとはなにか。こうした疑問にこたえる前に、ひとつはっきりしていることがある。それは連帯アソシエーションをつくることではなにもなしえないということだ。よって《千日詩路》は、過去に会ったこともなく、未来に会うこともなく、まるで理解しあうことができないそれぞれの孤立と断絶の彼方にいる読者を、その遠さゆえに・・・信じる。

◇ ◇ ◇

さて一週間のはじまり、月曜日だ。関東はすっかり秋の雰囲気だが、まだずいぶんと暑さが残っている。

本日、わたしたちがめぐり会う詩集は花潜幸の『初めの頃であれば』(二〇一五年発行)。著者は一九五〇年東京生まれ、本詩集に収められた詩「初めの頃であれば」で第二十三回『詩と思想』新人賞を受賞。他詩集に『薔薇の記憶』(二〇一一年)、『雛の帝国』(二〇一三年)があり、本書は第三詩集にあたる。百頁に三十七編を収める。

幼くして亡くした母のことを何も覚えていない。ただ、母が教えたというこの歌を唄いながら眠ると、ぼくは夢の階で母を感じることができる。

父は母のことを語らなかった。母を忘れさせるため、自分も言葉を忘れたのだろう。

だから母はいつも蜜柑の形をしている。

「みかんの花咲く丘」第一、二、三連
※題名には「」があらかじめ付されている

「みかんの花咲く丘」は一九四六年、敗戦後まもない日本でつくられた歌謡曲。この詩でいちばん印象に残るのは、第四連にあらわれる一文字分の空白だ。それは「父」と「母」という単語たちに挟まれてさりげなく(まるで誤植のように)配置されている。その空白から詩があふれてくるように感じられる。ことばが逆流する磁場の中心にあるのは欠損で、その私的/詩的な核心をあらわす空白の一文字の存在を明らかにするために、文字をまわりに敷き詰めて埋めてゆく戦略が取られたのではないかと想像する。そこにあるのは喪失こそがえるための方法であるという逆説だ。

名前を呼ぶのであれば、明日のものにしなさい
とあなたは言ったけど

母が消えた後のこと、石にも火をつけようと、犬形の庭の灯籠を割った。中には黄桃の灯が隠されていて、私の肉に包まれた希望や感情を照らしていた。冬の雪は柔らかく、夏には冷たいあられが降っていたけど、私の履いた靴の踵は、小さく地の声を聴いていた。

「母が消えた後のこと」第一、二連

著者の選び取った方法がもう少し明らかになる。母と名付けられたなにか・・・を失った作品内の書き手が見いだした「あなた」は、「明日のもの」である名前を呼ぶことにしなさいと説くが、それはいまだ存在していないものの名前をもって、いまここにあるものを知るべきだということを意味するはずだ。それは思い出すためには不可能な跳躍をしなければならない、と解釈される。その跳躍とは、石に火をつけようとすること、あるいは石灯籠をたたき壊してなかにかくされた黄桃を見つけることだと書き手はかたっている。優しくゆがめられた現実のずれに詩があらわれる。

樺太から戻る五月の船に、魚は銅のように重く、月のように輝いていた。初めの頃であれば、宇宙の背中にも手を伸ばし、春の海を渡る風と話をし、浜で生きることを夢見ることもできたのだ、とあなたは語った。
そう初めの頃であれば、私もまだ母の手を握り、角々で出会う不思議な妖精や、花の声のことをあなたに話して、竹かごの作り方をぎこちなく笑って語ることもできたのだろう。

「初めの頃であれば」第一、二連

戦地から帰還した父の物語に基づき書き手が想像力の源泉をかたる。それは「初めの頃」と記され、ここではない代替的世界がさまざまなかたちで同時に存在していた可能性にみちた場だ。いまこの場にいる「わたし」と、かつてあらゆる道を選択することができた「わたし」の間を架橋することでもあり、その絶望的なまでに遠い距離をあらためて知ることでもある。それは不可能な旅であるからこそ痛切であり、わたしたちはみなこのような「初めの頃」をもっている。

第三連以降、より具体的な戦地の描写がつづき、わたしたちはふたたび社会派にかたよる読みへの誘惑にかられる。だがわたしたちは、昨今のソーシャルメディアに満ちあふれる、なんらかの企図に基づいたひとを操作マニピュレートする扇動的な《読み》から離れる加速度をたもたねばならない。

たとえば、うまれなかった胎児はあらゆる可能性をもっている。うまれなかったことば、伝えられなかったことばもまたあらゆる可能性をもっている。だが現実はひとつしかなく失われたものはえいえんに失われたままである。その現実以前の場へとたちかえる不可能な道をつくるのが詩の仕事だということを思い出させる。

次のような詩も印象に残る。

朝になると寝台を畳んで、熱いお茶を飲みながら湯気の行き先を確かめます。くもった窓を掌でこすると写し絵のように雪の風景が出て来る。紅いシグナルと青いランプが、交互に瞬いて、ゴトゴトという列車の走る音を引き立てます。いったい何処へ、と聞かれれば、今は忘れた国へと応えるしかありません。

「冬の家族」第一連

目的地はこたえられない。すでに名前すら忘れた国というしかない。そこに重ねられているのはたとえば戦後日本が失った(そしてすみやかに忘れた)満州、朝鮮、台湾など、名前と歴史を損ねられた国たちなのだろうと思う。第二連には姿の見えない父母がえがかれ、書き手は家族でどこかに向かっていること、そして行き先と帰る先もわからないことが示唆される。それは仮象の雪原を螺旋をえがいてのぼる魂たちがつくる列車の姿を想像させる。

雪降るホームの待合室。頬を濡らした幼児が蜜柑をつまみ口に入れる。小さな、とても小さな笑い顔。お婆さんは、しわになった広告を伸ばして、ほら、これを買ってあげようと玩具の象を指差している。戸口の近くに立つ男は、硝子に映した髭を触って独り言「何処まで行ったことか」と。向こうのホームに、青い駅員の影が二つ、カンテラを差し出して消えた線路の淵を確かめている。春の観光ポスターの下に、茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした婦人と、白い手袋の女の子。開いた掌に約束はもう何もない。

