勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』

最後の日から半年経つけど
ぼくたちはまだここにいて
日々は穏やかに発狂し
時々は優しく腐敗して
鳩に餌をやっている小柄な老婆を
黒い大きなカラスがついばんでいるのを
日がな一日眺めている

希望の日々

昨日取り上げた奥主の詩集に引き続き、わたしたちはふたたび希望についての詩を読んでいる。だが勝嶋の書く希望もまた無限遠点にあるものであり、けして手元にあり自らを安心させてくれるようなものではなく、体温を感じさせるような灯火でもない。その光はしずかに冷えていて、ぎらぎらと夜を照らす真夜中の不可能な太陽といえる。「だけどもうすぐ来るだろう/きっと何かが来るだろう」という終わりの二行は、最後の日から何日経過してもけしてやってこない希望のかわりに訪れる不吉ななにかを予感させる。

『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』は、勝嶋啓太の第一詩集。著者は一九七〇年生まれ、わたしより五歳年上で、所属は潮流詩派の会(なじみのない読者のために補足すると、詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在する。潮流詩派の会は一九五五年設立「詩の社会性、批評性、現実性、記録性、風刺性を重視」することを掲げる会)。

この《千日詩路》の前身となったウェブサイト(「仮象の帝国」「千日詩行」)を読んでいた読者にむけて書くと、勝嶋は『今夜はいつもより星が多いみたいだ』を二〇一七年に発行した詩人である。著者によれば、本第一詩集に収められた五十六編は、おもにゼロ年代の十年にわたって書かれたもので、著者勝嶋の三十代とほぼ呼応している。端的にいえば、バブル崩壊後の日本の「失われた二十年」のただ中に書かれたものだ。

こうした時代背景を念頭に置かないじゅんすいな読みもあると思うが、《千日詩路》ではそのようなアプローチを採用しない。なぜならどのような詩集も時代という巨大な潮流の中におり、たとえ著者がどれほど自らの作品の自立性を声高に主張しようとも、時代性から自由であるものなど、存在しないと考えるからだ。

ふたたび詩集に戻ろう。

 

駅前にある掲示板に貼ってある
スズキタカシという
行方不明者のポスターの顔写真が
どうも自分に
似てきたような気がしてならない
三週間前に見た時はそれほど似ていなかった
三か月前に見た時はまったく似ていなかった
しかし
三日前に見たらかなり似てきていた

わたしたちの生活には様々な不気味なるものがあるが、普段はそれを意識しないように生きている。鏡をじっとみつめるとそこには他人がいる。たとえばゼロ年代に青春を過ごした者にとって、不気味さとは、同じ世代のたくさんの苦しみについて見てみぬふりをすることであり、日々起きている同世代による自殺、行方不明、そして暴力を振るう側つまり犯罪者として報じられるニュース、その彼らの年齢と自分とのあきらかな類似性を見なかったことにすることでもある。わたしたちの隣にはいつでもスズキタカシがいる。

似てゆくということは、知ってゆくということ。そしてそれは自らの顔を映す仮象の鏡を手に入れることである。それはいかなるものだろうか?

 

四丁目のカドで見た空が
まるでウソのようだった
まるでウソのように青く
まるでウソのような雲が
まるでウソのようにポッカリと浮いていて
まるでウソのような鳥が一羽
まるでウソのように飛んでいって
まるでウソのような太陽は
まるでウソのように耀いていた

ウソのような青空

だれもかれもがウソつきだ、とは若者の弁である。「大人」であるわたしたちはその若者をわらう。「大人」であるわたしたちは、彼らの幼さをわらう。自由民主党はウソをつき、立憲民主党もウソをつき、メディアはウソをつき、ソーシャルメディアでは作家ですらウソを書く。だがときにウソはとてもうつくしいことがあり、あまつさえ、ひとを救ってしまうことすらある。その背理にとどまることが生きるということであり、若者につたえるべきことは「大人」になるとはウソをつくことではなく、ウソとなるほかないわたしたちの姿を受けいれることだということである。かつて若者だったわたしもウソに救われたことがある、そういうことをこの詩は思い出させる。

