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TOLTA『この宇宙以外の場所』

――矩形の箱に忘れられたもの、もう捨ててもいいですか?

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詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は木曜日。今日わたしたちが読む詩集は TOLTA の『この宇宙以外の場所』(二〇一八年)。本書の奥付によれば TOLTA は河野聡子(#0072)、佐次田哲、関口文子、山田亮太の四名からなるヴァーバル・アート・ユニット。そのまま引用すると「詩を中心とした言語作品の多用なあり方を探求」する創作グループ。そのことばの通り、朗読やパフォーマンスをはじめ、詩以外の現場でも先鋭的な活動で知られるユニットだ。

本書に掲載された十九編の詩はすべて共同制作されたものであり、これは具体的には Google の共有スプレッドシートを用いてそれぞれが書いたものを編んだものということだ。これに河野による解説を加え、これらを八十六頁に収める。なお本書は二〇一八年の東京文学フリマにて購入したもの。

多少の補足を。本書の詩編は、すべてメンバーのだれが書いたかわからないような仕組みになっている。つまりひとつの詩連があるとき、それを構成するA、B、C……のそれぞれの行を別々の人間が入力したものとも考えられるし、あるいは同じ人間が大部分を入力したものとも考えられる。それは明示されていない。また、おそらくは文字列が入力された場所、時間もすべてばらばらである。

そういった演出が施された作品を読むということについて考える。それは第三者が手配した断片化されたことばを、最後に書籍の形(またはなんらかの統一的データ)に組み上げ、まとめているその見えない手付きを読むことだ。しかしよく考えてみると、それはわたしたちが頭のなか(または指先という器官)でやっていることと同じことなのではないだろうか。

わたしたちの使っていることばは第三者によって埋め込まれた母国語のどこかの領域から借りてきたものであり、ひとつとして自分のなかにあるものではない。つまり、わたしたちはそうした本書の表面上の企図からはなれ、この詩集を「TOLTA」というひとつの仮象の名義で書かれた書籍、とごく普通に読むことがゆるされるだろう。

さて、それでは読みはじめてみよう。

窓を開ける。叫ぶ。窓を開ける。呼ぶ。窓を開ける。呼ばれたように思う。窓を閉める。窓が閉められる。窓を閉める。窓は閉まっている。窓を閉める。窓が開けられたときのことを回想する。メタファーとしての窓がこうして成立していく。

(…)

人間の味覚が視覚に多大な影響を受けていることは周知の事実である。透明なコーラに黒い色をつけることによる味の変化の実験が発表されこれに関する裏付けがまたひとつ増えた。ここ十年ほどで環境はまた破壊されるフェーズに入ったのではないかと疑っている。発展のための環境破壊ではなくより悪いものを倒す正義としての環境破壊がもてはやされている。

(P3、P5)
※(…)は改ページを指す

序文に相当すると思われる詩連。本書のサイズはほぼ正方形なので、物理的な形状からも、窓を開けることが本書を開くことになぞらえられると読める。

窓を閉じる、そして開くことは、詩を読み、詩を書き、あるいは詩を捨てるそれらのうごきであり、読者に呼びかけることと、理解へのことばを閉ざすことが同時に生じている。それは現代についての詩をめぐってひろく要求されている/欲望されている、ある難解さの演出でもあるだろう。だがもちろん、重要なことはやはり窓を開くことであり、それこそを回想せねばならないと詩はかたる。それは矩形の携帯画面を開いてディスプレイという窓をながめる読者の姿を想起させ、わたしたちのそれぞれの多様化した生の現場のおける読むという営為がそこにふっと映しだされる。

後半部分、人間の味覚が視覚に多大な影響を受けている、ということ。これが本書の冒頭に置かれている理由、、について考える。それは詩を読むにあたっては、わたしたちの味覚(中身、理解)は、視覚(外見、ブランド)に騙されがちであるということをいっているのだろうし、より深読みすればそれは詩集の出版社による既存のヒエラルキーにもたれかかった読みの貧しさを指し示してもいるのだろう。それはうごかすことのできない現実でもあることをわたしたち全員が知っている。

