『いのちづな』アイキャッチ

亜久津歩『いのちづな』

――なんにもないし、まあ、とりあえず、生きよっか。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は月曜日。当サイトは今週末で今年分の更新を停止するため、最後の週となる。まだ盛夏だった八月一日より続けてきた当サイトの記録を読み返すと、それぞれの読解に苦闘してきた日々たちがよみがえる。詩はおもしろい、ただそれだけのことを日本語を解する全世界の読者――詩集を入手できない地域に住む外国読者も含む――に伝えてゆくため発足した零細なる企画が、国内と海外両方にて少しずつ認知と広まりをえていて嬉しく思っている。どうぞ最後までお付き合い願いたい。次の節目は二月を予定する百冊目、いわゆる「シーズン1」の最終回である。

◇ ◇ ◇

さて、今日わたしたちが読む詩集は亜久津歩の『いのちづな』(二〇一〇年、コールサック)。亜久津は一九八一年東京生まれ。第一詩集は『世界が君に死を赦すから』(コールサック)。本書は第二詩集にあたり、二〇一一年に第一回萩原朔太郎記念「とをるもう」賞を受賞。また、本書は「世界自殺予防デー」である九月十日に発行され、自殺とそれにまつわる精神的な問題を主題としている側面があることを補足しておきたい。百二十八頁に詩四十五編を収める。なお本書は著者より頂いたもの。

さて、それでは読みはじめてみよう。
「問う日――使命と宿命とより直観的なものについて。」から。

「書かなければならないことなど
(ほんとうは? すでに?)なかった」
とつぜん木曜日を遮断するエラーコード
ERROR_INSTALL_FAILURE
〈インストール中に致命的なエラーが発生しました〉

使命、とはどこか不自由に(嘘っぽく)きこえるから
望まぬものは(まだ?)与えないでくれ
気ままだけではいけない、、、、のだろうとは判っている。と思う、けれど
(これは批評ではない)
ERROR_INSTALL_SUSPEND
〈インストールは中止され、完了していません〉

背負うものは選ぶんじゃねえ、、、、、、、、、、、、、のさァ
拙宅の詩神ミューズがにやにやと頬杖をついて眺めています
そうだ。そのはずだ。
然るべきものならばすでに息づいて

ERROR_REQUEST_ABORTED〈要求は中断されました〉

「問う日――使命と宿命とより直観的なものについて。」
第一、二、三連
※傍点、ルビは原文ママ

エラーコードとは、主にコンピューターのオペレーティングシステムやアプリケーション上で、処理でエラーが生じたとき、そのエラーの内容を表す特定の番号や記号を指す。この詩ではそれが書く営為の過程になぞらえられている。書くことはエラーを不可避的に伴い、必ず失敗する、と読める。

エラーは不意に、わたしたちの使っている Windows OS や iOS 上で動くアプリケーションがなんの前触れもなく遮断され、中断され、作業中のデータが破壊されるように、おとずれる。それは「「書かなければならないことなど(ほんとうは? すでに?)なかった」」のではないか、という、ある確信、気付きとともにおとずれる。それは書くという主体にとって致命的なものであり、すべての生きるという処理はその時点で中断されるほかない。

およそ書こうとするものに、必ずおとずれる誤読。それは自分に書くべきこと(使命)があり、自分はこれを書くべきだ(宿命)という考えである。だが、そのような使命感や宿命の予感はすべて、、、間違っており、たんなる思い込みにすぎないことをわたしたちは経験的に知っている。

亜久津の詩がいうとおり、それは書き手に嘘と不自由をもたらす。一方で、詩は「気ままだけではいけない」ともかたる。書くということの隘路の両脇にひろがる矛盾の崖に落ちないために、詩は批評をかくとくせねばならない。そのときはじめて作為のインストールが中止され、わたしたちは書くというじゅんすいな行為に立ち返ることができるだろう。

じゅんすいな行為とはなにか。それは選ぶものではなく選ばれる、、、、ものである。詩がたどりついたその理解はきわめて残酷なものであり、それは書き手のペンを動かす手、そして読者の頁をめくる手を凍りつかせるだろう。

