『ビオトープ』(花椿)アイキャッチ

草間小鳥子『ビオトープ』

――のりだしている、手を伸ばして、届かぬものたちへ。

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本日は2019年1月21日(月)。今夜、私たちが読む詩集は草間小鳥子の小詩集『ビオトープ』(資生堂花椿文庫)。草間は1987年横浜生まれ。2013年に第一詩集として『てのひらに冒険』(私家版)、2016年「座布団いちまい!」にて北日本児童文学賞最優秀賞。2018年、詩作「耳畑」にて、第二十七回詩と思想新人賞を受賞している。

本詩集の成り立ちについては、多少の補足が必要かもしれない。

本書は資生堂が全国各地で配布している企業文化誌『花椿』の付録であり、所定の店舗などで無償で入手することができる。『花椿』とは、資生堂が1924年に創刊した「日本の女性に欧米風の生活文化情報を伝えることを目的」とした『資生堂月報』を母体とし、1937年に名称を現在のものへ変更して再創刊、公式サイトによれば「美容・化粧情報を中心に文芸、カルチャー、ファッション、食文化や海外トレンドなどを感度良く取り上げる「時代の最先端を伝える媒体」を目指」すもの。

『花椿』は、2019年現在冊子とウェブ版のハイブリッド刊行を行っており、そのウェブ版において、詩の公募企画が実施されている。年間を通じて集まった十二の詩作品から、インターネット読者投票によって最も多くの票をかくとくし、勝ち残った草間の詩『ビオトープ』を中心に、「花椿文庫」として今回小詩集として刊行されたというのが概ねの経緯となる。当時の選者は高橋源一郎と文月悠光。

「小」詩集と題されてはいるが、五十二頁に詩作十編を収め、上の選者たちによる解説が付されているほか、三浦菜々子によるフルカラー挿画を数葉含み、力の入った制作といえる。また、付け加えるならば、一般的な商業出版の経路に寄り添った詩集であるということができるだろう。そうした詩集は年に何冊も発行されておらず、珍しい。

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なお個人的な話をすると、草間作品のことは以前かは知ってはいたが、あらためて読み直したのは、第二十七回『詩と思想』新人賞を彼女が受賞したことがきっかけだった。昨年の受賞者である佐々木貴子(#0029)に引き続き、印象深い詩なので紹介してみよう。

満期の便りがあったので、耳を引きうけにゆく。バスに揺られながら、そういえばわたしには耳がなかったと思い出す。はつ秋、日射しはころがるようにさざめいていた。
停留所から歩くこと半里。てっぺんに火葬場をのぞむ山すその集落。その果てに段々畑がある。肥沃な土壌は、もとより損ないやすいからだの部位を殖やす畑であると秘密裏に口伝される。古くは耳塚があったという話もきくが、さだかではない。
いちめんの群生する耳。吸音に優れた壁材に囲まれ、玉砂利の畦を踏み分ける音すらないが、三半規管を持たない耳介は沈黙にしんと澄んでいる。はしをつまむと、立ちあがった耳はわずかにぶ厚い。あつらえの骨は老いやすい。年月にすり減るぶん、あらかじめ増してこしらえておく。他人の骨を植えると、耳は立像しないまま融けてしまう。出生時、子どもの欠損に泡を食った縁者が、わたしのいちばんやわらかな部位をとりだし袱紗に畳んでここへ運んできた。……さわがしい幼年だった。せめてこの世にあるだけの音をそそぎ込もうというはからいにより用意された玩具――跨がると嘶く木馬、こぼれるように鳴る硝子玉、つめたい喇叭――音を聞くことはなかったが、すべての玩具のささやきが、いまもゆびさきにのこっている。

「耳畑」第一連
出典:『詩と思想』公式サイト 第二十七回新人賞受賞作品紹介ページ
http://userweb.vc-net.ne.jp/doyobi/pg272.html

