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詩誌『権力の犬 第七号 戦争篇』

――ばらばらに引き裂かれた欲望だって? さあ、戦争だ!

◇ ◇ ◇

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本日は水曜日。今日わたしたちが読む詩誌は『権力の犬 第七号 戦争篇』(二〇一六年)。本詩誌は、第九回中原中也賞を受賞した詩人の久谷雉によって二〇一三年に創刊された不定期発行の詩誌。今号は監修を久谷雉とし、企画編集は亜久津歩(#0075)。参加メンバーは八名で、掲載順に久谷雉、小峰慎也、オカザキなを、横山黒鍵(#0016)、能美政通、橘上、亜久津歩、山田亮太。「戦争」というキーワードに基づき詩作品をそれぞれ寄稿する企画ということだ。久谷の序文に加えて詩七篇を三十頁弱に収める小冊子。なお本書は企画編集者より頂いたもの。

さて、それでは読みはじめてみよう。
「序文」から。

犬の前に犬は無し。そして、犬の後にも犬は無し。無論、其処が戦場であらうとも、犬は犬の儘である。犬は肉体でも概念でも無い、それゆえに引き裂かれることが出来ぬ。銃剣の重みは犬の疲労に加担しない。ただ、犬は犬の他の何者でもありえぬ重みを負ふことによって、犬の姿形をからうじて保持していゐる。火薬の香り?其れは犬の鼻先を掠めた幻の一端に過ぎぬ。水平線の彼方に挙がるか黒い煙の柱?それもまた犬の瞳を一瞬翳らす幻に過ぎぬ。そして幻の方角を向いて歯を剥く我々の尾を焼いてゐる火は、幻に過ぎぬと我々に弾劾される権利を有してゐる。火の奥に開かれた冷たい瞳に弾劾される権利を我々もまた。弾劾と弾劾が重なり合ふ虚空の中心で、改めて我々は知ることになるだらう。犬の前に犬は無し。そして、犬の後にも犬は無し、と。

「序文」全文
久谷雉

この詩誌が発行されたのは二〇一六年年末。その年の三月には安全保障関連法案が施行されている。当時はSEALDsをはじめとしたソーシャルメディアを通じた市民のデモによる政治参画が大きく話題になっていた時期でもあり、そしてそうした活動が当時の政治状況をほとんど変化させることができなかった無力感が、翌年への民進党の完全なる消滅(と希望の党への合流)へ繋がっていく。

本書はそんな時代状況を前景としている。この詩誌を読んで、当時の記憶が鮮明によみがえった。そうした熱狂的な社会活動を、わたしは当時ひとりの生活者として、あるいは傍観者として見ていた。そこには自分の住んでいる国についての市民運動であるはず、、なのに、自分はその当事者ではないといわれているような疎外感があり、そのしくまれた熱狂にどこか胡散臭さを感じて距離を取りたがる意識があったことを想起する。

それはソーシャルメディアによって可視化されることのない、つまり積極的な意見表明をいっさい行うことのない圧倒的大多数のマジョリティの見えない意識でもあったのだろうということを思う。ごく一部による熱狂が過剰に演出されればされるほど、ひとびとは離れてゆく。そしてその構図はいまも変わっていないことを感じる。共感をベースにした運動には、いつも「このわたし」がいないからだ。

「犬の前に犬は無し。そして犬の後にも犬は無し」の一行はそんな「わたし」不在の運動を指し示しているように読める。犬はあくまで傍観者であろうとする。たとえば「火薬の香り? 其れは犬の鼻先を掠めた幻の一端に過ぎぬ」ことが嘘であることをわたしたちは知っている。なぜならいまこのしゅんかんにも暴力が、暴行が、虐殺が、ありとあらゆる残酷な営為が、世界のあらゆる地点にて行われているからだ。だからここでいわれている火薬の香りとは、たとえば社会運動家が煽動で用いていた/るレトリックであり、そんなものは幻であるといっている。

「弾劾と弾劾が重なり合ふ虚空」も、なにを指しているのかはあきらかだが……。そこには詩は、戦争/非戦争に加担して良いのだろうか、という問い、迷いがやはりあると感じた。それはソーシャルメディアに政治的な意見表明などいっさい、、、、したくないと思っている二〇一八年の書き手すべてが持っているものだと思う。

