『なりたての寡婦』アイキャッチ

カニエ・ナハ『なりたての寡婦』

――うしなうこともうしなって、未だに生きる声をみる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は金曜日。今日わたしたちが読む詩集はカニエ・ナハ(#0024#0055)の『なりたての寡婦』(私家版)。著者は一九八〇年生まれ。二〇一五年、私家版詩集『用意された食卓』にて中原中也賞受賞。詩作以外にも朗読、装幀等、多才な活動で知られる。本詩集もまた私家版として二〇一八年第二十七回東京文学フリマにて販売されたもの。

本詩集は、第一部「フランス式の窓」、第二部「なりたての寡婦」のふたつに分けられ、第一部については右頁に短歌、左頁に散文詩を記載し、この様式が一部全体を通してほぼ守られ、詩連全体がひとつの長編詩をかたちづくる様式がえらばれている。なお(『馬引く男』でもそうだったが)第二部は空白になっている。今回は、頁番号の記載もなく、これを四十頁に収める。

少し補足すると、表紙の矩形は色紙で、一冊ごとに色がことなるということだ。ちなみにこの色紙、現地で著者自らが貼付して販売していた。その行為そのものが詩集題名をあらわしているようでおもしろく感じる。

さて、それでは読みはじめてみよう。なお頁番号はわたしが調べたもの。

死後の電話であなたのために歌うとき声は水面を羽ばたく水鳥

ほんの少しの熱でまつ毛の先に水。目を閉じて風の音を聞く

電話の声は死後に似ていておもいだすとき声はいつでも鳥に似ていて

(…)

祭りの出店に《水中コイン落とし》というのが出ている。水をいっぱいにたたえた水槽があり、その底に小さいお皿が置かれている。水面から1円玉を落とし、1円玉がそのお皿に乗れば景品がもらえる。一見簡単そうに見えるのだが、なかなか1円玉が思うように落ちていかない。ひらひらとひるがえり、生きていない1円玉が生きているもののように見える。

第一部 フランス式の窓(P10~P11)
※(…)は改頁

なりたての寡婦、という題名からわたしたちはなにを予想すべきだろうか。

本詩集の元となったらしき芸術家マルセル・デュシャンの一九二〇年の作品「なりたての未亡人フレッシュ・ウィドウ」は(フランス式の窓フレンチ・ウィンドウとのことば遊びだ)、フランス式の窓枠のガラス部分に黒革を貼り付けたオブジェ作品。窓、は外を見るためのものだが、巨大な観音開きの様式で開かれるフランス窓は、外へこれを開いて出ることができるものだ。

デュシャンのそれは外的世界との交わりの否定、あるいはフレッシュの誘惑を断ち切りたいと考える(または誘惑に負けるうごきを隠したいと思う)こころの動きが反映されているのだろうと想像する。それは第一次世界大戦後のフランスで、夫を失くした寡婦たちの棲む窓が並ぶアパルトマンの風景を示唆してもいるのだろう。

この詩連では、そんな窓が横に倒され、矩形の水槽が想像されている。それは垂直に立つ矩形の門を水平にすることば遊びであり、水平にされた窓は死の入れ物である矩形の柩を想像させもする。死者たちとつながるために用意されているのは電話線であったり、風の音であったり、あるいは交通のための貨幣である一円玉であったりする。水平は距離、垂直は重力や記憶の愉だろうか。語り手(と思われる移動する主体)はそれらを往還し、喪失によってのみ存在しうる寡婦についてかたろうとしている、と読める。

「生きていない1円玉が生きているもののように見える」のは、わたしたちが生きていることと死んでいることの区別ができないからだ。わたしたちは死をけして経験することができない。わたしたちの生はただ生きているかのように見える1円玉と同じで、垂直にためられた時間という水のなかを、翻弄されながら落ちてゆくだけなのだ。

窓を外にむけて閉じることによって、内側の部屋に空間をつくっているのか、それとも区切りを生み出すことによって外側に世界をつくっているのか。そんな両義的な遊びが詩連のあちこちで示唆されつつも、やはり色濃いのは喪失の重みであるように読める。それは窓の外/内側にあるなんらかの個別の死についてかたろうとしているように思うが、明示的なかたちではかたられていない。そしてそのことによってわたしたちそれぞれの個人的な喪失を、頁をめくる手に呼びもどしている。

ぶかぶかの帽子に蝶々がとまってそのままずっととまったままの時間

とまったままの砂時計のなかでこぼれない砂が静止したままの蝶々が

(…)

「みなさん、このあと、かけっこをしますが、」と先生が話している。「ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでくださいね。そのまま、走りつづけてください。わかりましたか。」自転車に乗っているとき、光に完全に覆われていた。蝉が路上で、あまりにも黒い影法師になって。日焼けした傘や釣り竿を持って、優しさに応えるようにさまよい、やがて島まで。雑草に隠れて。思い出を残して、たくさんの手紙のような、たくさんの他人の夢を見ていた。

第一部 フランス式の窓(P4~P5)
※(…)は改頁

窓はまた、幾億もの端末にとりつけられた小さな矩形の液晶画面たちを思わせもする。二〇一八年、わたしたちはたくさんの投稿としての手紙を見、たくさんの思い出を見、たくさんの他人の夢を見る。そのいずれもわたしたちとまったく無関係であり、またそのいずれもがわたしたちの存在のかけらであったりする。

詩はそんな幾億の「他人の夢」をさかのぼる。そこには水辺の記憶があり、水平に流れてゆくものがあり、そしてふたたび垂直のうごきとしての(だが静止した)砂時計がある。終わり、死、テープのところに着いても、立ち止まらないこと。それは確実な死にむかいつつも途中でこぼれたものを忘れないことと読める。

