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川上未映子『水瓶』

――戦争、傷、そしてえいえんに見つからない喉の石。
――(そのようなものは存在しません)。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。

本日は金曜日。今日とりあげる詩集は川上未映子の『水瓶』。川上は一九七六年大阪府生まれ。その小説家としての経歴は《千日詩路》の読者には不要と思われるが、彼女は詩人でもあり、詩については二〇〇七年に第一詩集『先端で、さすわさされるわそらええわ』にて第十四回中原中也賞受賞。本書は彼女の第二詩集に相当し、散文詩九編を百七十六頁に収める。

収録されている九編はどれもかなり長い散文詩だ。
巻頭詩「戦争花嫁」から読んでみよう。

ある女の子が歩いているときに、不意に戦争花嫁がやってきて、それはいつもながらさわることも噛むこともできない単なる言葉でした。なのでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば唇がなんだか心地よく、豪雨の最中だというのに非常な明るさの気分がする。

だったらわたしはこの言葉がとどまってあるうちは、自分のことを戦争花嫁ということにしようと女の子はこれもまた言葉でうきうきとする。名状はいつもこのようにして空白に律儀にとどくもの。あるいは名状がそこにある空白を手に入れる。ひっそりとした名づけの祝着。戦争花嫁。即座に意味は起立しないけれど、女の子はこうも思う。意味のないものは意味のあるものより人を傷つけるということは少ないのじゃないの。そうでなくても女の子は人を傷つけることがこわく、心底こわく、しかも一度きりを傷つけるのがこわいんじゃなくて、自分のすべてのつなぎめをできうるかぎり検分した直線のけっか、傷というものの本当を、よくしってる気持ちがするから、女の子はそれを自身の立脚のなかに発見したのだった。傷ついたことのある人は、永遠に傷ついているのだということ。すべての一度が、そこにおいて永遠に起動されているのだということ。すべてのわたしはそれぞれの点でいまもなお、それを生きているのだということ。なにかを思い出しては頭のしっかりした部分ではそれは過ぎ去ったことなのだと決定をくだしているにもかかわらず、何度も、何度でも悲しまされてしまうでしょう。輪郭は蘇らざるをえないでしょう。思いだすって、そういうこと。ないものは思いだせないのだから、それはある。女の子は、だから、今ではもうあまり喋らない。言葉を飛ばすのがこわいから。それはどんな形であるにせよ、誰かの永遠につながることなのかもしれないのだから。自分からついてでた言葉が人のなかに入っていってそこにありつづけるなんてたまらない。しかも永遠だなんて。

「戦争花嫁」(P9 – P10)

ことばがふいに突然ひとを奪う。それが「戦争」と呼ばれている。それはさわることも、噛むこともできない「単なる言葉」で、そのように奪われてしまうことがわたしたちの「いつもながら」の在りようである、と最初から記されている。なにかの宣誓のように、といってもよいかもしれない。

それは書くということが川上にとって不意のできごと、だましうちのようにおとずれるものだという実感をあらわしていると思われるが、それは作為ではなく自然なるものや偶然をかくとくする技術・・――それも多くのものが技術と思わないような技術――でもあるはずだ。そうしてえられたことばが軽々と、まるでなんでもない・・・・・・ことのようにかたられていることに戦慄を禁じえない。

祝福がことばの地平に着陸するしゅんかんは、「即座に意味が起立」しないものとされ、それが名付けと呼ばれている。意味のないものに意味があるかのようにふるまうこと、空白を空白のまま手に入れること。そうした書くことの秘技に「傷つける」という戦略的な単語が重ねられる。「永遠に起動され」る傷、それは傷のなかにあらたに傷を発見しつづけることなのかもしれないし、それが戦争というものであればわたしたちにはえいえんに平和などなく、戦争と戦争のあいだの短い休憩があるだけであるという示唆がある。

この詩に限らず、全編を通じて「唇」「喉」「歯」に関する言及が繰り返される。それは唇周辺がことばを発することに関わる器官であり、肉(魂)に傷(ことば)をつけうるため部分であるからだろう。

口の中の変化に気づいたのがいつだったのかは、時計を見なかったのでわからない。でも空はまだ暗く、朝へ向かう物音ひとつしていなかったからたぶん真夜中だったのだと思う。息が苦しくなって目が覚めて、顔に手をやるとなにか弾力のある大きなものに手のひらが跳ねかえされる感触がして、どうなら何かがわたしの口からでてきているみたいだった。それは舌だった。舌がどんどん膨らんで口に収まりきらなくなって、目線をずらすと胸のうえにまあるくのっているのが見えた。そうか、あれらぜんぶは舌が出ようとしていたための痛みだったのだと、わたしは納得したのだった。

