――二〇一九年、詩人はどこにいるのか
(さっきそこを通りましたよ? 後ろ姿だけですけどね)
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詩を読むサイト《千日詩路》へようこそ。
本日は二〇一九年一月七日の月曜日。先週末には北海道で大雪のため空港が機能停止し、Uターンラッシュに多大な影響があったそうだ。関東はといえば、三ヶ日は肌寒い以外は、比較的に過ごしやすい快晴が続いていた。皆さんの正月はいかがだったであろうか。私は家族で成田山に初詣に行き、香閣の煙を全身に浴びてきた。
さて、本日は詩集ではなく、年明けの一月五日に開催された詩のイベントの感想を書きたい。朗読公演『Fushigi N°5の居留守』は、以前少し紹介(#ex016)した橘上と、永澤康太、向坂くじらの詩人三人のユニット「Fushigi N°5」によるもの。このユニットは「言葉と体を軸に書くことと読むことの実験」を試みるもので、不思議ナンバーファイブと読むそうだ。
橘は一九八四年生まれ、詩集に『複雑骨折』、『YES (or YES)』(思潮社)、そしてパンクバンド「うるせぇよ」のボーカル。永澤は一九八三年生まれ、二〇〇五年現代詩手帖賞受賞、詩集に『lose dog』(思潮社)、『誰もいない』(七月堂)など。向坂は朗読を中心とした活動で知られ、ポエトリーリーディングの音楽ユニットAnti-Trenchのメンバー、三人の中ではもっとも若く二十代とのこと。
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さて、実際のイベントの様子を紹介する前に、それぞれの三名の作品を読んでみよう。向坂くじらの「きみが生まれた日」から。
きみが生まれた日
きみはぷにゃぷにゃした塊だった
うみねこに似たきみの産声に
あかるい林檎がひとつ
ころげたきみは
生まれた日
はじめて空と出会う
頭上高度二五〇キロメートルまで
世界が延々と続いていくよろこびと出会う幼いきみの目は
空のかけらをすうーっと吸い込んで
そのまま瞳の最深部へと閉じ込めてしまう
雨降りも
晴天も
夕暮れも
星空も
一枚の小さなガラスに変えて
そこから外をのぞけるように
隠しておく
だから
きみはいまでも時々
目の底が
ぴかっとするAnti-Trench 「きみが生まれた日」冒頭
※書き起こしと漢字表記等は編集部が動画から行ったもの
個人的な話からはじめると、私は新生児は眼が見えないものと聞いていた。だが、一昨年生まれた娘は、その日生まれて十分もたたないうちに、小さな寝台に横になったまま、そこに立つ私を見て笑った顔をつくったことを思い出している。その時のことを思い出すと、戦慄と、ある感動が同時に胸をよぎる。
向坂の詩はどこからかやってきた「ぷにゃぷにゃとした」肉塊についてかたる。それは生きており、生きているのみならず、生まれたことを喜んでいる。そして詩はそれを祝福する。一方、それは「延々と続いていく」倦怠感を伴う、閉ざされた壁のなかの幸福でもあり、あるいは、局限された時間のなかでなしくずしに死へと近づく私たちの横顔でもあるのかもしれない。新たな生とは「あかるい林檎」の犠牲を強いるものであり、そこには祝福とそれをなすために必要な残酷さがある、と読める。
眼は頭蓋骨に開けられたふたつの窓で、頭蓋のなかにある(と私たちが思っている)意識が外をみるための装置だが、生まれたばかりのもの(それは赤ん坊とは限らない)が最初に見ようとするものが、頭上高度二五〇キロメートルまで続く茫漠とした空間であることに、詩と書き手の優しさがあると思う。好きな詩だ。
なお動画に映し出される朗読は音楽と合わせて胸に迫るものがあるが、一方、そうした演出を取り除いても、なお立ち上がる強度が詩にはあると思う。『Fushigi N°5の居留守』では、音楽の劇伴もほぼなかったが、文字情報と身体の動きだけでそうした強度がえられていたことを付け加えておきたい。
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橘上の詩は、私がそもそもこの朗読会に参加したきっかけだった。
詩集としては珍しい電子詩集から、橘の「かなしみ」を読んでみよう。
かなしみがかなしまないので
かわりにぼくがかなしむことにしたかなしみはかなしみのくせにかなしまないなんてふざけたやつだ
そうかなしみにつげるとかなしみは
