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永澤康太『誰もいない』

――ぼんやりとうたう、短命な夜の食堂で。

□ □ ■

本日は2019年2月18日(月)。寒さのなかに春の気配を感じる。

今夜、私たちが読む詩集は永澤康太の『誰もいない』(七月堂、2016年)。永澤は1983年生まれ、『現代詩手帖』年間最優秀投稿者に与えられる「現代詩手帖賞」を2005年に受賞。本詩集は以前書評でも紹介した永澤らが主催する朗読講演会(#ex017)にて言及した第一詩集『lose dog』(思潮社)に続く第二詩集。

私が調べた限りでは、本詩集は一般的な詩集とは異なる経緯を経て制作されている。リアルタイムで見ていたわけではなく、時間をさかのぼって調べたことを断っておきたいが、本詩集に収められた詩は、特定の朗読講演会のために制作され、後日その成果物としていわば後追いでまとめられたもののようだ。その講演会を紹介する記事が下記URLにてまだ公開されている。

新詩集『誰もいない』(未刊行)の初演を行います。本作は、ここ5年ぐらいのサンズイを中心とした声と身体、、、、の活動を通して生まれてきた詩集です。まだ本の形にはなっていません。また、そもそも活字媒体を前提としないところから生まれてきた詩篇群でもあります。しかしながら、全19篇すべてが完成形として身体のなかに内在しており、それは詩集の本来的な意味における「原本」と呼べるようなものだとぼくは考えています。それは卓上で作られたものではありません。生きた空間と時間のなかで何も持たずに声と身体を通して自らの詩と対峙することで形成されたひとつの結晶体のようなものです。いわば物としての詩集以前の詩集として、そのような位相としての詩集があるのだということを提示できる機会になればと思い、このような公演を設けました。朗読でもない、演劇でもない、「詩を上演する」という在り方をぜひご覧いただければと思います。みなさまのご来場、お待ちしています。

会場:ルクスギャラリー(京橋)
東京都中央区京橋2-11-11田中ビル3F MAP

2013年7月21日 「永澤康太ヒトリテン」イベント告知文章(URL)
※傍点は《千日詩路》編集部によるもの

一般的にいえば、さまざまな場で断片的に制作した詩編を、朗読という形式にて先行して発表し、後日それらをまとめ、一冊の詩集にする、ということはよくあることだ。一方、本詩集のユニークなところは、最初から朗読講演会のために制作され、実際に朗読が行われた十九編を、いわばその成果物として後でまとめたことにある。つまり、重点は詩集にあるのではなく、むしろその前に開催された声と身体の朗読講演会にある。

実際に講演会が行われたのは2013年で、当時の情報はすでに散逸し、詳しく調べることはむずかしい。また、本詩集には、そうした成立の経緯についての解説はなく、いや、おそらくは意図的に排除されている。本詩集がいわば特定のライブを事後解説するような位置づけの書物であることも含めた説明も付されてはいない。

そうした企図からは、朗読のおもしろさ、永澤のことばを借りれば「声と身体の活動」のおもしろさというものは、その場にたまたま、、、、いなければ、けして体験することができないものであり、それを本のかたちで提供することはけしてできないのだ、というひそかな声を読むことができるかもしれない。

さて、本詩集は前述の十九編を含め、これを六十六ページに収める。
それぞれの詩に題名はついておらず、巨大なひと繋がりの詩編としても読める様式が取られている(目次にて題名は確認できる)。

□ □ □

さて、それでは読みはじめてみよう。
「夏の終わり」から。

この、
道、
を――
通る度に、
いつも、
季節あなたが、
立ちどまる。

もう――
何千という、
蟬の、
声を、
聴いた、
夏。

その夏の最後に――
もう一度、
頂点ピークるって、
おかしいかしら?

ふ愉快な、
蟬の乳飲おとが、
さっと流るる――
水の、
川の、
音楽ジョークに変わる。

川の傍にはいつも水がある……
それって何だか、
ふ思議じゃない?

こんなこと、
言いたかないけど、
こんなこと、
言いたかないけど、

おかあさん、
おへそ返して……
ぼくも、
あなたを、
産んだのだから――
ねぇ、
おかあさん、
おへそ返して……

水のない川が見てみたい――
もう一度、
そこから、
生まれなおすことも、
出来るかしら?

