大崎清夏『指差すことができない』

わからないことをわからずにいる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。《千日詩路》編集部がある房総半島は暑いような肌寒いような不思議な天気だった。今週の出来事としては、書斎の蛍光灯の電源が壊れてしまい、本が読みにくく困っているところ。

さて本日の詩集は大崎清夏の『指差すことができない』。著者は一九八二年神奈川県相模原市生まれ、二〇一一年に『ユリイカ』詩投稿欄の年間最優秀投稿者に与えられる「ユリイカの新人」選出。第一詩集に『地面』。第二詩集である本書は二〇一四年第十九回中原中也賞受賞。二〇一八年『新しい住みか』上梓。本書は九十六頁に十八編を収める。なお手元にあるのは青土社版。

著者のことは先日取り上げたBBCの番組(ex004)を視聴した時に知った。海外放送局の制作する番組に外国語をごくふつうに用いて出演する詩人らがいることを知り、やや驚いた記憶がある――もちろん、驚くことが無知をあかしてしまうことになるが。

彼女が朗読していた英語の詩は次のようなものだった。

At the entrance of the mountain
(山へとつながる入り口で
The short leaves of needles
(短い針のような葉たちが
Softly patter down
(やさしくぱらぱらと降りしきる
Trees say no-thing
(木々はなにもかたることはないけれど
But look carefully
(あたりを気をつけてみまわせば
They’re prepared
(それはすでに整っていて
To eat me up
(わたしを食べほしてしまうことなど
At any moment
(いつでもできるというみぶり
But still
(でもそのあいだも
From the bright place above
(まばゆい頭上の空間からは
The short leaves of needles
(短い針のような葉たちが
Patter down
(ぱらぱらと降りしきっている

大崎清夏「無題」
※()内は《千日詩路》編集部による仮訳

この詩はぜひ朗読で聴いてみてほしい。音声だけで聴いてみるとかなり印象が異なるはずだ。個人的なことをいえば、わたしは外国人と結婚している人間でもあるので、外国語で読み、書き、聴き、話すことにはひと一倍興味があり、そうしたことをこころみる作家は好きだ――という偏向があることを書いておきたかった。

さて、表題詩であり巻頭にも置かれた「指差すことができない」から読んでみよう。

境界線をきめる協議が
きょうもいたるところにあって
健康には定義がなくなった
吸収してもくるしい
排泄してもくるしい
だからたのしい気持ちで
働くしかなくなった
ごつごつした岩場に生える
黒髪のような海藻をはがして
それを食べたり
売ったりしながら
女の子たちは笑っている
病をえるのは嬉しいこと
血の色を見るのは嬉しいこと
夕日の濁流や包丁の束に
白い脚で跳びまわる立ち仕事・風土記・風俗
規則正しい人の心拍数がみだれて
あなたは右手の親指をもちあげる
明日来てください
声を聞きたいから来てください
なにか物語をしてください
ひとりで困っちゃいました
勤めあげもせず
添いとげもせず
果たしあうこともなく
母性本能のぼんやりと
逃走本能の忘れっぽさを併せて
いつもうかうかしていた気がする
しわくちゃですけど
見てくださいこの肌理を
毛穴の小ささを見てください
そうです
自慢なのです
この島の女の子の
新しい健康の定義です
たのしい気持ちの労働です

「指差すことができない」冒頭

中原中也賞の当時の選考では「島にいる「神」の顔が波や泡で出来ているというところから始まって、娘と森、砂丘になるらくだ、など作者が組み立てた幻想の物語は、ユーモアを持ちながら、言葉は限りなく開かれている」とあった。

たしかに最初から海に島嶼がひろがる神話的な想像力による情景があり、そこに近代日本にいきる「このわたし」の小さな断片的現実(「協議」「働く」「心拍数」「明日来てください」など)が散りばめてられてゆく方法が読める。詩からはどこか南国的な島国のイメージがうかがえるが、もちろん日本もまた島嶼の集まりであり、そこに波間にかくれたりながされたりする岩場を重ねて読んでもよいだろう。

この詩の最終連では、「海の神様にお祈りするとき/神様の顔がはっきり見える/その顔は波や泡で出来ていて/指差すことができない」と締めくくられる。

指を指す、とは、名付けること。さらにいえば名付けたものをえることだろうと想像する。だが境界線をうしない、波によってくずれる泡のような存在を指差すことはできない。名付けることはできず、意味はつねにくずれ、規則は本質的に恣意的なものにとどまる。定義がないのではなく、定義しえないことそのものを詩はかたっている、と読める。ことばは神であり、神を名付けることなどできず、大崎が書いたように、二〇一八年にいきるわたしたちもまた、ばらばらになってさまようのみである。

タオルケットから足を(二本)高くつきだすと、
ふくらはぎのなかにも雨が降っている
あれはあなたでしょうか
埋め立てられた波打ち際
ほっそり湾曲する道を
濡れながら走ってゆくのは