人間の価値を決めるのは外見だという通念を持ちだすまでもなく、わたしたちは詩をじゅんすいに読むことなどできはしない。だが、読もうとすることはできる。視覚に影響を受けざるをえないことを引き受けた上で、味覚を鑑賞することはできる。TOLTA が出している詩集はすべていわば私家版で、既存の詩の出版社から出してはいないし、おそらくこれからも出さないだろう。そうした姿勢そのものがすでにマニフェストであり、野心的な挑戦であり、それは成功していると感じる。それに勇気づけられる詩の関係者も多いだろう。それはいわば、読者の味覚を信用するといっているのと同じことだからである。

その一方で、読むための環境は破壊され続けている。味蕾は恢復せず、味覚は破壊され、「発展のための環境破壊ではなく」、表層的なそれ自体何の意味もない正義のために読みが破壊されていく。黒いコカコーラによってよごれた詩集がもてはやされていく、とも読める。だが「悪いものを倒す正義」もまた否定されなければならないのだ。「悪いもの」は退けなければならないが、それを倒そうとする正義もまた同じくらい胡散臭いものだからだ。

色のついていない透明なコカコーラということを考える――それは、この宇宙で買えるだろうか?

◇ ◇ ◇

お弁当をきちんと用意しないと、もやしは旅に出るのではなく、単に家出するということがわかった。ベッドに寝る体勢となったのに、首をかしげては鳴く犬。生姜ごはん。新生姜と刻んだ油揚げを入れ、しょう油と酒で炊いたごはん。生姜には殺菌作用があるというが、五日間冷蔵庫に放置したら腐った。もうすぐヤギが訪れる。霊魂は霊魂と対話ができるのか、常々疑問に思っている。愛されて死んだ人間も、死んだあとずっと愛されているとは限らない。何をどこまでやれば十分なのかを決めるのは、誰なのか

「グアテマラには郵便が送れない」全文

個人的なことをかたると、わたしは外国人と結婚しているので、たまに海外の実家から大量の食材が送られてくる。アジア食材はすばらしい、などとこころのなかで喝采しながらさまざまな料理に使うのだが、親戚というものは万国共通で量の配分ができないらしく、一部をいつも腐らせてしまう。冷蔵庫のなかで食べられることなく傷んでしまった食材はかなしい。庭があれば肥料にでもするのだが、そうもいっていられないので泣く泣く処分する。

「五日間に冷蔵庫に放置したら腐った」という行。ことばは頭のなかにあるのではなく指先にあると感じる。あるいは、いまこうして書く投稿フォームの白い矩形のなかにだけあるように感じる。それはことばがA対宇宙の非対称な関係性の網の目のなかにだけ存在するものであり、投じられたときにはじめて意味を所有するものだからだ。ことばを頭のなか(と思われる一定の細胞部位)に閉じ込めておくだけでは、意味は生じない。それはわたしたちの細胞の電気信号でしかない。

ゆえに、ことばは消費されなければならない。あらゆる場で、あらゆる形式で消費しなければならない。本詩集でくりかえし現れる矩形の冷蔵庫のなかでひっそりと腐っていく食材はことばの愉だと読める。

ところでグアテマラはどこにあるのかというと、中南米だそうだ。何をどこまでやれば十分なのかを決めるためには、知らないものは知らないと、知りえないと知ることからはじめなければならないのかもしれない。

一日中バイエルを練習するような痛み。リコーダーでスタッカートを永遠に打ち続けるような痛み。人の家の冷蔵庫で保冷剤を探すミッション。うしろに歩いていくことで正確な意味での「後進国」となれる。保冷剤好き! 大好き! 扉を開けたとたん「階段に鳥がいる」と叫ぶ男。扁桃腺が痛い。貨物列車が通った。言語が統一されていない以上、世界各国の住所表記が統一されないのは仕方のないことである。

「貨物列車」全文

ふたたび冷蔵庫が現れる。わたしも保冷剤は好きだ。娘のミルクを外に持っていくときに冷やしたり、歩いて往復二十分の距離にあるコンビニエンスストアでアイスを買って戻ってくるときにも使う。

「人の家の冷蔵庫」で保冷剤を探すミッションとはどのような状況なのか想像してみるが、わかるような、わからないような、そしてちょっとだけ滑稽な(身体の特定の部位に関連する)シーンが頭に浮かぶ。その痛みはピアノの基本練習であるバイエルを一日中実施するような痛みでもあり、あるいはうしろに歩いているうちにいつの間にかほんとうの意味での後進国になってしまった実存の痛みであるのかもしれない。

