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『三田文學』136号 特集「現代詩の明日へ」

――私のための詩をさがそう、届けられることのない明日のために。

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詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は2019年1月15日火曜日。今夜、私たちが読むのは詩集ではなく雑誌であり、「現代詩の明日へ」と題された特集を含む『三田文學』冬季136号。特集は詩人らなどによる現代詩についての論考、詩作、対談などを含むもので、いずれの詩作、評論もおもしろく読み応えがあるが、《千日詩路》の読者にとっては、そのうちでもとくに山﨑修平の論考「これから現代詩に触れる人へ」がもっとも興味深く読めるのではないかと感じられた。この論考を重点的に紹介してみたい。

かれの第一詩集は以前取り上げた(#0061)のでそちらも参照してほしい。
目次から見てみよう。

詩とは何か
詩人とは
詩をどう読むか
詩は誰に向かって書かれているのか
詩を書いてみよう
詩はこれからどのような方向に行くのか
最後に「表現者」の呪いを振り切った先にあるもの

「これから現代詩に触れる人へ」目次
山﨑修平

個人的な話からはじめると、詩と書評のサイト《千日詩路》は昨年の8月1日に立ち上げたのだが、その立ち上げにあたってのもっとも大きな理由としては、2018年に出版されているおもしろい詩集たちが一般に読まれていないどころか、それについて誰も話題にすらしていないという現実があり、それをあらためて実感したときの憤りが大きかった(もちろんその「詩集たち」には自分の作品もどこかに含まれている)。

オンラインで検索するとほとんどの詩集に関する一般社会の言及はほぼゼロであることがわかるが、それも詩集の実売数を考えれば残念ながら当然ではあり、ある程度の部数が世間に流通しなければ、ほとんどの人は共通の話題としてそれについて喋ったり、話しあったりすることはできない。詩集を購入して読む一部の「内部」の関係者をのぞいては。

詩集が読まれないのは、日本語から詩(または文芸作品)を読む習慣が失われたという構造的な変化のためもあるだろうし、そうした変化にともなって「読む」という営為そのものの価値が看過されるようになったからだろう。それは理解できる。だが、逆にいえば、「読む」ということのおもしろさを恢復することができれば、詩(やそれに類する表現)は読まれうる。

私が信じているのは、そうした価値観の逆転は、いつでも、、、、、ある日突然に起こりうるということ。よって、詩人やその関係者のあるべき仕事レスポンシビリティとは、そうした日に備えて、読むことの価値を守りぬくことである。

私は他人に代わって詩集を売ることはできないが、「読む」ことはできる。日本語を解するものが誰でも詩を読めるように、誰でも「読む」ことはできるからだ。

詩と書評のサイト《千日詩路》は、2019年も、読むことのおもしろさをインターネットのあちら側にいる無限の明日の読者たちと共有してゆきたい。

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さて、山﨑は現役の詩人であり、いま生きている詩人であり、いま書いている詩人である。詩を読むことについて、本稿からいかなることを知りうるだろうか?

それではまず「詩とは何か」から読んでみよう。

そもそも詩を書くことは自己表現なのでしょうか。私の内なる体験、例えば恋愛や別離というような体験が詩の題材となっているのでしょうか。いや、そうではないと考えます。確かに体験が詩の言葉を引き出してくれることはありますし、詩が執筆時の感情を反映していることもあるとは思います。しかし作中の「私」が作者の「私」として作中に「フラれて悲しい」という詩語が書かれてあったとして、この言葉に共感し、痛感し、悲観したとしても、果たしてこの文章は詩であると言えるでしょうか。
(…)
詩はエッセイと比較して、内的体験もコミュニケーションも必ずしも必要とされてはいない言葉そのものへの(偏)愛が生んだ、極めて不合理で不条理な表現であるということなのです。

詩が作者の体験を必ずしも反映したものではないということはつまり、詩は詩でのみ屹立し、社会に提示されている文芸であるということだと思います。コミュニケーションや社会の規範や常識から隔絶された言葉ならざる言葉、言い換えれば詩にならざるを得なかった言葉によって構築されたもの、それが詩だと考えています。

