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十田撓子『銘度利加』(H氏賞受賞詩集)

——わすれ、思いだす。そしてまた、わすれる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は火曜日。今日わたしたちが読む詩集は十田撓子の『銘度利加めとりか』。著者は一九七六年秋田県鹿角市生まれ。本作が第一詩集であり、第六十八回H氏賞受賞。なおその時のH氏賞の候補詩集には、過去に《千日詩路》にて取り上げた二冊(#0020#0032)があるので参考にされたい。本書は四章構成で、十八編を百十二頁に収める。

耳慣れない題名『銘度利加』は、日本にやってきたロシアの宣教師たちがよるハリストス正教会の信徒名簿(受洗者名簿)を意味するそうだ。戊辰戦争で新政府軍と対立した旧南部藩領であった敗北者に連なる鹿角には明治の一時期にハリストス正教会がひそかに広まっていた。それにまつわる歴史については「『銘度利加』に寄せて」という詩集内小冊子の吉田文憲と林浩平による小論がすでに詳しい。

本稿では、その信徒名簿がいわば敗北したものたちの生きた証、しかも隠匿されなければならなかったものであることにひとまず留意し、読みすすめてみよう。

それでは十三節にわたる長文詩「入口に鍵のない扉をもつのは船」から。

壁の向こう側に
前風景の残響を感じながら
ひとりでいた

どこか外からの気配
何かの物音
不規則に水の滴る音、それだけで
想像すらできないような黄昏が
すぐ間近に来ていると、少し怯えていた
画像を一枚一枚つなげたものがある
これとこれ、これからこれへと
つながり、関わりは知らない
けれど気がついた
つなげた画像、その流れは
自分の眼ざしであることを

この生は、いつか
既に生きられたもののようだった
再生される
ぱらぱらぱらぱら
展開していくそれら「小さな私」たちが
トンネルを走り抜ける
白霧の中に舞い降りる雪のように
声なき息吹がひしめき、絡みあう
それを吸い込み、吐き出す
右の壁には小さな燈
左の壁には矩形に穿たれた窓がある
立ち上がって、窓のところへ行った
あ、あー
お、おー
声の断片をかぞえながら
窓の向こうをふと覗いてみる

誰かいる
四角い木枠の向こうに
鏡ではない
あれはわたしの鍵
生きられた言葉が失われた後にも
それらとつながる鍵穴を見つけて
あれはどこかの扉をそっと押しひらく
語りうる対象は
シンボリックな記憶であることを止め
そのつづきを目撃させる

入口に鍵のない扉をもつのは船

錨を下ろしたきり
出ていく人も入っていく人もいない
船の扉に鍵はなく、かける人もいない
係留地を歩く人影ひとつなく
動かぬ船は忘れられし時を積荷に
じっと沈んでいる
船に在るものは終わりまで船に在る
思い出に姿を変えるものもない
たとえ消えてしまうのなら
はじめから、すべては
そもそもなかったのだろう

「入口に鍵のない扉をもつのは船」第一、二節

入口に鍵のない扉のある船は、出入りさえ自由ではあるが、そのいっぽう目的地もなく、帰る港ももたないまま、波のないたまりに放置された廃船のごときものに見える。その様子は房総半島の地方の小川でよく見かける、持ち主が放置したため川辺で半分身体を横たえて沈んだままになっている小舟を想起させる。

「扉をもつのは/船」を翻訳するならば、扉をもっているのは他のものであったのかもしれないけれども、語り手にとってそれは船のようにみえた、とも読める。長年生活されてきた建物、家屋の記憶でもあり、そこを過去と現在の命たちが出入りしており、それが船と読み替えられている。

第一節。「画像を一枚一枚つなげたもの」からは、断片化された世界を語り手が発見している様子がうかがえる。それは幾十億もの画像があらゆるところに偏在しそれらによって構成される二〇一八年の電磁的空間を思わせるが(動画モーション・ピクチャーもまた画像ピクチャーの総体だ)、それはそれぞれの個人の生きた証としての創作物や遺物たちを前にたたずむ書き手の姿でもあるのだろう。

