『石の記憶』アイキャッチ

田原『石の記憶』(H氏賞受賞詩集)

――夢を刻む、石を拾う。そしてあらわれた水に投じる。

◇ ■ ◇

本日は2019年4月1日(月)、今日から新年度である。

今夜の更新からしばらく、新しい年度ということもあり、特定の賞に絞った書評特集をやってゆきたいと思う。具体的には、過去10年のH氏賞を取り上げてみたい。H氏賞とは現代詩のいわば芥川賞。なお本稿でいう「現代詩」とは、一般小説に対する「文芸小説」に相当するとざっくり分類することができるジャンルと考えてほしい。

今夜は、2010年のH氏賞受賞詩集である田原ティエン・ユアンの『石の記憶』を。以前その第三詩集『夢の蛇』(#0064)にて紹介した田原は1965年中国河南省生まれ、中国語と日本語の双方で詩作を行う詩人であり、日本語文学研究者・翻訳者でもある。本詩集にて中国人として初めてH氏賞の受賞者となった。第一詩集は2004年刊行の『そうして岸が誕生した』(思潮社)。他、著作多数。本書には26編が含まれ、これを114ページに収める。

過去10年のH氏賞受賞者は次の通り。

2010年 田原『石の記憶』(#0087)
2011年 髙木敏次『傍らの男』(#0088)
2012年 廿楽順治『化車』
2013年 石田瑞穂『まどろみの島』
2014年 峯澤典子『ひかりの途上で』
2015年 岡本啓『グラフィティ』(#0056)
2016年 森本孝徳『零余子回報』
2017年 北原千代『真珠川』
2018年 十田撓子『銘度利加』(#0042)
2019年 水下暢也『忘失について』

◇ ■ ◇

さて、それでは読み始めてみよう。
「向日葵とわたし」から。

月が色褪せた 星は
盲人の瞳だ
女の向日葵はやつれた太陽の下で
実った 彼女らの秘密の種が
わたしの指でつままれ口に入れられ
歯で一つ一つ噛まれるのを待っている

向日葵が切り落とされたと同時に愛情も
失われた 大地に残された向日葵の莖は
理由もなく勃起するペニスのように
空に硬く突き出ている その血は
緑から白に変り
そして風向きしだいで流れて
大地に何の跡も残さない

刈り入れるためのわたしの鎌は記憶の壁で
錆びた ぎらぎら光るのは
向日葵の種という小さな匕首だ
彼女らは歯が磨り減っている
歯と歯の間で太陽の光と熱を発している

向日葵の種は液体から肉体に変った人間と
違う 彼女らは固体から液体に変り
白い液体はわたしの舌から
食道に送られる 彼女らの膚に固まった
陽射と月光と稲妻と一緒に
種は少女の匂いを帯びて
わたしの舌根と歯の隙間に絡みつく

「向日葵とわたし」第一、二、三、四連

個人的なことからかたりはじめると、私の向日葵の記憶は小学校時代にさかのぼる。のちに阪神大震災で大きな被害を受けた兵庫県の地方都市、その田園地帯のあちこちに点在していた野原に、夏になると巨大な野生の向日葵が咲いていた。向日葵は子供の身長の二倍ほどあり、その巨大な頭部が地面におとす影がまるで怪物のように見えたことを思いだしている。

その太い、ごつごつした、硬い突起をあちこちにおびた幹は、刃などで傷つけると真っ白な乳液をそこから流す。思い返してみれば向日葵の莖は握りしめるとちょうど勃起した男性器の太さに類似し、その花びらの役目を考えてみると、向日葵は男性器の上に女性器が結合されている、どこかグロテスクな、きわめて人間らしい植物であることに気付かされる。

第一連から読みすすんでゆくと、乾燥した向日葵の種を食べている語り手の姿がその行間からちらちらと見えてくる。食べられているのは花弁のなかにびっしりと種を隠した「女の向日葵」だが、それを食べるためにはその女性器を切り落とさねばならない。何から? 男性器、あるいは性交の記憶から、だろうか。乾燥され、出荷され、商品として消費されうるのは、生殖行為から切断されたものだけだからだ。

第四連。「液体から肉体に変った人間」とは、乳液が混ざりあう生殖行為を指し示すのだろうと思うが、一方「固体から液体」に変わるのは、死んだものは乾いていて、乾いたものは固体であるのだから、そうした流転する命の状態をあらわしているのだと読める。だがその食べる行為にはどこか暗い影がかかっていて、まぶしい光がふりそそいでいるなかで、隠された何かがそこにあることを想起させる。そこに描かれているのは「やつれた太陽」のどこか黄ばんだ光、隠されていた秘密すら失ってしまった向日葵たちが、ただただ刈り取られ、消費されるのを待っているだけの、色あせた時間だ。

