高島りみこ『海を飼う』(福田正夫賞受賞詩集)

――升目のかたちに穴をあけて、かなしみがたまるのをまつ。

◇ ◇ ◇

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本日は木曜日。今日わたしたちが読む詩集は高島りみこ『海を飼う』。著者は一九六〇年高知県生まれ。本書は著者の第一詩集であり、「新人発掘のため、および現代詩壇への貢献」を趣旨とする第三十二回福田正夫賞を受賞。詩の読者であれば高島鯉水子という名のほうが馴染みがあるかもしれない。D社の詩集装幀を数多く手がけているベテラン装幀家でもある。詩二十五編を百四頁に収める。

私事になるが、第三十二回福田正夫賞にはわたしの詩集も最終候補に残っていた。そのときの詩集たちは、次のような顔ぶれだった。根本正午「仮象の塔または九つにわかたれたあのひとの遺骸をさがす旅」、宮浦久子「マスクをすると」、小山修一「人間のいる風景」、青木由弥子「星を産んだ日」、松井ひろか「デラ・ロッビア・ブルーの屋根」(#0020)、篠原ゆう「もういいかなと思う時がある」。これを奇縁として後日これらの詩集も取り上げてゆく予定だ。

さて、それでは読みはじめてみよう。
「光の国から FUKUSHIMA 2011.3.11」から。

雨だ

いつのまにか
雨になっていたんだね

気まぐれな風に乗って霧雨が降りそそぐ

重い雪から解き放たれたふきのとうの上
深い森に佇む石に身を置く苔の上
若々しい牧草の産毛の上
公園の漕ぐものもなくゆれるブランコの上

ちいさな ちいさな爆弾が炸裂する

遠花火?
音もなく弾けて
残像が
DNAの無数の傷を映しだす

里山の名も知らぬ花のなか
海の底を泳ぐ魚のなか
草をはむ牛のなか
無邪気に遊ぶ子どもたちのなか
わたしのなかでも
弾け続ける爆弾

夜――
この地球のひときわ明るい場所
それがこの国
よく目を凝らして見てごらん
その灯りも また
無数の傷跡だから

「光の国から FUKUSHIMA 2011.3.11」(全文)

二十年ほど前、飛行機に乗ってアジアから日本へ向かうと、窓から見えるインドシナ島嶼や大陸は暗く、どこまでも陰鬱な地平と水面が広がっていた。海を超えて房総半島に近づいた時、あちこちに見える巨大な灯りと、それが照らし出す雲の柔らかい橙色に安心したことを思い出している――ひょっとしたらいまは逆かもしれないが。

光、は文明の象徴であり、大きくいえば鉄と炎で大地をこわして切りひらいてきた人類の叡智そのものだ。詩は「その灯りも また/無数の傷跡だから」とかたる。そうした知恵こそがわたしたちを助けると同時に深く傷つけていること、そしてその事実は「目を凝ら」さなければみえないものであることがかたられている。

「いつのまにか/雨になっていたんだね」と詩は遅れた気づきについてかたる。原発事故という巨大な過ちがなければ、そしてその過ちによっていまも苦しめられているという現実がなければ、わたしたちは、ひょっとしたら光が傷をもたらすということにいまもなお気が付かないままであったかもしれない、という示唆がそこにある。

わたしたちは加担している、と詩はかたる。なにに? 「光の国」の過去、現在、未来に、わたしたちは加担し、その責任を負っている。それはわたしたちの気づきが遅延、、するからで、そしてその遅延を避けることはだれにもできないからである。

ぽとり と
線香花火みたいな太陽が落ちたところ
金いろに輝く沙漠で
一片の耳が発見された

耳管はずっと地底深くまで繋がっていて
内耳の螺旋を伝わり
サラサラと砂が流れ込んでいた

ときおり
風が耳元に留まって
新たな惨禍を告げては
飛び立っていく

どうやら耳は聞こえているらしく
そんなとき ほんの微かだが
ピクリ
と動いた

そのうち人びとは
耳のことなど すっかり忘れてしまったが
日ごと 耳管の根っこは伸び続け
やがて地球の裏側にまで達した

そして ある日
大地は切り裂かれるような悲鳴をあげた

「耳」第一〜六連

ふたたび光あふれる「金いろに輝く沙漠」が想像されている。そこに置かれているのは耳、それも切り落とされた、片方だけになった耳である。耳はこの地上の惨禍を聴いている。だがなにもせずに聴いているだけだ。ごくたまにピクリと反応するだけで、この地上の惨禍などありふれたことに過ぎないといっているように見える。

だが第五連と第六連、「大地は切り裂かれるような悲鳴をあげ」る。なにが起こったのか。構造を表―裏と単純化するならば、世界のありようの表だけを聴いていた耳は、地球の裏側にまで達した耳管によって、その裏側にあるものを聴いてしまった。そしてそのありようのほんとうの姿を知って恐怖した耳は、叫びを上げたのだ。それは耳がこれまで聴かないことにしていたものをほんとうに、、、、、聴いてしまったからだ、と読める。

いうまでもなく、わたしたちは見ながらにして見ていないし、聴きながらにして聴いていない。わたしたちが聴くことができるのは認知が聴くことを可能にしているものだけだ。たとえば外国語は意味がわからなければノイズに過ぎないが、それは母国語でも同じではないだろうか? わたしたちは自分たちで思っているほど、日本語のことがわかって、、、、いるだろうか? 耳のグロテスクな叫びからは、そうした問いが読みうるだろう。

