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松井ひろか『若い戦果』

――しずかに花の咲く庭のそば、夏を煮詰めてジャムをつくろう。

■ □ ■

本日は2019年2月25日(月)。関東はそろそろ春の気配だ。

今夜、私たちが読む詩集は松井ひろかの第一詩集『若い戦果』。以前取り上げた第二詩集(#0020)より五年前の2012年に刊行されたものになる。松井は1983年生まれ、埼玉県川口市出身。2007年度詩と思想新人賞入選。本詩集は百十二頁に二十九編を収める。なお本書は著者より頂いたもの。

第一詩集といういいかたに耳慣れない読者もいるかもしれないので、少し補足を。2019年、詩はじつにさまざまな形でさまざまな個人媒体にて発表できるが、詩集を編むとは、それぞればらばらの場所と時間で書き続けられた作品群を、どこかのタイミングにてあらためて集め、吟味し、どういった順番でひとつの書物のなかに配置し、どれを排除し、どれを採用し、どれを冒頭に置くか、どれを最後に置くか、こうしたことを考えた上で、書物のかたちにまとめる作業だ。さらにいえばそれを商業的なルートで販売・流通せしめることを可能にしなければならない。第一詩集とは、これまでそうしたことを一度もやったことのない若手や新人が、ある覚悟を決めなければ出せないものだ、ということが言えるだろう。

なお、どんな作家のデビュー作もそうだが、第一詩集はその詩人が意識的であれ、無意識的であれ、書こうと試みている何かが凝縮されたかたちであらわれる。詩集の場合は、そもそも発行部数が少ないため、第一詩集を手に入れることがとても困難、あるいはほとんど不可能なことがままある。《千日詩路》ではできるだけ第一詩集を読むことを前提としているが、必ずしもそれを書評の条件とはしていない。前述のように、すべての読者が第一詩集から読むなどということはありえないからで、ほとんどの読者はたまたま手に取った詩集を読むだけだ。一読者と同じ目線に立ち、詩集を読むことが、インターネットにおける詩と書評のサイトである《千日詩路》の方針でもある。

さて前置きが長くなった。さっそく読みはじめてみよう。
冒頭に置かれた「タチアオイが燃え上がる」から。

雨上がりの国道沿いで お母さん
からだを屈め 何をしているの
暗闇に紛れたつもりでも
白色のコットンシャツが
それを許さない

タチアオイの花の あさやけ透かすぴんく
さわやかな真昼の赤
夜半にとろける深むらさき
——うちの軒先に植えるの
こんなにキレイな花 見たことないわ

もう一度 腰を入れる
花の足は微動だにしない
自分と同じ背丈くらいのタチアオイを抱きかかえる
お母さんが 炎となって
舞い上がる

「タチアオイが燃え上がる」全文

第二詩集『デラ・ロッビア・ブルーの屋根』の表紙にもタチアオイが使われていたことに、私はこの詩を読んでから気がついた。ひとの背丈以上に自立するタチアオイという花のことを、じつは私はよく知らない。いや、おそらく過去に何度か自生するタチアオイをどこかで見たことがあるはずなのだが、固有名詞が頭のなかになかったため、それは存在しないものとして扱われ、記憶に残っていないのだろう。ひとは、名前を知らないものを、記憶することはできないのだ。

第一連、二連を読むと、そこに時間が圧縮されていることに気がつく。暗闇、あさやけ、真昼、そしてふたたび夜半と、ひとつの場所でタチアオイを持ち去ろうとするだれかの姿が、それぞれの時間軸にかさねられ、そこに存在している。それは何を意味しているのか。第三連に答らしきものがある。タチアオイを盗もうとして、持ち帰ることができず、そこに佇んでいるものがいる。うつくしいものを持ち帰ろうとすること、あるいは盗み持ち帰ろうとすることが詩になぞらえていると読める。付け加えるならばそれはきわめて私的な目的のため、「うちの軒先に植える」ためである。

