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森水陽一郎『月影という名の』

――ふたりの冷たい手を合わせよ、不可能なとむらいのために。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は金曜日。今日、わたしたちが読む詩集は森水陽一郎の『月影という名の』(二〇一八年、思潮社)。森水は一九七六年兵庫県姫路市生まれ。以前取り上げた第一詩集『九月十九日』(#0028)で小野十三郎賞を受賞。本書はそれに続く第二詩集となり、詩二十七編を百十四頁に収める。なお本書は二〇一八年の東京文学フリマにて購入したもの。

さて、それでは読みはじめてみよう。
「ひび割られの日々」から。

地球が球体ではなく、洋ナシ形であるように
テーブルごしにゆで卵の殻をむく、君の姿もまた
あぶり出された砂上のかげろうほどに、不確かにゆらぎ
きっとそこには、錆びカギのねじ切られてしまった
えぐられたまま放置されたいくつかの古傷や
灰色に冷え切った、へりのかけた風景画が横たわるはずで

ひび割られ、むかれることで生まれ出るゆで卵のくぼみは
僕の手元でも、君の手元でも、日々少しずつ肺を膨らませ
息の吐き場をなくして、僕たちを地殻から遠のかせて、しばり
性別でしばり、家庭でしばり、職場でしばり、血でしばり
三つ揃いの国家でしばり、羊膜色の国境の網でしばり
ぐらり、ぐら、起き上がりこぼしは根無し草の夢を見て
足跡一つ残せない、無精卵の現実を抱きかかえる

「ひび割られの日々」第一、二連

《千日詩路》の今年最後の書評の対象である本書を読みながら、個人的なことを思いだしている。わたしの生まれたのは房総半島の古い街なのだが、関東大震災のときに朝鮮人虐殺があったことを、成人してから調べ物をしていたときに知った。

他の事件現場と同じように、犯行を行ったものたちは処罰されず、その後も口をつぐみ、その詳細はほとんど明らかになっていない。生家の周りの路地裏を幼少期にすみずみまで探検し、住民たちとは顔なじみで、それなりに愛着のあった地域で起こっていたそんな事件のことを、後になってから知ったときの気持ちをことばにすることはむずかしい。

かれら被害者たちは震災当時いわば朝鮮生まれの日本人であり、日本語はネイティブほどではないにせよ意思疎通はできる程度に話せたはずだ。それはいまわたしたちの近所にごくふつうに住んでいる隣人たちの姿を想像すれば足りる。そしてかれらがこの国でなした子供たちを、わたしたちの子供と見分けることはできなかったはずだ。

どうやったら、と思う。どうして、、、、、そんなことができるのだろう、と思う。それは、どうして、このわたし、、、の手は、汚れているのか、と問うことと同義だ。

詩に戻ろう。詩は「地球は球体ではなく、洋ナシ形である」とかたっている。それはわずかにゆがめられた仮象の空間であり、回想という過程を経て歪められた時間と場所を思わせる。そのなかに置かれた一対の男女が、テーブルという無限に遠い距離をはさんで食事をしている。距離があるのは、そこに傷、亀裂があるからだ。それは「えぐられたまま放置された」古傷であり、その亀裂には顧みられることのない風景画としての思い出が放置され、横たわっている。

食事。それは卵をめぐっている。ゆで卵、だ。一般にわたしたちが口にする鶏卵はすべて無精卵であることは知られているが、ゆで卵とはつまり命の可能性が奪われたものを殺して食べる行為であり、あるいは、システム化された生産現場において大量生産される命のまがいものを消費する手付きを指してもいるだろう。だがもちろんそれらを消費するわたしたたちもまたまがいものであるほかない。わたしたちの知覚は巨大な地球を球体として捉えることなどそもそもできないからである。

詩はそんな意識にひびを入れる。だがそれは入れるという主体ではなく「割られ」るという客体でもあり、それは殺害者と被殺害者の間にある恣意的な、いつでも反転しうる区分を想起させる。傷つけることは傷つけられることでもあり、生きることは殺すことでもあり、あるいは詩を書くことは詩を捨てることと同義である、と読める。

それが「日々」と呼ばれているのはわたしたちのどうにもならぬ人生における不可避的なくるしさを思わせ、あるいは、一定の言語に基づく歴史的環境においてわたしたちをがんじがらめに拘束している様々な関係性の網の目(性別、家庭、職場、血、国)について考えさせられる。それは二〇一八年に生きるわたしたちすべてが知っている電磁的ネットワーク、わたしたちをつなげながらも傷つける、ばらばらにわかたれた破片の総体としての世界を示唆してもいるだろう。

ところで、わたしも今回初めて知ったが、ゆで卵の「くぼみ」は気室といって、殻のなかと外部との空気のやり取りに使われている部分が固まって残ったものなのだそうだ。だがそれは細胞を熱湯によって殺し、変性させることによって初めて可視化されるものであるものだろう。それは傷つけてしまったことその苦しい痛みの自覚によってのみ、はじめて自分と同じ相手がそこにいたことを事後的、、、に見いだすことができるという、ある悲劇的な生の条件をあらわしてもいる。