 

おじいちゃんは
とても悲しそうな顔で ただ 黙々と
〈そいつ〉を釣っていた
でも〈そいつ〉ときたら
なまっ白くて ぐにゃぐにゃしてて
ぬるぬるしてて ぶよぶよしてて
目もないし 耳もないし 鼻もないし

手も 足も 尻尾もないし
ただ 口だけが ぽっかり あいていて
だけど おじいちゃんは 〈そいつ〉を
何十匹も 何百匹も 何千匹も
ただ 黙々と 釣っていた
悲しそうな顔で 釣っていた

釣りの日の思い出

だが嘘をつくこともできないこともある。死者について嘘を書くことは冒涜ではないか。死者がなにに苦しんだか、なにに悩んだか、なにを乗り越えようとしたのか、それらについて嘘を書くことは許されるのか、そうした問いがある。喪失について考えるとき、あるいは罪の意識について考えるとき、この国の衰退と同時にあらわれはじめたいわゆる特殊な保守たちの存在を想起せざるをえない。それはこの書評を書いているいまが終戦の八月十五日に近いせいでもあり、また勝嶋の詩になみなみならぬ切迫感と痛みが感じられるからでもある。「そいつ」とはなんなのか。なぜ「そいつ」は釣りあげられるのか。そしてもっとも重要なことは、なぜ悲しそうな顔だったのか、そして書き手がなぜそれを憶えていたのか。いや、憶えていなければならない、と思うこと。それがおそらく必要なのだということを思う。

 

少女は 僕の腕を必死に掴んで
鶴を折ってください
鶴を折ってください
と言って 泣くから
ごめん
本当に知らないんだ
と言って
僕は
少女を突き飛ばして
一目散に 走って 逃げた

鶴を折ってください

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である。
わたしは上の連で憶えていることがおそらく必要だ、と書いた。だが一人の個人としては、忘れるということ、罪の意識をも忘れるということ、自分の人生に起こった苦しい出来事を忘却するということ、それもまた大切な、人間の営為のひとつなのではないか、それは許されてもいいのではないか、ということも同時に思う。

上の詩では、書き手が鶴を折らないのは、ほんとうに鶴の折り方を知らないのか、それとも単に知らないふりをしているのかは明示されていない。だがおそらく後者であることが詩の連から考えられる。わたしたちの人生には、この詩のような少女の記憶がひとつかふたつはある。傷つけただけではなく、助けを求めてきたのに拒否したこともあるだろう。

冒頭の「三丁目の来々軒で/ひどくまずいワンタンメンを食べた帰り/四丁目の角で/鶴を折ってください/と声をかけられた/振り返ると/真っ白な服を着た/五歳ぐらいの少女が/真っ赤な紙を一枚/僕の方に/哀しいぐらい真っ直ぐに/指し出していたので」を読むと、真っ白な服、そして真っ赤な紙が示唆している存在、とくに日本人にとってなんなのかついて考えさせられる。忘れるということ、そして背負うということ、そのふたつの間のいずれを選ぶか、答は出ない。少なくとも勝嶋は忘れようとはしていないことに、どこか勇気づけられる。詩は、ただ記録する。

平成という時代は終わりかけている。
共同体は崩壊し、成長神話は霧散し、グローバリゼーションによって世界は果てしなく狭くなり、連帯をもたらすはずだったインターネットはわたしたちを引き裂き、男女は毎日匿名の陰口でいがみ合うようになり、それぞれの場で孤立化が進んでいる。携帯端末の普及によって、ありていにいえばそのインターフェイスの小ささによって、《この世界》と《このわたし》についての読みは断片化し、時系列を失いつつある。わたしたちはばらばらになっている。

そうした時代の中、《千日詩路》は、頬を上気させ大きな声で理念を世間に訴えるのではなく、ただただ粛々と、毎日の書評を通じて詩を――いや、こころを動かし、このばらばらになった世界を架橋せしめることができる、そうしたテキストを書き続ける、作家と詩人・・・・・を応援する。

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』書籍情報
カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です
出版社 潮流出版社
発行 2012年
著者 勝嶋啓太(かつしま けいた)
価格 2000円+税