「だってきみがかなしんでもきみはかなしみにならないでしょ。きみはきみなんだから。ぼくはかなしんでもかなしまなくてもかなしみだよ。ぼくはかなしみなんだから」
といってわらうぼくがやきゅうをしているとかなしみは
くうをきるばっとのうらでくすくすわらう
ばっとにぼーるがあたると
カーンというおとにまぎれてなくようにわらうぼくはすなばでじゃんけんをします
じゃんけんはすなばでなくてもできるのに
すなばでじゃんけんをします
ぼくがひとりでじゃんけんをしているよこで
ありたちがとおります
くろいあなへくろいありたちがてきぱきといどうします
よくはたらくありをみていると
ありのむれからこえがきこえますぼくはかなしみ
はたらきありになってもかなしみ
かなしくなんかないなんと、ありのむれのなかにかなしみがまじっていたのです
でもかなしみとありのくべつがつきません
いったいどこからどこまでがありで
どこからどこまでがかなしみなのかかなしみのなかにありがいるのか
ありのなかにかなしみがあるのか
よくわからないまま
ありであり、かなしみであるくろいしゅうだんをみます「かなしみ。きみはなにをしてもかなしみなんだから、すこしぐらいかなしんでもいいじゃないか」
「なにをしてもいいんなら、べつにかなしまなくてもいいじゃない。
かなしまなくちゃいけないからかなしむなんてもうかなしみじゃないよ」
「ぼくはいみもなくかなしみだし、ひつようもなくかなしむよ。
ただかなしくないからかなしんでないだけだよ
だってぼくがかなしみであるひつようないもの
ひつようがなくてもぼくはかなしみ
かなしくなんかない」ひつようがあってもかなしみ
ひつようがなくてもかなしみ「かなしみ」前半、中盤
橘上 詩集『かなしみ』所収
ひらがなに開かれた詩連はすべて漢字に置換できる(ひらがなである必然性は詩のなかだけにはないと思える)が、橘の朗読を一度聞いてから読むと、これらが声で読まれることを前提に書かれていることがうかがえる。
必要、ということについて考える。それは何もかもを「利便性」や「役立つ」か「わかる」で分類しようとする現代社会におけるひとつの恣意的で支配的な基準であり、そうしたマトリックスから「かなしみ」といったごく当たり前にある普通の感情はこぼれおちてしまう。この現代社会にかなしみの居場所はない。また、ソーシャルメディアが可視化した過度な共感による連帯は、私たちをむしろ孤独にするだけであることを私たちは経験的に知っている。つまりかなしみは得られないだけではなく、まがいものが大量に流通している。だからほんとうに必要なのは「この私」のかなしみなのだ。
マスプロダクションされ大量に流通されるかなしみの代わりに、「ぼく」はかなしむ。それは詩が不可能なかなしみをかなしむといっていると読める。もちろんそんな必要はどこにもなく、だれもその大切さに気がついてはいないが、それでもなお、そこにはやはり詩にしか果たせない役割があるのではないか、橘はそう言っているように思える。必要がなくとも、私たちはかなしむべきなのだと。
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三人目は永澤康太。現地にて彼の第一詩集を購入し、さっそく読んだ。
その詩集から一部を紹介したい。
[こんな形(カたちー)で、自(己)分の “血” に、ぶつー出会ーう、狩る、meetスル、トハ、(ね)、…何カ、”自(己)分” ノ、肉体(身体)カラ、デハ、ナ〜(す)ク、ぼく以外の物質ーものーヲッ、経由して、”ぶつー出会ーう、狩る、meetスル'” とは…それは、重量オーバーの、重い機体は、純、鈍く、今(ナウ)にも、お腹を地面に、こすり、ソーナー(”「そうなん?」”)抵、空、(うん、ソーダー…)”抵、空、” 飛行でよ、タリー(ターリー)”ナーガラ” たださまヨッてた、それは、「ペチンッ!」バ、デ、ハ、ナーク、(す…)、狙いヲッ “” 定めて、握り遺、潰セール、程に、そして、握り潰して、掌を、(半ば、どんナッ、死に様、”ヲッ”(つかまえたぞ…)してるか、ワク、ワッ(カ)シ、”ナーガラ” “そして” ぼくは、”meet” シッ(知)て、しまっタ…]
「なんだこれはおれの “血” じゃないか、……」
[掌(手の平)にぃ、べった(と?)りと付いた “血” を「ルック!」”見マス!” シ(知)ッて、白いシーツを、(迄)、飛び散ッた、それ(”血”)”ヲッ” “「ルック!」見マス!”(これはベトナムで “meet” “シ(知)ッタ”(SITAゲスト・ハウス?)ユーさんの声ダナ…)]
