『季碑』アイキャッチ

海埜今日子『季碑』

——喪失についてかたろう、口をうしなって、日だまりのなかで。

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本日は2019年2月4日(月)。風がつよく、小春日和。

今夜、私たちが読む詩集は海埜今日子の『季碑』(思潮社、2001年)。海埜は東京生まれ、詩集に『共振』(私家版、1999年)、『隣睦』(思潮社、2005年)、『セボネキコウ』(砂子屋書房、2010年)、『かわほりさん』(同、2014年)などがある。詩誌『岬豹』発行人。なお本書は著者よりいただいたもの。

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詩集を読み始める前に、文藝雑誌『みらいらん』(URL) 2号に掲載されていた海埜の掌編が読む上で参考になると感じたので、紹介してみたい。小説のようにも、エッセイのようにも読める小文。

〈うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと〉。江戸川乱歩は、そう好んで書いた。わたしはこのうつし世と夢の狭間にい続けたいと思っている。なぜなら、どちらもまことで夢だから。
風邪をひく。症状が出るのが遅くなってきた気がする。わたしの中の誰かが先に病んでいるのか。
夢を見ていると、前に来たことがある場所だと思うことがよくある。それは、実際に前に住んでいた場所の雰囲気を持ちつつ、夢独自の風景になっていることが多い。夢と現実の合体の場所。だから、懐かしいような、あたりまえのような、妙な気になる。どちらにせよ、夢を見ているわたしは、もはやどこか部外者だ。その場所は、夢の中のわたしの住む場所になっているのだから。ここからは夢のわたしをKと呼ぶ。Kはそこで、ずっと生活しているようだ。わたしは時折、そこに訪れることがある程度。もしかすると頻繁なのかもしれないが、覚えていないのだ。

「パラレル・ウォーター・ワールド・カフェ」第一連
海埜今日子、『みらいらん』2018年夏 2号所収

海埜がここでかたっているのは、自らの詩論のように感じられる。

詩における「私」は語り手のことでもあるが、それは第三者を指すこともできる。同一の存在をえがくために彼、彼ら、彼女、彼女ら、あなた、あなたたち、という人称これらすべてが意図的に用いられることもある。それは「わかりにくさ」を求めるためではない。夢の中のように、私と私’(上ではそれは「K」と呼ばれている。UNKNOWN だろうか)が同時に同じ場所に存在しているような場が想像されており、それはそうした仮象の場でのみ、詩がえることができる(と詩人が信じる)ものを書くための方法なのだ。それは死者と生者が同時に生きられるような場のことであり、私たちだれしもが、どこかで希っているということを思う。

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さて、それでは詩集のほうへ。
巻頭詩「蝶恋記」から。

かわいた蝶をちぎるように、あなたを呼吸したいと思う。鱗粉。はらはらと解答のように浮遊し、否定ではない絆を書きつづる砂のような流れ。腹部。いとしい羽が腹をえぐるような痛みをくわえる、遠さへの近づき方。プシュケ。ちぎられた羽が二重以上の音階をうちたてながら落下する。触覚。かぼそい喉があなたをぴくぴくと傷つける線がわたしのどこまで針のように食い込むか。そのかわいた。液体の色が未分明になるほどすすってしまったので、といいたかった(わたしの口がほのかにぬるりと音をたてる)。またプシュケ。彼女の挿話である見ない本当を気づくべきだというあなた、あなた。記憶の底からせりあがってくる、むせる程の粉を舞わせたのが、どうしてその感触であったのか? また鱗粉。その砂のじゃりじゃりと比例した苦みが、わたしたちにめずらしく共通項をもたらす味覚であったはずだ。蝶のストロー。あなたのたましいをわたしはようやくまわりはじめる。花の直裁な誘惑(それはけっして詭弁ではない)。口で吸う。粉のなかの映像。あなた、あなた。みたびプシュケ。エロスとの無明をのぼるには、というひとつのまじめな教訓が浮かび上がる。また腹部。そこから下った指がやわらかさのなか鋭利を秘めて食いついたはず。わたし。あなたを記述する飛行を降下してよいのか、上昇すればよいのか。胸が椿のようにおちる痛み。ちぎれた羽。このぎりぎりで、あなたをむしらんばかりの極へたどりつく努力があったか? みたび鱗粉。壊れない蝶。意志がしずかにあなたを願い、わたしのふくらんだ腹がやましさのない呼応を果たすこと。むせる場所をつきあてた、あなた、そしてわたし。

「蝶恋記」冒頭、中盤

キチン質でできている昆虫の脚は硬い。一方、その腹部はたいていやわらかい。カマキリは、獲物をとらえると脚を押さえて、その腹部にまずかぶりつく。そのなかには美味な内臓がたっぷりとやさしくつめこまれているからだ。