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

ひとの自然状態ステート・オブ・ネイチャーとはなにか。ふだんわたしたちが目にする報道やソーシャルメディアを経由してつたわってくる事件の数々を思い出す時、それはお互いがお互いに暴力を行使しあう状態である、と書いてみたくなる。だがもちろん、たいていの場合、ひとは平穏な市民生活を営むものであり、そこに流血や暴力が生じることはまれである。暴力と非暴力のどちらをひとの本性とするか、それは世界のかたちを自ら選択することだ、と書いてみる。

あとから思うほど
辛いことばかりでもなかった
ラジオから流れる戦果に歓声をあげ
世界地図に日の丸をたて
いさましさを謳歌さえした

戦況も世界もその実際はどこか遠く
まるで絵空事
滅私奉公の快さに全てを麻痺させ
重箱の隅をつつきあいながら
どれだけの不自由をがまんできるかを競い
これみよがしの誠実さを語り

そうしたことのことごとくが
悪意のない善良さを装い
手首から二の腕へとまとわりつき
ゆったりと自分たちの心を締めつけていき
「立派に死んでください」などと
子どもたちが真顔で口にし
耐えることが生きがいとなり

レクヰエム

『日本はいま戦争をしている』が発行されたのは二〇〇九年。著者は一九五九年東京生まれ。この詩集について多少の解説をすると、これはゼロ年代の日本にいる書き手のものであるが、そこに太平洋戦争のまっただ中の日本にいる書き手が重ね合わされている。この詩集の《戦争》は想像力によってかくとくされたものだ。別の言い方でいうと、太平洋戦争の最中の日本を想像力によってよみがえらせようとする試みだ。いや、より正確にいうならば、この詩集に収められた二十一編に通底するものは、いつの間にかよみがえっていたものについての驚きである。

 

燃えさかる炎の中に投げ入れられる本の群れ
一文字ひともじに願いをこめ織り上げられた物語が
夜空にたちのぼる煙と貸していくさまを
その目で確かめながらエーリヒ・ケストナーは
けして希望を失いはしなかった

つみあげられた

エーリヒ・ケストナーはナチス政権下で著作が焚書にあった作家だが、こうした状況が現在のわたしたちと遠くないように感じられるのは、本を焼くだけが世論を操作マニピュレートする方法ではないからだ。ひとを知らずと操作する方法はいくらでもある。わたしたちは嫌というほどそれを知っている。ひとの気持ちをマニピュレートすることに特化したソーシャルメディアを使えば(そして使わないという選択肢は事実上ない)ひとははてしなく、いくらでも容易に扇動されてしまう。自分とはまったく無関係ないかりやかなしみを、まるで自分のものであるかのように感じてしまうことを、たとえばツイッターをやっていればだれしもが経験しているだろう。

この詩は、単に作家の不屈の精神を礼賛しているのではない。それがいつでも起こりることであり、まさにいまわたしたちの国でも同じことが起きており、あらがうということは現在進行形の課題であるということだ。《いまここ》で戦うことが求められている。だが、わたしたちに、ケストナーが持っていたような希望はあるだろうか。

 

誰にも話すことも出来ないでいるのですが
目を
つぶしたいのです
とんでもないことだとは
思うのですが
内心
御国の役になど
たちたくないと思っているのです
のうのうと生きて
たらふく食い
いいことをして

それ以外のことは
いっさいごめんです

「実は」

徴兵されそうになった若者が、じつは国の役になどたちたくない、と胸の内を吐露する形式で語られる詩「実は」を読みながら、様々な事柄がわたしの頭を去来する。

この国の屋台骨が傾き始めてから、二〇年以上が経過している。技術大国という幻影を粉々に打ち砕いた東日本大震災が二〇一一年に発生し、様々な社会問題の激痛を緩和するモルヒネとしての東京オリンピックが数年後に控えている。表層上は安定した社会の裏側で、表に出ることも、声を上げることも許されないまま、塗炭の苦しみにあえぐ人々がたくさんおり、そのいずれもが孤立している。インターネットでは社会的な弱者が告げ口、暴露、耳目を集めやすい悪口雑言によってかりそめの連帯を行うことが常態化しており、それはある程度成功している。だがひとは絶望によって長期的な連帯をすることはできない。ひとを真につなぐもの……それを希望と書きたいところだが、それこそがもはや《戦争》であるほかないのかもしれない。「それ以外のことは/いっさいごめんです」とつぶやきながら。