ぜんたいに糖分の足りない終電の車内に
今夜も前後の文脈が迫ってきてた
見ないふりをしてもいいのに
みな優しいのだ(あなたもだ)

おやすみ、おはよう
こんなことは名付けなくてもいいよ
こんな近い場所にはいないはずなんだ
あなたが会わなくちゃならない人は誰も

はい、よく見てください
私はだいじょうぶですから構わずに
誰かに、誰かに、早く、早く
あなたでしょうか
走ってゆく

夜明けの色になって
怖いくらい執着して
目を閉じるほど嫌って
あなたでしょうか
走ってゆく

「ここにないものについての感情」第一、二、三、四連

ここにないものについての感情……ないものについてはいかなる感情ももちえないことについての詩、と読んだ。その空虚に「あなた」という名前があたえられている。しばしば《千日詩路》では解説されることだが、存在しないものをかたることは、その存在しないものの周辺を埋めることによってなされるにちがいない。

ふたたび名付けられようとしているもの(そしてすみやかに否定されているもの)は、時間をしめす「おやすみ」と「おはよう」。タオルケットから下方向へ見える足と上方向へ突き出される足、そして「あなた」と対峙する透明なわたしなどがある。名付けることができないがたしかに存在しているものに対する感情が想像されるが、それは走ってどこかへ消えてしまうともかたられている。消えてしまう感情についての感情……ことばによってかたることのできないことば。いくら「怖いくらい執着」しても、それにかたちをあたえることの難しさは消えることはない。

それは遠くにゆけばゆくほど見たいものがはっきりとみえると嘘をつかれて、どこまでも歩いてゆくことにしたが、それが嘘だとわかってからも歩いてゆくことがやめられなくなった者のはてしない旅路を想像させる。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが《千日詩路》の読者にいちばんお薦めしたい詩を。
「うるさい動物」

言葉を信じるな
「青い大空」を信じるな
「輝く大地」を信じるな
「希望の光」を信じるな
わたしはうるさい動物である
わたしは絶えずおしゃべりしながら歩行する動物である
わたしの見た光景はわたしにしか語ることができないのではない
あなたの見た光景はあなたにしか語ることができないのではない
言葉は嘘つきで夢見がちだ
臆病で出たがりだ
理想ばかり立派で何にも出来ない
言葉は何の力も持っていない
言葉にできることは何にもない
だから、言葉を信じるな

うるさい動物には二億年前のパンゲアの分裂が見える
一万年前のビルマの洞窟に炎が見える
四〇〇年前の江戸じゅうの川の汚さが見える
六〇年前に二〇代だった杉山千代の不器用な恋愛が見える
クレーの天使が東京の空の雲間に見える
武蔵野の山あいにカフカの城が見える

言葉を信じるな
政治家の言葉を信じるな
デモ隊の言葉を信じるな
病人の言葉を信じるな
先生の言葉を信じるな
おんなの言葉を信じるな
武士の言葉を信じるな
セレブリティの言葉を信じるな
労働者の言葉を信じるな
わたしの言葉を信じるな

世界中のだれもが被災している
世界中のだれもが羅患している
世界中のだれもが発症している
世界中のだれもが感染している
言葉を信じるな

「うるさい動物」第一、二、三、四連

著者のコメントが詩の最後に追記されている。「言葉は人間が最初に被る震災です。言葉は人間が毎日受けつづけている暴力です。被災し、暴力をふるわれて、黙っていることができずに、赤ん坊は言葉を喋り始めます。誰かの言葉はそのまま、誰かの被災のかたちです」

こうした著者のコメントは、ソーシャルメディアに囲まれ、フェイクニュースに日々煽動され続ける二〇一八年のわたしたちにとって、あらためて新鮮なことばにみえる。

より具体的にいえば、見も知らぬ第三者のいかり、かなしみ、くるしみが、熟練した煽動活動家たちの意図的かつ注意深い操作マニピュレーションによって拡散され、これによって自分の感情がいつのまにか・・・・・・一定の方向へとうごかされ、管理されてしまっている、そんなおそろしさを知っている現代のわたしたちにとって、大崎の「信じるな」ということばの切実さが胸に染みるだろう。

なぜなら、ことばを信じないことがどれだけつらく、たいへんなことか、詩人はだれよりも知っているはずだからだ。わたしたちには、信じるなにかが必要だ。だが、それは名付けられず、えられず、ただとおりすぎることしかできない。だからわたしたちは被災するほかなく、病にかかるほかなく、はてしなく暴力によごされるほかないのだ。詩は、いや、わたしたちはことばを信じながら信じない、そんな隘路をゆくほかない。

何から何までが「今回の震災」なのか、私はずっと、わからずにいます。

「うるさい動物」 著者コメント

(2018年10月10日)

大崎清夏『指差すことができない』書籍情報
指差すことができない
出版 青土社
発行 2014
著者 大崎清夏(おおさき さやか)
価格 1600円+税

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