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梁川梨里『月を剥く』

――くだかれたものたちが舞いあがって、わたしたち、あと何行?

◇ ◇ ◇

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本日は金曜日。今日わたしたちが読む詩集は、以前取り上げた(#0027)梁川梨里の第一詩集『月を剥く』(私家版)。梁川は一九六七年生まれ。二〇一七年期『詩と思想』現代詩の新鋭選出(なお、同年の新鋭出身者に、佐々木貴子や根本正午がいる)。第二詩集『ひつじの箱』は七月堂より刊行されているが、これはその三年前のもので、詩二十編を五十頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「ら行はなる」から。

銀のすずが降る夜には
ラリルレロがトナカイにひかれる
はうりんぐ
わたしの頭上を走るトナカイ機関車が
まあるい わ をくぐり抜けて
汽笛をならし月へ向かう

地球の白身のまわりの殻は
第二宇宙速度
突破して割れて降り注ぐ欠片がパウダーすのう
サクサクと降り積もり煙を舞い上げ
すのーどーむのわたしたちを
上下左右にして遊ぶ

この手のうえに置かれた
まるい地球にまるい頭
入れ替えても まるで 空

ら行は なる
わたしの中で(なる)
わたしに(なる)

「ら行はなる」第一、二、三、四連

個人的なことからかたりはじめるが、わたしの娘は車、というか、動くものが好きだ。ベビーカーを押しながら歩いていると、そばを車が通り過ぎてゆく。娘が喜ぶ。手をふる。歓声をあげる。そうした様子を見ていると、自分もまたこの世界に生をうけた際、すべての事象が喜ばしく、祝福にあふれていたはずだということを思う。いや、いま、、、すべての事象は喜ばしく、祝福にあふれているのではないか、そしてそれに気がつくことができなくなっているのではないか、ということも同時に思う――もちろんそこにはどこか嘘がある。わたしたちには嘘が必要なのだ。

さて、梁川の「ら行はなる」。ら、り、る、れ、ろ、は舌をまるめた動き。その音からは、石のように硬い歯によって風を切り裂く営為がとりのぞかれている。それは四角形の石にも似た漢字の箱を解体することとかさねられ、いくつかのことばがひらがなに開かれている。「なる」は鳴る、成る、生るだが、わたしはそこから子を成すという行為を読みたい気がした。それは手のひらが包む小さくまるい頭と、幼いこどもが発する音節のイメージがそこに隠れているせいかもしれない。

第二宇宙速度、は、地球の重力を脱するための速度。漢字という拘束からの表面上の解放がじつのところ日本語を少し、、も自由にしないことが、スノードームのなかに閉じ込められているだけのわたしたちの姿によって示唆される。第一連、空を駆けるトナカイ機関車はどこへ向かっているのか。その問いに答はないが、「まあるいわ」をくぐり抜けた先とある。わたしはそこに口腔から肛門まで一本の穴があいた身体を持つ人間の抽象図を想起した。人間は「輪」である。そのからだの内側から外を目指す加速度をえようとするもの、あるいはあたらしい命、そうした意志に「なる」という動きが与えられている、と読める。

第二連。その動きによって殻が破壊される。第一連ではそれは鈴の音やハウリングなどの音を伴っていたが、この連では破壊された意味たちがばらばらになって、音のない虚空をさまよう様子がえがかれる。殻が破壊されて外へ脱出したことが示唆される一方で、音がそこにないのはわたしたちの身体がいまだに水に包まれているからだ。脱出は失敗し、詩の隠された主体(わたし/わたしたち)はそこに閉じ込められたままである。

第四連で主体はら行をとりもどす。あらたな可能性、意味、命を示唆するら行、そして脱出が失敗することがあらかじめ詩によって理解されてしまっているもの。そんなものをそれでも取り戻すために、詩はら行をえるのではなく、自らがら行になる、、という方法をえらぶ。おそらくは相変わらず閉ざされたスノードームのなか、恣意的な大いなる手に左右上下に揺さぶられ、粉々にくだかれたものたちが静かに舞いあがるうつほの光景のなかで。

位置エネルギーの頂点で転じ
(わたし、を抱きしめて)
全てが運動エネルギーに変換された
(あなたが、好きなの)

電車の中で止まっている
慣性の法則の
小さな咳払いがレールを伝わる
(わたしたち、あと何行?)

遠くからやってくる神々しい光行差

夢は夢らしく現実感のない風貌で現れ
宛もなく消えてゆく
隠されたメッセージを紐解く
紐がみつからない
やるべない我が身が空の中途半端な位置で
掛架され、施錠され、風を待っている
風の舞の味が醸し出す芳醇な蹂躙

下る坂さえ見つからない夕闇には
ペテルギウスに擬態した
ギリシャの神々が目配せして赦せり
地上と同じ
見る者だけが見える世界で
全天のうち認識される一等星の目映さだけを求めて

「法則」第一〜五連

一見、恋愛についてかたっているかのようにみえる。ふたたび動きについてかたられている。それは動きそのものというよりはその直前に生じるいわば契機を指し、それは重力に従って落下する直前のものがもっているエネルギー、充溢する力でもあるだろう。ボールを上に投げる、落下する直前の静止。それは発せられる前(書かれる前)の混沌たることばのもつ可能性とも読める。その可能性を抱きしめる、それを愛する。だが、もちろんそれはやがては落下し、失われるものだ。そんな法則を詩は発見する。

第二連。「わたしたち、あと何行?」は本詩集でもっとも印象に残った一行。可能性の頂点(と思われる任意の静止点)に宙吊りになったわたしたちの前にあるもの。その行がまっすぐで、曲がった、どこかへと続いているレールになぞらえられ、その上を走る電車は慣性の法則による動きのエネルギーを保存したまま無限に静止している。書くこと、いや読むことによって、こうした行たちもわたしたちも、詩のなかでえいえんに冷凍されている動きを自らのうちに取り戻すことができる……そんなことを思う。