そもそもだれも野草を所有することはできない。だが、それを持ち帰ることにはどこかしら罪悪感が伴い、暗闇のなかで白く輝くコットンシャツがその行為を明らかにしている。それは美を勝手、、に持ち帰り、それを白紙に勝手、、に記すこと、だろうか。詩集の冒頭に置かれたこの詩からは、松井がどのように書きたいのか、どのように書き始めたのか、その由来がかたられている、いわば宣誓文のように読める。

第三連。タチアオイを持ち帰ることに失敗した母は炎となって舞い上がる。それは書き手が持ち帰ること、記憶することに成功した情景であり、詩的なるものを駆動したたところの契機、何らかの具体的な出来事を指し示しているのだろう。とても印象深い詩連だ。

し合わせ

あなたと わたしが し合わせたときから
わたしのし合わせについて
わたし自身が
とやかく言うことはできないのです

あなたの視界に入ったわたしが
〈わたし〉だと認められても
やがてちりぢりになり
あなたの頭に残る〈わたし〉も
あなたの頭から外れる〈わたし〉も
わたしは どうすることはできません
造花の花弁を一枚
一枚 と張り合わせ
此の世にまだ咲いたことのない大輪の花に成すようにはとても
〈わたし〉を縒り合わせられないのです。

抗おうと
従おうと
そのうち あなたが消えるとき
あなたの中の〈わたし〉もまた消えるとき
そこにわたしのし合わせがあると
わたしはおもいます

しかし
この件について
あなたと わたしは
一切 し合わせないのです

「あなたと わたし」第一、二、三、四連

前半が「し合わせ」、後半が「千年の知己」に分けられた詩編。
辞書から参照すれば「しあわせ」は「仕合わせ」であり、めぐりあわせ、機会、天運を意味する。「幸せ」と書けばそれは幸福、幸運を意味する。

それでは「し合わせ」とは何を意味するのだろうか。
端的にいってしまえばそれは私が私とめぐりあうことであり、自分の中に他者を発見することなのだろう。だがそこにはずれがある。合わせられたはどこかずれている。そのずれは「あなたと わたし」の間にそっと置かれた空白のようでもあり、し合わせと口に出して読んだとき、し、と、合わせ、の間にあらわれる音節のわずかな隙間のようでもある。私は私にめぐりあうことはできず、そうした幸福なしゅんかんはえいえんに訪れない。えられるのはただどこかずれている自分だけ、それも必ず少し遅延してあらわれるような自分なのだと読める。

〈わたし〉を縒り合わせることがかたられる第二連。縒りを戻す、ということばが想起されるが、もともとひとつであったもの、絡まりってひとつであるかのように見えたものがばらばらになり、それをふたたびもとの状態に戻そうとするこころの動きがそこに読みとれるが、そうしたこころは、ばらばらになった造花の花弁を張り合わせる様子になぞらえられている。だがそれは「まだ咲いたことのない大輪の花」でもあり、私がわたしを縒り合わせることは、不可能な花を思い浮かべ、それを取り戻そうとすることと同じであるとかたられる。

は、その不可能な映し身をえがくために書き手が採用した手法なのかもしれない。何もかもが可視化されているという大いなることばの詐術のただなかに生きる2019年の私たちにとって、その詩は新鮮である。

炎天下の校庭をつんざく
スピーカーから 教師の声が
こんがり焼けた 子どもらの
肌を刺す
笛が鳴る
薄葉紙でつくった白い花飾りを手に
子どもらが回り始める

足元がやわらかい
焦土色の顔をした男は
踏み付けていた蔓草の行方を ゆっくりと確認すると
校庭の周りに張られているネットを超えて
あちらにわたった蔓草の先から
子どもらの踊りを見ているような気がした
しばらくして男は 小学校前の公衆便所へ何気なく入っていった

くりくり動く 子どもらの大きな頭
一向にそろわない手足の動き
それぞれ一列になって向かい合う
白い花と 白い花とが遠くから
徐々に 徐々に 近寄り合って
一列に重なったところで 中心を軸に十字に広がり
時計と同じ方向へ回り始めた