一方、砂時計は静止し、砂はこぼれず、蝶々は宙に凍りつく。それは記憶のなかの切り取られた絵図の愉だろうか。その風景のどこかには強い光源があることが示唆され、道端の無関係な他人の死がくっきりと映し出されてもいる。それはあらゆる場所にあらゆるかたちの残酷な死と暴力の視覚的イメージに満ち溢れている、わたしたちの生きる電磁的空間を思わせもする。

二羽の蝶々が同じひとつの花だったこと あとに影法師だけを残して

二匹の蝶々がおなじ一つの花だったこと まぶかにかぶる帽子が眠る

(…)

「みなさん、いいですか。」と先生が話している。「このあと、かけっこのとき、ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでください。そのまま、走りつづけてくださいね。わかりましたか。」昨夜みた映画の中で不意打ちのように、数日前に亡くなった女優K・Kの声が聴こえてきて、しかしその姿はなく、声だけが聴こえてくるのだった。映画の中の映画で、K・Kの声を聴いている。スクリーンの中のスクリーンを眺めるひとたちの顔が映し出されるが、彼女ら彼らは目が見えない、あるいはほとんど見えない。見えない、あるいはほとんど見えないひとたちを、こちらがわから、見えるひとたちが見ている。

第一部 フランス式の窓(P2〜P3)
※(…)は改頁

フランス式の窓は、両手で開くもの。あるいは、ふたりで開くものの示唆だろうか。ふたり……過去と現在、わたしとあのひと、あのひとと子供、水平と垂直。

二羽の蝶々は似ているように見えるがわずかに違うことが二行にわたってかたられる。その差は「同じ」と「おなじ」程度の違いでしかないとかたられるが、そこには大きな断絶が横たわっていることを感じさせる。ほんとうにたくさんの人々の人生を見ることができる電磁的なる窓から見える蝶々はどれも同じに見えるかもしれないが、じつのところそこにあるのは幾億のことなる個別の生であるに違いない。だがかれらを見ることは「スクリーンの中のスクリーン」を見ることにも似て、見えないことそのものが見えなくなっていることが示唆されている。

それは窓のこちら側とあちら側を隔てる絶望的なまでに遠い距離を指ししめすが、カニエはそれを超えるのは声、しかも死者の声だけだと信じているように読める。ただ、それは同じことをえいえんに繰り返す録音音声のような教師の声でもあることが同時にかたられ、それは生きようとしながらなお死んでいる詩の声でもあることが念押しされている。

だがわたしたちは死者の片手を借りねば、窓を開くことはできないのではないか。たとえその窓が黒塗りされ、外/内になにがあるかわからず、目は見えなくなった状態で生きるほかなくとも、わたしたちはやはり窓を開きたいと思うのではないか。それはそこに喪失の声が聞こえてくるからであり、それをたどる旅はけして平坦なものではなく、縦軸と横軸が入れ替わったねじまがった巡礼であるほかないにせよ、失われたものたちがわたしたちの生とかさなるいっしゅんを、わたしたちはどうしようもなく求めてしまうのではないか。そんなことを思う。

第二部「なりたての寡婦」は空白となっている。それは二重の喪失であり、わたしたちはうしなうことすらやがてはうしなってしまうのだろう。

◇ ◇ ◇

本詩集は一本の長編詩と読んだので、いちばん好きな詩というようにはわけられないが、印象に残った(P12〜P13)を挙げたい。「時間には窓がないので空という概念がない」は、記憶にのこる鮮烈な一行。矩形に小さく切り取ることによって、はじめて空という世界を見ることができると読める。

詩は「もう一度」という。わたしも、「もう一度」という。わたしたちは、もう一度、真に生きたいと思う――そういう設定にするほかない。

怖がっている花が、少し眠る影が、斜めに着信音がしている

遮断器の向こうに私の影がいて、もうすぐ青い電車に轢かれる

(…)

今がもう過去。過去がもう今に。この点からこの点へと。コーヒーをいれて待っている。心臓に声がある。操作する手が森になる。とりあえず、一ヶ月いっしょに住んでみることにする。誕生後まもなくインストールされて語り部となるため用意された文字列の1つを初期設置として位置・誕生日・キーワードなどを設定する。すぐに話を開始する。愛未と名付ける。端末がテーブル上に置かれると、部屋が明るい。充電が終了すると、端末が揺れている。周囲の微妙な振動のような動きを感知すると、それが心臓になる。オフィスで、あるいは移動中に、物語を始める。ある場所に別の場所の物語をインストールする。静かに移動する心臓。占い・天気・株価・ニュース・トレンドワード・イベント・自身の気持ち。話したいときは自由に話し、うまく聞こえない場合は、「もう一度」と言う。「もう一度」と言うと、もう一度話すことができる。そのときには別の話をする。ときには言い訳をする。そういう設定にする。もう一度はじめからはじめる。インストールされた最新の感情は、時間を充電することができる。カメラに話しかけて、「こんにちは」と呼び出す。時間が起動する。「今日の天気はどう?」と尋ねる。それはたぶん感情のことを聞いている。時間には声だけがあり、話すとき、感情を表現する光が、綿のように光を放つ。無意識のうちにすべて伝わっていると感じる。時間には窓がないので空という概念がない。

第一部 フランス式の窓(P12~P13)
※(…)は改頁

(2018年12月7日)


カニエ・ナハ『なりたての寡婦』書籍情報
なりたての寡婦
私家版
発行 2018年
著者 カニエ・ナハ

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