 

おかあさま
僕は昨日 柊の壁のそばまで行ってまいりました
先の面会日にお話した
あの広い療養所のそばの生け垣まで
近寄ってはならぬと言いつけられていたことは
けして忘れてはおりません
でも土地の子たちに
都会っ子は意気地なしだと
空襲がおそろしくて逃げてきたなどと
言わせておくのはシャクなので
僕たちにも度胸があるのだということを
見せつけてやりたかったのです

柊の壁

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。「柊の壁」とは、ハンセン病患者が入院していた国立療養所多磨全生園の敷地を、外部と隔離するためにつくられていた壁のことだ。語り手の「僕」は、母親に行くことを禁じられた療養所まで、「度胸がある」ことをまわりに示すために忍び込み、そこで見かけた少女の姿について母親に説明する。すると母親は息子を叱責し、あそこの人間は「不具者は不忠者」で汚らわしいから近寄るなという。その後起こった現実の事件(自民党議員の「生産性」暴言や相模原事件)を想起させるくだりだ。

少年は母親をなだめるため、次のように答える。

わかりました おかあさま
やまいとなることが不忠なこころのあらわれ
この非常時に
天子様のお役に立たぬ身体を持っていることなど
許しがたい不名誉です
年端がゆかぬいたいけな子であるほどに
不届きな血筋をあらわしています
けれど おかあさま
ああしたものどものがいることを知ったればこそ
僕は心に刻みます
不忠さ故に無念に生きながらえる
おかっぱの子の哀しげなまなざしを
そうして  それらのすべてを負い
僕自身は自らの肉体を強くすこやかに鍛え上げ
見事股肱の御楯となり
東洋平和の礎として果てたいのであります

(同上)

「強くすこやかに鍛え上げ」られた肉体を称揚すれば、そうではない病人、不具者、障害者などが切り捨てられる場におのずから加担することになる。それは「生産性のない」ものを切り捨てようとする姿勢とまったく同じものだ。ひとのうちには、ひとつの強さではなく、さまざまな種類の強さ、いまだかたちをとっていない可能性としての強さがある。それらを見ようとすること、それがひとと向き合うということだ。一方、「僕」は、母親をなだめるため、おそらくこころにもない嘘をついたのだろうと思われるが、その彼がたどり着いたことばが「股肱の御楯/東洋平和の礎」だということ、そのあまりのグロテスクさに、身体がふるえるほど戦慄する。作家の書くべきものはこれだ、という書き手の自信にみなぎる二行だ。

 

最後に、題名にもなった詩を紹介したい。

二〇一八年、無料でひらかれたウェブに、マニピュレーターたちが毎日息をするように嘘を拡散させている。一方、詩はその作品において嘘を書け/かない。少なくとも、奥主は嘘を書くことなく、希望のない場所に希望があるなどという絵空事を述べたてることもない。

ただ、奥主はこういっているように感じる。だれかがこの国の《ほんとうのこと》を書かねばならない。わたしたちにはまだできることがある、と。

日本はいま戦争をしている
けしてことばにはされることがないまま
いつの間にか戦争をしているのだけれど
それを誰も戦争と呼ばない
そう呼ばないことで誰もが
戦争をしているのだという事実から
目をそらすことができ
つみの意識からは逃れ
日本はまだ戦争をしていないのだと
そう思いこもうとする

日本はいつのまにか戦争をしていた

日本はいま戦争をしている

(2018年8月7日)

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

書籍情報
日本はいま戦争をしている
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2009年
著者 奥主榮 (おくぬし えい)
価格 1800円+税

 