こんにゃくのりで貼り合わされた
直径十メートルの巨大な和紙風船が
九十九里の浜辺から放たれて早七十年
遠いオレゴンの地ではじけ散った爆弾で
聖職者と五人の子供が失われたことなど
すでにささやかな戦禍の一ピースとして
血色の閃光に華やぐ、歴史の流砂に埋もれ

指紋が消えるまで奉仕した女学生たちは
五層に貼り合わせたつぎはぎの和紙の行方を
知るはずもなく、知らされるはずもなく
戦後、新聞記事の片隅で
あるいはドキュメンタリー番組で
指先を膿ませた、その汚れの意味に気づかされ

浜辺までつづく二キロの引き込み線も
列車の窓を覆い尽くす鎧戸のいわれも
土地の民は誰一人として、知る、はずもなく
松林の上、ふわりと浮かんで遠ざかる
試験用の、乳白色のクラゲの群れを
灰色のもやだまりを胸に抱え、ただ見送るばかりで

七十年の歳月が過ぎ去ったその夏
はるか小倉の地から赴いた一人の老婆が
孫娘に付き添われ、自身の歩みの足をふところに
話だけで知る上総一ノ宮の駅に降り立つ
風船の放球台はすでに取り払われ
磯風かおる道路脇の、草むした一角に
小さな石碑と、案内板が立つばかりで
それでも二人はひざを落として
海をへだてたオレゴンの地に向け
しばし両手を組み、ロザリオに御言葉の涙を這わす

「キキュウノヒ」第一、二、三、四連

第一連。これは第二次世界大戦のときに日本が米国を爆撃するために製作し、日本海側沿岸などから海を超えて飛ばした風船爆弾のこと。わたしはたまたま以前米国のニュース番組を見ていて、この事件のことを知っていたが、米国で唯一の日本の「空爆」被害者が、子供たちを含むこの五名なのだということだ。子供たちは地上に落ちていた風船だと思って近づいて被害にあったらしい。だが米国政府はその事件の存在を非公開とし、風船爆弾による死亡者がいたという情報が開示されたのは戦後のことだったそうだ。

加担する、ということについて考える。それはたとえば福島原発事故の原因をつくったのはわたしたちが結果的に支持してしまっていた政党であり「高度成長」のための社会であったという意識であり、「うつくしい国」や「高い民度」や「治安の良さ」をつくるために個の意識がすり潰され全体に奉仕することが美徳とされそれをどこか肯定的に受け入れてしまっていたわたしたちの人生でもあり、あるいは総力戦においてひとを殺す道具をつくることに加担してきた女学生たちの姿でもあるだろう。

だが、わたしは思う。わたしたちは加担している。騙されているのではない。知っていながらなお、、加担している。

詩は騙されたという女学生たちについてかたる。だが知りえないものについてひとは罪の意識を持ちえない。知らなかったが、知る方法はあった、知らなかったが、知りえないことにしていた、という意識が、ひとに罪の意識をもたらす。それはわたしたち二〇一八年に生きるものがもつ罪悪感と同じものである。

希求、とは、そんな事後的にしか見いだせないものへの後悔であるほかない。だれも加担することからのがれられない。それは特別な歴史の特別な事件などではないのだ。

ドクロ婆が死んだことを
帰省のおりに母から聞かされ
あのころと同じように
自転車でふらりと三分
袋小路のどんつきに居座る
トタン板で囲われた駄菓子屋に向かう

すでにアロエの鉢植えや野外ゲーム機は
跡形もなく消え失せ、子供らの笑い声もなく
白茶けたガラス引き戸の、取っ手の黒ずみだけが
三十年前と変わらず、汗ばんだ夏の握りこぶしにおさまる
緑青吹く十円玉の、ほのかな桜餅の匂いを思い出させ

鉄板に湯気立てる焼きそばソースの香ばしさや
いきがった高校生たちのタバコの煙が渦巻く
大人と子供の垣根がごちゃまぜになった店内に
ドクロ婆の屈託のない笑いと、コテさばきが響き
神棚に鎮座する、握りこぶしほどの黒ずんだドクロが
油まみれの扇風機にぬるくなぶられ、くぼみの涙を乾かす

毎朝小さなおちょこに、なみなみとミルクが注がれ供えられる
そのドクロが歩んできた双葉にいたらぬ途切れの歴史を
僕たちは何一つ知らない、じっと見ないし、たずねない
ドクロ婆が店舗をかねたその二間ばかりの平屋に
いつから暮らし、いつ血の綱が切れ、先に送ったのかも

おつりの小銭を僕たちの手のくぼみにあずけるたび
ほんのひととき、それはつながれて、プツンと途切れ
コンクリートのたたきの隅の、おとといあたり
ホウキの届かぬアーケードゲーム機の裏あたりに
溶け切れぬ綿雪に姿を変えて、しんしんと降りつもり
ドクロ婆の歩むはずだった横並びの足跡をにじませていく