「待つひとたち」第一連

一行、他とことなる文がある。「茶色い鞄が一つ、深く息を整えて。右手に、編み物を手にした夫人——」そこで深く息を整えているのはだれ・・なのかという疑問が湧く。そしてそのあとに「右手」とある。編み物は両手でしか行うことができないから、その右手は婦人のものではない。すると自然にそこには息をなんらかの理由で深く整えなければならなかっただれかがおり、その右手に婦人がいる、と読める。

それは忘れられた記憶の待合室にふと立ち寄った書き手の姿なのかもしれない。その書き手は春がけして来ないこと、自分が遅れて(かつそれを死者たちに隠すために息を深く整えて)そこに到着してしまったこと、そしてかれらがそこでえいえんに待ち続けることになることを知っている。その場所に到達したかったが到達しえなかったこと、その透明な喪失感をわたしたちは共有する。書き手のことを個人的に知らなくとも、詩はその欠損のかたちを教えてくれる。

詩はわたしたちが忘れたかったが、けして忘れられなかった欠損としての愛、その記憶の空虚を、時も場所も越えてどこかでつないでしまう。わたしが本詩集でもっとも好きな詩である。

何時までも待っている人たち、
春を待つひとたち、
永遠と名付けられた人たち

「待つひとたち」最終連

(2018年8月27日)

花潜幸『初めの頃であれば』書籍情報
初めの頃であれば
出版 土曜美術社出版販売
発行 2015
著者 花潜幸(はなむぐり ゆき)
価格 2000円+税

青山晴江『ろうそくの方程式』

思いだせないものを思いだす・・・・・・・・・・・・・。だが、生きようとすることが生きることをさまたげるように、記録をこころみることそのものが、ほんとうにあったことの記録をさまたげてしまう。さまたげる不可能なものを超えて、わたしたちはどう読み、どう生きることができるのか。

◇ ◇ ◇

本日は金曜日、残暑から夏の終わりをあらわす一週間が終わった。夏はゆるやかに終わりを迎え、わたしは職務を終えて、ベランダを掃除し、自分の手を洗うついでに子供の手と顔を洗い、再び机に戻ってきて、青山晴江の『ろうそくの方程式』を再読している。本自体は、以前某誌より書評を頼まれた時に頂いたもので、二〇一六年発行。著者は一九五二年東京生まれ、本書は第二詩集にあたり、百ページに二十九編を収める。

昨日わたしは「社会派にかたよる読みは作品のおもしろさを損ねる」と書いた。青山の詩を紹介する前に、ひとつ別の詩作品を紹介したい。北原白秋が、日本がシンガポールを攻略した時に書いたことで知られる「マレー攻略戦」である。

かねて期したる突撃に
ブキテマ高知陥せよと
猛攻、死闘、必中弾
あがる凱歌もただ涙

怒涛のごとき我が軍の
進撃を見よ 電撃を

太きアジヤの國生みや
民十億の朝ぼらけ
我が 天皇のしろしめし
いよよ榮ある昭南島

怒濤のごとき我が軍の
進撃を見よ 電撃を

北原白秋『マレー攻略戦』 後半 部分
一九四二年

「昭南島」とは、南の光の島、を意味し、英国領シンガポールを占領した日本が一時的につけた名前だ。また、ブキテマ高地とは、いまブキティマ・ヒルと呼ばれている、かつて激戦地であったシンガポールにある丘の名前である。

ここでは詩がやすやすと国策に積極的・・・に、自ら参画してゆく様子がうかがえる。この詩と軍歌の存在を知った時から考えていたこと、それはわたしは・・・・、北原がいたような時代において、はたして世の中の趨勢に抗うことができるのか、ということだった。

たとえば娘や家族を必死に養っている大人たる詩人が、圧倒的な世論を背景にした扇動的な原稿を書いてほしいと、適切な対価を伴う案件として、政権与党から依頼されたらどうするのか。いま、この時代に依頼されたらどうするのか、という問いがある。わたしはそれを断ることができるのか。

「社会派」の詩、なるものがあるとすれば、その問いに答えること、また断るにせよ、受諾するにせよ、その答はいかなる理路に基づくものなのか、世間の泥にまみれつつ、真正面からこれを考える時にのみ存在がゆるされるものであるように感じる。

前置きが長くなった。なぜこういうことを書いたかというと、青山の詩集は3・11発生の前後を巡り、反原発という主題に加え、新宿西口反戦意思表示スタンディングなど著者自身の社会活動とも密接な関係があることが、詩本体とあとがきから読み取れるからである。

好きな詩から読んでゆこう。「消えても」

そんなもの
すぐに 消えるよ
淡雪よりはかなく

そんなもの
すぐに 忘れられる
閉じられた
ノートのように

ノートの余白に
書き込まれなかった
夥しい事実を
まだ
探さなくてはならないのです

「消えても」 第一、二、三連

「ノートの余白に/書き込まれなかった/夥しい事実」が、福島第一原発事故に対する国の不誠実な対応と、その後に続く早急な再稼働が続く現実への批判と読みたい誘惑にかられる。一方、ノートの余白に書き込まれないことによってその欠如が明らかになる、人生におけるよくある出来事について思う。消しゴムで強く消し去ったある文字列の残した空白が、逆に目立ってしまっているノートのように。もちろんそれも「そんなもの/すぐに 消えるよ」と、最初から消失することが宿命づけられているのだが。

休日を寛ぐ若い人たち
むかしの自分を重ねれば
遠い日が蘇って――

あのころ
小さな子らと野に遊び
草の上に弁当を広げ楽しんだ日々

その安穏さの向こう側 見えなかった 見なかった 「明るい未来のエネルギー」を謳う原発の危うさ 沖縄に押し付けたままの米軍基地 そこからベトナムに運ばれた枯葉剤 イラクに投下された劣化ウラン弾 どれほどの子どもたちが無残な犠牲を強いられたのか その劣化ウランはどこの原発で作られたのか――