みやうちふみこ『カバの本籍』

わたしたちはわたしたちの人生を生きている。だがその人生はほんとうに自分のものだろうか。わたしたちはこの肉と骨以外に、自分のものであると断定することができる、何かをもちえているのだろうか? そう考えたとき、生きるということについての自明性がふっと揺らぐことがある。だがたいていの場合、その一瞬はすぐに忘れられる。

その日は あなたがわたしの兄を殺した日です
その日になると わたしにはうねるようなサイレンの音が聞こえてきます
「さようなら〜」のあいさつのように 「ただいま〜」のあいさつのように
「みなさんお元気ですか?」のように

あの日がくると目に浮かぶものは何年すぎても同じです
あの庭の片隅に赤い椿が咲いていて母もいて
梅のつぼみもふくらんで泡だったビールも……

あなた

『カバの本籍』は七十代の著者の第一詩集。
書くことは、ひとを変える。読者がよく知っているように、ソーシャルネットワークへの書き込みであっても、匿名での書き込みであっても、むろん、詩集であっても、書くという行為は書き手を変えてしまう。自らの手が勝手に書いたものを見ることによって、自分が何か別のおぞましい怪物に変容したかのように感じられる瞬間があり、そういう体験についてのじゅんすいな驚きがある。それは「この自分」と「書かれたもの」との間の不気味な乖離だ。みやうちは、その一瞬を書くことを通じて発見した、と感じられる。別の言い方をすれば、みやうちは、その発見の過程そのものを詩集にした。

 

昼間のしんとした時間

階段を上る足音しんと一つドアの閉まる音しんと一つ
しんと 窓を開けるとたばこの匂いかすかに一つ

たくさんの人が しんと暮らす空間

しんとした世界に寂しさは吸い込まれ
たくさんの人といるしんとしたにぎやかな空間
わたしは好き

水音がする かすかに

ドアをしんと開いて階段をしんと下りる
緑の風をいっぱいに吸い込む
足下に 白い野バラが咲いていました

「新しい住まい」

好きなものについてかたる日常的なことばがある。だがそこに不意に水音があらわれる。それは不吉なもので、当たり前のようにそこにある日常をゆがめる呼び水だ。こうした異界への入口のような欠落が、みやうちの詩作品のあちこちに露出している。その読後感は、ふと目をやった地面の上で、ある生き物が別の生き物に捕食されているところを見てしまった感覚に似ている。

見るべきではないもの。知るべきではないもの。理解してはならないもの。わたしたちの生活はそのようなものに囲まれている。ある瞬間、そうしたものに囲まれ、いや、自分もまさにその一部であることに気が付いてしまう。その瞬間こそが書くべきものなのではないか、そういう声がきこえる。

 

どこでもいいはずなのに
どこでもいいそこにはもう
一滴の水もないこと
愛しかないのだとある日
大人になったカバは
はっきり悟ったのだった

父さん母さん兄さんカバのいる広い青い宙にも番地があるのだろうか?
草も木も水も花もチョウも鳥も雨も風も虹もカタツムリだって自由なのに。

「もうふるさとにはもどれませんよ」動物園戸籍係のゾウさんは
わたしのつぶらなひとみに念をおすようにそう言って書類を受理してくれた。

ふるさとなんかはじめからなかったんだ

カバの本籍

詩集を読み終えて、夏の夜の公園に足を運ぶ。木々のあちこちですべての生き物たちがお互いをむさぼりあっている。《このわたし》は、それと違う存在なのだろうか、そういう問いがある。それは超越的な第三者に、檻の中で飼育されている、動物園のカバを連想させる。生きるということのありのままの姿をとらえることははてしなく困難であり、その生はたいていの場合、だれかの犠牲の上になりたっている。いや、なりたたざるをえない。知るとは、見ること。そしてそれを想像力によってのみかくとくすること。それが書くことのふるさとなのではないか。みやうちの詩集は、そうしたことをわたしに考えさせる。

「一滴の水もないこと/愛しかないのだとある日/大人になったカバは/はっきり悟ったのだった」

詩は、その愛すらもはじめからうつろなのだということにかたちを与える。わたしがこの詩集でもっとも好きな詩だ。ふるさとなど、どこにもないのだ。

(2018年8月6日)

