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劉暁波『牢屋の鼠』

――無限に遠く、冷たい愛の距離をゆく。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は月曜日。今年も残り四週間となった。今日わたしたちが読む詩集は中国の詩人・劉暁波リュウ・シャオボの詩集『牢屋の鼠』(書肆侃侃房)。以前紹介した詩誌『侃侃』(#ex001)の編集人でもある田島安江と馬麗による共訳。

劉暁波は一九五五年中国吉林省生まれの文芸評論家・詩人。天安門事件の真相究明、人権運動や民主化運動にふかく携わったことによりくりかえし投獄、自宅軟禁される。二〇〇八年、政治体制の民主化と改革を訴える「〇八憲章」の中心的起草者となったことにより逮捕、懲役十一年。二〇一〇年、その服役中にノーベル平和賞を受賞。二〇一七年、獄死とされる。妻・劉霞とは獄中結婚で、本詩集には妻への書簡のかたちをとった詩が多く収められ、そのほとんどが九〇年代に執筆されたもの。詩編七十三編を二百六十四頁に収める。

なお、劉暁波の詩を読むにあたり、二〇一八年の電磁的空間に生きるわたしたちは、政治的な読みをできうるかぎり避け、扇動的な営為デマゴギーへの明示的または暗示的な加担を回避しなければならないだろう。

そのことを留意しつつ、読みはじめてみよう。「雨の中のわたし――霞へ」から。

1991年7月30日

雨が降っている
雨滴が太陽を突き抜け
わたしは世界の片隅に追いやられる
ただおそれおののくだけで
しぶしぶ服従するしかないのだ
雨滴が残酷なわけではない
でも、その優しさは危険に満ちている

ひとり着るものを脱いで裸になる
わたしは雨の中にただひとりの裸者
雨の色彩は紛らわしい

すべての傘が弱々しい叫び声となって
雨水をかぶって湿ってしまった時間の中に消えてゆく

わたしはただ望むだけだ
雨の中に崩れ去ろうとしている
わたしの弱々しい肉体は
朝日よりも先に消え去ってほしい
だんだんと元気のなくなっていくのが怖い
引き受けるには無力だ
いかなる英雄的な偉業が
神に関心を払わせるというのだ
片思いの自虐にすぎない
神を冒涜するほどの知恵もないわたしは
ただタバコに火を点けるだけ

「雨の中のわたし――霞へ」(全文)

個人的な記憶からかたりはじめると、わたしは一度離婚しているのだが、家を引き払ったときに家財を処分する必要があり、大量の書籍を紙箱に詰め、近くの古本屋まで自転車に乗せて運んだことがあった。その日は店に辿り着くまえに突然雨が降り始め、自転車が滑って倒れた。箱が壊れ、入っていた大量の本が、よごれた雨がたまり始めたアスファルトの上に散らばった。

雨は、わたしたちと無関係に降る。あるいは、わたしと伴侶(と思える親密な相手)とのあいだの無/関係に雨が降る、といえる。わたしたちは関係を有したと信じる相手に恋の気持ちをかたったり、愛を伝えてみたりする。だがそのいずれも空疎で、一過性の病にすぎないことをわたしたちは知っている。本詩集が妻への書簡のかたちをとっているのは、それが伝わらないことを詩がはじめから知っているからだと読める。

つまり、かたられているのは希望、それもけして到来しない明日のような希望だ。太陽を突き抜ける雨滴によって世界の片隅に追いやられながら、自分を屈辱的な存在に貶める雨に危険にみちた優しさを見、そしてその雨の残酷さを否定しようとする詩は、ある痛切な認識を明らかにしている。敗れるということ、伝わらないということ、伝えられないということ、愛という名の無関心を超えることができないこと。

そうしたことをかたろうとしたとき、それは一般的な意味での「愛の詩」などではありえないだろう。そんな破綻が宿命付けられたものを愛そうとする詩連たちは、どこか滑稽で、わたしたちのそれぞれの退屈な(だがかけがえのない)人生と繋がっていて、どこか愛おしい。神または世界、あるいは伴侶との間のすれ違いを劉は「片思いの自虐」と呼んでいる。あらゆる愛がしょせん一方通行の片思いによる誤解と誤読なのだと、どこか諦念のある笑みによってかたられている。うつくしい行だと思う。