その瞬間、子供の頃、小学生の頃、よくアスレチック公園で遊んだ、”水風船” の記憶、…地面に叩きつけられた、”水風船” が、鮮やかに(な)飛沫を上げて、消滅してゆく様(ヴィジョン)が、”時速三〇〇k/m” の速度で、脳裏をかすめていくのが視えた…
[“全部、” と、書き足し “長良” そんな風ニシテ、(ダニタニ…)、”他人の血で生きる” モスキート(蚊)ッテ、何だろう、か? と、考えて、…(記述が留まって、煙草に火ー種ーを点けて…)…]
「アスレティック公園てなんかヤラシイな、……」
[“なんだこれはおれの” “声” “じゃないか、…”(こんなドーでもいいコトヲモ、想起しながら、…)”他人の言葉で考える”(ダッケ?)(ル・クレジオ)ノッ、トッ、テ、(把手)に引ッ掛けてオ、ナオ、(”イマナオカイテル” …)(火種ヲ、踏みにじって…)]
“イージー・タイガー、イージー・タイガー”
「なんかヤラシイな、……」 前半
永澤康太 詩集『lose dog』所収
アジア、主にインドと思われる土地を旅行しながら書き綴った旅行詩に、東京都心部での生活者の風景が重ねられてゆく重層的な散文詩集『lose dog』をおもしろく読んだ。上の引用では、よく読むと蚊を叩き殺す光景がえがかれており、その痛みとの邂逅、殺害の気付き、暴力と被暴力を往還することへの理解、そのどうしようもなさとやりきれなさがばらばらに解体され、転がっている。それはどこか踏み潰され、乾いて粉々にくだかれた昆虫の死骸を思わせる。
一方、『Fushigi N°5の居留守』では、永澤は無伴奏で即興の歌を歌い、意味のない音を発し、漢字という視覚符号を奪われた朗読という場で、同音異義語を多量に有する日本語音声によってのみ詩を伝えようとしていた。それは上に挙げたような第一詩集の視覚的詩作とは真逆の方向性であるように見えるのだが、実のところ一貫した創作的姿勢のように感じられた。
頭蓋のなか(と思われる部位)に思惟があり、そこには言語化されていない混沌たるどろどろの情念や事象が詰まっている。それを少しずつ外部へと流してゆく、意味をあたえていく、その過程で日本語であればカタカナ、ひらがな、漢字という微細な符号セットにあてはめてゆく、あてはめながらふたたびそこからかたちを剥奪する……詩を完成させようとしながら、そこから離れる、そんな様々なベクトルが凝縮されて置かれている永澤の詩を、音声のみに頼って再現しようとすると、後述する『Fushigi N°5の居留守』のような自由な朗読の様式が必要になるのではないかと思われた。
なおこの詩集ではもう少しレイアウトに工夫があるが、ウェブ紙面では完全に再現できていないことを断っておきたい。
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さて、朗読会について。
朗読会は「仲町の家」という、足立区にある文化サロンで、古い日本家屋をそのままイベントスペースに転用した場所にて開催された。文字通り「そのまま」であり、来客は誰かの個人宅を訪れる感覚で靴を脱ぎ、畳に座ることになる。舞台装置といったものもなく、あるのは八畳+六畳の小さな私的空間だけである。
詩集という形式をとらない詩集、という場がそこに想像されている、ともいえる
朗読会は、基本的に橘・永澤・向坂三名による詩の肉声朗読によって進められた。
引用するテキストがほぼないため、プログラムから抜粋してみよう。
Fushigi N°5の居留守
Program(予定)baby talk
body to words
伝言ゲーム
向坂くじらによる演説
ディベートコーディネーター
演出家
日常英会話
Free Talk Free
他
プログラムに(予定)とあることが印象的だが、たとえば、目次に(予定)と書かれた詩集を想像してみよう。読者が詩集をひもとくその間にも、その内容が変化してゆく本のようなものを。詩人が創作をするその瞬間、つまりメモが取られ、執筆がなされ、推敲が行われるその現場に読者が立ち会う、という場が演出されている。実のところ、詩を書くということは別に特別な(一部の知的階層のための特権的な)ことではなく、ちゃぶ台でお茶を飲むように自然に行われるものだという意識にかたちが与えられている、と読める。
記憶に基づいて、プログラムから実際に行われた内容を紹介してみよう。
baby talk とあるのはいわゆるトークセッション。
body to words は身体の動きと朗読を合わせたパフォーマンス。