痛みをやわらげるミッションのうごきが、巨大な荷物を載せて運ぶ鋼鉄の車体のうごく音になぞらえられる。わたしたちの言語は統一されていないと詩はかたるが、それは外国語のことをいっているのではないと感じる。そこでは行く先もわからない貨物列車のネットワーク上を運ばれる痛みをもった肉塊たるわたしたちそれぞれのコミュニケーションの不能性がかたられており、それはとくにインターネット、ソーシャルメディアがもたらした断絶と乖離と孤立をみれば容易に知ることができるものだ。わたしたちはお互いの居場所を示すはずの住所表記プロトコルすら統一することができないのだ。だがそれは「仕方のないこと」だというほかない。

「保冷剤好き!」という一行。それはそんなわたしたちの生の現場にふさわしい、だれかになにかを伝えることをいっさい放棄した、放棄せざるをえなかったそんな自分に向けて、たいして意味のないものを好きな自分が好きだと説得しているかのようだ。そしてそうした趣味嗜好の表明は、「いいね」や「わかる」といった共感をベースにしてしか結局わかりあえないのだとじつのところ絶望している多くのものたちが毎日行っているものであるだろう。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、詩集の題名ともなった「この宇宙以外の場所」を挙げたい。

次の日様子を見に行ってみると昨日と同じ場所で死んでいた。穴を掘って埋めた。かえるにもやしという名をつけ旅に出す。何故、マカロニをマヨネーズであえたものを人はサラダと認識してしまうのか。真理の希求は圧倒への欲望と共通の根を持っている。物理を上げて殴ってさえいれば良いというタイプの短絡思考が有効になる場所を探すのである。大人になっても人は台風で飛ぶ。生まれ変わったら地球以外というかこの宇宙以外の場所に生まれたかった。物理法則がこの宇宙とはちがう場所に生まれて鳥にならずに空を飛びたかった。

「この宇宙以外の場所」全文

物理法則がこの宇宙とはことなり、鳥にならずに空を飛べるという「この宇宙以外の場所」を詩は夢見ている。

それでは「この宇宙」とはどのようなものだろうか。それは詩が死んでいる場であり、あるいは詩が昨日死んでいた場所でいまだに死んだままである場所であると読める。それは二〇一八年の本邦の状況を指し示していると考えてそんなに間違っていないだろう。一方、この詩を書いているだれかは、詩ははたしていつまでも死んだままなのかどうか、それを確かめるために詩の現場にたちかえっている、とも読める。

一方で、それは繰り返し埋葬されてもいる。埋葬されたものをリネームし、別のかたちパッケージで転生させることが推奨されており、それが「旅に出す」と表現されている。それはどこか遠い場所、いまだかつてだれも経験したことがないような場所にゆくことであり、詩集を ISBN を帯びた旧来の手法ではなく私家版として一般社会の欲望に沿ったかたちで流通せしめつづけることでもあり、あるいは「現代詩」たるドグマに自らの価値判断を委ねないということでもあるだろう。いいかえれば「詩や文学は死んだ」といわれて久しい現代の消費社会に向けて、詩集を旅立たせることである。

なお詩の読者のために少し解説をすると、「物理を上げて殴ってさえいれば良い」といのは、ミームの一種であり、主にロールプレイングゲームのプレイスタイルを指し、「対象を破壊し、攻略することを目的に、単純に物理的な攻撃力だけを向上させて、その他の回避、迂回などの補助的な戦略を取らずに戦うこと」を意味する。

一般的にいえば、世の中が求めているのはそんな短絡思考であることは間違いない。詩のことばを借りればそれは「圧倒への欲望」だが、それはまた同時に「真理の希求」と共通の根を持っている、ともある。詩はそこで、浅薄さこそが深さを駆動させるのだ、という逆説をかたっているのだと読める。そしてそれは「マカロニをマヨネーズであえたものを」サラダと認識してしまうのはなぜかという、ごくありふれた問いの軽さ、、によってよくあらわされている。

だがわたしはその軽さが好きだ。外などこの宇宙に存在しない。
とどまろう、この矩形に。

(2018年12月13日)


TOLTA『この宇宙以外の場所』書籍情報
この宇宙以外の場所
私家版
発行 2018年
著者 ヴァーバル・アート・ユニット TOLTA(とるた)
価格 1000円+税

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