いま 私はその鬱陶しい響きのなかで老けてゆく
嵐の後の海面のように 音の波が
砂浜と海岸をやさしく舐める いま
鐘の音に覆われた都市は老けてゆく
それに縛られた人間はひもを振り切る
昼に彼らは精神の旗をかけて熟睡し
夜に彼らは理想の矛を担いで夢遊する
鐘の音は紊乱の足取りに踏み砕かれ
そして風に天地の果てまで吹き飛ばされる

仮寝の樹木は鐘の音を拒むようだ
そのあかぎれの切れた皮膚に包まれた年輪のなかは
鐘の音の音盤であり 木の中で響き
木の芯で冬眠している虫を目覚めさせる
しかしそれはまた夜中に枝に飛び返った鳥たちの催眠曲である
鐘の音 鐘の音

その飛行する音と落下する音は
滝が天から流れ落ちるように激越で
柳絮が舞い上がるようにしなやかである
雲に触れて 雲は音の花を咲かせ
田に落ちて 大地は天外の星のように落下する
鐘の音 鐘の音

それを鳴らした指はとっくに地下で腐敗した
しかし先祖の不死の魂は
ある土地の中で耳を澄まして聞いている
鐘の音は六朝五府を響いてくる
古代のローマ インドとチベット高原を響いてくる
星空と地表をも響いてくる
石はその響きのなかで風化する
大河はその響きのなかで涸れてしまう
人類はその響きのなかで死生する

私は鐘の音のなかの暴動と一揆を思い出す
鐘の音のなかの陰謀と計略も思い出す
暗い歳月において 鐘の音は鐘の音である
明るい日々において 鐘の音はやはり鐘の音である
時間はその音質を変えられないが
それはかえって時間と日々を変えてゆく

「晩鐘」第一〜五連

「向日葵とわたし」でかたられていた色あせた時間、それは老いのことなのだろうということを考えさせられる。ひとはだれでも歳を取り、鏡に映る自分はいつしか醜くなってゆく。それはたとえばおとろえてシミができた皮膚であり、冷たいものが染みるようになる歯であり、眉に混じる白髪であり、曲がりはじめた背であり、体のあちこちにあらわれる微細なたるみであり、役目を終えて衰える生殖器でもあるだろう。

晩鐘、は夕暮れに鳴り響く鐘。夜の訪れを示す鐘だが、それは下り坂に入った人生の入相で鳴り響く鐘であり、斜陽の国の夕暮れに鳴り響く鐘であり、あるいは技術の進歩が必ずしもひとを幸せにしないということにふと気が付いてしまった人類の空虚な広場に響く鐘の音なのかもしれない。それが「鬱陶しい響き」なのは、そうした鐘の訪れが、私たちにとってけして気持ちが良いものではないからだ。それは不可避で、じわじわと私たちをむしばんでいく。砂を侵食する波のように。

第五連。「時間はその音質を変えられないが/それはかえって時間と日々を変えてゆく」の二行の前で考え込む。第五連をよく読むと、ひとが起こすさまざまな歴史の出来事の上を、仮象の鐘の音が変わらず響いてゆくさまがかたられている。これがどういう意味なのか考えるが、鐘の訪れに示唆される夜の訪れ、老いを止めることはできない、とひとまず読める。そしてだからこそただただえいえんに繰り返されるように見える日々がひとの眼には新しく見える、ということかもしれない。

何回もおまえを通り抜けた
やっとおまえの名前を覚えた
西公園よ 僕の行く先へ行ける道は
幾つもあるけれども
どういう訳か
僕は毎回 知らず知らずのうちに
おまえを通ってゆく

おまえの名前を覚えると
公園という概念は心の中で小さなものに変わり始めた
手のひら大の面積はおまえ
周囲に生えている大木はおまえの指のようだ
四季に青いその木の下を通りすぎるたびに
まるで恋人の愛撫を受けている感じだ
心の中に寄生する悪やわだかまりの雑念も
おまえの濃緑によって濾しとられる

ある時 近道をしようとおまえを斜めに通り抜けると
手のひらであるおまえの生命線上を歩いたようで
僕は自分の運命に感慨を催した
おまえと出会った不思議
長腰掛けへと続いているその小路は
抱きあうカップルへと通じている
僕はそれをおまえの愛情線だと仮定する
その北側には もう走らない機関車が
横付けになっている
焚いた無数の石炭よりも黒い車体が
歴史を復元して静まり返っている

おまえの手のひらの真ん中に立つといつも
パン切れを千切って野良猫に食べさせる老人に心打たれる
ときおり 木の枝で騒ぎ立てたり糞をしたり
それから人の群に急降下するカラスに
やるせなさや恐さを感じることもある