その遺留物のそれぞれに関係性はなく、時間と空間を隔ててばらばらにわかたれてしまっていて、その由来や歴史もうしなわれてしまっている。点在するそれらのものの間に想像力によってみえない線を引くこと。それをつくるのは「自分の眼ざし」であるということが詩によってかたられている。忘れられたものを思い出すこと、創出する戦略がかたられていると読める。

すでに生きられている(「もののようだった」)のは、「小さな私」たちの物語である語り手の生もまた独自なものなどではありえないからで、すでに何度も反復されているからだが、その反復を確かめるすべもまたうしなわれている。

「左の壁には矩形に穿たれた窓がある/立ち上がって、窓のところへ行った/あ、あー/お、おー/声の断片をかぞえながら/窓の向こうをふと覗いてみる」も印象深い連だ。言語化されていない、意味のうしなわれた音が記憶の船の窓の外(または内側)から聞こえてくる。かろうじて意味がたもたれた場から一歩外にでれば、そこにひろがるのは意味を剥奪する暴力的な場であることが示唆される。それは歴史という歯車によって粉々にひきつぶされて忘れられた名前や、家系や、かれらが持っていた感情なのだろうということを思う。

発せられた音は「あお」という水の色を偶然・・思わせ、そこにはばらばらになったわたしたちを繋ぐ水路が想像される。だがそこに浮かぶ船はおそらくどこにも行けないのだろう。

底無しなのか
深さの知れない水面に
漁師がいつまでも
いつまでも網を投じている
あたかも、紙の上の不定形な染みが
刻々と何かの形に変わっていくような
それでいて静かな波間から
漁師の足もとに引き揚げられたもの
それが何であるか見定めようにも
目を凝らして見つめるほど
掬いあげられたものは霞んでいく
見えるものは、自ら思い描かなければならない

トプン、トプン
波の音か、水の滴る音
こめかみに汗が浮いていた
覚めたくても覚められないまどろみ
色の無い、わるい夢に近づいていたのか
雨に濡れたいと思う

船が停泊している
古い国の古い船
使い古しのものばかり荷積みして
緑青の浮いた叺も山と積んで
明日には時化そうな風の匂い
硫酸で濁った重い雨がじきに降る
港湾に漂う霧は
朽ちていく足音を待つ匂いがする
これは呼び声だ

船がおもむろに出港した
まったく出し抜けに、汽笛も鳴らさず
蒸気を白い糸のように細くたなびかせて

「港町」第一、二、三、四

著者が育ったという鹿角には港はないはずだが、ここには鹿角近辺のことが書かれているような印象を持つ。それは見えないものは想像されなければならないという一行のためかもしれない。

漁師が網を投じる身振りが、白紙とその染みを前にした書き手の、なにかをすくいあげる行為になぞらえられている。だが目を凝らせば凝らすほどその引き揚げられたものは見えなくなる。別のいい方をすると、想像力によってかくとくされたものを眼球でみることはできない。そのためにはむしろ瞼を閉じなければならない、と読める。

第二連。部屋にいる書き手の姿がちらりと見える。全編を通じて水の気配がつよい。それは身体を流れる液体から雨を介在して川、湖、海へとつながる水路を形成していることをあらわしているように感じる。そこを歴史が流れ、または逆流する。

第三連では船がふたたびあらわれている。港もえがかれるがそれは実のところどこにも行けない死に水の船だ。またはだれも乗せていない船である。だから乗客にも、周りにも、出港を知らせる汽笛が必要とされていない。円環的な生、あるいは書くということは祝福ではなく、むしろなにかを追悼する厳かな儀式のようにとらえられている印象をもつ。それがなにか、は、第三者が指摘することはできない。

ここを我が墓と善助は決めた
樹下に倒れて
午後の青い空を最期の眼に映しながら
跡継ぎのない灰色の石を
むかしの馬に運ばせて
誰も思い出さなかった馬を
黒森の秣場で養った馬を
源次郎爺が墓場まで一緒に連れて行ってしまった馬を
よみがえらせて
あの牧野の、青草も石ころも食んだ
その喉を嘶かしめ