第三連。「光行差」とは、「こうこうさ」と読む。わたしも今回初めて知ったが、観測者が移動していることによって、天体の位置がずれて見えることを指すそうだ。それはわたしたちそれぞれの孤独な航路を思わせ、おたがいに観測しながらもそこには不可避のずれが生じ、ことばはどこかずれていて、ただしく伝えられることはなにもない。だとすれば詩がかたらねばならないのは伝わらないことそのもの、生の運動によって宿命的に生じるそのずれであると読める。

だがそのずれは「神々しい」とも呼ばれている。その感覚は、わたしたちがきわめて残酷な世界の光景を、嫌悪感をおぼえつつも、どこかうつくしいと思ってしまうことがあるのと似ているかもしれない。

ちいさい、と書かれた大きな
黒、で塗られた白、という字を
素通りできずに慄然と立ち止まり

ねこ、と名付けた犬と散歩すると
わたし、というあなたが挨拶する

コートが必要ないくらい寒いですね
眠れないのですか?
――はい、起きている時間のほうが短いくらいに

空は今日も桃色に澄んで
空の絵の、タイトルは「あお」
どんな意味の古語なのだろう

栗の形をした白身魚が泳ぐ
にんげんが今日は二本足で歩く
鳥籠に鳥はいない
「とり」か「ご」のような部屋

「<big>ちいさい</big>」第一、二、三、四、五連

題名について多少の解説をすると、<big>というのはHTMLタグであり、テキストのサイズをひとまわり大きく表示させるときに用いるもの。つまり、ちいさなものが、おおきく表示されている状態を指している。

最近わたしが読んでいる本に、ある教師の逸話が紹介されていた。ある教師が黒板に白墨で円を書いた。紙片が配られて、生徒たちに同じものを書くようにといった。四十人の生徒はすぐにその作業を終えたが、ひとりだけ終えていない子供がいた。その子は長い時間をかけて、ようやくその紙片を完成させ、提出した。そこには「黒のべたぬりの上に、白いまるがぬいてあった」(鶴見俊輔、「教育再定義への試み」岩波書店(P44))

この詩では、ことばが中身を裏切っている。あるいは中身がことばを裏切っている。梁川は、ことばの恣意性に不気味なものを見いだし、「慄然と立ち止ま」る。その驚き、体験が詩のかたちをとってあらわれている。それはA―B(ねこ―犬、わたし―あなた)の関係性がじつのところ不確かで、曖昧なものであり、いつでも入れ替わりうる恣意的な法則に則ったものであるという発見に基づいている。驚くべきことは、わたしたちが見ているそんな日常的な世界のありように驚きが見いだされていることだった。

詩のまなざしは、黒板に書かれた文字を、まず紙を黒く塗ってから、白く抜いて書くことを選んだ者のものに似ている。それは奇をてらったのではなく、ただそう見えた、、、からである。そして見える、、、ということは、きわめて恐ろしく、不気味なものではないだろうか。わたしたちはものを見ているのではない。そこにへばりついた意味を見ているのだ。その意味がひとたび剥かれてしまえば、世界は反転し、鳥籠に鳥はいなくなり、人間は二本足で歩けなくなって、意味は足元からくずれてゆき、ことばは忘れられ(「どんな意味の古語なのだろう」)、伝えることは不可能になる。そんな光景に詩はかたちを与えているのだ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「「月が綺麗だ、ね」」を挙げたい。
(次点は、「ら行はなる」)
題名も「」を帯び、台詞であることが示唆されている。

雨は詩行にも似て、それらが逆立ちし、ことばの出ずる契機となった出来事を示唆している。それがなにかはかたられない。だが「故意に」落ちること、そうした経験を、わたしたちだれしもが持っているように思う。それは恋愛に限った話ではなく、たとえばわたしたちはしばしば第三者からの影響を「受ける」が、それは影響を受けようと前向きに待ち構えている精神にのみ生じうるものであって、そこには受動的に見えるあくまで能動的なこころの動きがある。

詩集全体を通して、どこか荒涼とした、月の光が降りそそぐ風景を想像する。

書くきっかけとなった出来事はだれにでもあるが、それをかたること、かたり続けることが、作家の仕事なのかもしれないということを、あらためて思った。

降り出した雨が逆立ちしていた
気付いてしまった以上、もう顔をあげることが出来ない

耳に残る雨音を再生される脳火は
云ってはならない言葉を想念させる

わたしへの言葉ではない言葉に何を重ね、
何枚重ね、そこに何を求めているのかさえ分からない、放浪

「月が綺麗だ、ね」

あなたの言葉が刺さる先を心臓を掴みだして見てみたい
どこへも行けない言葉は森に封印したはずの
幾つもの着火を促し
その立ち上がる煙幕を見てゐることしか赦されない

玻璃の寧ろ心地よい六角柱の万華鏡でしか
観測出来ない宇宙を揺らし、波動は海をせりあげ、そして呑み込む

月は何処に出ていますか
あなたの大切な月は何処で泣いていますか

黒く静かな海の上をゆるゆると漂う海月は
行く先を見つめる目など欲していない

ただ、そこで
奏でられた低空に月が浮かび
夢のような時間に囁かれた戯言のような言葉を
繰り返し再生しているうちに

わたしは【故意に】落ちた

「月が綺麗だ、ね」第一〜十連

(2018年11月30日)


梁川梨里『月を剥く』書籍情報
月を剥く
私家版
発行 2014年
著者 梁川梨里(やながわ りり)

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