暴力の不在はあらたな暴力を誘発する構造が現実にある。それは暴力をふるう人間の上気した貌を見ればわかることでもあり、暴力を止めるにはあらたな暴力によるほかなく、それはわたしたちのうちにある暴力性とその行使のよろこび、、、、を見るだけでも足りる。そこから目をそむけたいかなる主義主張も空疎であるほかなく、久谷がいうように、それは「犬の瞳を一瞬翳らす幻」に過ぎない、ということを思う。

権力とは、やはり麻薬であり、暴力の一種なのだろう。その重力にあらがうためには、わたしたちは自らをしてどこにも存在しない犬となるほかないのかもしれない。それがいかなる結果を招くかだれにもわからない。それが「犬は犬の他の何者でもありえぬ重み」をやがては背負うことになるという一行に繋がっている。

◇ ◇ ◇

前例を踏襲するだけでいいのですか
授業が終わるとすぐに駆け寄ってきた
女子生徒
いや
男子生徒
だったかもしれない
「虫めづる姫君」を学習していた
姫君の在り方に触発されたのか
いや
生まれ落ちて以来の
現実に対する異和が
たったいま
発露したのかもしれなかった
昨年学んだ「する」論理だね
と言いかけてやめた
変わらなければいけないものがあるが
変わってはいけないものもあるはずだ
と言いかけてやめた
もういない
返答を望んでいたわけではないようだ
せんきょう
と叫ぶ声がきこえる
教室を出る
使徒かもしれない
いや
憂国の徒だろうか
わたしは
はんはんせんそうせんそう
と念じた
学生時代に友人のKが言っていた
反反権力権力宣言宣言
をもじったものだ
宣言をつけなかったのは
あらたな戦いがはじまるからだ
声にしなかったのは
あらたな戦いがはじまるからだが
念じてしまった
はじまるかもしれない
いや
わたしが
たったいま
はじめたのだ
立ちどまる
あの目とおなじ目をどこかで見た
男子生徒
いや
女子生徒
だったかもしれない
どうして詩を書いて生きないのですか

「どちらでもなく」前半、中盤
能美政通

「はんはんせんそうせんそう」とは、反・反戦争・戦争。そうした姿勢が「どちらでもなく」と呼ばれている。どちらでもなく、のあとに続くことばはなんだろうか。それは「どうして詩を書いて生きないのですか」という問いかもしれない。

なぜひとは反・反戦をするのか。端的にいえばそれは世界の仕組みがわたしたちの考えうる範囲よりもはるかに複雑だからであり、とくにあらゆるものが単線化され、単純化され、その上で特定の感情が一部の扇動家マニピュレーターたちによって操作されてしまう二〇一八年の現実を考えたときに、やはり説得力をもつだろう。それでは、わたしたちは、なにもしなくていいのか、という問いがみちびきだされる。

詩はそれに答をあたえようとしている。「声にしなかったのは/あらたな戦いがはじまるからだが/念じてしまった/はじまるかもしれない/いや/わたしが/たったいま/はじめたのだ」と。

それは単純化されたことばにあらがうこと、白でもなく黒でもない宙吊りの実存のおそろしさに耐えること、そしてそんな生を生きてたたかうことである。つけくわえるならば、それはいまこのしゅんかん、だれでもはじめることができることなのだ。もちろん、無力なままで。

九条、その道の向こう、横たわる白い骨に群がる小さな蟲たち。の羽音、葉の縁を叩いてなお静やかな眠りが触れ合う星々のよどみ、夜であった。夜がそっと瞼を閉じた。その道の向こうに来る人があり、待つ人がある。よどみ。夜露が足跡にたまる、無数の。音を沈めるように息を殺す。
諍いの黒文字が歯をせせる。のは指先に湯煙のまだるこさが揺蕩うからだ、唾液に濡れるそれを戦いといい争いといい、先に流しておいで、透ける光は障子越しが程よい。
白く骨の上に貼り付いた肌は白くやはり白い、跳ね返りの血が乾いて鼻につく緋文字、艷やかな髪をいっそう巻き上げ、吐息のような魔物を湯につける、けして振り返ってはいけない。鏡に映る幾つもの手が梳く頸を撫でる、熟れを狎れた丁寧さで。刎ねられた狗の頸は道に沈んで、どうして刎ねた、夜露の唾液に溜まる、その上を通る、飛沫、幾度も幾度も穢されていく。徐々に細められていく瞳孔は、すっとほどけて濁された舌につめたく甘く溶けていく甘く。
新しい石鹸を丹念に泡立てる。陰毛が隠れてしまうほど泡立て下から上へと、弾かれるものは弾むものでありときに爆発するものであり、罅の脂にひかる肉体はけして安くはない。安くはないが足を向ける。口に頬張るしゃぶる。魔物として 黝い歴史の殴打を染めた龍の墨には開かれぬ千珠ちず。張力をまして滑り落ちてゆく零れが朝となり、しっぽりと呪詛の陰を花紙で拭く、黒文字で汚れる。髪は重く、汗ばんだ肌は骨からはほど遠く。腿のあたりに散った赤い口吸いの羽音、また降って。