果樹はあらかた切り倒された
上内野には崩れかけた小屋がある
そこに幾千万個もぎとった林檎の数だけ
精霊たちがひしめいている
実らせた果実の百年余の絶唱
ここを我が墓と善助は決めた
残された十数本のまだ若い果樹
黒土に浮かぶその小さな島を
廃屋の精霊たちが見守るだろう

「誰も思い出さなかった馬を」第一、二連

本詩集でわたしがいちばん好きな、最後に置かれた詩。馬、というと以前取り上げた(#0024)カニエ・ナハの「馬引く男」を思い出すが、そこでは「馬」は、一万五千年前にえがかれた壁画であり、人類の歴史をひもといてゆくための触媒だった。十田の詩によく出てくる馬は、より生活に密着したものであり、秣場まぐさばなどの特有の語彙から推測するに、おそらくは家業についての具体的な記憶にかかわるものなのだろうと感じる(善助、は著者の屋号なのだそうだ)。

「誰も思い出さなかった馬」を詩は思い出す。だが……そのまなざしにはどこか諦念がある。それは円環的な生のなかにとじこめられたわたしたちが無限に反復している/するほかないことにすぎず、かつ、一度は思い出されたとしても、それがあっという間に忘れられるその様子を、繰り返し見つめてきた、あるいは見つめざるをえなかった人間のもつ横顔のさみしさを想像させる。

最終連近くに、詩集を通して一度だけ出てくる東北方言がある。自分が生まれ育った土地のことばをえて、社会の中で生活するにあたってそれを一度捨て、ふたたび思いだす。そうした所作からの旅立ちが示唆されている。それはとても好きなくだりなのだが、その詳細は、読者にたしかめてもらったほうがよいだろう。

◇ ◇ ◇

最後に、表題詩「銘度利加」を。

迫害されてきた敗者の、さらに隠された宗教。そしてその信徒名簿。もしそれが実在したとなれば、その存在そのものが徹底的に隠されなければならなかったであろうことは、想像にかたくない。だが、信徒たちは、それが露呈したら自分の身にわざわいがふりかかるにしても、その生を記録せずにはいられなかったのだろう。それが書くという行為とかさねられている。

だが、十田が書くように、それは受け継がれない。だが、それは忘れられる。なぜか・・・。その問いが真に生きられることを、詩は望んでいるのかもしれない。

さきの世で繋がる人たちはとうに立ち去った

とても遠い呼び声を
ずっと聞いていたような気がする

入口に鍵はかかっていなかった
焚き染められた香の名残で清められている
その家で、金縁の聖像を見初めた
閉ざされた扉の上にあって
薄青色の衣をまとった白皙の、かの人は
右手を大らかに掲げ、掌を隠さず
左手にはこちらへ開かれた書物を携えていた

どこかで、見知らぬちちははの声がうたう
閉ざされた扉の向こう側から
語りかけるように聞こえてくる
受け継がれなかった物語

乗りこんだ船は壊れていた
戊辰の果ての泥舟は、落ちていく箱さながら
揺れに揺れてあちこち叩きつけられた
息を止めて、ひたすら痛みをこらえた
この船のゆくえを
自らの意志として努めて引き受けたのは
敗残者、脱走者、迫害された者
蝦夷、そして奥筋からの者
故郷を二度と見ることは叶わない
北の辺境をさまよう一群

十和田の湖を見下ろす岨で古今は呻吟する
崖下の紺碧の、計り知れない巨大な沈黙
精霊たちの特別な話し声が真空でざわめく
湖水が波立ち、何か黒いものが渡る
原始のブナの梢が白くひらめいてそよぐ
こちらへと、さしまねく人の姿

「銘度利加」前半

(2018年10月16日)

十田撓子『銘度利加』書籍情報
銘度利加
出版 思潮社
発行 2017年
著者 十田撓子(とだ とうこ)
価格 2200円+税
新刊 e-hon / 古本 Amazon

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