この詩は、最終連にて「NO_ERROR〈この操作を正しく終了しました〉」と締めくくる。だがそれはあきらかな嘘であり、そこでかたられていることは、書くことを正しく終了することなどだれにもできないということであり、それは「正しく死にました」と死人が口にすることと同じことなのだ。

まっすぐ歩いてきたはずだ
誰もわからなかったろう?
いつ歪みはじめたかなんて

辿るべき軌道を――描くべき図形を――
規則的に――正確に/逸れる――戻る?
ちからある――ものに――予定調和を
幸福と――呼ぶならば――それもいい
自由を――喜ぶならば――それもいい

「フーコーの振り子」第一、二連

「フーコーの振り子」は、地球が自転していることをある特定のうごきで示す振り子。静止しているとしか思えない巨大な大地がじつのところは高速で移動しているという事実を、歪んだ軌道にてしめす器具が、時間のなかを移動してゆくわたしたちの歪んだ歩みをあばく詩になぞらえられている。

この詩集が発行されたのは二〇一〇年で、東日本大震災の前のことだ。当時がどんな社会だったか、わたしたちはもうあまり思い出せない。だが詩にえがかれる閉塞感は、わたしたちに当時の風景を鮮明に思い出させる。それは巨大な見えない力によって無意味な(と思える)軌道を描くことを強いられる生であり、なにかに吊り下げられてどこにも行けない外部のない生でもあり、高度情報化社会のシステムによって細分化された時間によって管理され、利用され、道具として用いられる生でもあった。

生が予定調和(であるかのように)に見えたのは、いわばわたしたちが振り子であることを受け入れたからである。振り子がえがく歪な円軌道はどれだけ大きなものであっても、いくら前後左右に揺れたとしても、特定の範囲からいっさい出ることはできない。そこには幸福や自由はなく、奴隷的な屈従があるだけである、と詩はかたっている。「それもいい」というのは、そういうふうに感じなければ生きていくことができないほど、追い詰められた実存がそこにあったからだ、と読める。

わたしたちは、本邦のそんな風景をよく知っている。いや、よく知っていた、というべきか。ほんとうにあったことはたやすく虚偽によって書き換えられ、当時のことはあっという間に忘れられ、歴史の歯車に轢き潰されて消えてゆく。ソーシャルメディアに流布するフェイクニュースは、わたしたちがどれだけ忘れやすく、煽動されやすく、自分たちが見たいものだけを見てしまう生き物なのかということを明らかにしてくれた。

「まっすぐ歩いてきたはず」だと、だれもが誤解している。だがその道は曲がっており、しかもそのことを知ることはとてつもなくむずかしい。そんな見えないものにかたちを与えること、「描くべき図形」を夢みること、それが詩の仕事だということを思う。

家も物もそれなりにある
助からない病気じゃない
事故に遭ったわけでもないし
爆弾まかれるわけでもない

戦中戦後の人たちや途上国の子にくらべたら
なんてメグマレテいるんだろう
なんてゼイタクなんだろう
シアワセなんだろう

だからなんにもない死だ
怒りもない 理由もない
被害者面もゆるされない
じぶんだけがわるい死だ

「なんにもないし」第一、二、三連。

二〇一八年、わたしたちの周りにあふれる昭和的価値観への嫌悪について考える。昭和的価値観には様々な積弊があるが、そのうちではわたしは「努力」があまりにも重んじられすぎる側面についてよく考える。それは文字通り瓦礫の中から這い上がってきた、昭和生まれのわたしたちの両親とその親たちの精神力と、かれらが戦後復興を成し遂げたことによって生まれた、努力に対する揺らぐことのない信仰心で、わたし個人もまたこれを受け継いでいると思う。

それが「信仰」といったのはそれが根拠のない思い込みに過ぎないからだ。たとえば毎日書評サイトを更新することは自己満足に過ぎないが、それを是と捉える価値観は、それが良いことであるという信仰にどこか基づいている。だが当たり前のことをいえば、サイトを運営する上で良いこととは、ページビューを増やし、プレゼンスを高めるための施策を実施することであって、それは毎日更新することなんの関係もない。