耳が自生する畑が想像されている。よく読むとそれは「損ないやすいからだの部位」をあらかじめ殖やすための畑であり、欠損そのものを増殖させる場でもある。それは悪夢世界のようでもあり、あらゆる場所に聞き耳を立てる者がかくれ潜んでいる閉鎖的な島国と、島宇宙的なそれぞれの共同体が共謀する相互監視社会を思わせもする(その閉塞性はインターネットの拡大によってさらに強化された)。

その「山すその集落」の天辺には火葬場があるともかたられており、特定の「生産的」なる部位のみを活用しようとし、そのほかのものを不要として償却し、片付けてしまおうとする、優生主義的な社会の喩がそこにあるのかもしれない。

だがそうして現代社会にかさねる読みをせずとも魅力的な詩だ。その魅力は、私たちみながこころのどこかで記憶しているかつてあった村落的共同体の冷徹なある残酷さ、、、への郷愁、にあると感じた。世界とはとてつもなく残酷な場であって、私たちはそれを忘れてしまいたい、と思いながらも……じつのところ、残酷な光景のもつ輝きに、どこかこころを惹かれてしまうのだ。

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さて、それでは詩集のほうへ。
まずは表題詩「ビオトープ」から。
なおこの詩は『花椿』ウェブに全文掲載されている。

夜をわたるように降りおえた雨のなごりは
ふるえながらひさしにつらなり
だんだんと明るんできた庭の
枯れ木は音をあげずに冴えてはいたが
蛇口は未だ眠っている
しずけさとも呼ばれる旋律をまとい
そこにいることが
ふと、わかった

舞い降りるようにあらわれていた
ゆきかうおわりとはじまりが
稀に、ひたり、と気をゆるめる
ほんの一瞬のすきをついて

うすがけをはねのけ、おどり出る
刈ったばかりの芝が
はだしの足にちくちくとさわぎ
けれどすぐ
水を打ったようにしんと凪いだ
ゆびさき、あしさき、頭のてっぺん
あまねく末端から発芽するようにほどけ
わたしはきっといま
あるはずのない気流
会いにゆくよ
あの坂道をおりてくる
まあたらしい陽ざしにふれたならば
たちまちに昇華してしまうから

忘れえぬ悔しさをかきわけ
晴れた朝のため息
くたびれた夜の曖昧な相づち
二度と目覚めるまいと眠りにつきながら
にぎやかなひかりにうすがけを剥がされ
ついほほえんでしまうこのごろ
おぼろげになってゆく輪郭――

すました耳が声に触れ
触れたそばからこぼれてしまった

陽射しに濡れた庭
刈ったばかりの芝が
はだしの足にちくちくとさわぐ
明けきった空をあおげば
枯れ木のてっぺんからほとばしる新芽

――もういいんだ

かすかにそよぎ
気づけばうすがけは風化していた
芽を吹いたからには
枯れ木と呼ぶのはよして
寝ぼけた蛇口から水をくみ根方にそそぐ
芽が出たからには
きっと花も咲くだろう
そしてそう遠くないいつか
土に還る

――おはようございます

坂道を駆けおりざま
誰かが朝のあいさつを放っていった
はっとふり向き

――あなたひょっとして、風でしょう?

問いかけてみたところで
ただ
奇跡のように迎えるふたたびの朝が
燦燦といま
はじまってゆくだけ

「ビオトープ」全文
出典:資生堂『花椿』公式サイト
http://hanatsubaki.shiseidogroup.jp/poem/2042/

ビオトープ(biotope)とは、特定の動植物の生息空間トポスを指す。

家屋、庭、枯れ木、そしてそこへと登る(またはそこから下る)坂道などの生活空間のなかに語り手がおかれている。だがよく読むと語り手は枯れ木でもあり、あるいは枯れていると見なされている、あるいは自らをそう考えているだれかであるという示唆がある。

私たちは社会の第三者からさまざまな要素(美醜、年齢、性差)によって分別され、区別され、そして評価されるが、そうした場に対する抵抗には、自らのこころの内側にふかく根差し内面化してしまったそうした分別、区別、評価基準に抗うことも含まれるだろう。そのむずかしさは「芽を吹いたからには/枯れ木と呼ぶのはよして」という二行で端的にあらわされていると読める。つまり普段は「枯れ木」と呼んでいるのだ。

もしひとが枯れ木であるような、あるいは「非生産的」な生を歩んでいたとして、そこから芽をほとばしらせるかもしれない希望について、この詩はかたっているのだろうか?