「夏の終わり」第一〜八連

第一詩集『Lose Dog』と比較すると、文体の違いに驚く読者も多いかもしれない。
だがよく読むと、文体の底からどこか地声が聞こえてくるかのようなナラティブは変わっていないことがわかる。過去の詩作と具体的に比較してみたとき、永澤がその文体から削ぎ落としてきたものにも興味をそそられるが、ひとまずは眼の前の詩を読んでみよう。

個人的な話からはじめると、私は夏が四季のうちでいちばん好きだ。夏がいつまでも続けばいいのにと思うが、夏はいつもあまりにも短い。とくに日本の夏は短いと思う。それは蟬の生と同じぐらい短く、やってきたと思ったしゅんかんにはもうその死の背中が見えている。実に気の早い季節だということを思う。

「季節」に振られた「あなた」というルビが振られていること、「ふ愉快」と「ふ思議」などひらがなへと意図的な置換が行われていることが目をひく。時間あなたは、いつもあっという間に私たちを置き去りにしてゆく、と読める。水が高いところから低いところへと流れるように、だれもそれを止めることはできない、という理がひとまず提示されている。それは幾千の生が消尽されて消えていく夏の光景にもかさねられている。

だが詩において時間は直線的なものである必要はなく、理(と信じられている世界に対する理解)の外を流れることができる。それは母親が子をなすのではなく、むしろ子が母をなすような逆転した場のことだ。そこには水の流れを必ずしも必要としない川があり、ひとがもう一度みずからを生まれ直させることができるような、ありえない場が想像されている。

私がおもしろく思ったのは「ふ」というひらがなの使い方で、「不愉快」ではなく「ふ」愉快であること、また「不思議」ではなく「ふ」思議であること。漢字の不は否定の意味だが、これがひらがなで置換されていることによって「ふ」の愉快、「ふ」の可思議、あるいはふいの愉快、ふいの可思議、とさまざまな読みが許容されるようになる……の、だが、もちろん朗読でその違いはわからないだろう。

これはじゅんすいに私の想像なのだが、これはおそらくこの部分だけ、朗読ではイントネーションを外して読むのではないだろうか。「ふ」ゆかい、と読んだとき、そこにあらわれるのは、どこか微笑みながら愉快だとかたる詩なのではないか、ということを想像している。

「おかあさん、おへそ返して」は、本詩集を通してもっとも印象に残る一行。
臍は母親との生物としての不可逆の繋がりを意味すると同時に、川としての血流の流れの喩との結節点をさししめしていると読める。上流から下流へとしか流れない川は母から子への非対称的な関係をあらわしているのだろうが、子の側から臍を返すよう要請することは、不可能な関係性をかくとくすることを企図しているようにも読めるし、時を自在に往還せよと迫る詩の身振りなのかもしれないということを考える。

声は、
楽器では、
ありません。

叩いたり、
こすったり、
弾いたり、
ふるわせたり、

そんなこと、
しなくても、
声は楽器ではないのですから――
音になることもないのです。

声は――
耳で聴くのではありません、
目で見るものでもないのです。

声は――
もっともっと、
透明な何か。
得体の知れない、
何ものか。

もっともっと、
遠くにあって――
もっともっと、
近くにある、
移ろいやすい――
何ものか。

「声」第一〜六連

「声と身体」をキーワードに活動を続ける詩人の声明文のようにも読める詩。

永澤の朗読はかなり好きな部類だが、そこにはメロディといったものはなく(おそらくは注意深く排除され)手のひら、脚、それから身体のいずれかの部位を用いて叩く音、そして口を用いた破裂音などが追加の効果音としてあるだけである。そこには一般的な音楽作品を聴くときにえられる快楽やカタルシスはない。永澤自らがかたるとおり、「声は/楽器では」ないからだろう。

第四連。「声は――/耳で聴くのではありません、/目で見るものでもないのです。」がとくに印象に残る。それはいかなる意味だろうか? もちろん、朗読においてまず私たちは耳で詩を聞かざるを得ない。一方、日本語(や、その他漢字圏に属するアジア言語も含め)や韓国語には同音異義語が非常に多く、私たちはこれらを音声を用いて聴くとき、ある緊張、または想像力を強いられる。つまり耳で聴きながら、これを視覚的に想像で補いながら、詩を「読んでいる」、読まざるをえないのだ。