伝言ゲームは、あるキーワードに基づいて次々に話題を変えてゆくもの。
ディベートコーディネーターは、ある無意味な嗜好について討論をするもの。
など、など。私の記憶では演目の順番が入れ替わったり、飛ばされたりしたものがあったように思う。もちろん総体としての三名による朗読には大きな影響はない、というより、ハプニングや手順の間違いが仮にあったとしても、影響が生じないような構成になっている、といったほうがより正確だろうか。詩集になぞらえていうと、誤字脱字が作品の一部として転用されうる文体が準備されている。
また、三人は朗読やトークの間、常に部屋を動き回り、また外側には廊下があって、場合に応じて三人が外出し、襖の外(舞台外)から声が響いてくるといった演出が適時実施されていた。
プログラムから読み取ることができるのは、詩はどのように書かれるのかという問いであり、そして三人の答は「いつでも、どこでも、好きなときに」書かれうるもの、というものだと読める。より具体的にいうならばそれは特定の雑誌への掲載や、特定の媒体(詩集)での発表を経る前の段階での、肉声としての詩の原型というものを想像した。
それはどこか、不要な線をすべて消してしまう前のラフスケッチ画や、大量の下書き線が残されたノートの落書きの荒削りな魅力を思わせる。それを清書する過程で、「不要」な線は消され、「完成度」が高くなり、別の言い方でいえばより「本物の詩」らしくなる、のだが……そのような完成度が果たして必要だろうか。読者にとってなによりも必要なのは熱量であり可能性であり未完成なるものではないのか、という声がどこかから聞こえる。
途中、「紙」の準備原稿を破って床に捨てる橘によるパフォーマンスがあったことは示唆的だった。かたちの残らない朗読において、かたちあるもの、記録を残そうとするものは、打ち捨てられなければならないのだろう。
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私が一番おもしろく観たのは、最後に行われたパフォーマンス。永澤が意味のない音を発し、橘は身体を用いて踊り、その脇で向坂がノートパソコンに向かって即興で黙々と詩を書くというもの。詩は全部で三つ。残念ながら詳細は思い出せないのだが、向坂の詩がとても良かったことは覚えている。そして「良かった」というその気持だけが強烈に、詩の記憶の欠落と結びついている。いま私はこれを書きながら、アメリカの詩人マヤ・アンジェロウのことばを思い出している――「他人はそのひとが言ったことを忘れ、そのひとがやったことを忘れる。しかし、そのひとが自分にどんな気持ちを抱かせてくれたか、それを忘れる人間はどこにもいない」
私はポエトリーリーディングの世界にさほど詳しくないが、いわゆる一般的な詩の朗読会では「完成品」である紙の原稿を読むことが一般的だ。一方、この朗読会で三人が試みていたのは、そうした紙の原稿の「完成度」をとりあえず退け、その代わりに即興、思いつき、無意味性(に見えることば)を用いた詩をつくる、あるいはそうしたことば、運動、こころの動きに詩という名前をあたえてみるということだった。そこからは、それが行われる現場そのものを読者に観劇してもらう、という企図が読める。
詩人はいつ詩を書くのか。もちろん毎日どこでも、あらゆる時間に書いている。だが、それを「完成」させる社会的なる工程で失われてしまうものが、やはりあると言わざるをえない。『Fushigi N°5の居留守』はそれを取り戻そうとする運動のひとつなのかもしれないということを思う。
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朗読会の後、橘上と話す機会があった。彼が「紙の詩集も大事だ」と言っていたことがとても印象に残っている。紙を否定すること、紙を守ること。いずれも間違いなく、詩人の仕事に違いない。
(2019年1月7日)
イベントスペース情報
仲町の家/千住の文化サロン
東京都足立区千住仲町29-1
問い合わせ先:「アートアクセスあだち 音まち千住の緑」事務局まで
書籍情報
lose dog
出版 思潮社
発行 2008年
著者 永澤康太
価格 1900円+税
書籍情報
かなしみ(電子書籍)
出版 マイナビ
マイナビ現代詩歌セレクション
発行 2014年
著者 橘上
価格 270円
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