「風吹く春に」 第一、二、三、四連

思い出せなかった空白以外にも、気が付かなかったという空白がある。わたしたちの生活はだれかの犠牲の上にしか成り立たない、というひとつの読みがある。それを直視した時、その空白に亀裂が走り、血が流れ、ことばが生まれる。わたしたちはだれかを踏みつけにすることなしに生きられないのかという問いに、そうなのかもしれない、と答える自分がいる。ことばにすればあまりに単純なことだが、その現実はどこか遠くにあるようにも感じられる。なにもかもが暴露されているソーシャルメディア全盛の時代は、逆になにもかもを他人事にしたのだということを思う。読むくるしさのある詩連がつづく。

街へ向かう
朝の電車
人いきれで
窓は白く曇っています
誰も何も言いません

ぼんやりとしかみえない
見えない視界
派手な広告が張り巡らされた
閉じられた空間で
ただじっと
うな垂れて
運ばれるのを
待っています

淋しい
淋しい国の朝です

「朝の電車で」第二、三、四連

わたしたちにとって馴染みのある空間が広がっている。詩人の想像力によってわたしたちがいつかどこかでみた光景が喚起される。それは閉塞的なソーシャルメディアであり、あるいは勤務先、学校、家庭の「誰も何も言」わない空気でもある。だれしもが口をつぐむ中、「うな垂れて/運ばれるのを/待ってい」るのはだれなのか。こうした連を読むとこころのどこかに傷ができる。そしてその穴から、普段わたしたち自らが自分自身に対して隠していること、「見なかった」ふりをしていることばが溢れだす。そのとき、《ほんとうのこと》が詩によって可視化される。

なぜひとは沈黙を強いられ、システムに隷属してしまうのか。端的にいえばそれは各個人が弱く、ひとりでは生きられないからである。だれも「淋しい国の朝」をこえられない。そしてこえられないつらさを、わたしたちは詩によって、つながることなく共有する。

最後に、わたしがもっとも好きな詩を紹介する。

それは
一本のろうそくの絵なのだけれど
昔、高島野十郎という画家がいて
年老いて荒野の小屋にひとり閉じこもり
昼もよるも書き続けた
何枚も何枚もの一本のろうそく
力強いその絵を見ていると
すさまじい熱い風が吹いてくる

燃え残りなど気にしなくていい
今 炎をゆらして燃えている
そのことが
闇をどんなに照らしているか――

「ろうそくの方程式」 第二、三連

詩集の題名ともなった詩。
ここまでともに詩集を読んできたわたしたちは、これが単に芸術を称揚する作品ではないことを知っている。だれも「淋しい国の朝」を超えられず、社会の潮流に対して人間は無力であり、わたしたちは果てしなく無知で、知るべきことを知ることはつねに遅れる。だからその画家も「小屋にひとり閉じこもる」しかなかったのである。

だが、あらゆるコミュニケーションを諦めた画家がひとりぼっちで描いた絵こそ、孤立と断絶をこえて燃え上がる、そのことを青山は示した。そのつたわることのなかった熱だけが無限の距離を超えた個人の魂に火をつける。それが社会をも変えうる熱になるか、それはだれにもわからない。だれが勝つのか、だれにもわからない。

わたしたちにできることは選択すること、間違えることの可能性をも引き受けること。読むということは、その不可能なるわたしたちの人生をえることなのだ。

(2018年8月24日)

青山晴江『ろうそくの方程式』書籍情報
ろうそくの方程式
出版 土曜美術社出版販売
発行 2016
著者 青山晴江(あおやま はるえ)
価格 2000円+税

黒崎立体『tempo giusto』

かつて、インターネットにはたくさんのほんとうのかなしみがあった。いつしかそれらはすべて扇情的な《わたし》の物語にとってかわられ、どこかのだれかのほんとうの話はどこにも見つけられなくなった。いまそこにころがっているのは、《見られること》を欲するだけの、さもしい身振りを身に付けたこころたちだけである。

それでは読まれないまま読まれうるもの・・・・・・・・・・・・とはどのようなものか。
詩はその答をしめすだろうか。

◇ ◇ ◇

さて本日、わたしたちは再び詩集と向き合っている。

著者の黒崎立体は一九八四年生まれ、『詩と思想』二〇一三年度「現代詩の新鋭」選出。本第一詩集は八十八頁、二十三編を収め、モノクロ写真を数葉挿し絵として含む。tempo giustoは「正しい速度」(=in exact/just time)を意味する音楽用語で、著者はこれを「心拍の速度」だという。

ひとりじゃないんよ、と言われて
かえり道おなかをさすってた
おろせと言われても聞き入れなかった
そうしてうまれてきたんが
わたしのおにいちゃんです

予定日を過ぎてやっとはじまった陣痛
あんまり痛くって
かんごふさんに水さしを投げつけた
そうしてうまれてきたんが
わたし です

おんなのひとは赤ちゃんをうむと
頭のねじがにほんぐらい ふっとぶ
それでちょうどよくおかあさんになれる

破けてしまったおかあちゃんを
おとうちゃんが病院へ連れていった夜
おにいちゃんの布団にもぐって
かみつぶしていた時間にうまれていたんが
わたしの おとうと

「ねじ」第一、二、三、四連

今回は、本詩集で一番好きな詩「ねじ」から紹介する。
第一連、第二連でそれぞれ「おにいちゃん」と「わたし」、そして一連あけて「おとうと」がうまれる。第四連は第三連をはさみ、いくばくかの時間が過ぎたこと、あるいは場面や状況が切り替わったことを示唆し、登場人物(のようにみえるなにか)と出来事が圧縮されたかたちで同時にあらわれている。「破れてしまったおかあちゃん/おとうちゃん/病院へ連れていった/夜/おにいちゃんの布団/もぐって/かみつぶしていた時間/うまれていた/わたし/の/おとうと」

小説であれば不可能なことが詩では容易に実現される自由さがそこにある。第一連にさかのぼって、不可能なわたし=母=女性(あるいはおとうちゃん=おにいちゃん=おとうと)が成立してしまう詩行から読み直すと、こわれることを強いられるものたちと、命が恣意的に選別される場に生きさせられる姿がみえてくる。いうまでもなくそれは二〇一八年、わたしたちがよく知っている社会のことである。その背景には「生産性」といった基準で人間を分類しようとする扇動的な声ばかりが増幅される、フェイクニュースの時代の空気が存在している。