みやうちふみこ『カバの本籍』

書籍情報
カバの本籍
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 みやうちふみこ
価格 1200円+税

鹿又夏実『リフレイン』

桜の花びらが降る
東京のはずれ
川沿いの巨大な団地の一室で
ひとりの老人が生まれた

老人は
死ぬまでの短いときを
遊歩道を歩いたり
流れる花筏を見つめて過ごす
金は役所から支給されるので
生活には困らないようだ

老人

生まれる前から老いているものがある。老いたまま生まれるものとは、死ぬために生まれるものと同義なのだろうか? 街に出れば、猛暑に灼かれる盛夏の路上にたくさんの虫たちの死骸が敷き詰められ、そこを笑顔で歩いてゆく園児たちの靴によって踏み潰され、粉々になり、土に還り、他の生き物たちのあらたな糧となる風景をみることができる。そこにあるのは幸福な円環的輪廻の姿だ。

だが、鹿又の詩的世界は、そうした救済が与えられる場ではない。生者が老人のまま、あるいは不具のまま産み落とされる、逆向きの人間たちが沈黙のまま住まう場だ。

困らないことに
困ることはないのか
誰も知らない
誰も気にも留めず
質問もしないため
老人は生まれてこのかた
存在の理由さえ世に問えないでいる

同上

「生活には困らない」人生や「役所から支給される」生活がどのようなものであるか、二〇一八年に生きるわたしたちは知っている、というより、いやおうなしに知らざるを得ない。だれも知りたくなかった物語が、電磁的なネットワークを経由し、あらゆる場所に露出しているからである。毎日拡散されるたくさんの《わたし》の物語の過剰な氾濫の結果、わたしたちは昔よりもずっと他者の生活に無関心になった。そうした現実を想起する時、それぞれに隔離された小部屋の集合体である団地の一室にて老人が誕生する国を幻視する鹿又の視線に、つよい説得力を感じる。

私を打ち
罵声をあびせ
追いたてるものから逃げだし
私は自分の影に逃げこみました
苦しいのか楽なのかも分からず
湿った影の底で静かに死んでいくようです
そこから出なさいと言われても
自己よりも肥大化した私は
影から抜けられないので
しかたなく自分の肉を切りきざみます
私の肉片にはさびしさにも似た
骨のような言葉が詰まっていますが
見て見ぬふりをし肉を咀嚼し続けました

ニートのうた

著者、鹿又夏実は一九八三年生まれ、『リフレイン』はその第一詩集だ。わたしはこの詩「ニートのうた」を、これが最初に収録された文芸詩誌『オオカミ』(32号、2018年2月発行)にて読み、彼女のことを知った。肉体的暴力や罵声にあふれる残酷な世界は、そのままわたしたちが生きるこの社会の写し絵であり、ある共感を覚えたことを記憶している。作品中の「自己よりも肥大化した私」は、暴力的な世界からの逃避先である「影」から抜け出ることができない。そこから抜けるためには、自分自身の一部を切り捨てるしかない。だが、世間から捨てるように強いられているものこそが、自分を救ってくれるはずだ、という詩人の確信がそこにある。

(たちあがるための言葉も血肉も私の胃の中なのに)

(吐いても吐いても言葉は喉につき刺さり
私に復讐を誓っている)

同上

つまり、自分を救ってくれるものは同時にまた猛毒でもある。鹿又にとって詩は毒なのだ。いいかえれば、見ることは苦痛ではあるが、その苦痛こそが《ほんとうのこと》に接近するための唯一の鍵なのだ。ひとはわざわざ苦しむ目的で見るのではない。自分を苦しめるものと戦うために見ようとすること、そこに書き手のひそかにもえあがる意思がある。

例えば、貧困は、社会的格差は、不平等は、ひとから考える力を奪う。だが、だれもひとから詩を奪うことはできない。だれもひとから戦う意思を奪うことはできない。そういうことを鹿又はわたしに考えさせる。