1993年7月11日
君は僕に褒め称えてくれと命じた。ただし考える時間は5分だけよ。そして、君は台所に入っていった。

僕にたった5分の時間を与え
君を褒め称えるようにと命じる
僕に星一つ抱かせて
君を褒め称えよと言う

君のリクエストは情理にあうのだろうか
前髪をどうすればいいか決められないように
これは衆目を集める難題だ
君はもっと利口になれと助言する

5分を300秒に変えるだけで
5分ははるかに遠く長い時間のように聞こえる
まるで僕が一生分の歳月を
全部君を褒め称える難題のために使うようにとでもいうように

君が笑えるかどうかはわからない
緊張するかどうかもわからない
君は台所で粥を作りながら賛辞が伝えられるのを待っている
僕は低いテーブルに座って煙草を吸いながら詩を書く
紙の上の言葉が鍋に飛び込んで
米粒といっしょに沸騰する

「5分間の賛美――霞へ」第一、二、三、四連

題名から「二分間憎悪トゥー・ミニッツ・ヘイト」のことを思いだす読者も多いと思う。それが妻に命じられていることがなにを意味するのか、しばし考え込む。ふたたびわたしたちは「愛の詩」なるものに向き合いながら、そこにえがかれているのはじつのところ乖離や断絶ではないかという疑いをいだくが、よく読んでみると第一連には「星」が登場し、さらにそれが五という数字とかさねられている。するとこれは中華人民共和国の国旗の喩でもあるのかもしれない。「君」は国とも読め、そうすると賛美を強いられていることがようやく腑に落ちる。だがわたしはそうした政治的な読みを退けたい気持ちでいる。これはやはり夫と妻の話と読みたい。

妻に褒め称えてくれ、といわれたら夫はどうするか。逆のパターンでもそうだと思うが、呆れてものがいえなくなるのがほとんどの家庭の風景だろう。それが「衆目を集める難題」と呼ばれている。しかも「もっと利口になれ」と助言がされている。それはつまり、どうでもいいことを褒めることが、あるいはいわれる前に自発的に褒めそやすことが、賢いことであるという夫婦の人生哲学がかたられているのだろうか?

第三連。「僕が一生分の歳月を/全部君を褒め称える難題のために使うように」。妻と夫の間にあるのは長年連れ添った夫婦の冷めた関係であることが示唆され、ほんらいそこにあるべきだったあたたかい関係性を取り戻すことは不可能で、そこにはあからさまな嫌悪感すら漂っている。愉しい時間ははやく経過する。五分が引き伸ばされるのはそれが愉しくもない時間だからだという示唆がある。むろん、命じられてすることが愉しいはずもないが。ここでかたられているものはなんだろうか。

第四連。褒めるための詩を食卓でつくる夫。そして台所で粥をつくる妻。創作と料理が交錯し、ひとつの鍋のなかでことばと米粒が沸騰する。賛美を行うことは結局できず、ことばは単なる便宜的に利用されるものとなってただ消費される。国を賛美することも、妻を賛美することも、同じくらいむなしい。それはどうでもよい、、、、、、ことである。

だがおそらくは、詩連に書かれてはいないが暗示されていることはその逆のものだと思う。たとえば、目の前にいる相手の前髪をどうすればよいか決めるようなささいなことを大切にすることが、賛美することよりも重要なのである。それは衆目を集めることもなく、利口なものが拘泥するべきことでもないかもしれないが。こういってよければ、それは劉にとって詩を書くことそのよりも大事なことだったのかもしれない。

1998年7月14日

親愛なる人、真夏の夕方に
僕は君の中に氷を見た
君はずっと冷えたまま
生まれたばかりの時
土踏まずは氷のように冷たかった

ある夏
初めて君の手を握って
初めて君のまぶたにキスをした
震える君の凍えてかじかむこめかみに
君の血液の中に
北風が吹き抜け、雪が舞い散っている
君の母親の子宮は
水晶を孕んでいたにちがいない

毎晩、眠る前に
僕は君の手足を温める
セックスの時の喘ぎに霜が降りる
君が高まったときのほほえみは
きらめきながらとける氷のようだ
君の足指が
僕のドキドキしている心臓を凍らせる
僕にはわからない
どうやったら君を溶かすことができるのかが

君はバーの煙霧の中で
透明なひとつぶの氷を
僕のコップに入れる
気泡が立ち
君の視線はとても冷たい
僕はそのとき悟るのだ
今この時君の心はチベット高原を彷徨っている
山頂の積雪が溶けて小川になり
澄みきった水が君の体をすり抜ける
雪崩で亡くなった登山者の
表情は永遠に穏やかだ

今、僕は投獄され
君の足を温めることができない
だけど、君の記憶はいつも氷と雪と無縁ではない
君への愛は氷点に凝集され
君への悔み恥入る気持ちは
凍えひび割れる大地のよう
僕は君のまなざしをよく知っている
雪片が冬の枯れた小枝をよく知っているように