「きょうはたくさんのむしをうちました」
「それはこまったことだね」
「たくさんのむしにまじって、たくさんのおとをうちました」
「それはこまったことだね」
「たくさんのおとにまじって、*************」
「それは********」

「犬神」第一〜五連
横山黒鍵

九条、は「きゅうじょう」でもあり地名の「くじょう」とも読める。
横山の第一詩集『そして彼女はいった――風が邪魔した。』でも感じたが、詩連に充溢する暴力の気配にやはり惹かれる。それはおそらくイエという閉じられた空間のなかで起きていることをえがいているのだろう。それは九条という和名や障子や湯煙などが示唆する本邦の歴史的な場であり、また九条という憲法によって縛られ、暴力が存在しないことになっている、、、、、国における、かたちをかえた陰惨な暴力の喩でもあるのだろう。

第五連。十三文字の伏せ字と、八文字の伏せ字が眼をひく。それはすでに乾いた血の滴りのように見え、それはわたしたちに見えない場、あるいは見ているが見えていないことにしている本邦のあらゆる生の現場で行われていることの醜悪さをあきらかにしていると読んだ。それは苦悶の声が虫となぞらえられ消し去られるのみならず、それを快楽として読み解くことが推奨されるようなねじれた場であり、その痕跡である。――告発者、ということばが頭に浮かぶ。個人的な趣味だが、好きな作家だ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は……今回は、今年で一番悩んだ。

ここは橘上の「NO ON NO」を挙げたい(次点は、能美政通の「どちらでもなく」)。この詩は、安倍晋三総理大臣の記者会見からソーシャルメディアで話題となった発言までさまざまなテキストの引用を行い、それらを組み上げたもの(手法としては、山田亮太の『オバマ・グーグル』を思い浮かべる)。

語り手は、引用のかたちで、次々に矛盾した声を発してゆく。わたしたちは矛盾した存在であり、ばらばらに引き裂かれた欲望とことばを抱えて、かろうじて整合性を保っている狂人に過ぎない。だからそんな矛盾はつぎの戦争をもたらし、ことばだけで戦争は起こりうる。詩は予想や推測をしているのではない。知っているのだ。

そこにズームで近づくだろ……、そうだ、詩だ!

こうした課題に、僕ら行かない人間が語るべきことは。僕は銃をギターに替えてやるから文化的なもので何か作ろうよ。アーティストがアートで何かポリティカルな表現をしたからといって、それはどこまでいってもアートでしかなく、政治行動ではない。本質を突かないよ。本質を突いているようで…チップだよ。だから「私はデモではなく自分のできることをやっていく」って、意味がない。文句言われたら「ファウルじゃないですか」って言やぁいんだから。「俯瞰視点から茶々を入れるスタイル」ってまだ国内でポピュラーだよなー。もう賞味期限切れだけど。ぼくは、サンマが、おもしろいからすきだ。タレントがなんぼのもんじゃい! サンマのきらいなところは、パーでんねんしないときだ。正直に言って書くことは苦痛だ。私から見て、カメラの前にあるのが現実だ。観察者が対象に影響する。見る者が見る対象を変化させるわけだ。映画と社会が混ざったもの。重要と思えるシーンだけつなごう。ズームで近づくだろ…、詩だ! 言葉だけで戦争は起こる。

「NO ON NO」第十一連 部分
橘上

◇ ◇ ◇

補足となるが、時代状況に合わせて特定のテーマに絞った詩誌をつくって、フットワークの軽い(そして手に取りやすい価格で)紙媒体で世の中に残しておくことは、とても重要なことだという感想を、あらためて読後にもった。編集企画者と監修者の方針がすぐれていたということだろう。おもしろい企画だった。

(2018年12月12日)


詩誌『権力の犬 第七号 戦争篇』詩誌情報
詩誌 権力の犬 第七号 戦争編
発行 2016年11月
監修 久谷雉(くたに きじ)
企画編集 亜久津歩(あくつ あゆむ)

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