「白昼」第一、二、三連

白昼とは、真昼の光がふりそそぐ光景のはず。だがそn詩連には隠されている何かが感じられる。それは例えば「小学校前の公衆便所へ何気なく入っていった」男の姿だ。男がそこでしようとしている何か、、は、光が届かない小部屋の中に隠されたままだ。はちゅう、ということばは角ばった函とそのなかにいるものを想起させもするが、詩連から受ける印象は極めて不吉なものであり、私は第二連から、真昼の光が照りつける地面の孔にじっと潜んで獲物を待ち受ける昆虫の濁った吐息を想像した。

第一連。薄葉紙で作られた花飾りは、外からの力によって簡単に壊されてしまうものだ。その脆弱な花飾りを持ったまま子どもらは回る。太陽の日差しが何もかもを明らかにする白昼に照らされたまま。そこに書かれていないはずのものが、ある強度をもって行間から立ち上がる。非常に好きな連だ。

第三連。揃わないものについて。頭(意識)の動きと、身体(ことば)の動きはけして揃わない。作り物の花をもったまま、揃うことなく子供らは規則に従って動こうとし、その連の最後にて機械のような正確さで十字が作られ、何らかの統率がえられたことがかたられている。これをどう読むべきだろうか。私はこの十を切り傷、創傷だと読んだ。秩序のない子供らをまとめたのはひとつの傷、それも二回に渡って交差するように切りつけられた傷のように読める。

その傷をつくったものは何か? それに詩は答を与えることはない。それは私たちの生に痛苦をもたらすものが何かだれも答えられないのと同じである。白昼の陰のなかに潜み、子供らを見ているものの示唆があるだけだ。だがそれも注意深く読むと「見ているような気がした」と書かれており、見ていたかどうかすらじつのところははっきりとしない。わからないことをいかなる解説も加えずにかたる詩に、この世界に対する誠実さをみる。

深夜の台所で 九月に七十になった父親が
ウォルトンの『釣魚大全』を読みながら
あまなつのジャムをつくっている
父親は痛風の脚を引きずって何度
空想の川面に糸を垂らしたことだろう
ベッドではその妻が ぱっくり口を開けて
いそぎんちゃくみたいな呼吸を繰り返している

父親の娘は 窓の外の夜空を見上げた
娘の眼は奥二重で小さなアーモンド型をしていた
娘はパソコンの前にしゃがみ
自分で切ったセシルカットをくしゃくしゃ撫でながら
泡沫候補たちの政権演説を眺めていた
台所から 二階の部屋まで甘い香りが一本のリボンとなって流れてくる

眠れない夜が 眠られない夜となって
答えの用意された問題を解いていればよかったあの頃
いまは 答えがあるやもわからない問題に取り憑かれている
サンクトペテルブルクの薄あかるい白夜の深夜
数学者グリゴリー・ヤコヴレヴィチ・ペレリマンが
新たな世紀の難問に挑みかかっている

「真夜中のプリズム」第一、二、三連

個人的なことだが私は料理をするので果物系のジャムはたまに作る。だが甘夏でジャムが作れることを今回この詩で初めて知った。ジャムにすると果物そのものがもつ色と香りは濃くなるが、甘夏のジャムは名前の通り、夏そのものを煮詰めたような色と香りがするのかもしれない。

「眠れない夜」から「眠られない夜」の変遷が印象的な第三連。眠られない夜、からは、眠れないのではなく、眠ることをしずかにしりぞける意思のようなものを感じる。眠れないのではなく、「答えのあるやもわからない問題」を得くために眠ることを一時的に選ばない姿勢がそこに示唆されている。もちろんそれは数学者の研究のことでもあり、あるいは正解などどこにもない詩作のことでもあるだろう。

プリズムを通した光は分光される。プリズムを通せば、ほんらいひとつに見えていた光は、複数の異なる波長の色をそのうちに併せ持っていたことが示される。光のない真夜中にプリズムが準備されるのは、ほんらい見えるはずのない、存在しない情景を詩が想像しているからだろう。