舌は休むことなく泡のようにふかふかと口からあふれだしていて、少しすると体とおなじぐらいの大きさになり、やがてベッドの輪郭をはみだしてするすると床に伸びていくのが見えた。口も、顎も顔も、頭も、もうどこも痛くはなく、寝がえりをうつと左半身がやわらかな舌のうえにのり、それは今まで寝転んだことがあるどんな寝具ともどんな芝生ともどんな土とも違う感触だった。ぼんやりと見つめているとそこに草原のようなものが広がっているのに気がついた。わたしはそこへ降りてゆき、楕円にひらけた青空を見た。足下には昼間に見た動物たちが佇んでいた。閉じこめるものは何もなく、与えられた自由に彼らはどうふるまってよいのかわからずに戸惑っているように見えた。南の匂いがするほうへ歩いていくと、大きくてあたたかな風が何度も吹き、影は草を刻みながら走り、山羊の群れの中で父と母がいつもの食卓でむかいあって鶏肉を食べているのが見えた。父も母も涙を流しながら、鶏肉を噛みつづけているのだった。ねえ、もう食べなくてもいいんだよ。そう言いたかったけれど、舌がこんなになっているせいでけっきょく声をだすこともできなかった。鶏肉は皿のうえでどんどん冷たくなっていって、父と母はそれよりもっとつめたい指を動かして、涙を流して噛みつづけていた。わたしはいつもこうだから、だからこうして大事なときに大事なことを言えないままで見ていることしかできなくて、そのことを悲しいことだと思いはするのに、どうにかしなきゃと思うのに、それは決して嘘じゃないのに、なぜ何もかもを、なかったことにしてしまうのだろう。どうしてすぐに忘れてしまうのだろう。そしてずっと昔に読んだ本に書いてあった、星と星との空間のような顔と心をもったそんな大人に、あとどれぐらいの時間がたてばわたしはなってしまうのだろう。

「星星峡」(P81 – P83)

十七歳の「わたし」を語り手とした作品。詩よりも小説に接近するこの作品にはちょっとしたプロットがある。いっこうによくならない頭痛をかかえた「わたし」は男の子と動物園に出かける。頭痛のためか、かれとのやりとりには齟齬があり、気まずさをもちながら帰宅する。そして頭痛はやがて顎への痛みと変化してゆき、父、母、姉との食卓でのつめたいやり取りの後、「わたし」は部屋に閉じこもる。そして引用部分へと繋がる。

ことばを作る道具である舌が外に出ようとした(自由をもとめた)痛みによって、身近な人間に対することばは損ねられ、うばわれてしまう背理がある。だが仮にことばを自由につかうことができるようになったとしても、「与えられた自由に彼らはどうふるまってよいのかわから」ない。

肥大化した舌によって一夜の夢のなかでだけ幻視された、檻のないことばの動物園たる草原で、ひたすら鶏肉を噛みつづけるあるいはなんらかの同じことばを味がなくなるまでなんどもなんども繰り返すだけの両親が、涙を流していることもつよく印象に残る。わたしたちのことばは自由を愛することなどできない。わたしたちのことばは自由をもとめていない。そんな声がきこえる。

だが「星と星との空間のような顔と心」をもった大人だけがえられるものもまた空虚であり、一度はえられたことばはなかったことになり、最初から存在していなかったかのようにふるまわれることが示唆される。

「星星峡」はせいせいきょうと読むのだろうか。理解や救済をこばむ(そのようなものはこの世界に存在しない)ことばの真空が、ぎらぎらと輝いてみえる。

◇ ◇ ◇

本詩集でいちばん好きな詩は、悩んだが、「わたしの赤ちゃん」を挙げたい。
(次点は、表題詩の「水瓶」)

この詩もどちらかというと小説に接近しており、登場人物は子を生んだ「彼女」と、機械の身体の赤ん坊、そして赤ん坊を食べる架空の生き物「ミース」。

彼女は父親に「ミース」をさきに殺してくれと懇願するのだが、父親は次のようにいって彼女の不安に応えない。

森じゃミースを見たものはひとりもいないことはおまえもちゃんと知っているはずだ。それをどうやって殺すというのだ。見えないものはつねに見えるものの優位にたち、見るものはつねに見られるものを支配するんだ。でも、それらはきっと杞憂に終わるよ。きっと大丈夫さ。