血と精液は

男の意思とは関係なく
世界を満たそうとしてきた
この世が穴だらけだったために
だが今
男の足もとで
穴の底からせりあがってくるのは
世界の一部なのだ

(穴のなかこそ世界なのだから
お前が心配することもなかったのに)

或る日

詩は《世界》と戦う。あるいは、自分を取り巻く宿命とよぶほかない外的なる諸要因と戦う。それは家族であったり、学校であったり、勤務先であったり、伴侶であったりする。いや、詩だけではなくだれもが戦いを強いられている。だれもが勝手にこの世界を満たそうとする「血と精液」にあらがっている。わたしたちを苦しめているもの、わたしたちを非人間にするもの、この奇怪なる《世界》とあらがっている。「或る日」はけして詩人だけの一日ではない。わたしたちそれぞれの日々における、グロテスクな穴だらけの世界に訪れるものなのである。

わたしが
冷蔵庫にあかりを灯すと
死神がそろりそろりと歩いてくる
少年を連れ少女を連れ
幼いわたしを連れて

少年は冷蔵庫の中で育った
細い手足は薄汚れ
ほの白い光に曝されている
その冷たい子宮は少女の腹にある
少年が大人になることを拒みあばれるたびに
少女は血を流し泣き叫ぶが
父も母も遠い場所で笑っているだけ
絶望した彼女は地上を這いずりまわり
ようやく
少年と新しい冷蔵庫を見つけて暮らし始めた

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
自分とまったく無関係な他人として人生を歩んできたとある作家の描く光景が、ふいに自分の人生のある日と重なってしまうことがある。それは祖母が死んだ後に冷蔵庫に残されていた作り置きの料理であり、あるいは子供とかつて一緒に集めた雪が入った冷凍庫の小さな容器であり、これらをふと見つけた時の自分の気持ちが、作品によってよみがえる。

(言葉にしなければならない)

氷点下で保存されていた悲鳴は
異常気象によって
街に溶けだし広がっていく
羊水のような悲鳴の底で
幼いわたしが水面を見つめている

(ひらくためには)

同上

開くべきではない扉を開ければ、わたしたちはうしなう。
扉を開くたびに、わたしたちは損なう。だが開かずにはいられない。鹿又の誓いにも似た「言葉にしなければならない」という行を、わたしたちもつぶやかざるをえない。

ひらくために、詩は書かれるのだ。

(2018年8月3日)

鹿又夏実『リフレイン』書籍情報
リフレイン
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 鹿又夏実(かのまた なつみ)
価格 1200円+税

舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

生きるということは
自動詞ではなくて
他動詞なのだと審判されてから
眼に触れるものすべてが
怖ろしくなった
微風のための微風は嘘で
生きるための労働は詐欺だ
微笑みの裏には企みがあって
そのまた裏側には掘り返せない〈現実〉がある

死と生の亜脱臼

わたしたちは日々を自動的に生きている。あるいは他動的に生かされている。その考え方の末尾に「かのように思える」と、ふと疑問符のようにつけくわえてみる。たとえば、新しい生命の誕生には、母体の中で超音波によって撮影された豆粒のような肉片が、いつの間にか巨大な赤子となってこの世に創出される不気味さが伴う。そうした奇怪な現実を前にして、生きることは自動詞なのか、はたまた他動詞なのか、その判別はきわめてむずかしいと言わざるをえない。その答のない曖昧な場にとどまり《続ける》こと。いいかえれば掘り返せないものを掘り返せぬままにしておくこと。舟橋の詩集は、その不能性について考えることからはじめているように思える。

『羊水の中のコスモロジー』は著者の第四詩集。三部構成になっていて、一部は「クリスパー・キャスナイン」、二部は「アルケーからテロスへ」、三部は「スーパーノヴァ」と名付けられ、それぞれに九から十の詩編が収録されている(著者は「詩篇」と記載)。一般的な現代日本語を用いた作品群のうち、一部に万葉集や源氏物語からの引用を含む古文調の詩が含まれる。そのうちでは「戻り喩に極み言」が印象にのこる。

