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詩誌『季刊ココア共和国 Vol.20』

詩を《読む》とは、世の中に必要とされない《私》を読み直すリ・リードこと。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》へようこそ。
本日は祝日三連休明けの火曜日。外からは秋の虫の声がきこえてくる。今週は平日が少ないこともあり、少し詩集を離れ、詩誌を特集してゆきたいと思っている。

本日は詩誌『ココア共和国』を紹介する。『ココア共和国』は、詩人の秋亜綺羅が主宰する個人詩誌で、既刊として二十一冊が発行されている。個人詩誌という位置づけながらも、詩だけにとどまらず、ミュージシャンや歌人をはじめジャンルを横断する作家を招待し、作品を掲載しているユニークな詩誌。「小特集」として一人の詩人にスポットを当てるコーナーを有することも特徴。わたしの知人(#ex002)が編集に携わっていることもあり、本日はそのうちすぐに入手できた第二十号を取り上げる。本号は、詩について四名による四作品、詩の小特集一名につき五作品、歌人一名の二十八首を、三十四頁に収める。

脳は孤独だ
誰にもわかってもらえない
オレの脳は
オレにもわかってもらえない

脳がなんなのか誰もわからない

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか
ほらほら
それさえはっきり言えないくせに
よくも平気で生きてるもんだ

あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに
人は自分たちが作ったと思っている
そう思いながら
笑ったり
怒ったり
悲しんだり
苦しんだり
魚食いまくって
鶏を食いまくって
豚を食いまくって
牛を食いまくって
何十万人も殺し
何百万人も殺し
何千万人も殺し
テロしたり
「神様」とか言ってみたり

(…)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
その時オレはどこでなにをしているんだ

いがらしみきお 「孤独な脳」
第一、二、四連

説明する必要もないかもしれないが、いがらしみきおは『ぼのぼの』で知られる国民的漫画家。第一線の作家はなにを書(描)いてもおもしろいという見本のような作品だが、ここでいわれている「脳」が「ことば」や「意味」のことだということに読む驚きがある。

これはことばによってことば(私)を考えることはできない、という不可能についての詩であり、ソーシャルメディア全盛の時代、すなわち過剰なテキストの氾濫のなかに住まうわたしたちについての詩、つまり現代についての詩に違いない、という思いを持つ。高度情報社会とは脳を脳たらしめることばによる社会であり、考えているはずの脳の所在が曖昧で不確かになる(「あらゆることは脳が作り出したことだと言うのに」)時代のことでもあるからだ。

そして、たかがことば、または「脳」が作り出した虚構にすぎないものによって、わたしたちは生き、殺し合い、《私》を見失う。わたしたちという存在の(普段は考えられることのない)軽さ、不確実さ、寄る辺のなさは、その虚構の上にのみ成立する砂上の楼閣にすぎないという事実によっている。だから脳はいつも孤独なのだ、といがらしの詩はいっている。そこにはジャンルのことなる漫画家に詩をしてやられた・・・・・・感があり、これは編集プロデュースの成果に違いないと思う。

もう一つ、ジャンルを横断する作品を。シンガーソングライターの佐藤龍一によるもの。長い詩で、一部を抜き出してみよう。

16時。初夏の電車は寒い。ここは共和国。ことば共和国。電車のアナウンスが詩であるならば、全ての路線は開かれた迷路だ。時間という嘘と移動という迷宮が私という不明を上書きする。お待たせしテンションプリーズ。夕方。この駅には出口がない。いやこれは駅ではない。形而上学的なイソギンチャクだ。

19時半。本日のライブが開演する。見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する。ものを考えたら負けだ。ブルースが錯乱する。時の彼方から認知症がゆっくりと近づいてくる。現在、現代、永遠の現在。ここより遠く我が陣地なく、今より他に時はない。

2時。夏休みの宿題。この世で幻想でないものを見つけなさい。

銃弾。紋白蝶。海。

佐藤龍一 「銃弾・紋白蝶・海」
第一四、十五、十六、十七連

十七連にわたる散文詩で、時間順に語り手の行動が二日間にわたってかたられてゆく構成になっている。いがらしの詩と(おそらくは)はからずも共通しているのは、これがことばについての詩だということで、「見られるものとしてステージに立ち、見るものとして客と対峙する」ことには、読まれるものとして作品を書くとき、そこには特権的または超越的な立場など存在せず、書き手もまたひとりの読者にすぎないという当たり前の理解がある。だがその当たり前のはずの理解は、専業的作家になればなるほど遠ざかるものでもある。だからこそ「ものを考えたら負け」なのだ。

こうした行の鮮烈さは、肉体を駆使するミュージシャン(あるいは、肉体労働としての漫画執筆)のすぐれた身体的感覚によるところが大きいのかもしれないということを感じる。また、「この世で幻想でないものを見つけなさい」は、思わず口にして何度も読み上げたくなるすばらしい一行。もちろんそんなものがないことは書き手がいちばんよくわかっているはずで、だからこそそれは「宿題」として最後に置かれている。

『ココア共和国』の編集前記では、それぞれの作家について秋亜綺羅による紹介がされている。佐藤については「70年代のシンガーソングライターたちを現代詩人として迎えなかったのは、文学の失敗だったと、わたしは思っています」とある。文学――あるいは現代についての詩――の失敗とは、端的にいえばこの数十年で読者が消滅し、社会からほとんど必要とされなくなったことを指すのだろう。

では、それではどうしたらよかった・・・・・・・・・のか、ということに対する答のひとつ、それがこの詩誌なのだろうということを思う。佐藤が示唆しているように、ことばによる連帯、あるいは、いま・ここにあるみえない連帯をつくりあげること。「電車のアナウンスが詩」になりうるような場を用意すること。それが「ココア」と名付けられているのはおそらく、編集部の含羞なのだろう。

なにもかもが露呈し、さらされ、拡散される二〇一八年、そうした含羞をすべての詩人、あるいはまっとうなものを書こうと日々苦闘するあらゆる書き手が共有しているはずである。わたしたちの困難とは、世の中に「必要とされるもの」の圧倒的な退屈さに耐えること、さらにいえば、必要とされないものを必要としてしまう自らをなんの根拠もなく信じることである――つまり、脳なく、ものを考えずに。

◇ ◇ ◇

最後に、詩人の宇佐美孝二を特集した小詩集からわたしがもっとも好きな詩をひとつ。
わたしたちの人生をなんの意味もない白いことばが満たしてくれる。そういうしゅんかんがあること、それをしずかに思い出させてくれる。

夏の休みに厭きて音楽に手をだすと
水の底から汲み上げられてきたみたいに
音が満ちてきて
いままで聴いてきた音楽だのにまだ満ちてくるものがある

立秋を過ぎていまごろ会社にはまったく人がいないだろう
それどころか
この夏にはあちこちに散り散りになり
つまりは残された最後のひとりが
おれってわけだ

(…)

あかさたな
しはしろい
なんて、
意味もないことを口の中でころがす

逝ってしまったともだち
まだ満ちてあるもの

宇佐美孝二 「あかさたな、と呟けば」
第一、二、四、五連

詩誌『ココア共和国 Vol.20』詩誌情報
季刊 ココア共和国
出版 あきは書館
号数 2016  20号
価格 500

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