おかあちゃんが病気でたおれて
子宮を取ったと聞いた時
わたしはとてもほっとした
もう、なんにもうまれてこない

おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね

「ねじ」第六、七連

だがあまりにも社会派にかたよる読みは作品のおもしろさを損ねてしまう(だけではなく、ソーシャルメディアの退屈な空気の生成に図らずも加担してしまう)。わたしはただじゅんすいに、「あとはもう死ぬだけだね」とつぶやいてみたいと思う。だれかのために、あるいは社会などというもののために、なにひとつうむ・・ことなく、あるいは、なにひとつ書く・・ことなどなく。

次のような詩もとても好きだ。

時々、
母を殴る夢を見る

相変わらずだらしない
部屋着のえりぐりをつかむ
素肌があらわれると
それは、わたしのような鎖骨だった

(…)

夢の中でさえ
ろくに、母を損なうことができずに
わたしは
あなたからうまれてきたのだと
刺される

「母を殴る」第一、二、五連

最終連に、わたし=母ではなく、むしろ母がわたしからうまれる背理の夢があらわれる。だがありえないことがそのまま現出し、さらにそれが読者の人生のなにかと触れあってしまう(ことがある)ところに詩の強みがあり、おもしろさがあると感じる。現実とはじつはこころの解釈の上にしか存在しない仮象の認識にすぎないのではないか。だから夢をとおしてかたられる背理がリアリティをもってつよく迫ってくる。

人はどうして
くだけていくときがいちばん
やさしいのか、
きみは骨を隠すように 同じ言葉を何度もつかう
わたしは、きみを呼んでいる
何度も呼んでいる、

きみ、

遠くに、いつか耳がある
わたしを 脈拍とまちがえる耳

「耳」 第五、六、七連

(電子)紙面が尽きてきたので、最後に「耳」を紹介したい。

「人はどうして/くだけていくときがいちばん/やさしいのか」は、繰りかえして読みたくなる魅力あふれる三行だ。

耳はきくこと。そして「きみ」とはくこととることを両方指し示し、みること、きくことがわかちがたく結びついた遠くに詩があることを教えてくれる。そしてその遠くとは、くりかえし「まちがえること」によってのみたどり着ける場所なのだろうということを思う。

母/わたしが間違えられ、あるいは作品上の「わたし」といまここにいるわたしが接続され、間違えられる。その間違いに気が付いたときにあらわれるずれから世界のほんとうの姿をえること、それが知るという行為だといいたい気がする。そこに読むことのかえがたい愉しみがある。

(2018年8月23日)

黒崎立体『tempo giusto』書籍情報
tempo giusto
出版 七月堂
発行 2016
著者 黒崎立体(くろさき りったい)
価格 1200円+税

横山黒鍵『そして彼女はいった――風が邪魔した。』

終わったはずの夏がかえってきている。あるいは、死んだものが季節となってふたたびよみがえっている。遅れてやってくる葬送の文字列のために、本日も詩と向き合おう。

もじとなった
きせつに
とどまってはいけない
どんなに ちからづよくはった
ゆきも とけてゆくのだから

「序詩」 第二連

本日の詩集、『そして彼女はいった――風が邪魔した。』は二〇一七年発行。著者の横山黒鍵は新潟生まれ、『詩と思想』にて二〇一六年度「現代詩の新鋭」選出、同誌新人賞入選。この詩集は三部構成、序詩、章題詩など含めた百三十六頁、二十数編を収める。

わたしは横山の詩集を、二〇一七年のポエケット会場にて入手した。先日の橋本の詩集の時にも思ったことだが、特定の時代や世代に共通することばのこわれ方があると感じる。それはわたしにも共通するもので、交流がない詩人同士においても、いつのまにかなんらかの見えない共同体・・・・・・・が形成されてしまう、ということが起きているように感じられる。うまく説明することが難しいのだが、読むとひそかに「ああ」と頷いてしまうなにかがある。たとえば次の詩のような文体。

窓を打つ雨粒が滲ませていく光は微笑みの行方さえくらました鳥の目の闇attackです。蝋付けの翼では手紙が書けません、だから私は上手くもない歌を歌います。喉から血が吹き出す乾きと呻き、ティンパニが鳴り響く夜は背骨を駆け登り孤独の波紋に怯えながら、私はあなたにも分かる言葉を探さねばなりません。

忍ばせたささくれdecay、それがシーツに皺を寄せます。丁寧にたたまれたひだまりの匂いをあなたは覚えているのでしょうか。音曲の金魚たちが尾びれを震わせて、願うならひららかに舞うカーテンのスカート。私は寡婦となり、燭台の下で指を編むのです。影を捕まえる為の網を。

「and」 第一、二連

ルビは原文ママ。散文詩であり、「and」「she」「said」「。」の四つにわかたれた詩のひとつ。「あなたにも分かる言葉」と書かれている一方、ここで意図的にえらびとられているのは、繋がりのないところに繋がりをつくることで意味を分断する手法のようにみえる。

もう少し詳しく見るために、助詞、助動詞を省いてみよう。「窓を打つ雨粒/滲ませていく光/微笑みの行方/くらました鳥の目の闇/蝋付けの翼/手紙が書けません/だから私は/上手くもない/歌を歌います」助詞、助動詞の挿入によって意味を撹乱しようとする手法がうかがえる。

やや手前味噌で恐縮だが、世代が比較的近い根本正午の詩集から引用してみる。

かりそめの性器の塔は空に萎えたまま屹立しかりそめのわたしは空に灰となってのぼりかりそめの社にまつられるうつほのくずれ鏡のひかりもえて炎がよびさます虫けらたちの記憶虫けらたちの命ふみつけられるためだけにうまれた避妊具たちの人形を囲うガラスのあちら側の女たちの揺れる乳房より漏れる乳のしろさあまさに誘われ妊娠線をたどり南へと南方へと黒潮のいずるところ緑の眼球の宝石がとこしえに眠るところ電話をしている死んだ児と電話をしているおとうさん元気ですかおとうさんはなにをしていますかおとうさんはどこにいますか