どうもそうではない。なぜなら芽がもし出たとしても、「きっと花も咲くだろう/そしてそう遠くないいつか/土に還る」ということがすでにかたられている。詩は希望という嘘を書いているのではなく、たとえ芽をえたとしても、それは仮初めにすぎないのだと念押しをしていると読める。そこに詩の誠実さがあり、インターネットにあふれる「よく読まれる」テキストとは一線を画す残酷な(わかりにくい)理解がそこにある。

少し詩から視野を後ろに下げて読むと、そこにはどこか清冽な朝の光景が広がっている。目覚めと眠りを繰り返す朝のいっしゅん、だろうか。眠りにつくこと、うすがけをはねのけることが同時にかたられ、そのいずれでもあり、そのいずれでもないような時間と場が想像されている。坂は登られているようでもあり、下られているようでもある。記憶のなかで出来事の上下左右の区別がつかないように、詩のなかで時間は歪み、空間は乱れる。というよりもそれが私たちの意識そのものなのだ。

最終連、「奇跡のように迎えるふたたびの朝」の一行は、当たり前のように訪れると思っている明日の朝を、私たちがふたたび迎えられないかもしれないという示唆がある。好きな連であり、旅立ちが予感されている。それは詩を育む生息空間、夢からの旅立ちでもあるだろうし、枯れ木を強いる内面化された共同体の言語からの旅立ちでもあるだろう。

八月の日ざしがまぶしいのは
不在をかくすためだという
道では背の割れた抜け殻がかわいているのに
木陰に立つと
咲かなかった花のにおいがする
汗ばんだ手に時刻表を握れば霧雨
濡れそぼる田園に
水を得た影たちがひるがえる

わずかな隙から滑り込み
隣の座席にしんと腰をおろした影は
列車の揺れにあわせ
よるべなくうなずきつづける
そちらへ目をやると
影もまたこちらを見つめているようだった

雨があがると
葉末や縁石、階段の手すりなどへ
影たちはまなざしをのこしてゆく
てぐす糸のしなやかさで
雨露に濡れた蜘蛛の巣よりはかなく
ナメクジの足あとのように
どこまでもやさしい
ふと
すこしだけ誰かのことをゆるしたり
知らない場所へかえりたくなったり
わすれた歌を思い出したりするのは
知らずしらず
それらに触れてしまったからだと
どこかできいた

逃げ水がぎらぎらと牙をむき
影は背もたれに焼きついて冷えた
座席のくぼみに
透きとおった糸が溜まっている
そっとすくい
てのひらをむすんだ
窓のサッシの隅で
はなあぶが蟻にはこばれてゆく
ひとつの宇宙は閉じられ
永遠にひらくことはない

日暮れがさびしいから灯台がある
プラットホームへ足をおろすと
もうじゃりじゃりと音がした
浜に打ち上げられた仔鯨の
さいごの息をおぼえている砂は
水底にかえりたいと鳴く

うみべの子どもたちが
波打ち際に足首をひたし
燈火を投げ入れては紐を引き
ゆらぐ光をおよがせていた
埠頭の大人たちはひそひそと
増えた減ったと
星をかぞえているようだった

「糸」第一〜六連

「てぐす糸」は、釣りなどで使う透明なナイロン製の糸のこと、だと最初は思ったのだが、これはヤママユの繭からとれる天蚕糸のことかもしれない。いずれにせよ細く、透けていて、ほとんど見えない糸であることは間違いなさそうだ。釣りにこれらを用いる場合、糸が太すぎると魚に警戒心を抱かせてしまうので、なるべく細い糸を使うのがよいとされている。