ぎらつく太陽に焼かれて その年の六月は
すっかり干からびてしまったから ふと
海が見たくなって車を東北へ走らせた 巨大
な防波堤にあけられた小箱ほどの穴の奥で
海は鈍色に染まり ひどく気怠そうにうねる
ばかりで

あのときからだ
わたしの耳に海が棲みついたのは

しんと寝静まった夜になると 海はひたひた
と耳の奥から這い出してきて 水底深く漂っ
ているかなしみのかけらを 枕元に置いてい
った 夜ごと 海がやってくるものだから
そのかけらを集めて つなぎ合わせてみるこ
とにした パズルが組みあがると それは涙
型の蕾を持つ植物となり わたしはその風変
わりな植物を 新しいスケッチブックのあい
だに そっと挟みこんだ

秋がひっそりと庭先に現れた頃 スケッチブ
ックと耳の奥の海を伴って 再び 北へ

防波堤の階段を下って浜に降り立つ 十月の
海はどこまでも穏やかで明るい わたしは手
にしたスケッチブックから 例の植物を取り
出し水に放った 蕾は淡い瑠璃色の花となり
波間にゆっくり消えていた 花びらには安
らぎの香りを忍ばせて

「海を飼う」第一〜五連

詩集の題名にもなった詩。見出された海は「防波堤にあけられた小箱ほどの穴の奥」にあるものだという。より詳しくみていくと、それは東北の防波堤であり、おそらくは東日本大震災によって崩壊した地域にあらたに建てられたものであることがわかる。惨禍を防ぐための壁。そこに穴を開けて、人間にはけして優しくなどない海を見出し、手に入れる。それはどのような意味だろうか?

四角い箱のなかに局限された海は、原稿用紙の升目のなかの暗い水でもあり、その切り取られた空虚を覗き込むことによって、あらたなことばがえられること、書くことになぞらえられているとも読める。一方で、それは震災など発生せず、原発事故も発生せず、防波堤も建てられなかった「こうであってほしかったが、そうはならなかった」本邦の代替的風景を夢みることもあり、それが叶わぬ願望を寝具のなかだけで想う姿とかさねられている。

だがわたしたちはこの生を生きねばならない。詩は語り手がそう決めてあるきはじめるまさにそのしゅんかんを描こうとする。それはだれしもが寝静まったころ、ひとりでみずからのばらばらになったことば(記憶)をかさねあわせる作業であり、だれかに見せることを目的とすることなく、あくまで自分自身のためだけに行われる営為である。わたしはそれを「弔い」ということばで表現したいように思う。

語り手は、あたらしい、なにも描かれていないスケッチブック(それは明日のことだ)に、自分が作り上げた「風変わりな植物」をはさむ。ここで印象的なのは、スケッチブックにそれが描かれておらず、単にはさんであるだけだということが強調されていることだ。明日という場所に、愛おしい過去の居場所はないことが示唆されているのだろう。

第五連。語り手は、その植物を海に投じる旅に出る。それはかつてかなしみが見出された現場であり、いまとなっては、そこはあらたなかなしみを防ぐため、または忘れるためにつくられた壁が広がる場所である。そこに穴が開けられたのは、思いだすため。そして思いだしたものを、ふたたび忘れるためだったのだ。

植物は海に投じられ、鎮魂の旅は安らぎとともに終わり、詩もまたそこで終わる。だがそこにはあらたな旅立ちが、頁の余白にくっきりと書き込まれているように読める。本詩集でもっとも好きな詩だ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は上に挙げた「海を飼う」だが、個人的に印象に残った詩は「おかえり」を挙げたい。

東日本大震災直後の春、わたしは房総半島の川べりの土手にいた。離婚の手続きで、荷物を一時的に実家に預ける相談をしにいった、その途中のことである。当時、信頼していた人物にひどく裏切られ、経済的にも困窮し、精神的には大きな傷を負っていたころだ。わたしはトランクを引きずって、昼に近い土手の道を歩いていた。あたりには、色とりどりの花々が咲き乱れて風にゆるやかに揺れ、そこを虫たちが翅音を立てながら飛びまわっていた。それは、いま思い返しても、信じられないぐらいうつくしい光景だった。

故郷は記憶のなかにしかなく、「ただいま」をいう相手はおらず、いたとしてもそれはすべて夢のなかだけである。そして故郷に帰りたいという気持ちそのものも、かなしいことだが、不幸と惨禍のなかでのみ、はじめて見出されるものなのかもしれない。

収穫を終えた畑中の道を通り
落葉で明るくなった雑木林を抜けると
セピア色に染まった
こぢんまりとした家が姿を表す

ただいまっ!

軋む開き戸を開け放って
勢いよく上がりかまちに驅け寄る
脱ぎ捨てたズックを 片づけもせずに
渡り廊下の壁に貼られたポスターのなかでは
地球防衛隊が色褪せた姿を晒していた

居間のテーブルには
宿題の水彩画が描きかけのまま
置きっぱなしで……

絵の具の乾いたパレットの上を
風が通り抜けていく

犬小屋は空っぽ
柱時計も止まったまま

お手伝いを頼まれていた子は
時計のネジを巻くのも忘れて
ずいぶんと遠くまで
散歩に出かけてしまったものだ

この家には鍵はいらない

夢のなかにだけ現れる
もう
帰ることのできない住処ところだから

「おかえり」第一〜九連

(2018年12月6日)


高島りみこ『海を飼う』 書籍情報
海を飼う
出版 待望社
発行 2018年
著者 高島りみこ(たかしま りみこ)
価格 2000円+税
国会図書館

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