根本正午『仮象の塔または九つにわかたれたあのひとの遺骸をさがす旅』
第一章、冒頭

同じように、撹乱と混乱が企図される文体がある。根本の場合、詐術的なレトリックが多用されるのは《ほんとうにあったこと》をかくすためだが、横山の場合はどうか。それによってなにを書きたいのか、なにを伝えたいのか、というところに一般的な文芸読者の興味もあるに違いない。これに留意し、読み進める。

撓まれた背中に
水路が走る
飛沫を上げるのは見えない魚だ
透明な鱗がひとつひとつ卵を孕み
それを撫でているのが 若い時分の母です
蓮の花が咲く時の
ポンという音を聞いたことがない
手のひらから滑り落ちていく
なにかわからない時間をかなしげに
みている 傾けて
たぶん たくさんの花がさいてゐる
たぶん そこはさういふ場所だ

「かしゃり」

題名は「母」が卵を割る音。水棲の卵に殻があり、過去と現在、場所と時間が錯綜し、矛盾した事物がそのまま詩の形式にて提示される。少しずつ見えてくるのは、音であらわされるずれのはかなさやうつくしさで、そしてそれにいたることばの回路をつくるために水(路)が選ばれていることなどが示唆的だと感じられる。著者のふるさとの原風景なのかもしれない。それは実在するかもしれないし、しないかもしれない想像上のふるさとだが、だれしもがこころのどこかに持っているものである。

眠るように呼吸して。ちっていくのですか。わたしは右手に包まれた風の子を放ちます。
たかく、飛んで、いけ
屋根の上を歩くのです。沢山の小さな足たちが、瓦屋根の出っ張りに足を取られながら、懸命な足取りで、いっていのリズムで
わたしは放ちます、たかくたかく、庭石の影や、ちいさな池のほとりから、いっせいに
滑らかで、とても危険に素直に伸びていくみどりはうるおっていくようにふるえて
小さなきいろをつけたままで
通り雨が音を残していきます、どんなにつよくても、吹き飛ばすほうがつよいのですから
胞子のようにまるまった風がいっせいに芽吹くように
そう
めずらしく花がさいたのでした、それをわすれていたのでした

「いぶき ii」 冒頭

ふたたび(雨)水と音があらわれる。なんらかの水棲生物が暗示されているのだがその固有名詞はかくされている。後半部分に「タガメ」と「ゲンゴロウ」は登場するが、わかるのは隠匿された固有名詞はなんらかの重要な詩的な/私的な出来事を指し示し、それがえがかれないことによって、どこかが欠けているかのような読後感をもたらしているのだろうということだ。詩連には切迫感が満ち、どこかに深いかなしさがある。それは伝えられないものがあることに絶望した上で、なおペンをとるものの横顔に浮かぶ薄い微笑みのように感じられる。

ふしだらにまくり上げた きせつだよりに
手を放ってしまった調べ
吹く風が、は、ある あった
ということだけでしたのに。
もう、暗がりにとどまれない

いう、ことばが頼りなく
日記帳を湿らせていくのです
火を
つければ、よいのでしょうか
静けさの黒文字が
せせる、口許。

「いぶき i」 冒頭

「吹く風がある/吹く風はある/吹く風はあった/吹く風があった」と読むのかと思われる三行目、「が」と「は」の前にはなんらかの主語がかくされているのと同様、日記帳の書き手もまたかくされ、口許も持ち主も記されてはおらず、記されていないそのことによってその存在が強まる。横山の文体のこわれはなにかを秘匿し、そのことによってその存在にかたちをあたえようとする意思と戦略に基づいていることがうかがえる詩。

後半部分の畳みかけるような連のすさまじい緊張感にも読む驚きがある。

水分が多すぎるから
絞りましょう
、、、、 と
蝶は 、(とおのいてゆくほど
花の 、(ちかづいてくる
蜜を 、(よごれなくすべらかな
綴り 、(そごのないことばを
吐いて

ゆきすぎるふしだらな
ここにふく、風となづけた
はれ上がったそ(れ)らを
ひやすようにゆっくりと
しずけさの くちびるで
かたられない ことばだけを
かたちづくって、

「いぶきi」 終盤

「よごれなくすべらかな/そごのないことば」がえいえんに手に入らないものであることを横山は知っている。ことばは記された瞬間、齟齬となってあらわれ、わたしたちははてしなくよごれるほかなく、近づくためにはむしろ遠ざかるほかない。だが、そこには明朗な、または晴れやかな絶望がある。そのことに勇気づけられる。

◇ ◇ ◇

一番好きな「いぶきi」を取り上げてしまったので、最後にこの詩集で二番目に好きな詩を紹介する。長編の散文詩であり、数頁にわたり、個人的な物語を書いた(かの)ように読める。思うのは、本邦の詩人や小説家は、ずっと踏みつけられる側、傷つけられる側に立ち、かれらの声無き声のいずる水辺をけして離れなかったということで、横山もまたその系譜なのではないかという感想を読後に抱いた。

孤児だった。裸足のまま転々と転がされて、たどり着いた場所には、母がいた。父がいた。薄暗がりに叩き込まれた未明の館、ぼくはそこで暮らし、そこには僕の妹がいた。ぼくは僕の妹を、愛した。

「education。」 第一連

(2018年8月22日)

横山黒鍵『そして彼女はいった――風が邪魔した。』

書籍情報
そして彼女はいった――風が邪魔した。
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017
著者 横山黒鍵(よこやま こっけん)

価格 1500円+税

原田もも代『御馳走一皿』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

夏は終わった。わたしたちは今日も詩集と向き合う。まるでえいえんに眠り続ける死者と向き合う(かの)ように、いまだ生きていることばと向き合おう。

◇ ◇ ◇

本日の詩集は二〇一七年発行、原田もも代の『御馳走一皿』。著者は一九四六年滋賀県生まれ、詩誌『回遊』同人、本詩集を第二詩集とする。百十二頁、三部構成、二十五編を収める。