詩がかたっている糸、は私たちの間にはりめぐらされている見えない関係性の糸だろうか。そもそもそこに見えないものがあることを気づかせないために、「不在をかくすため」に、太陽はまぶしく輝いている。私たちの間に関係性なるものはじつのところ存在せず、はてしない分断があるだけであるということを気付かせないためのものだろうか。

存在しないことを忘れさせてしまう光の裏側に、影が生まれる。それは変化を遂げたがいまはそこにはいなくなったもの(空蝉)とかさねられ、どこかに飛んでいってしまった中身の姿はどこにもない。あるいはそれは「咲かなかった花」と重ねられ、あらためて不在がかたられている。その欠如、欠損の磁場からことばがあふれ出しているイメージがある。

欠けていること自体を、詩は注意深く隠されなければならない。なぜなら何もかもを明らかにしてしまう太陽の光のもとでは、いかなる影も生きのびることはできず、雨露に濡れた蜘蛛の巣は乾いてほろび、優しいナメクジの足跡もまた焼失してしまう。隠されなければならない欠損をまもる、記憶する、記す。私たちが忘れたことを忘れてしまったものたちへつながる道しるべとして糸がおかれている、と読める。

天蚕糸、は繭を殺して作るそうだ。透きとおった糸は殺されたもの、またはなかったことにされたものたちのことを想起させ、詩は見知らぬ死がどこかの座席に遺したはずの糸を、てのひらですくう者の横顔をえがいている。それは見も知らぬだれかの痛みを引き受けようとすることであり、草間が書くということの源泉に何を見ているか、見ようとしているか示唆しているように感じられた。

かつてそこにあったが忘れられたのみならず影となって消え去るほかないものたち、もう「永遠にひらくことはない」ものたちに、かたちが与えられている。

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本詩集でもっとも好きな詩は、「たそがれ」を挙げたい。
個人的趣味だが、この詩に対する三浦菜々子の挿画もとくに印象深い。
「西陽を懐紙に包むしごと」をする兄妹の童話的物語のようにも読める。


山向こうの西陽を懐紙に包むしごとを
わたしたちはしており
夕暮れ時はいそがしかった
空がいちめん染まるのは
楡が夢を見るからだと
いただきの大樹を指してみせては
ぐずる妹に
ハッカ糖をぽきりと折ってあたえてやった
子どもらのなかでものろまなわたしは
夕焼けをとりこぼしてばかりで
とばりをかがる地味なしごとをまかされていた

ii
照りこぼれた西陽をたどって丘をのぼると
楡のしたに兄が立っている
たそがれ時にだけ会える兄は
灰色の袖で顔をかくしており
兄を見たことのないわたしは
これも楡の夢なのだろうと
幼心にしんじていた
しきたりに従い足もとへ
まっさらな装束をひとそろい置いたら
なにも持たず還る
いちどだけ
ふりかえってみたことがある
いつかわたしだったようなうしろすがたが
楡のこずえへかえってゆくのが見えた

iii
盛夏にひそむはつ秋のけはいに
おびえない愚かさを
もしもわたしが持っていたなら――
幸福な時間は過ぎ去るためにあると気づいたとき
ながいながいたそがれは終わった
わたしたちは
箪笥ごと濡れ縁へ引っぱり出すと
すべての引き出しを開けはなつ
なんびゃく、なんぜんの懐紙が西の空に舞い
影のようにきりきりと散った

「たそがれ」第一、二、三連

犠牲にされてしまうもの、ということを思う。何のために? それはおそらく共同体の規範のため、営利活動のため、「しごと」のため、子どもたちにあずかりしらぬ力によって大人たちが決定し、実行し、そのことを忘れるように強いるもののためなのだろう。

しばしば子ども、または力を持たないものは、自らが力を持った「大人」になったあと、過去に自分が奪われたものの大きさに気づく。だがそのときには手遅れなのだ、という理解が読める。だから第三連において「しごと」は放擲されなければならない。「なんびゃく、なんぜんの懐紙が西の空に舞」わせることで、たそがれの営為は終わりをむかえる。