「詩とは何か」(P62 – P63)

インターネットには「自己表現」としてのテキストがみちあふれている。その多くはとくに耳目を集めやすい(たいていの場合不幸な)体験談のかたちをとっており、それらは「わかる」や「共感」を誘発せしめ、それぞれの個人の人生とかさねて読まれるよう配置されている。そこにあるのは最大公約数的な戦略である。

だがほんらい現実とは多種多様であり、それぞれ視る者の重力によって固有のゆがみが与えられていて、ひとつとして同じものはない。そうしたゆがみをできる限り除去することで、テキストは幅広く読まれうるものへと、いわば毒抜きが行われる。2019年、そうしなければいかなるテキストも読まれえない時代状況がやってきている。そうしたスフィアにおいては、私の知己である口の悪い精神科医のことばを借りれば、「たくさんの人に読まれないものは、存在していないのと同じ」なのである。

山﨑にならっていえば、「フラれて悲しい」ということばがそのまま書かれ、読まれてしまう場こそが2019年の状況であり、それは詩であるとはいえない。むしろそれにあらがうこと、あらがう営為が詩である、と読める。「詩は詩でのみ屹立する」とは、ほんらい「連帯」や「共感」があるかのように見える場こそが、じつは詐術であり、錯誤を誘発するための糖衣錠ではないのか、詩はそのようなものと対峙する、といっているのだ。

だがもちろん、私たちはそうした詩のラディカルさを愛する一方、共感が必要とされてしまう閉塞的な、息詰まる、非人間的な本邦の職住環境についてよく知っている。おそらくは「詩にならざるを得なかった言葉」は、いつでも、だれとでも、すぐに「繋がる」ことができるかのように見える空間において、そうした共感をもとめながらも、実のところそれがいっさい得られないというさらに深い絶望からもはじまるはずである。

詩人というのは職業ではなく、詩人のみが詩を書けるという特権などありません。誰しもが詩人に成り得て、今この場で「詩人です」と名乗りを上げたら詩人が一人誕生します。肩書きはあくまでも現実的な判断で社会活動をする上での便宜的なものに過ぎません。あるいは詩人というのは職業ではなく、詩人という状況に置かれていると把握してもらえると分かりやすいかもしれません。キャリアが何年であるとか、賞を受賞しているとか、著名な(?)詩人に教えを受けたとかいう如何にも権威主義的な世界とは隔絶した場に詩は(あるいは詩人は)置かれているとも言えるでしょう。詩に限らず文芸とは、このようなアナーキーな態度の表明と実践によって守られてきたとも言い換えることができるのです。

「詩人とは」(P63)

とあるライターが「作家」を名乗ったところ、袋叩きにあったインターネット上の事件……といってもそれは狭く閉鎖的なコップの中の嵐に過ぎないが……が私たちの記憶にある。日本語において「作家」なる単語には、特別な意味が含有されており、それはじつのところ「小説家」のことである。もちろんそれは示唆にとどまりけして明文化されないものだが、ひそかな確信として数多の読書家のこころにいまもある区分だろう。付け加えるならば、それ、、(=作家という身分を保証する判定基準)は明文化されないからこそ、、なお堅固に存在し続けるのだ。

一方、「詩人」はどうだろうか。山﨑のいうことに全面的に首肯しつつ、やはり特に若い人に向けては、多少の補足が必要だろうということを思う。同じように明文化されないが、この社会における詩人とは、特定の、、、出版社から詩集を刊行したものである、という暗黙の了解が日本語の内側にあることは疑いようがない。もちろんそこには特定の賞を受賞したことを付け加えても差し支えない。そこにあるのは「如何にも権威主義的な世界」なのだが、そもそも詩や文芸というのは過去においてずっとそうであり、現在もそうであり、これからもそうであると付け加えておくことが必要かと思った。