◇ ◇ ◇

インターネット、いやソーシャルメディアは個人の物語でみちあふれている。つらい物語、かなしい物語、さみしい物語。そのいずれもがわたしたちの人生とは無関係であり、わたしたちの生活とは無縁なものであるのにもかかわらず、わたしたちはそれを知りたいと思ってしまう(ことがある)。なぜか。なぜ無関係の、第三者の、他人の人生を、わたしたちは必要としてしまうのか。

痛っ!
指ぬきをしているのに
指ぬきを通して針が刺さった
穴があくほどやわらかくなった皮
母が使った指ぬきだった

(…)

縫う 一点光る針先を見つめ
針を刺し 針を運び その尻を押す
刺し 運び 押した
刺し 運び 押した
皮に残る無数の母の痕

「指ぬき」 第一、六連

読者は作品を恣意的にえらぶが、作品は読者をえらぶことはない。作品は読者を主義主張によって分断することはない。ソーシャルメディアは今日もひとを操作マニピュレートするためにわかりやすい感情を利用しているが、詩はそのようなわかりやすさを選ぶことなく、実利的な効果を早急にあげようとすることもない。詩はただ謙虚さをもって、そこでじっとだれかに読まれる瞬間を待っている。

作中で、長いあいだ使われた「指ぬき」は脆くなっている。脆くなっているものを受け継いでいる。受け継がれているのはものだけではなく痛みの記憶そのもの、やがては無機物に還る人間の遺しているものが、それを知った上で、あらためて引き受けられている。針をうごかす所作、刺す、運ぶ、押す、という三つのうごきは、それぞれ刻む、書く、写すに呼応し、書くことのなかにある切実さがくっきりと浮かび上がる。

だれしもがひとしく大切な思い出をもっている。大切な家族、または大切なだれかの記憶をもっている。それを第三者に、とくに現代においてはソーシャルメディアに強奪されないよう、大事にもっている。それぞれがひそかにこころの奥底に隠しているものをいやおうなしに喚起するもの、それを詩または作家性と呼びたい気がする。

作品は、ひとのこころの中にあるさまざまな感情と記憶そのものがつくりだされたある風景、いちばんはじめの出来事へとさかのぼる手助けをする。どこかのだれかの、無関係な第三者の人生が、自分が思い出さねばならぬもの、思い出さねばならないが思い出すことがけして容易であったためしがないもの、をとりもどすための道しるべとなる。

腰が痛い
ネギを刻んでいても
横になりテレビのドラマを見ていても
痛みが駆けまわって
痛いよ痛いよと叫ぶので
髪が逆立ついがぐりの詰め放題

(…)

流しの生ごみ処理機に
吸い込まれていく
ネギの先っちょ ニンジンの皮
黒い口髭の誘惑から目が引き離せない
満月の夜

* *

眼下に民家の明かりが深い星空になってまたたく
どの家にも流しの穴が一つあり覗き込む影がある

「誘惑」 第一、五、六連

わたしに関していえば「誘惑」はきわめて個人的な記憶を思い出させる。それはほんだし・・・・を多量に使った玉ねぎとじゃがいもの味噌汁であり、冷たく、薄暗い土間に隣接する台所ででいつもひとりで料理をしていた祖母の後ろ姿だ。離婚し一人で娘二人を育てた祖母は、清掃員等の立ち仕事を主にしていた関係上、足が痛いとよくいっていて、その膝裏の静脈瘤はまるで地図のようになっていた。いまのわたしはたいていの料理は自分でつくることができる。幼い舌が美味と思った祖母のつくった料理による感動を、あらためて自分の家庭でも再現したかったので、大人になってから本と道具を揃えて学んだからだ。それはとある記憶の断片に過ぎないが、そこには痛みと「流しの穴」がある。ただ愛されていただけでよかったのか、という問いがある。

鏡台は東の廊下の隅にあった
縮緬の覆いをはぐった

若い母が砂に座っている

いつもの稲荷の河原ではない
脱いだ服とゴム草履が並び
小学校にあがったばかりの妹が
バシャバシャと泳いでいる
流れのゆるい浅いところ
母と妹のほかに人影はない

祖母たちに黙って出てきたのだろう
知らない風景の中にぽつんと座っている母が
切り取られ 浮き上がる
遠くから嫁いできた母に
告げるべき行き先などどこにもなかったのだろう
濃い水色の深いところは流れが速い

「古い鏡台」 前半

思い出さなければならないことはある。だが、わたしたちの思い出は遠く、取り戻せるものは少ない。鏡を見たとき、そこに両親の面影を見、年老いておとろえてゆく肌を見て、亡くなっていった祖父母たちを思う。詩によって想像力のなかの鏡が創出され、そこにわたしたちは自分たちの姿を幻視する。

一方、つたえるべきだったこと、つたえるべきだと知っていたのにつたえられなかったことがよみがえる。それをだれかに理解してもらうことはできないし、それをだれかに知ってもらうこともできない。ソーシャルメディアが可能にしたかのように思われている「共感」、「わかる」、そのツールとしての「いいね」や「リツイート」をいくら用いてもできない。理解は技術によって可能にはならない。

こころの底に深く沈んでいるものを引き上げるためには、どこかのだれかの人生の風景の裂け目を、その触媒としなければならない。つまりばらばらになった場において、いかなるテクノロジーも必要としないまま、《読む》ことがわたしたちに必要とされている。ただそれは「濃い水色の深いところは流れが速い」ように、近づくことに危険がともなうものでもある。

肉の塊りには皮がついていた
この豚が生きている豚だった証しの皮膚
皮膚を透かせて
こわい毛が生えていた

ベーコンにも皮がついていた
すべてブロック 塊りだった
薄切りなど店にはない
頭のない豚が太い鉤で吊るされていた

頭はショウウインドウで
客を見つめる
躰を無くしたことに気がつかず
無邪気な目で
私を見る

ぶら下がった豚の身体を
切り取り 計り 買ってきた
ロース 肩肉 あばら肉
あばらには骨が並んで付いていた
無くしたなにかを抱くかたちで

「御馳走一皿」前半

近づけば、「無くしたなにかを抱くかたち」の骨と相対することにもなる。
得るためにはころさねばならず、知るためにはあやめなければならない。そういう当たり前のことをわたしたちはしばしば忘れる。屠殺され、血抜きされ、解体され、清潔にパッケージされて販売される肉たち。それを見てみぬふりをしたときに成立する安穏とした生活がある。だが、ほんとうのことを見てみぬふりをしなければ、生きることはつらく、見てみぬふりをしなければ、二〇一八年のソーシャルメディアを通して立ち現れる現実はあまりにつらい。そこにぶらさがる死体にもかつては内蔵としての秘密があったと考えるとき、わたしたちはことばをうしなう。