そうした慰めの後、やがて赤ん坊は殺される。次の引用部分が作品の最後である。

しかしもちろん彼女の赤ん坊はミースに食べられてしまうことになる。数カ月後の冬の終わり、黄土色の嵐が過ぎ去って、あと2週間で電気が流れるという知らせが届いたころだった。眠った記憶もないのに、気配がして、あるいは気配が去ったような気がしてはっと床から起きあがって顔をあげるとベッドに赤ん坊の姿はなかった。暗闇に正方形の白いシーツが訴状のように浮かんでいた。ばらばらに分解された赤ん坊の部品がそのうえに、そして柵をこえた床にばらばらと散らばっているのが見えた。彼女の毛は逆立ち、眼球は飛びだし、感情になるまえの衝撃が胸を突き破るまもなく世界のすきまを瞬時に埋めて彼女はそのまま気を失った。春がきて意識がもどっても赤ん坊はいなかった。乳を飲み、あくびをし、これからのことを笑顔で話す彼女にむかって頭の歯を輝かせてみせた赤ん坊の姿はどこにもなかった。いつもそこですやすやと眠っていたあのやわらかな赤ん坊の姿はどこにもなかった。もう一度倒れてしまいそうな体を支えて彼女は震える指さきで赤ん坊の部品を拾いあつめて泣きながらそれを組みたてた。ねじのひとつ、ばねのひとつ、塗装のひとかけらを見逃さずに息を殺して彼女は赤ん坊を拾いつづけ、くちびるのはしからねっとりとした泡を垂らしながら2年をかけてあわせていった。完全に、完璧に、名指しすることの叶わないちからがかつて彼女のおなかの中で彼女の赤ん坊を組みたてていったようにもしも彼女がいまここでそれを再現することができたなら、もう一度、彼女の赤ん坊がここへ帰ってくるかもしれないと、自分と自分の赤ん坊に起きたことを百パーセント理解しながら、それでもそこからいちばん遠い場所で、彼女は赤ん坊のかけらを組みたてつづけた。けれども最後の部分が何年たっても見つからない。喉の石だけがいつまでたっても見つからない。彼女は赤ん坊を赤ん坊たらしめるたったひとつの部品を欠いて、けれどもそれでもまぎれもないたったひとつの赤ん坊のからだを抱きしめてありとあらゆる時間と場所へ、ただ赤ん坊に会うために赤ん坊を探しつづけた。においだけを手がかりに過去と未来とうそと真実に横たわるそのあいだの無数の点でときどき眠り、目を覚ましては自分を責め、それは35年もおよぶ旅になった。存在するすべての果物に沈みながら一斤のパンを崩して進み燭台を昇り、じゅうたんをかきわけテーブルを乗り越え水たまりを泳ぎきり、そこがまだ剥かれていないことを確かめる。彼女の赤ん坊がいつかそこにくる余地のまだあることを気の遠くなるような時間をかけて確かめる。彼女はふたたび映画を燃やし、何度でも木の幹を滑り落ち、足をすすめ、這ってゆく。また最初から何度でも、くりかえし果物を砕きパンをくぐってじゅうたんをつかみ、燭台を噛みしめテーブルを叩き水たまりを飲みほして、彼女と彼女の赤ん坊をつなぐものを、ふたりで過ごしたあまりに短いときの粒を、祈るようにかきあつめながら彼女はゆく、映画を濡らし、木の幹を粉にして、そうして死ぬまぎわにたどりついた崖のうえ、彼女の胸の、どこもかもがさびてしまって彼女とおなじように朽ちてしまった赤ん坊のからだを抱きしめ彼女が最後につぶやいたのはこう。会いたい、わたしはまだ、あなたと話したことがない。

「わたしの赤ちゃん」(P126 – P130)

「ミース」はスティーブン・キング原作で最近にも映画化された「IT」のように、わたしたちの生活にひそむ偶然という名前の悪意のかたまりが具現化したものを想像した。わたしたちの子は、わたしたちと同じように、あらゆる意味で平等に、生まれてすぐに死に、生まれる前にも死に、あらゆる場所ですべての要因にて死ぬ。しかもそれはすべて偶然であって、だれも生を自在に選ぶことなどできない。

死に意味がないように生にもなんの意味もなく、わたしたちのことばは限りなく無力で、赤ん坊はけしてとりもどせない。わたしたちができることは見えない可能性をみいだそうとすること、亡くなった子らのけして見つけることのできない「喉の石」を、過去と未来とうそと真実をこえた無限の旅路の果てにえようとすることだけである。

三十五年、は、著者の年齢だろうか。「会いたい、わたしはまだ、あなたと話したことがない」という「彼女」の人生最後の望み、それが叶う夢をわたしもみてみたいと思う。

(2018年10月12日)

川上未映子『水瓶』書籍情報
水瓶
出版 青土社
発行 2012
著者 川上未映子(かわかみ みえこ)
価格 1300円+税

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