その一方で、山﨑が誰しもが詩人となりえると書くことは、やはりそのとおりだというほかない。「詩人です」と名乗ることができる胆力とその前提となる実力(=文体についての揺るぎない自信)があれば、誰でも詩人になることができる。単に社会の側がそう思わないだけである。

まとめるとこう言えるだろうか。個として詩を書く決意はできるし詩人になることはできるが、社会を説得するためにはもう一つプロセスを踏まなければならない。そしてそのプロセスはじつのところ明文化されていないし、これからもされない。なぜなら明文化することは既存の体制スキームからその権力の源泉である判定基準=ルール策定の自由を剥奪するからである。よって、そのプロセスは徹底的に秘匿されなければならない。

たとえばソーシャルメディアにおいてはそうした体制、つまり権力側の批判が好まれるものだし、私を含め、詩に携わるものであれば、耳目を集めるためそして自らの利益のために、そうした事柄についていくらでも暴露的なものを書くことができる。だから私は「詩人のみが詩を書けるという特権などありません」と端的に書ききった山﨑にむしろ誠実さと真摯さを見る。

時折、「どの詩集を読めばいいですか」、「この詩の読みはこれで正しいですか」と訊かれることがあります。「好きな詩集を読めばいいと思いますよ」、「自由に読んでいいと思いますよ」と返しますが、私の返事を聞いて質問者が釈然としない様子を見るたびに、意地悪なことを言ったような気になり申し訳なく思います。このように「自由に読んでいい」、「詩であるといえばすべて詩である」という言説が、却って多くの人に「現代詩は難解だ」、「閉鎖的な文芸である」とされてきたのも事実です。陸上競技のように一位の選手は二位の選手よりも上位の成績を収めていることが誰しもが分かるということは、ルールが明確であるからです。ルールがなく自由である(アナーキーである)ことの居心地が良いと感じるのは、既に内部に所属している人の考えであって、これから現代詩に触れようとしている人にとっては、参入障壁ともなってしまうのです。このような指摘を受けて、それでも詩とは自由であると私が考えているのは、すべてに回答を求められ、どちらかの側に属さないといけない社会へのアンチテーゼを、詩という文芸はいつの時代も担ってきたという思いがあるからです。

「詩をどう読むか」(P64)

誰でも日本語が読めるのであれば、誰でも詩は読める。問題は、そういっている人間が、ほんとう、、、、にそう思っているかどうかだ。山﨑の回答を聞いて釈然としない様子を見せる人々がいるとすれば、それはかれのことばを疑っているからである。それではかれは嘘をいっているのだろうか?

もちろんそうではない、が、誰でも読める母国語で用いて書かれ、記述されているはずの作品に、読めないもの、わかりえないもの、知りえないものがあるということは読者を混乱させる。やはり詩は難解でわかりにくいのではないか、そして詩人はそれを知りながらあえて誰でも読めると嘘を言っているのではないか、そう疑われるのは自然なことだ。

残念なことではあるが、その誤解を解く方法はない。詩はわからないことに満ち溢れるこの世界の森羅万象にかたちを与えることができる表現の一様式であり、それをわかるように解説することはできないからだ。誰でも読めるが、誰でも読めないものであり、常に多重性にとらわれている。詩はじつのところ私たちが「わかる」と思っている母国語の不気味な「わからなさ」をいつも直視しているからである。

山﨑がいうように、詩には自由がある。それはたとえば右か左のいずれでもないマージナルな領域にとどまる自由であり、そのいずれにも読みうるような実存にかたちを与えることでもあり、あるいは、加害者がそのまま被害者であり、被害者がそのまま加害者であるようなねじれた空間を表現することでもあるだろう。そしてそうした多義的なものについてかたることができるものは、2019年、もはや詩と文芸だけではないのかということを思う。

詩はあわいであって人間の原始的な欲求である。と先ほど述べました。それではこの原始的な欲求である詩は、誰に向かって書かれているものなのでしょうか。もちろん〈私〉から〈私〉のために、書かれていることもあるでしょう。あるいは慰撫のため、あるいは勇気づけるために。いずれにしても詩は、世界の見え方の一つを読者に提示していると考えることができるのではないでしょうか。