私はときどき電線になる
一本の送電線になって空にいる

伝えたい言葉は思うような言葉にならず
隣りを走るあなたに届かず消えていく
見えているあなたに向かって
こわばった腕を伸ばしても
指先はむなしく宙を掻く
あなたへの日記は読まれることなく
塵のように積もっていく

「電線」 第一、二連

だがことばをうしなった空虚からあふれでるものがある。それはばらばらになったわたしたちをひそかにつなぐ。届くことはなくとも、確かにつなぐ。つながらないということそのものだけを、わたしたちは共有する。見も知らぬだれかの人生について書かれた作品によって、わたしたちはわたしたちを取り戻すための道を見つける。こころを無くしたまま、みつける。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしがこの詩集でもっとも好きな詩「小松菜」を紹介したい。
畑で野菜を摘む書き手が、その所作を続けるうちになにかに・・・・気づくときの驚きが、つよく読者にも伝わってくる。そのなにかを詩と呼んでみたい。「祈るという言葉を/はじめて知ったあの時」に、書くこと、読むことの喜びがある。

軽やかな命の音の感触が
手のひらに残る
ほとばしるものが
体の真ん中に入り込む
首の座らない赤ん坊を抱きとった
あやうい重さ
祈るという言葉を
はじめて知ったあの時が
ほがらかな
震えとなってよみがえる

白い茎をがっしりと束ねられた小松菜
店先に並んだ小松菜
知っていたはずの

いま手渡されたものは何
土の付いた両の手のひらを見る
降りはじめた雪を
両手に受ける

「小松菜」 第五、六、七連

(2017年9月5日 初稿 「取り戻すための道しるべ」)
(2018年8月21日 改稿)

原田もも代『御馳走一皿』書籍情報
御馳走一皿
出版 土曜美術社出版販売
発行 2017年
著者 原田もも代
価格 2000円+税

橋本シオン『ep.』

意味のないことの意味・・・・・・・・・・について考える。手を動かす、手をつなぐ、手をきりおとす、あるいは落とされた手を拾い上げればそれは祈りのかたちとなる。だがこれらの所作にほんらい意味はなく、ただいずれかの点Aからいずれかの点Bをむすぶ複数の連続した動きがあるだけだ。

だがそこには意味をもとめてしまうこころの動きがある。だれしもが生に意味をもとめ、そしてそれはけしてえられない。いや、こう言いかえよう。だれしもが《書くこと》に意味をもとめ、そしてそれはえられない、と。

◇ ◇ ◇

橋本シオンは一九八九年生まれ、東京都在住。『詩と思想』にて二〇一六年度「現代詩の新鋭」選出、同誌新人賞入選。二〇一七年、詩集『これがわたしのふつうです』にて中原中也賞およびH氏賞候補。

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猛暑が去った。関東を嵐の前触れともいえるしずかな残暑の気配が覆っている。

本日取り上げる詩集『ep.』は電子書籍で、二〇一四年発行、アマゾン社のKindleプラットフォームを経由して一般に販売されている。やや短めの詩集で、詩五編を含み、巻末詩「イーピー」は三部構成。表紙には椅子に座った裸体の女性を横から見た構図のデッサンがあしらわれており、その横顔はぼかされている。

わたしは橋本のことは『詩と思想』誌上で最初に知った。その詩を引用してみよう。

ミキちゃんの小さな足で、夜の東京を歩くと、コンクリートしかなくて、何年経っても道は変わらないのにお店ばかりがかわっていって、わたしの家はどこだろうって、探してみるんだって。お母さんの料理を思い出して、ひとしきり泣いたりするんだって。うちゅうの中の、ちっぽけなわたし、の、ちいさな生活が、屋根に降り積もって灰の様に飛ばされちゃって、わたしいま、どこにいるんだろう、って。

そしたら夜は、死にたくなるじゃん。だって夜だもの。社会にあぶれたなにもない家に。だれもいないこの家に。でも、わたしはいるじゃない。だから、ミキちゃんを呼んでみるじゃない。それでも、いるんだ、わたしが。胃液を吐き出したミキちゃんの横で、ツイッターして、布団にもぐるわたしが、いたんだ、わたしが。

「ミキちゃん」 第三、四連
『詩と思想』二〇一六年四月号

くりかえされる「わたし」が分裂し、並列され、かさなりそして離れる様子は、ソーシャルメディアにあらわれるたくさんの「わたし」の物語そのものだ。そうした現代をえがくために選び取られた文体をみる驚きがまずある。都市においては店がどんどん変わるように、母国語においては標識である語彙もまたころころと変化してゆく。その空間の中で自分自身もしばしば行方不明であり、わかたれた自分(わたし、ミキ、わたし)を通じて、ばらばらになった《このわたし》の物語も無限に励起されてゆく。

どうしようもない夜に眠る芋虫は夢を見る。ぎざぎざの柔らかな歯に煙草を挟んで、だらしなく寝ていた海岸線を思い出す。白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉と涙を腹の中に抱えて、眠る芋虫は髪の毛をだらしなく伸ばして夢を見る。

星空は半円の深い闇の中で瞬いていた。ひっそり小さな身体を滑り込ませぱちぱちと。芋虫の横にいる人のツラをした芋虫も、またきっと夢を見ていた。飛び込んだ大都市の近未来を嗅がされて、皆一様に芋虫になっていく。

「いもむし」 第一、二連

だれしもが見覚えのある「どうしようもない夜」はつづく。選択肢のうばわれた(かのように見える)生活において、わたしたちはことばだけを抱え、いつか変態を遂げる可能性を夢見ながら眠るだけの一匹の虫になっている。ここでいう芋虫はどちらかというと樹木上のものではなく土の中にいる甲虫類のそれを想像させるが、手(足)が複数ついていながら、移動がゆるされない生き物がえがかれているということに留意し、読み進める。