戻り喩に漬けたれば、極み言までも打鍵からくりキーボードにては打てまじ。煎じ詰めの書き倒しするほどに、遍く下氷のはつ夏でありなむ。気を縦にたしだしに軟柔すれば、やり場なき怒り苔さえもなにほどのものか。さりとて埃眼には耀きなき目褄を絡ませ、焼き太刀の苛なき甘ゆさを二重に掲げ持ち、行けるところまで塗炭の苦しみ、なお練りの擦れ事となりおほせるもよし。

戻り喩に極み事

ルビは原文ママである。他にも「遇愚流地球グーグルアース」や「世界網インターネット」などの単語が擬古文に挿入される。様々な解釈がありうるが、わたしはこの様式は、ひとの生きる有り様を根本的に変容しようとする近代テクノロジーの網の目にとらわれて貧しくなることばをいかに活かすかさぐるための試みであると読んだ。

一生を水として生き
水として死ぬのはたやすいか
真ん中をえぐり抜かれた
からっぽの大脳皮質で
どんな情報を食べても
考えることから遠ざけられ
精神の暴動をしむけられている
一期一会というのは
嘘だ
逃げても逃げても
追いかけてくるものが本物なのだ
そう記されている聖なる書物には
著者名がない
シンタックスに適った活字もない
宛先も宛名もない
それは長すぎる規格外の手紙にすぎない

水として生きる

さぐるためには考えねばならない。だが考えるとはどういうことか。ひとが真に生きるとはどういうことか。わたしたちは日々呼吸をし、食事をし、性交し、睡眠し、生きている(かのように思える)。だがそこにはほんらいあったはずの、どこかずれた人生からの乖離があり、切断があり、「遠ざけられ」た距離がある。わたしたちは、脳味噌の真ん中にうがたれたうつほがもたらす痛苦から逃れることはできない。わたしたちが遠ざけられているもの、それはわたしたち自身だ。そして逃げ場がないだけではなく、啓示をもたらすはずの言語はこわれているのである。

一方、逃れられる、とみなに信じ込ませるための甘美なる麻薬が、今日も明日も明後日も日本語の中に無限に拡散される。「どんな情報」でも食べられるかのように思える世界に、すでに二〇一八年のわたしたちは生かされている。そのようなグロテスクな場において、だれも水のようには生きられない。そこには奪われ、損ねられ、傷つけられたことばしかなく、だれも考えることもできないのだ。できること、それはその不能なる自らの姿を見ることでしかない。一期一会こそ夢まぼろしであり、だれとも出会うことができないのに、だれとでも繋がることができるかのように思える《いまここプレゼンス》のおそるべき虚構性を見ることだ。

地図の上の見知らぬ地名みたいな
よそよそしい朝が来て
自分がだれか想い出せない
わたしの隣で眠る
あなたがだれかも

いつまでたっても乾かない
汚れた下着を捨ててしまったら
新しい下着はどこか他人行儀
公園の砂場には子猫の
死骸が埋められていて いつまでも
掘りかえされるのを待っている

花びらが無性に食べたくなる

詩は乖離そのものに、不可能な距離にかたちをあたえる。だがそれはプライベートな記憶に基づく《このわたし》の乖離ではない。日本語を解するすべての読者のそれぞれの分断された生活の場に、思い出すことのできなくなった朝があるはずである。あるいは、名前を忘れた誰かの体温が、埋められたまま弔いを待つひそかな體がある。

ひとは別れ、ひとは分断され、ひとは忘れ、かつて知っていただれかは「見知らぬ地名」となって去ってゆく。

わたしたちは知っている。この世のいかなる嘘も、いかなる劇的なレトリックも、《ほんとうのこと》、この世界の有り様コスモロジーを少しもあきらかにしないのだということを。それを可能にするものは何か。わたしたちはわたしたちを取り戻せるのか。詩はこれらの切実な問いにこたえられるだろうか。主体性を奪われ、現代という羊水の中で溶解する秩序のないことばにとらわれながら、そんなことが可能だろうか?

詩を書くのではなく
詩が書くのだ

詩とコスモロジー

(2018年8月2日)

舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

書籍情報
羊水の中のコスモロジー
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017年
著者 舟橋空兎(ふなはし くうと)
価格 1600円+税