詩は、「かわいた蝶をちぎる」ように呼吸をしたいとかたる。記憶のなかにいる「あなた」を殺し、ばらばらにし、解体することが、ひとが呼吸をするように必要なのだ、ということがかたられる。それは「遠さ」へ近づこうとする方法であり、あるいはすでに消失していまここにいなくなったものへ近づこうとするゆいいつの方法でもある。そのために人称を混乱させ、時を撹乱し、すべてがとりもどされた場を想像しなければならない。それは一般的には「思いだす」という行為と解釈される。

だが思いだすことは容易ではない。思いだすことが容易であるというのは錯誤であり、こういってよければ、私たちがかならず陥る誤謬である。簡単にあのひと、、、、を思いだすことができれば、だれが詩を読み、だれが詩を書き、だれが詩を必要とするだろうか?

記憶の腹部を食い破らねばならない。ものを消化する内臓、子を為すための器官がおさめられた腹部を。どろどろに溶けた事象の断片が圧縮され、凝縮された水となってたまっている無明への水路をつくること。その水路が蝶が蜜を吸う管になぞらえられている。なぞらえられているが、蝶ならぬひとの身にとってそれは「むせる場所」でもあり、水をえることは容易ではないとも念押しされる。

思いだすことにやましさがあるのはなぜだろうか。それは私たちの記憶がよごれてしまうからであり、そのよごれが不可避だからだ。私たちの記憶は映像記録のように固定化されたものではなく、思いだすたび、、に変化してしまうやわらかい壊れ物だからだ。だからあなたとわたしはかさならず、そこには無限の距離が想像されている。

呼びとめられたほうへ、わたしは騙す。見たかもしれないほうへ、ありえた逃げを孕んだほうへ。だれでもないかれ、いることの瀬戸際のかれ、見えつつある、ひそやかな傷のこぼれる、かれはまだ痛みにすら、なれたから。
離れることを急いだほうへ。わたしは感触をまさぐりつづける、剥がれつつあるかれ、口ずさむ、かれは呼吸だ、乗らずにあった列車の振動、逃げ去るのではなく、突き刺されること、やわかな穴から、永遠の決別が吹きぬける、わたしはそれに覚えがない。
あるいは欲望。喉のむこうで、苦いような、吸われたいような、ふるえがとどまる。眠りに開かれたかれ、瞬間の眼前に手をかけるかれ、とてもさわりたい、とても受けわたしたかったのだ。生まれようとする声のおもさ、わたしはわずかに口づける。
結びつきを信じたほうへ。かれはとなえる、金色の、なりつつある、かれ自身の眼をみつめる、いまだ自在にあつかわれる電球、まぶしい洞窟をすすむのだ、そこにはどんな名前もない、さがしあぐねるかれ、ぱっくりと、ひらいた季節の待ちかまえる。
抱かれたいと、わたしは騙す。あるいは不意打ち、ひきつるかれ、陥れる、落とされる、ひりひりと、どちらの嘘がかわされた? 数センチの自失にすべり込む、かれはいない、いるかれの、外部をさらす、わたしのような叫びが止まる。
あるいは見いだされたほうへ。かれは痛みをこねあげる、指のさきから、剥がれたものが名前をずらす、割れるかれ、割れなかったかれ、いてしまったわたしの呼びかける。かれはわたしのように覚えがなかった。

「季碑 邂逅」全文

「季碑」は連作となっている。これはそのうちの最初のもの。
季節たち Seasons は時の流れ、碑はそれを記憶しようとすること、だろうか。すでに詩がかたっていたように、記憶することには齟齬または錯誤がともなう。だから思いだすことは、「わたし」を騙すことによって行われなければならない。呼びとめられたほう、見たかもしれないほう、に騙されてはならないのだ。

だが思いだすことはこれほどまでに苦しいことなのだろうか、ということを思う。私たちの人生には思いだしたくもないさまざまな出来事がくりかえし立ちあらわれるが、それは「わたしのような叫び」に満ちあふれる場であり、「かれ」と「わたし」の見分けがつかなくなった表裏一体の地獄で、えいえんに痛みがこねあげられるような場なのかもしれない。少なくとも詩はそのように理解しているように見える。好きな詩だ。

第一連。わたしが騙しているのはわたしだろうか。いることの瀬戸際のかれは、ぎりぎり存在を保っている私という意識、と読める。なぜ瀬戸際なのだろうか? それは呼びとめられ、見えてしまうことへの畏れ、と読める。何を? それは、見てはならないもの、詩という様式ですらかたることができない何か、「ひそやかな傷」なのだろう。だがそれが直接かたられることがなくとも、詩はその存在を明らかにしている。と、いうよりも、詩だけが、かたることなくその所在を明らかにできるのだ。