「詩は誰に向かって書かれているのか」(P65)

《千日詩路》の読者は、おそらく詩や文芸に親しみがあるはずだが、例えば『三田文學』や詩集を買って読む人々が、この社会にどれぐらいの数いるだろうか。そうした観点からすれば詩に関する読みもマイノリティであるほかないが、私は詩や文芸とはそもそもそのようなものであって、「そこにある、ありつづける」ことが重要だと思っている。

私たちは、ある詩や文芸作品にめぐりあっても、それを自分のものとして読む機会というのは、実のところほとんどない。それは人生のある瞬間にのみ訪れる奇跡のようなものだ。より具体的にいえば「この本は、まさに自分のために書かれている」という誤解、、、そんなふうに思える本との出会いは人生においてたくさんはない。だがそうした本は確かに存在する。そしてその偶然がいつやってくるかは誰にもわからない。

その「この私」のために書かれた本というものを探すことが読書の愉しみなのだ。

山﨑が詩は「誰に向かって書かれているのか」というとき、そこには多くの社会の批判的な声、つまり「詩は詩人のためにだけ、閉鎖的な内側のみに通じるものとして書かれているのではないのか」という通説が前提とされていることにさほど疑いの余地はないが、一方で、私の知っているほとんどの詩人は、山﨑のいうように「世界の見え方の一つ」を真摯に書こうとしている。ただ、そうした姿勢はほとんど理解されないし、上にも書いたように、マジョリティ(世の中)には黙殺されている。だが私は、上にも書いた通り、詩や文芸作品というものは、読まれる機会を歴史のなかでしずかに待ち続けるものだという理解でいるので、それはそれで良いのではないかというように思う。

もちろん、本サイト《千日詩路》の目的とは、詩書たちの露出を増やすことによって、そのかけがえのない読書の機会を増やすことであり、その方法とは、雑誌でも、詩誌でもなく、アクセスしやすいインターネット上にその読解の試みを提供することである。

(…)何篇か詩を書いているうちに、自分の詩を誰かに読んでもらいたいと思い立つこともあるかもしれません。自分以外の誰かに読んでもらうことによって、自分の詩に新たな光が当たり、思いも寄らない評や感想がもらえることで、より詩作が愉しくなることもあると思います。インターネットで検索をすると、幾つかの雑誌が新人による投稿詩を募集しています。投稿をするともしかすると自作の詩が掲載されるかもしれませんし、撰者のコメントをもらえるかもしれません。ただ、留意したいのはあくまでも投稿詩が入選するかしないかは、撰者による自作の詩に対する価値観という個人的な考えであるということです。あなたの書いた詩が詩の世界(そんなものはないですが)に否定されたわけでも、ましてやあなたの存在が否定されたわけでもありません。

「詩を書いてみよう」(P68)

思い出すのは、かつて自分が企画して実施していた読書会のことだ。当時の経験から学んだことは、優れた作品を読むということ、それについて意見を交換するということは、刺激的で愉しいものだということだった。私はいまでは読書会は実施していないが、詩の合評会には定期的に参加している。

何かを真剣に書くということ、それを誰かに読んでもらうということは愉しいものだ。だが、何かを真剣に書いている他者の作品を読む、、ということもまた、同じぐらい愉しいものだ。すべての人生にそれぞれのっぴきならない課題があり、他者の詩作からは、かれらがそうしたものにどう取り組んできたかを教えてくれる。そうしたことからは、自らの課題にどう取り組むべきか、重大な示唆を得ることができるだろう。

というわけで、私としては山﨑の提言に付け加えるかたちで、詩を書こうとする読者には、全国各地で開かれている詩の(あるいは他詩形、短歌、俳句など)の合評会などへの参加をお勧めしておきたい。調べてみると、以外と身近なところで開催されているものだ。そうした情報共有こそ、ソーシャルメディアがもっとも得意とするものだろう。