「ドクロ婆」第一〜五連

子供の頭蓋骨が神棚に飾られている駄菓子屋、だろうか。森水の出世作の「青い意志」や第一詩集の「橋の下の聖人」(過去書評参照)を思わせる物語詩。もちろんそれは実際にあったことである必要もなくそう読む必要はない。

ドクロ婆はおそらくは店に通う子供たちがつけたあだ名であったと思われる。老婆のほんとうの名前はかくされている。だがそれは昨今よく見られるような身分をいつわるための保身的な身振りではなく、ほんとうの名前、あるいは、ほんとうにあったことを知ってしまってはならないのだ、という優しさがそこにあることを示している。

人生は悲惨であり、本邦に限らず歴史ははてしなく残酷だ。それを思い出すこと、忘れないこと、過ちをけして繰り返さないと誓うこと。そうしたことはすべて重要なことである。だが……だが、わたしは、忘れるということもまた重要なことではないかということを思う。忘れなければ、とても生きていけない現実というものもある。

それはたとえば、神棚に置かれた子供の頭蓋骨にいっさい触れないということであり、それについて「じっと見ないし、たずねない」という姿勢を保つこと、保ち続けることである。名前を知ってはならない。死んだ子の名前は世界に奪われたものであって、それを取り戻そうとしてはならないのだ――詩はそうかたっているように読める。

「歩むはずだった横並びの足跡」は、降り積もる埃によってかくされてゆく。それは忘れ去られた過去のさらに奥、いまはもう存在すらしなくなったアーケードゲーム機の裏であり、多層的な忘却のかなたにある。わずかな邂逅はうしなわれ、忘れたことすら忘れて、わたしたちは孤立した光となってほろびる。それを見る詩のまなざしはどこまでも優しい。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「弔童ちょうどう」を挙げたい。
母を介護し、母を看取った古希の老人。かれは一九四五年近辺に生まれた子供であり、母は広島の呉出身であることが示唆される。老人は妻を失い、子を持たず、おそらくは奇行を繰り返し、田舎町で笑い者になっている。

弔うべきは、子供なのか、それとも自分なのか。わたしたちは罪にまみれた苦土にがつちを超えてなお生きることがゆるされるのか。そうした問いがある。答などない。

だが、弔うために手を合わせたいっしゅんにのみ、わたしたちはあのひとを取り戻す。そのとき詩はついに、生きる不可能をとりもどすのである。

藁御わらご」という土着の風習が、外房で廃れて半世紀
箕衣をすっぽりとかぶった、素足に下駄だけの
カラカサオバケのいでたちで、その人は浜辺をそぞろ歩く
ときにくすくす笑いで、スマートフォンのレンズを向けられ
ときにパトロール中の警官たちに、かこまれ隅に追いやられ

僕たちはその人が、長らく中学で国語の教師を務めた
古希間近の、埼玉からの移住者であることを知っている
放置された竹林を、土地の人間にまじって伐採し、炭を焼き
味噌や味醂、梅干しや古漬け作りの、エキスパートであることも

藁御の始まりは、「ワラハの子」であり、先立った緑児たちの
身代わりの弔いであり、手切てぎりのための流し雛であり
ワラゴはいつしか、豊穣の神となり、土地を愛でる風となり
稚児の鯉のぼりを空に踊らせ、臨終の囲炉裏の火を吹き消す

ある日をさかいに人断ちをし、藁御となったその人の奥に
僕たちは又聞きだけで知る、母と子の、逆転の営みを重ね見る
すでに九十をすぎた母を、週に二度デイサービスに送り届け
自宅では三時間おきに電動ベッドに寄り添い、ときに徹夜し
妻の骨壺を、いまだタンスの上から動かすことができず
その人は、ほんの少しずつ老いの石臼にすり減らされ

背中をくの字に曲げた母を車椅子に乗せ、五月の海の
浜辺のスロープを押し歩くその人は、知らぬ者にとっては
きっと老夫婦のいたわりにも見え、あるいは最後の旅の
思い出作りにも見え、潮風に錆びた失意の彫像にも見え

浄水器や羽根布団を言われるままに買ったその面影も
すでに遠く、古希の息子はさずけられた名前を失い
しもの世話を焼く、顔なじみの「ご苦労さんの人」となり
ああ、ご苦労さんです、ありがと、と息子も初めて聞く
呉なまりの響きが、年老いた母を海辺の少女に若返らせ
寝返りさえ打てぬ、枯れ細った赤ん坊へとたどり着かせる

フランチャイズの斎場で、座席を余らせたその式から
しばらく浜に足跡は途絶え、ぷつんと断ち切られた
かなわぬ殯の手がかりでも探すように、その人は
醗酵さなかの自家製味噌、黒豆の甘酒、柿酢などを
夜ふけの浜に持ち込んでは、横たわる藁衣の人形に
なすりつけ、御神酒でもまとわせるように、ずぶ濡れにし

「弔童」第一〜七連

(2018年12月14日)


森水陽一郎『月影という名の』書籍情報
月影という名の
出版 思潮社
発行 2018年
著者 森水陽一郎(もりみず よういちろう)
価格 2600円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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