「西公園の手のひら」第一、二、三、四連

詩でかたられている西公園とは何かということについて、いくつかの読みがありうると思う。私には「西公園」が何らかの人名のように見えてならないのだが(そしてその根拠を具体的に示すことはできない)、普通にどこかにある公園、それも語り手の職住環境の近隣にある公園を指しているのだろうとということをひとまず想像する。その根拠は第一連、その名前がどうでも良いものであること、つまり記憶できないものであることがかたられていることで、私たちは身近にあるものについてはたいした興味を払わないことが多いからである。

もちろん、読みに根拠を示す必要は必ずしもない。名前がないものについての詩、そして名前がないことによってむしろ記憶に残るものについての詩、と何の根拠もなく、、、、、、、読むこともできる。読み進めると、自宅または職場からどこかへと向かおうとするさいに、そこには矩形または正方形の場が置かれていることがわかる。だがそこを通過することにはいかなる理由もなく(近道のためだろうと思うが)、「どういう訳か/僕は毎回 知らず知らずのうちに/おまえを通ってゆく」と説明なしに読者は突き放される。

第二連。名前が記憶された公園は「小さなもの」に変わりはじめ、手のひら大に縮小される。巨大な手のひらのなかの四角から逃れられないさまは、『西遊記』の釈迦の手のひらからけして逃れられなかった傲慢な猿の逸話を思わせる。だがその手のひらは、単に通り過ぎるだけの場としてあることが繰りかえしかたられている。そこにはどこか、ひとをその内部にいることを強いる力場のようなものが想像されているように思う。「どういう訳か/(…)おまえを通ってゆく」。それは私たちが毎日のように通り過ぎながらも、じつのところけして出ることができない、世間や社会や共同体といったものを想起させる。

第三連。手のひらのなかの四角(それは生命線や感情線の存在によって示唆される)を区切る線が想像される。近道をしようとすればそれはおそらくまっすぐな経路なのだろう。公園の真中には機関車が置かれ、路の不在が明らかにされることで、いくつかの線によってつくられているという場の存在があらためて念押しされる。私はここで、巨大な手のひらの上に置かれた将棋やチェスの盤の升目を想像した。もちろんその駒は私たちなのだが、それを動かす釈迦はいない。いるのは自ら線を引き、四角をつくり、公園をつくり、そこを横切ることにどこか愉しさを見出している駒だけである。

時折 彼女の足音の爆撃や彼女のシャワーの激しい雨足を
我慢しないわけにはゆかなかった

彼女の足下での生活は 随分長くなり
騒音に掻き乱されて僕は心の中に
幻想の波しぶきを出現させ始めた
僕は僕と同じ造りの部屋を想像した
二つの南向きの部屋は道路に面し
春の桜の老木が窓ガラスに浮かび上がっていた
僕の寝室の上は彼女の寝室
僕の浴室は彼女の浴室へと繋がり続いていた
彼女の瀑布は僕のトイレの配水管を通って地下へ流れ込んだ
ときには 僕らはタイミングよく同じ時間に飛び込んだ
僕は自分の健康な裸体を楽しみ
彼女の鏡に向かって自分の乳房と肢体を
見ていたのかも知れない

朝 僕は外出し彼女も外出した
僕らは廊下でばったり出会い
微笑みと会釈で挨拶をした
彼女の瞳は絶景
ときには 彼女は僕の前を行った
階段を下りるとき彼女の乱れ髪は絶景
階段を上るときの彼女のお尻は絶景
時には 僕らはエレベーター前で待った
その時 彼女の豊満な胸と恥じらいの表情も
また絶景だった

週末には彼女の長い夢を見た
いつも高く上る翌日の太陽を飾り付きのカーテンが拒絶した
僕らのベッドが同じ位置に置いてあるかのように
彼女の柔らかい夢が落ちてきて僕に当たり
たびたび目が覚める夢を何度も見た
彼女の夢は透きとおるように白くて温もりがあり
数え切れないほど撫でたことのある美しい乳房を思い起こさせた
夢の中で何度も 彼女の乳房を握りしめるように
僕の手は掛け布団の角をきつく握った
その後ひとしきり痙攣をして目が覚めた

「二階の娘」第一、二、三、四連

個人的につよく興味を惹かれた詩編。私小説的に書くのであれば、おそらく具体的な建築物の構造からナラティブがはじまるのではないかと思う(たとえば、「僕が住むアパートの二階には、若い女性が住んでいた――」など)が、詩はそのような制約から自由であり、それぞれの時間も空間も自由にばらばらに解体し、普段はつなげることができないような結合をすることができる。おそらくは読者は、この詩は作者が具体的に体験した事象(アパート、近所の娘、生活音、その裸体についての妄想など)に基づいて書かれたものだと推測すると思うが、私も同じことを思う。だが、そうした体験をそのまま書くことは、おもしろくない、、、、、、、。別の言い方でいうと、わかりやすく説明、、、、、、、、することはおもしろくない。