「君はずっと冷たいまま――冷たい小さな足指へ」第一〜五連

ふたたび冷たい関係性。だがここではその冷たさ、距離が第三者、権力によってもたらされたものであるらしきことがわかる。端的にいえば投獄が語り手とその妻(それは必ずしも劉夫妻である必要はない)を引き裂いているのだ。だがわたしはこの詩に、投獄で引き裂かれたことによるものではない距離がかたられていると思う。というよりも、そう読むほうが好き、、なのでそのように読みたい気持ちだ。

第一連。「君」の中に氷を見るとき、それは真夏の夕方である。生まれたしゅんかんから冷え切っているような、そんな存在がえがかれる。それは男女の間でしばしばあらわれる絶望的なまでに遠い距離を思わせ、端的にいえばそれは理解の欠如、あるいは理解をしようとしてもけして届くことのないある後ろ姿の冷たさでもあるだろう。

二〇一八年、わたしたちはそれを知る機会に前世紀よりもはるかに恵まれた環境に生きている。えいえんに(会ったことも、今後会うこともない)男女がいがみあいことばの礫を毎日投げつけ合う電磁的空間は、つながりの容易さとその絶望を、わたしたちにたやすく理解させてくれる。

もう少し細かくみると、冷えていたのは土踏まずで、大地に触れない部分である。大地はあたたかいのに、それを受け取ることができないこと。そこになんらかの齟齬、ずれ、無理解が暗示されている。そんな相手をあたためようとする詩の試みはことごとく失敗する。「君への悔み恥入る気持ち」は、おそらくは別離の原因となった投獄について謝罪する気持ちなのだろうと思うが、そう読まずに、男女の間に不可避的に生じる無理解や誤解、いくら愛しても相手をあたためることができないことについての力不足を嘆いているように読める。

男女のあいだに横たわる断絶はふかく冷たく、意志や努力で超えられるものではないと詩はかたっている。その氷を溶かすことはできず、できるのはただ「雪辺が冬の枯れた小枝」に落ちるように、相手に寄り添うことだけだ。そしてそれはひとたび強い風が吹けば吹き飛ばされ、粉々にくだけてしまうような関係性なのである。

だが、そんな断絶を維持したままわたしたちは愛することができるのではないか。無限に遠い、冷たい愛の距離を生きることができるのではないか。そう詩はかたっている。

◇ ◇ ◇

本詩集でわたしがもっとも好きな詩は、「イエス・キリストを仰ぎ見る――僕の謙遜の妻へ」を挙げたい。
(次点は、司馬遷を題材にした「太史公の遺志――劉霞へ」。その「畜生/歴史を黙らせろ/沈黙にはもう少し人間性と尊厳があるべきだ」は、こころに響く三行)

「神の倒影が尿に弱々しく映される」光景をわたしたちも知っているように思う。愛することは不可能であり、一度はかくとくしたかのように思えたものも倒れ、汚水にまみれ、泥に冷えたまま横たわる。劉暁波は悲惨な死を遂げ、詩は屈辱にまみれた生とこわれた愛を死してなお生きる。

わたしたちも「あなたをよく知らない」というほかない――君は冷たくて、わかることなんて不可能なのさ、と。

1996年12月28日

イエス・キリスト、あなたは僕を知っているか
僕は黄色い肌の中国人だ
僕はある土地からやってきた
そこは人の血が入った饅頭を賄賂として神に贈るところ
神性を絶滅させるためにただ神や仏にすがり
我々の神は黄金の装飾を施される
皇帝、聖人から軍人、貞女まで
無数の人々が神になれた
ただし神の助けを求めはするが懺悔はしない
神の倒影が尿に弱々しく映される
僕はあなたをよく知らない、イエスよ
あなたは痩せこけすぎていて
くっきり浮き出た肋骨が人を驚かせる
あなたが十字架に磔にされた姿は
あまりにも凄惨すぎる
一本一本の神経が苦難に耐える
やや傾けた頭が
血管が青筋を立てている首に繋がり
手は力なく垂れ下がる
広げられた五本の指が
激しい炎の中で枯れた枝のようにみえる

人類の罪は重すぎる
あなたの双肩は狭すぎ
こんなに強くおさえつけられたら
はたしてあなたは十字架が背負えるのだろうか
血の染み付いた木の枝が
人類を養い育てるワインを醸造する
わたしはあなたが私生児ではないかと思う
残忍な神が処女膜を引き裂き
あなた一人で殉難するよう迫る
苦難の道が終わるまで
神の愛を広げるために

「イエス・キリストを仰ぎ見る――僕の謙遜の妻へ」第一、二連

(2018年12月3日)


劉暁波『牢屋の鼠』書籍情報
牢屋の鼠
出版 書肆侃侃房
発行 2014年
著者 劉暁波(リュウ シャオボ/りゅう ぎょうは)
訳者 田島安江・馬麗
価格 2000円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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