声と音を明確にわける第三連も興味深く、私がもっとも読んでいて興奮したのはこの部分。ここでは意味にはてしなくよごれている声と、じゅんすいな音を区別しようとするこころの動きがある。だがそれは不可能であり、「得体の知れない、何ものか。」の前に、結局のところ朗読という営為もまた敗れさるほかない。それはかたちを与えたしゅんかんに消えさってしまうような何かにかたちを与えようとすることであり、永澤が詩集ではなく朗読によってそれにかたちを与えようとしたこと、そしてその敗北そのものについていっさいかたることなく、詩集のかたちにてその記録をまとめたことに、ある率直な感動を覚える。

詩を朗読すれば必ず敗北せざるを得ない。何に? いかなる手段を用いても、必ず意味に還元されてしまう音節たちに、とここで書いてみたい。「得体の知れない、何ものか。」は、ありとあらゆる事象にべっとりとへばりついている、目に見えない意味のことと読める。そこから自由になるために、音になる一歩手前の声を用いて詩を書きあらわすのだ、という戦略がかたられている一方で、自由になったと思ったしゅんかんに、それはふたたび書き手を拘束するものでもあることが了解されている。耳でも聞けず、目でも見えないものをいかにかたるか。それはやはり不可能であり、その敗北がたっとい。

インドの、
カルカッタを旅していた時のことだ。

不自由な、
つがいの、
山羊の、
一群をみた。

一緒にいたくて、
一緒にいるわけじゃない、
背中に、
赤い、
斑点の付された――

もっとも、
悲しい、
結婚の形を、
みた。

もっとも、
悲しい、
結婚の形を、
みていた。

もう、
それは、
家とは呼べなかった。

あったかさなんて、
これっぽっちもない――
怯えた、
目だけが、
ひしめいている――

もっとも、
悲しい、
家を、
みた。

もっとも、
悲しい、
家を、
みていた、

その、
怯えた、
目の奥に――

突然たずねられたのだ。
だぁれもいない、
夜の食堂で、
おまえは何者かと――
たずねられたのだ。

そうだ、
そうだ――

目は潰されて、
耳はそぎ落とされて、
手足はもはや――
はぎとられてしまった。

もう、
なんにも残されていない、
いまにも破裂しそうな、
表面張力だけが――
残されてしまった。

いまや、
おれは、
何者だ?

いまなおここに――
生きんとするこのおれは一体、
何者だ?

たった一個の、
単純な言語になりたくて、
いまなおここに――
生きんとするこのおれは一体、
何者だ?

「何者」第一〜十七連

私小説的にも読める詩作。この詩にえがかれている光景の山羊は、おそらくは宗教儀式のために生贄として屠殺される様子を見たときのことではないかというのが第一印象だが、第二連に「不自由な、/つがいの、/山羊の、/一群をみた。」と、その記憶に想像力によって家族の喩がかさねられていると読める。

一緒にいたくて一緒にいるわけではない、は、一緒にいたくて一緒に屠殺されるわけではないとも読めるし、一緒にいたくて一緒に生きているわけではないとも読める。それは個ではひ弱な私たちがイエや結婚(そしてそのむこうの共同体)といった便宜的な連帯を強いられて生きるほかない様子を想像させもする。

だがやはりもっとも印象深いのは第十一連。語り手が何者かにたずねられるくだりだろうか。「誰もいない、/夜の食堂で、/おまえは何者かと――/たずねられたのだ。」

誰もいない夜の食堂……そこには問われる者しかいない。客たちがどこかにあるイエへと帰宅し、調理人は仕事を終え、だれもいなくなった、つまりほんらいの役目を終えた夜の食堂に、ひとりの語り手が想像される。問うものはただ自分自身のこころだけだ。

詩を通してその語り手の問いを受けとる読者である私たちは、やはり同じように考えるほかない。私たちは何者か。その問いの前景にあるのは山羊が私たちの代わりに屠殺される空間であり、あるいは、「目は潰されて、耳はそぎ落とされて、手足はもはや――/はぎとられてしまった」という、単なる無力な肉塊として生きることを強いられる実存であると読める。それが詩という存在に与えられている喩であるということは深読みすぎるだろうか。

その残酷な場から立ち上がらねばならない、ということが示唆される第十六、十七連が非常に好きだ。これは朗読で聴きたかったと思う。私たちは自分たちが何者なのか、そんなことはえいえんにわからないが、その詩連には問いが、いや、大きな問いがつくりだされるしゅんかんの熱量があり、それが私たちのこころをどこか震わせるのである。