私が個人的に感動するのは、そこに加担、、する眼があるからだ。詩は「しごと」にいつのまにか加担している自分の姿をけして隠そうとはしない。語り手である「のろまなわたし」は人身御供の含意を有する兄とかさねられ、その二者に明確な見分けがつかないように描かれているが、「のろま」なのはその「わたし」の理解が遅れたからであり、後になってその「しごと」に加担したことに気がついたからだろうと読める。

そうした「しごと」が具体的には何なのか、それは想像するに難くはないが、そうした読みがなくとも童話的世界の陰影ある描写はとてもうつくしい。それはある痛みの感覚を伴う光景であり、それはおそらく、作者がけして手放さなかった何らかの具体的な記憶に基づくものなのだろうということを思うが、それについて第三者が何か言うことはできない。

■ ■ □

最後に、本詩集でもっとも長く、巻末に置かれた意欲的な詩「りとら、のりだしている」を紹介したい。

「りとら」とは何か。それはわからない。
わかるのは詩が「もしも」にかたちを与えていること。それは「こうであってほしかったが、けしてそうはならなかった」可能性であり、その代替的な場へといつの日か至ろうとする、限りなく小さな祈りのようなものかもしれない。

のりだしている……そうだ、私たちは、いつも届かぬものへ手を伸ばしている。

りとら、のりだしている。みてて――

愚鈍な
しかし今朝ばかりは利発な耳は
きみの声をしかと受け止めた
だいぶむかしに
きみはしんでしまったけれど
元気でやっているだろうか?

きっとこの世は
何層もの「もしも」が折り重なった
ミルフィーユ構造をしており
湿りけか温度か
なにかほんのすこしのかげんで
どこかの層にはからずも触れたのだ
わたしの耳には

頑丈な一枚板のような大地
とばかりに踏みしめているのは
この層に棲むひとびとばかり
ひとつひとつの層は
こんなにも
もろく
はかなく
くずれやすい
ミルフィーユ生地
だということを知らないから
あぶなっかしく踏み出してしまったり
踏み抜いてしまったりする
地団駄を踏んでみたり
する

鳥や虫や魚や獣は
そのことをわかっている
だから
羽ばたきを
尾ひれのくゆるのを
足音をひそめ
生をわたってゆくことに慎重なのだ

わたしたちは
どこか一層に在り
わたしというひとりは
フィリングのなかをただよう
消し飛びそうなほどにぽつねんとした
あるいは
目をこらしてもだめなほどちっぽけな
バニラビーンズの黒い「・」だ

そんなわたしは
きみの声を知らない
なぜならきみはしぬまえに
うまれてすらいないから
よって
きみはいく層にもまたがって
自由に存在している
よって
すべての声がきみの声だ

りとら、のりだしている。みてて。

りとら、とはなんだろう
きみの名か
わたしの名か
きみと仲良くやっている仲間の名か
やがてめぐりあう
ダレカかナニカ
それとも
わたしの持つ概念とは
はるかにかけはなれた言葉なのだろうか
(そのなにもかもが、とんだ見当違いだろうか)

のりだしている
いったいどこから
すべり台のてっぺんから
ベランダの棚から
船の甲板から
気流の狭間か雲間から
それとも
どこかの層のはしっこからか――

幻聴のばかにされても、いい
もういちど
きみの声に触れさせてはくれないか
わたしはあまりに
ぽつねんとちっぽけで
フィリングの甘いにおいにむせかえり
いま在る層に
あまねく声を響かせることすら
できないのだから

「りとら、のりだしている」第一〜十一連

なお、本詩集は全国の資生堂関連施設で無償配布しているほか、資生堂編集部に直接切手を郵送して申し込むこともできる(私は近所に書店がないのでそうした)。読者諸氏に、手に入れやすいこのタイミングでの入手をぜひお勧めしたい。

(2019年1月21日)


草間小鳥子『ビオトープ』書籍情報
ビオトープ
花椿 2019年822号付録
出版 資生堂 花椿編集室
発行 2019年
著者 草間小鳥子(くさま ことりこ)

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