女は溶ける場所に住んでいた。真昼の黒点に、枯れた犬の嗅ぎまわる、草のなかに身をひそめる。染めた髪の少女、大胆に眼をほぐす、楔である男の指がおりる。舞台のうらで風がまくれ、ひとつの願いが休息した。女に “かつて” はない。すずしい汗がたれないまま、二人にむかう。犬の歩行で、と円をずらす、再現のきわは、緑の影にうんざりだ。腕を差しいれる女、十年、それとも。草原は、まだらな静止をそよがせた。彼らは何度も立ち上がり、灯りをともす、もつれた髪を、女に手わたす。低すぎる遠吠えの果てしなさ、二人が別々に帰るように、女は別のまぶたをあわせている。ぐるりを打ちこむ足音が、なかばつながれ、小さくなる。

男は、いったん少女を、舞台の袖に置きやった。逃げ去る鳥の豊かさが、彼を圧倒的に走らせる。観客のこちらから、差しだされた入れ物に、おとなしく満たされてゆく、少女は静けさにおぼえがない。安堵が型のまわりで退場する、いない液体、楔はながいこと見つからない。

「楔」第一、二連

広辞苑によれば、楔とは、「物と物との間にさしこんで、すきまをなくす道具」だそうだ。私も今回初めて気が付いたが、楔とは、ふたつの存在の間にすきま、欠損をつくるだけのものではない。欠損をうめるものでもあるのだ。

「楔である男」は、女に一種の凶器として分け入りながら、じつのところ女の欠損をうめる役割を果たしてもいる。詩が「ひとつの願いが休息」していると書くのはそういう意味だと読める。それは何かを殺すということは、救済でもありうるのだという逆説をかたっているようにも見えるが、それは記憶の流れをさかのぼりながらそれをばらばらにし、書き手にとって具体的な何らかの事象を思いださない、、、、、、ようにする旅のようにも見え、その円環的なる営為が詩になっているようにも感じられる。

それは直線的(と思われている)時間の流れに楔を打ち込みかき乱すこと、そしてばらばらにわかたれた記憶の欠損をうめ、そこにいつわりのあらたな記憶を熱望すること、かもしれない。そういう意図のもとで詩は「かつて」を除去し、いつわりの現在を創出しようとしている。それが「溶ける場所」であり、現在なのだろうし、また真昼の光……影がもっとも短くなるいっしゅん……に照らされた場なのだろうということを思う。

楔を見つけるための旅。だが欠損がうめられたとしても、その記憶は、けしてほんらいの姿をとりもどすことはない。思い出しながら、思い出さない。そんなあまりにも人間的な願いを、私たちもまた共有している。

ほどいた装束のなかに、ラセンをえがいたことのあるやもしれぬ、針がぬいとじあわされていた。あなたの胸のほつれ目から、しずかな糸がしたたりながら、うっすらとかわきをおびた色をはきだしつづける。針はみるまもなく、またみる人もいないかなたで、増殖をはじめていた。だからもはやあなたのものではなかったが、たおれる場所から、とぎれた意識がうったえる。「わたしはかつて、あなたの腕へ、わけいろうとしたことがあったのだ」。とじられた皮膚のまえで、うなだれる装束の、わずかな時間のひきつり。増える針の行為は、みちびくことのないあなたとの距離をたもっていた。つらぬかないことで、指のきおくをうけとりながら、こきざみな睡眠をまさぐっていた。あおむけの泳法。無痛が無痛のまま針にたたまれ、針そのものが傷をかかえこんでいたという記憶が背後からおいつく。「この装束は絹であるから、吸いついてこまるのです。革であるなら、もどることなく、やぶかれかたに向かわなければならないでしょう(傷をつくのはどちらであったか)」。あなたが方向をとだえ、針をうっすらとなであげるとき、それはかつての/あすの出来事であったはずだ。ゆうべの痛み、とレースのようにまとめる布が、ちらちらと目に挿さってくるので、とじれないあなたのひとみは、願いのように、ゆくえをたしかめにおもむいた。そのとき、花器のようなまぶたの脇から(ですら)、すりぬけつづける布、という方向が、わきあがってきたので、あなたはうたがいをもちはじめたかもしれなかった。

「つむる針」冒頭、中盤

ふたたびどこか演劇的な場。やわらかいものの中にかくされた異物が針と呼ばれている。だがそれは「つむる」ものでもある。つむるとは目をとじることだが、それが針によって綴じられる布……からだにまとわりつく記憶とかさねられていると読める。

ひとは記憶の糸の塊でもあり、それをほどくこと、または綴じる道具が針なのだろう。興味深いのはそんな記憶が「もはやあなたのものではない」とかたられていること、あるいは自分の記憶は自分のものではないとはっきりとかたられていることで、そこには思いだされたものがどこか自分のものとは思えないねつ造された風景かもしれないという畏れがある。もちろん、もっとも恐ろしいことは、私たちがただの一度もただしく思いだすことなどできた試しがない、ということをすでに知っていることである。