詩人とて、霞を食べて生きているわけではありません。多くの詩人は、生活の礎となる職を他に持っています詩集が売れることに「関心がない」という詩人の態度表明は、己の創作姿勢の宣言をし、社会にコミットしない純然たるものであるゆえに、一つの大きな課題に対峙していないのではないかということです。その大きな課題は、詩集を出版する出版社のことです。敢えて言うまでもなく、出版社は出版物を商品として経済活動を行い、売り上げによって従業員を雇っています。詩集が売れることに関心がないという詩人の態度表明は、出版社にとっては死活問題に直面します。

「詩を書いてみよう」(P70)

詩に限らず、シリアスな表現、インデペンデントな興行には常に資金面での限界がつきまとうことは仕方のないことだが、山﨑のいう「一つの大きな課題に対峙していない」というのは、つまり詩人の側に売る気がない、社会にコミットする気がないように見える、、、ということでもある。そしてそう見えることが最大の問題だということに、詩の世界に携わるものとして首肯せざるを得ない。

ただ、2019年を生きる読者の関心を引くこと、かれらの経済的な欲望を駆動すること、こうしたことが確かに必要だと思う一方で、そうしたことをいっさい、、、、したくないと思っている自分もやはりいる、というのがほとんどの詩人のこころの内ではないだろうか。

ちなみに《千日詩路》は収益がまったく生じない形式をとっているが、それは一般的なページビューに基づく収益化の仕組みを導入してしまえば、ページビューのために書くようになってしまうからだ。収益のことを考えるようになると、書き手としてもっとも重要な何かが損ねられる、そういう懸念を私が克服できていないともいえる。純粋さ、信念、モチベーション……さまざまな単語が頭をよぎるが、損ねられてしまう何か、にかたちを与えることは難しい。それは「こころを切り売りしたくない」という感覚が近いと思うが正確とはいえない。

書くことはきわめてセンシティブな営為であり、一種の壊れ物である。それをどう守るか、ひょっとしたらそれは経済活動とはほんらいいっさい相容れないものなのかもしれない、という確信がどこかにあることは否定できない。だがいかなる営為も実のところ経済なくては持続可能ではなく、私も「社会にコミットしない」詩を書き、詩集を出版し、詩に関するウェブサイトを運営しながら悩みつづける一人である。悩み、そして決断した結果を、このサイトで見せてゆきたいと思っている。

きっとこれから詩を書く人は、ほとんどの場合において経済面で苦しむことになるだろう。それは詩に対価が何もないからであって、たいていの場合、文字通りの貧困という結果となって人生に現れることが想像される。

例えば、一つのケースを紹介するが、最初は趣味のつもりで詩を土日にだけ書いていたら、少しずつ評価が広まるにつれて、職務を終えた平日の夜中にも書くようになる。依頼が来るようになるとさらに忙しくなる。公の場への露出も増えてくる。一日の多くの空き時間を他の詩人や、編集者や、詩の出版社とのきわめて難しいメールに使うようになる……。当たり前だが、こうしたことはすべて対価のある仕事(いわゆるライスワーク)に大きな負の影響を及ぼす。また、よく知られている通り、営利組織である会社は従業員の「副業」に寛容ではない。

2019年の本邦において詩から対価が得られない以上、ある程度の経済的な生活を犠牲にすることは避けがたい。そのような人生を望まないのは当然であり、私がもし問われれば、「書く」などということを人生の中心に据えるなどということに素直に賛成したり応援したりすることができない理由はそこにある。

そのようなわけで、山﨑の提言を受けとめるかたちで、私は読者たちにはまず「読む」ということを勧めたい。詩だけでなく、小説を、評論を、ウェブ上のテキストを、まずは「読む」ということを勧めたい。そしてそこには読んで考えたことについて、第三者と話してみて、自ら気づきを得るということも含まれるのだ。そうすることによって、「読む」ということの驚くべき愉しさが見えてくるはずだ。

そうした読むという営為を通じて、やがて「書く」ということが、結果としてあなたの人生に立ちあらわれてくるかもしれない。そうした過程をたどってしまった場合、おそらくあなたは人生における大きな選択を迫られることになるだろう――私はいまこれを書きながら微笑んでいるが、残念ながらその時には、きっと何もかもが手遅れなのである。

ようこそ、詩と文芸の世界へ!