第一連、父親はジャムを作っている。その姿が「空想の川面」に糸を垂らす姿とかさねられている。深夜にジャムを作ったり、ジャムを作りながら釣りの大著を読んだりしている光景にどこかずれを感じるのは、複数の異なる時間と情景が同じ連に挿入されているからだと思う。

父と母がそれぞれの病や生活と向き合う中、その娘はどこか異なる部屋にいる。だれかのためにジャムを作る父親と娘をつなぐものは、「甘い香り」の一本のリボンだけだが、そのつながりがじつのところ弱いものでも遠いものでもないことが読みとれる。父は娘のためにジャムを作っているのか、それとも妻のために作っているのか、それはわからない。ひょっとしたら自分自身のために作っているのかもしれない。

ひとりで家族のために料理をするとき、ひとは家族ではなく自分と向き合っている。それをこう言い換えることができるかもしれない。ひとは第三者(読者)のために詩を書くとき、否応もなく自分と向き合う、と。詩を自分のためにだけ、自分を救うためにだけ書くとき、いつの間にか、それが第三者を救ってしまうことがある、とも言える。この詩で松井が(おそらくは自分になぞらえた娘ではなく)父親が一人でジャムを作る様子にむしろ焦点を当てていることに、私はどこか救いを感じたことを書いておきたい。

□ ■ ■

さて、本詩集でもっとも好きな詩は、「白昼」と悩んだが、「最後のオレンジ」を挙げたい。この詩をひとつの物語としても読め、パレスチナのガザ地区にある市場に入場を拒否された老人が、売り物だったオレンジをすべて海に投じて帰る様子がえがかれている。

マイノリティとマジョリティ。大衆のうちにある分断と差別……それは私たちにとってもすでに身近なものであり、いまそこにある風景でもある。老人はオレンジをすべて捨てたが、ひとつだけ捨てられなかった。市場へのアクセスを不当に奪われ、制度から放擲され、長時間の苦労が水の泡になった老人が、それでも捨てることができなかったオレンジ。それが詩なのだろう。少なくとも松井はそう信じているように感じられ、それが私たちを勇気づけるのだと思う。

松井ひろかの第一詩集は、自分のことを主な題材にして書きながらも、書いているうちにそれが《私》を超えた公共空間(読者)に接続されてしまうことについての驚きと、それを見出していった書き手の興奮が随所に感じられた。

書くとはありえない果実をえること。存在しないのに、何よりも甘いものなのだ。

市場の門は閉まっていた
老人は 重い荷車を引いて門前に立ちつくした
荷車に山と積まれたシャムーティオレンジ
肉厚の皮の中に爽やかな果汁が満ち満ちて 漂う甘い香り
長いまつげに白毛の混じる老人は
鈍い光線に照らされながら
水晶体の濁った眼をしばたたかせると
荷車ごとからだを回転させ
枯れ草の生えた小道を海の方へ歩いて行った

パレスチナはガザ地区
地中海に面した 港になるはずだったところ
老人は赤錆の浮いた鉄骨の横に腰を下ろすと
眼をつむり 丸まった背をさらに丸くした
しばらくして
雲間から太陽がのぞいたその時
老人は荷車に積んだオレンジを掴み
波の穏やかな海に 陽に灼けたほそい腕で力なく投げ入れた
沈んでは浮かぶオレンジのかるみにあわせて
沈んでは浮かぶ老人の気分を 乾いた風がなだめすかした

陽が暮れた
夜が 一枚のつめたい布となって老人を覆った
かるくなった荷車を背にして 老人の眼は
深い海の色をしていた
海に放った新鮮なオレンジは
ふわふわと沖の方へ流れていった
老人は その場をはなれなかった
守られねばならない約束を待っているかのように――
老人の手には
まだひとつのオレンジが握られていた

「最後のオレンジ」全文

(2019年2月25日)


松井ひろか『若い戦果』書籍情報
若い戦果
出版 土曜美術社出版販売
発行 2012年
著者 松井ひろか
価格 1800円+税

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