いまなおここ、、に、生きんとするこのおれは、一体、何者なのか。わからない。もしわかっていれば私たちに詩など必要なく、ただただわかりやすい文章だけを消費しつづけ、どこか怠惰で、どこか退屈な黄昏の社会の内側で生きていればそれでよくなってしまうからだ。

■ □ □

最後に、著者から本詩集と合わせて頂いた手製の朗読CDを紹介したい。私の職場兼書斎にはCDプレイヤーがなく再生には難儀したが、知己の詩人から無料で(!)頂いていたCD/DVD-ROMドライブがあったことを思い出し、これを用いて再生した。CDには詩編五作品が含まれ、下にそのうちのひとつ「たゆたうた」を紹介する。

ただぼんやりとうかぶそら
ただぼんやりとうたううた
ただぼんやりとたゆたうかな
ただぼんやりとぼんやりとうたう

この世に生まれたときからずっと
こんな天気だったような気がする
んなわけない晴れの日もあれば
雨や吹雪の日だってあったろう

生きてきた自分なりに
超えてきた曲がりなりに
手垢にまみれた
ひとつの人生
平凡だって誇ったって良いだろう

春はいまどのへんかな
多摩川のどのへんかな
二子あたりの風当たりからすりゃ
まだまだ花より雪が舞いそうです

道草
くってるのかな
いや
長いトンネルくぐってるのさ
いま
いずれにしたって春はまだ遠く
見通すことなんてできない闇の奥

ただぼんやりとうかぶそら
(見上げてみる
ただぼんやりとうたううた
(幼なごころに)
ただぼんやりたゆたうかな
(届かせるように)
ただぼんやりとぼんやりとうたう――

三つ子の魂百までというが
ご多分に漏れずにぼくだってそうさ
いまだに抜けない末っ子基質
列なら後ろついてゆく事実

その事実から逃れようとした
十代の醜態もいまじゃ痛快で
酒の肴にでもできりゃいいけど
我が身のことゆえ曇る笑いも

運命に逆らうことよりも
流されるまま生きてくほうが
アバンギャルドじゃんって思えるようになった自分すらも三つ子の魂

それも含めての運命じゃん
やれることだけやっていこうじゃん
それだけでたぶん一生なんて終わる
一生が一個じゃあ足んないくらい無限だろうな

me だろうが he だろうが she だろうが結局
せっかくの地位や名誉だってやっぱ贅沢
道半ば墓場ばっかそびえ立って立派だって
残るもんはこんなもんだ骨だもんな損なもんだ

声なんだ
記憶なんだ
ヴィジョンなんだ
匂いなんだ
口ずさんだ
歌なんだ
形なんか
どこにあんだよ

「たゆたうた」第一〜十二連

詩の「正しい」フォルムなんてどこにあるのか――あるいは、詩の「正しい」書き方なんてものがどこにあるのか。何らかの正しさというものが共通理解としてあったとしても、それは制度(芸術)が強いている一つの様式に過ぎず、ひとつの解釈に過ぎないのであって、正しい形などないのだ、と、そんなことをいう声が聞こえる。

この詩のみならず、すべての詩について朗読にメロディはなく、ラップのようにも、即興音楽のようにも感じられる。さまざまな感想を抱くが、簡単に書くことはむずかしい。朗読やライブには本質的に言語化を拒む部分があり、だからこそおもしろいのだろうということを思う。

個人的な意見なのだが、こうした朗読音源や映像は、読者にむけて幅広く視聴(販売、頒布、配信、方法問わず)できるようにしてもらえるといいのではないかと思った。というのも、これは私の友人の詩人の受け売りなのだが、「本はわかりにくいが、朗読で聴くとすっと理解できる」ということが、詩(とくに現代詩)においてはよくあるからで、永澤作品は朗読においてその魅力をより発揮しているように感じられたからだ。こうしたものこそソーシャルメディアの出番ではないか。

詩は、「ぼんやりとうたう」とかたる。
だが、手に入れたしゅんかんに消え去るようなものについて、つまり「たゆたうもの」について書くには、詩は確固たる形(詩集)を取るだけでは不十分であり、短命ですぐに消え去ってゆく「声と身体」という手法が必要なのだ、という永澤の戦略をそこに読んだ。

(2019年2月18日)


永澤康太『誰もいない』書籍情報
誰もいない
出版 七月堂
発行 2016年
著者 永澤康太(ながさわ こうた)

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