第二連。「彼女の足下での生活」は、「彼女の部屋の下の部屋に住んでいる生活」と読みかえられるが、そうすることで前者が包含するねじれや関係性の暗喩が解消されてしまう。ねじれとは足下にいる自分の生活がいつの間にか彼女の生活と同化してかさなってしまうことであり、暗喩とは性的な関係性だ。語り手は同じアパートに住んでいる異性について想像力または妄想をふくらませていると表面上は読めるのだが、実在しない女性についての春の幻想のようにも読める。春という季節がもたらす肉の疼きに「彼女」という名があたえられているのかもしれない。だがそう説明してしまうとその曖昧さのなかにある魅力がそこねられてしまう。わかりにくさをわかりにくさのまま、、読むことが求められている。

第四連。垂直に配置された部屋がいつのまにか写し絵のようにずれてかさなっている。「僕らのベッドが同じ位置に置いてあるかのように」は、とても好きな一行だが、それは性的なイメージというよりは、季節の祝福そのものとベッドをともにして眠っているような読後感を受ける。近いようで遠く、「数えきれないほど撫でたことのある美しい乳房」は、すでに手元にはない大切な何かのことを思わせる。だが季節とはそういうものかもしれない。毎年のように訪れ、去ってゆく。どの季節も同じでありながら同じではなく、そこには少しずつ老いてゆく自分がいるだけである。

「二階」とはほんの少しだけ太陽に近い場所であり、より温かく「柔らかい夢」がある場所であることが示唆されるが、一階との差はわずかなものであり、それはやがて冷えた一階へところがり落ちてくるほかない。一階の私たちはいつまでも二階を夢見るだけである。なぜならひとはけして彼女がいる二階に戻ることはできないからだ。

◇ ■ ◇

この詩集でもっとも印象に残った詩は、「堰き止め湖」を挙げたい。
著者あとがきによれば、この詩は2008年に起きた四川大地震の後に書かれたということだ。同地震では何万人もの死者が出ている。

この詩が書かれた時期にある感慨を持つ。私たちはそのすぐ後、2011年に東日本大震災を経験し、それ以降、この国が変わってしまったことを日々肌で感じている。あの地震が粉々に砕いたものは、人々の命だけではなかった。あの地震は、私たちから生きる力を奪いつづける巨大な負債として、消えることのない青い弔火となって燃え続けている。

ここでいう堰き止め湖とは、川が土砂で埋まり、堰き止められた水によってつくられた巨大な水のたまりだということだ。詩がいう反逆者とはこの突然あらわれた堰き止め湖のことなのだが、それは大きな自然の力を指していると読んでもさしつかえないだろう。

だが私たちはこの詩のように、自然を反逆者だということはできない。2011年以降、私たちはそうしたことを自らに許すことができなくなった。私たちには責があることを、つねに思い出させる半壊した原子炉たちが、私たちが死者を弔うことをさまたげる。田原の詩は10年の時を超え、私たちの手が自らの墓碑に刻むべき文字のことを、私に考えさせる――反逆者、それはお前たち自身だ、と。

大地が千年に一度の大暴れをした後
突然現れた反逆者 それはお前
山あいを
悲しみながら流れる川を押し黙らせ
山々を揺り動かし震え上がらせた

日差しの形をねじ曲げ
感情を押し殺して成長し 深みを増していく

窃かに
夜空の月星をどうやって溺死させようかと
企んでいる

お前は天と高さを競おうというのか
白鳥の湖となり
水辺に戯れる白鳥たちに卵を産みつけさせようというのか
或いはもうひとつ別の悲劇を仕掛け
瓦礫の下に押しつぶされた声を押し流し
大地の癒合できない裂け目に流れ込もうとでもしているのか

たとえお前が大地よりはるかに横暴だとしても
山と樹木を根こそぎ押し流そうとも
死者の魂はお前にもう何も感じはしない
生き残った者にもお前を呪う余裕などありはしない

堰き止め湖 堰き止め湖
若い母親の涙の枯れたあの目をお前は見たか
ただ茫然とそれでも諦めきれず 昂然と廃墟を眺めながら
呼び声が聞こえてくるのを待ち望んでいる目を

「堰き止め湖」第一〜六連

(2019年4月1日)



田原『石の記憶』書籍情報
石の記憶
出版 思潮社
発行 2010年
著者 田原(ティエン・ユアン)
価格 2000円+税

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