昭和的価値観に大なり小なり縛られているわたしたち昭和生まれ世代と(と空気をつくる大多数の高齢者のひとびと)が、力や境遇に恵まれず苦しんでいるひとびとに対して「努力が足りない」と批判する。それは努力すればなんとかなった(と思っている)経験や記憶があるからだが、そこに欠けているのは想像力であり、そもそも努力というものすらじつのところ所定の環境が整ったときにのみはじめて可能になる、いわば贅沢品である現実についての認知力であるだろう。

不運、不幸、くるしさは個別のものであって、そこに上下はないし、ほんらい比較することができないものだ。昭和的価値観が嫌悪され、駆逐されてゆくのは当然であって、これから滅んでゆくものだ。それはこれから先に死ぬものたちの胸に抱かれたまま滅びるだろう。だがおそらく昭和的価値観のなかで育ったものたちは、それが多くのひとを苦しめていることを知りつつも、「なんにもない死」とつぶやきながら、そうした価値観から自由になることはけしてできないと思う。わたしもできない。だれも所与の時代環境とそれが生み出す言語空間から自由になどなれない。なれると言っているひとびとは詐欺師である。

一方、亜久津の詩はただその不能性についてのみかたっている。それは一見くるしい空白のように見える。だれも自殺するひとを止めることはできない。小説家も、評論家も、そして詩人も自殺する。だがそれは終わりをみてそうだと言っているだけだ。

ひとは途上だけを生き、詩はなにもない空虚を生きようとする。どうしようもなく死を望むこころに生きよなどと煽る無責任なレトリックとは無縁の場所に置かれた詩の徹底した無力さのうちにある真摯さこそ、ありきたりのことばのもたらす零度の空気のなかで凍りついたこころに遠い温度をあたえるはずだ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも印象に残った詩は、「ありふれた黒点」を挙げたい。
(ちなみに好きな詩は、すでに挙げた「問う日」)

個人的なことをかたるのだが、わたしが書き始めたころ、わたしを褒めてくれた作家たちがいた。「君は本物を書け」と激励された。かれらがいなければわたしはそれ以降十年間書き続けることはなかっただろうし、本を出すこともなかっただろう。

だが、苦笑とともに思うこともある。それはもし当時かれらに褒められなかったら、と、いうこと。ひょっとしたら書くことには早々と見切りをつけて、少なくとも今よりはずっと裕福な生活をしていたかもしれない、と。

「わたしにしかできないこと」をさがす旅は、困難なものである。わたしが好きなことばを引用し、締めくくりたい。「困難とは、それを克服しうるものにのみ、はじめて見出されるものだ」、と。

本当はとっくにわかってる
なんにもないことが苦しいくらいに願ってる

(以前の職場で出世していく同期がまぶしい)
自分のペースでとか自分らしい生き方とか
言ってみたって心は少しもついてこなくて
(結婚したり子どものいる女友達がまぶしい)
すごいねぇとか羨ましいなんて言いながら
そんなふつうの幸せをどこか望めずにいて
(歌や演劇で夢を追ってる男友達がまぶしい)
手伝うよとか応援してるなんて言いながら
自分もちょっとトクベツって思いたかった

「わたしにしかできないことがあればいいのに」
それがどれほどの重圧かも知らないで

めが暗む

世界じゅうまぶしくてなにもみることができないよ
ひかりに縋ってうずくまる影色の染み
そしてそれすらも なんの変哲もない
そこらじゅうに生まれては消える
ああ なんてありふれた
ただの黒点のひとつ

「ありふれた黒点」全文

(2018年12月10日)


亜久津歩『いのちづな』書籍情報
いのちづな うちなる“自死者”と生きる
出版 コールサック
発行 2010年
著者 亜久津歩(あくつ あゆむ)
価格 1428円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

「亜久津歩『いのちづな』」への1件のフィードバック

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