エビって気持ちが悪いよね、あの形状なんともいえないよね。だってよくみてよこの沢山ついた足と尻尾。食べたらとても美味しいけどこんな形でよく生きているよ、と、蛇口に向かって話しかける。シンクをうちつける音で彼は相づち代わりをする。

お喋りを続ける最中、春と言う言葉で誤魔化した侵入者を発見した。寄ってたかって蟻の行列みたいに、あれは子鬼の群れか、それとも小さな母親か。冷蔵庫の裏、靴底の隙間、シャワーヘッドの中まで。この家は幻想に包まれて同化していくんだ。

(…)

隙間の街からは遠く離れた、土曜日の午前中。空には雲が敷き詰められていて、四月だというのに風がとても冷たくて、小さな雨粒が子鬼の口を満たしていた。エビの殻をむきながらわたしは蛇口とお喋りをして、鎮痛剤を飲み、赤い斑点が宇宙を知りたくて爆発を開始した。そのうちエビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢を見て、気づけば夜になるのかもしれない。

「住む」 第二、三、七連

再びたくさんの手(足)のある生き物について、今度は口を通じて体内に取り込まれる準備がなされている。それは外殻を剥がれ、手(足)を切断され、内蔵を摘出された状態で調理され、咀嚼されるはずだった。しかしこの「白子みたいにぐじゅぐじゅになった言葉」を取り戻す工程は、やはり幻想で、最終連において「エビが踊りながら蛇口に吸い込まれていく夢」としてえがかれ、そのことばの行方もまた宙吊りにされている。変化はゆるされない。

東京での生活もかれこれ二年になろうとしている。小さな田舎町を飛び出したのは夏になる前のことで、あの時私は二十三歳だった。東京はいつもぐるぐる回りまわって、ファンデーションまみれの精子と卵子の巣窟だと思っていた。中心に立つ馬鹿でかいタワーのしたに、私と私達の知りたいなにか大切なものが埋まっていて、探り当てに行かなければならないと思っていた。

アスファルトが毛細血管みたいに伸びて、ところどころにある小さな公園は私の爪みたいだった。その中で家さえ借りれば白血球とか赤血球とか、なにかひとつの細胞気取りで、ぐるぐる回りまわる東京の近未来に乗れると信じていた

「イーピー」 一部、第一、二連

私小説を思わせる三部構成の表題詩。「馬鹿でかいタワー」のファルスがあらゆる場所と場面で誇示される都市をみながら、その真下にはそれと真逆の傷つきやすい内蔵(白子)が隠され埋められている風景が発見されている。だがそれは掘り返されることなく、書き手は塔のまわりを、近づこうとする加速度をもって円をえがいて落下することしかできない。掘り返すためには手(足)がなければならないが、その爪も細胞もばらばらになり、ことばは毛細血管ネットワークを通してすでに拡散してしまっている。

灰色に均した近未来のにおいを嗅がされて、私達の脳みそはつるつるに磨かれていく。緑に耕されていた頭の中が、今では海のにおいも風景も忘れて、ちかちか輝くタワーの光で目の中まで一辺倒だ。狭い土地の半円でおしくらまんじゅうみたいに人々が飛び込んでは何も無いと気づいていく。均す必要も無いアスファルトを綺麗にしようと必死になる。そういう人々の群れでただ愉快な街になる。

若い私達に気づく目はあるはずなのに、精子と卵子の工作でピンク色のホテルにばかり興味が移って、月と同じ高さのビル、夜を曖昧にするコンビニの灯り、なんの疑問も抱かない。平成という称号、八十九年という時代の事実、ただの数字の羅列だとのたまってはいけないのに。でなければ私は君と出会わなかった。手を繋ぐこともなかった。

「イーピー」二部、第一、二連

「つるつるに磨かれた脳みそ」や「夜を曖昧にするコンビニの灯り」によって均された灰色の風景、それをわたしたちはあまりにもよく知っている。しかしもそれはすでに都市だけの話ではない。地方のあらゆる場所に偏在する巨大商業施設、コンビニエンスストア、飲食店フランチャイズ店舗の提供するサービスと物品のおそるべき画一性を想起するだけで足りる。個人は溶解し、手(足)を失い、ばらばらになった関係性をかかえ、ゆく場所もかえる場所もなくした《このわたし》の物語にみちあふれる二〇一八年の風景がそこにある。

不意に登場する(昭和)「八十九年」が、詩と《いま・ここ》にある現実をつなぐ。
別の言い方でいえば想像力によってしか到達できない、ありえないいつわりの場所へと詩をつなぐ。その存在しえない場所でのみ詩は手(足)を取り戻し、だれかとめぐりあうこと、そして奪われた手をつなぐことがゆるされる。

二年が経つこの木造アパートで、話すのはもっぱらタワーの下に隠された知りたいなにか大切なものの話で、昔はもっと夢に溢れていたような気がするが、もはや私達は知っている。知っているけどそれでも話してしまうのは、あの囁き声が聞こえるからだ。隠されているものなんてとっくに畳の裏で骨になっている。君が居なきゃ何も出来ない鏡張りのトーキョーイーピー。隠された種達の悲痛な叫び。探り当てに行く必要ももはやないタワーのしたで、骨になったあいつを隠す必要もない。

「イーピー」三部、第三連

遠くから見ていた時は輝いてみえたものたちは、手元においた瞬間にその魅力をうしなう。よってわたしたちは不可能にとどまらねばならない。現実の灰色の東京ではなく芋虫たちの夢の中にしかないトーキョーをめざさねばならない。

なにもかもが鏡張りとなった外部化された内面の牢獄の内に閉じ込められたまま、現実にはけして存在しえない場所へどう向かえばいいのか? そのためには、やはり《わたし》だけが見出しうる隘路をゆくしかないのだ――橋本の詩は、そういうことをわたしに考えさせる。

(2018年8月20日)

橋本シオン『ep.』書籍情報(電子書籍)
ep.
出版 キリンスタジオ
発売 Amazon Services International, Inc.
発行 2014年
著者 橋本しおん(※原文ママ)
価格 100円