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最後に、本論考からは離れるが、山﨑の最近の詩作「やがて街になる」を紹介したい。

第二連、ことばは届きながら届いてはいない。それは「大して会話を交わすことなく残滓にある残滓でないものを渡す」ような営為であり、何一つ伝えることが残されていない、あるいは何一つ伝えることが可能ではなくなった時代状況において、それでもなおそこに残滓ではないものを探しもとめる姿勢のことである。そこに詩の意味がある、と読める。だがそれはまた同時に、「出来すぎた話」でもある。だが私はそのような出来すぎた話が好きだ。

畢竟、詩とはやはり希望なのかもしれない。
「これから現代詩に触れる人」へ、届かないものを届けなければならないのである。

一艘の船に乗る虚像と挑発的な使命感のある雷光との友誼の話し
つまらない話になって申し訳ないと彼は頭を下げた
大して会話を交わすことなく残滓にある残滓でないものを渡す
それは、あまりにも出来すぎた話であるから越冬地を急ぐ
無論、ここではない場所のことを指す
蔦植物が夜明けに繁茂するという
すでに欠片となっていたものを集め仲間を呼ぶ
繁茂している
私は旧友のことを思い返していた

色彩がまだ香りであったころに知り合う
二人が三人となりやがて街になる
喩えるなら楽隊のようなものに
先導されながら街の外れまで足を弾ませて歩く
ことばは届く

発音はうまく聞き取れない
履き慣れたジーンズにアルコールあまり知らない街ではなかったはずだから
港町の生まれであるからという
虹色にせり上がってくるもの過ちのようであり希望でもあった
愛玩動物のように狙い定められた銃器のように恍惚としていた街に横たわる
声を出して笑うRやC、みなそれぞれに死体をまとわせていた
「どなたかいませんか?」
無表情というよりは表情を作らないようにしているのだろう

私は触れられていた
一枚、また一枚と、検めるように素肌をさらしていく
直線的な欲情に華々しい機会を与えているのは
それが未だに成し得ないことからくる
私たちは枠を設けている
ところで、
一度剥がしてみたらどうだろうという提案をする
炸裂する
炸裂する
再び言葉を発すると大部分はいなくなっている
今朝はじまり今夜に終わる何らかの取り決めのような風を信じている

浮上する羽と食卓のウスターソースにあるいはバラバラの散歩道に重なりあう

つがいの鳥、溶け出す料理、ぎこちない挨拶、私はその通り好きですと話した

「やがて街になる」第一〜六連
山﨑修平
出典:詩客 SHIKAKU
http://shiika.sakura.ne.jp/works/jiyu/2018-10-20-19529.html

■ □ □

また、紙面の関係上割愛せざるを得なかったが、「現代詩の明日へ」特集では、他に三詩形(自由詩、短歌、俳句+α)をクロスオーバーする書き手たちを紹介するカニエ・ナハの「詩のないところにある詩をさがす/かへらぬ旅人のための枝折」をとてもおもしろく読んだことを付け加えておきたい。

詩作では、紫衣しいの「(ここにふる/(あさの光をしったから/(ぼくはいい/(もう、いいんだよ」という別離を感じさせる清廉な詩連を含む「あさの光」がつよく印象に残った。

(2019年1月15日)

※著者の『﨑』の漢字は古い閲覧環境においては文字化けの原因である機種依存文字であると誤解していたため、過去記事においてその代わりに『崎』を便宜的に利用していましたが、調査の結果、最新の文字コードを用いた環境においては文字化けなどなく表示できることが判明したため、本記事と合わせて過去記事のほうもすべて修正しました。無知と不作為を恥じると共に、謹んで著者と読者の皆様にお詫び申し上げます。


『三田文學』136号雑誌情報
三田文學 136 冬季号
出版 三田文学会
発行 2019年
価格 907円+税

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