かつての出来事、あすの出来事の間にはひらかれた裂傷のような「/」がそっと置かれ、そのふたつの間にある越えがたい断絶を示唆している。それは「思いだされたが、けして実際には起きなかったこと」や、「思いだしたいが、思いだすたびに変わる過去」の間にあるどうしようもない乖離のことでもあるだろう。詩のめくるめくように変わる主体はそのむずかしさ、不可能性をあらわし、「あなたとの距離を」適切に保つこと、記憶の恣意的な書き換えや入れ替えを行うことなく、思いださずに思いだすことのむずかしさをかたっていると読める。

詩にはどうしようもなく血を流す傷がたびたびあらわれるが、それはことば……詩としてかたられるほかなくなった叫びのようなもの……があらわれる契機となった出来事を指し示す影であり、読者から見ればその影の濃さは甘美な毒物でもあるということを思う。書くことは残酷であり、そこに詩の尽きることのない業があるということなのかもしれない。

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本詩集でもっとも好きな詩は、「完全な日だまり」を挙げたい。
「なぜいつも日だまりだったか」と詩は問う。

そこはいつも日だまりだった、ということを私は思う。私たちのそれぞれの人生におけるもっとも悲惨な出来事があった日、そこには日だまりがあった。光が撥ねていて、影はどうしようもなく短くなっていた。そこにはたくさんの「うかばれぬ否定」が漂い、私たちにはどうすることもできないものによって構築された世界がいやおうなく現前していたのだ。

だがだれもそれについて具体的にかたることはできない。
ひとは巨大な喪失についてかたる口をえいえんに持ちえないのだ。

終息をみたのではなかった。汗のにおいがどっかで土クレのように放たれた。なぜいつも日だまりだったか。生まれることのない悲鳴、ゆえに朽ちてゆかぬまま、ただよう主体。砂でない波でない、もののかたちのとれなさのほうへ、うかばれぬ/うかばない否定につむりながら、ながれていったように思うのです。掘りおこされた草のしぶきが、どこかで土をねつ造する。

具体性のありえたかつてにうずくまる数センチの骨が、傷のようにかたちをこわしつづける。だれか(うしなった父の呼称)が、吐きだすようにゆっくりと草をもたげるいきれ。種でありえたものが、おらびにならぬ悲鳴をうみつけ、よこたわりはじめるという儀式のとちゅうで、席をたった者が、膝をわずかに草にさらす。ぶよぶよの白い指が、地中ふかく浅い屹立をつづける透明な態度は、観客のなさに続行するだろう。うなずくこだますら霧散。日だまりが照ることなくながれだすので、たちどまること余儀ない退席者は、指をちいさくはためかせ、ありえた草のいきれにわずかにむせぶ。

花弁のかたちにそびえる木。視界のへりでした、つかまることは考えませんでした。指は砂でも波でもない日だまりを、代行者として翳したかったのかもしれない。うっすらとだれかの汗が、ことばのなさを演じずに退いた。放たれた土くれにしばみつく所作の不在に、そそぎつくす完全。不可能が掘られ、可能が水を抱くので、すこしの汗。ゆるしにも似た空耳を、退席者(としての主体)は聞くことがあるだろうか。ぶよぶよの指のこどくが、骨の色にうずく。ちらめく日だまりに、たおれんばかりの草。そこではどんな木陰も汁を吐くことがない。

「完全な日だまり」第一、二、三連。

——ところで、著者後書きによると、海埜は新宿と縁がある詩人であり、その父はかつて新宿に劇団を持っていた脚本家だったそうだ。個人的な話になるが、私は新宿という街はとても好きで、自分が書きはじめた時、そこには歌舞伎町があり、アジア人たちが混ざり合う路地の光景があり、女たちがいつもいた。そのようなわけで新宿という街には無限の郷愁を感じる。

海埜の詩作品からは、直接的には描かれていないにせよ、きらびやかな(そしておそらくは非常に雑多な)街の光の断片の陰影を感じ、感慨深かった。

ひとは故郷を忘れることはできない。それはけして帰ることのできない場であるからこそ、生のあらゆる季節にくりかえし痕跡をのこし続けるのだろう。

(2019年2月4日)


海埜今日子『季碑』書籍情報
季碑
出版 思潮社
発行 2001年
著者 海埜今日子(うみの きょうこ)
価格 2400円+税

 

 

 

 


『みらいらん』2018年夏 2号雑誌情報
みらいらん 2018年 Summer 2号
出版 洪水企画
発行 2018年
価格 1000円+税

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