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為平澪『ひとさらい』

――さらわれるより、さらうほかない。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は水曜日。今日わたしたちが読む詩集は為平澪(#0023#0058)の私家版詩集『ひとさらい』。二〇一八年の第二十七回文学フリマ東京にて頒布されたもの。為平は一九七五年生まれ、第一詩集に『割れたトマト』、第二詩集に『盲目』がある。本書は長さ的には小詩集とでもいうべきもので、十四編を四十頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「東京」から。

乳の出なくなった母豚が
子豚を育ててくれるという、
やさしいニンゲンに預けた

彼らは 何もできない痩せた子豚を
段ボールの中で育てた

しかし 相変わらず豚は、豚
ただ 闇雲に食べるしか能がない、豚

段ボールが破裂しても
豚はまだまだ食べ続けた

ニンゲンは 予定通り
豚を殺して何日もかけて食べた

乳の出なくなった母豚は
子豚が闘牛になるような夢を描きながら
暗い 豚小屋に横たわり
豆電球の明かりのような 希望を灯した

「東京」全文

個人的な話になるが、わたしは下手な料理が趣味で、わりと毎日つくっている。ほんとうは毎日朝食も夕食もつくりたいのだが、仕事と書評が忙しくてできない。つくること、つくりながら失敗すること、つくりながら技術をえること、つくりながら上達すること、は、そのいずれも食べることと同じぐらい愉しい。これを続けたい、と思う。努力、、をせず、頑張る、、、ということばと、いっさい無関係に。

さて、わたしたちは為平の詩を、第一、第二詩集と読んできた。今回の新詩集は、家庭における記憶や出来事に基づいた詩作が多かった過去作品と比較し、都市生活者と都会の隙間(路地)が舞台になっているものが多いという印象をうけた。

イエ – 家族という箱とその内部で起きていた事象から、あらたな箱(の集合体)とその隙間で起こる事象たちへと、そのまなざしの焦点を為平がずらしつつあることを示唆しているように思える。おそらくあらたな題材を掴んだ手応えを感じているのではないかと想像するが、そこにはその題材に合わせたあらたな文体をえようとする、書き手本人によってのみ見出される固有の困難(「新しい酒は新しい革袋に」)もあるのではないだろうか。もちろん、それを第三者が代わりにいうことはできないが。

この詩の題名は「東京」であり、寓話のようにも見える。わたしは中学生のときに華僑の家庭教師に英語の宿題として読まされたジョージ・オーウェルの『動物農場』を思い出したが、子豚、母豚、ニンゲンのいずれもが直接的な喩であり別のものにそのまま差し替えることができるという意味で似ているように思う。

母豚は最終連において「子豚が闘牛になるような夢を描きながら/暗い 豚小屋に横たわり/希望を灯した」という。だが母豚はもちろん、第一連において、子豚の運命をあらかじめ知っていたはずである。子豚が殺され、解体され、だれかに喰われることを知っていたはずである。なぜ母豚は子豚を売ったのか? 自分が生き延びるために売ったのだろう、子豚より自分のほうが大事だったからだろうと、結果だけみればそう思うが、そこにはひとの弱さの示唆がある。

子豚は無知だからただ喰われるだけの存在となり、母豚はおそらくは経済力がなかったため子豚を育てられなかった。「彼ら」(ニンゲン)はそうした悲惨な生をなにもせずただ通り過ぎるだけの世界を意味し、それはもっと一般的なことばでいえば「世間」のことでもあるだろう。「世間」はただ殺し、消費し、わすれる。わたしたちも同じである。違うところがあるとすれば、そこに「希望を灯」せるかどうか。それも最初から嘘とわかっているような希望を(母豚のように)灯して歩いていけるかということが問われていると思う。

「希望」が足りないね、と小さくレジで笑われた。小銭の中には、絶望がびっしり入っていたので安心していたのに、「希望」が足りないせいで今日もごはんが買えない。
てっとり早く生きるために、神社に行って拝んでみると、感謝箱が現れた。その中から「希望」のようなものの匂いが立ち込めるので賽銭泥棒をしてみたが、小銭入れの中に増えたのは、罪悪感だった。
神主は私を見ると罪悪深重の凡夫だと警察に突き出した。警察は、私の持っている小銭入れを確かめると、ニヤニヤ笑いながら棒で殴り、黒い手袋で口を塞いだ。
次の日、テレビは嬉しそうに喋り続ける。
【たった今、絶望を一人、駆除致しました】
【これで少しは「希望」が持てますね】

「希望」第一連

ふたたび都会の、おそらくはコンビニだろうか。希望とは金銭ではない、と詩はかたる。だがそれはきわめてよく似ている。それは「「希望」のようなものの匂い」と表現される。もちろん、語り手が幸せになれないのは、それがかれの求める希望ではなく、似たもの、まがいものシミュラクルだったからである。またそれは不正な手段によって盗んだものでもある。

だがその罪悪感は、盗んだことによってえられたものというよりは、最初から財布のなかに入っていたことが「増えた」ということばによって示唆されている。それは金銭をめぐってつねにわたしたちにつきまとう罪悪感のことでもあるだろう。希望とは金銭ではなく、正当な手段をもってえられたとしても金銭は、ひとを幸せにしない、と読める。それはきわめて人間らしい思想であり、詩人がたどりついたひとつの答だろう。

第一連、よく読むと、財布の中には希望と絶望が最初から入っている。希望をもたらすものが、絶望を運んでくる、と読める。こうした両義性は為平の詩によくあらわれるが、個人的に好きな特徴。また、語り手が希望を盗もうとしたのは、多くの人々に簡易で一時的な救済を提供する神社の賽銭箱だったが、その盗みの理由は「てっとり早く生きるため」と表現されており、それはあさましい行為だ。だが詩はそれをけして隠そうとしない。弱さ、、にかたちを与えねばならないからだ。

ビジネスホテル 八階の
扉を開けたら 目の前に
大きなベッド
綺麗に片付けられた客室
何もかもが 新しく
何もかもが 何食わぬまま 迎えてくれる

けれど 煙草が
煙草の匂いが 消えてない
さっきまで誰かが此処で
煙草をふかしていたのだろう

シングルベッドで独りきり
窓際の川沿いの景色を
今日の私と同じように見ていたのだろうか
煙の濃さだけ思惑はくゆる

テレビの画面 鏡枠 キャリーケース 冷蔵庫
机の引き出しからは四角いバイブル オーダー表

四角四面なこの部屋で
煙りだけが自由に踊り
私の頭をくすぶり続ける

「ケムリ」第一、二、三、四、五連

都会の裏路地にひっそりと建つ一泊八千円程度のビジネスホテルを連想させる。

第四連。「四角」が登場する。四角とは、正方形、矩形(長方形)だろうか。四角、は建物でもあり、都市でもあり、原稿用紙の升目でもあり、それらの集合体でもあり、それぞれの接合面にあらわれる境界線、路地でもあるだろう。

語り手(私)はこの四角の箱、函にとじこめられている。函を自由に行き来できるのはケムリのみ、あるいは、ばらばらにこわれて粒子となったことばだけであり、語り手が都市と触れ合うことができるのは、そのこわれて拡散ディフュージョンしたことばを通してのみである。ことばは自由だが、わたしは不自由だということがかたられる。

あるいは、ことばは自由にみえる、、、が、わたしは不自由だとも読める。「私」は旅をし、ビジネスホテルというあたらしい環境に宿泊し、粉々にくだけただれかの痕跡の匂いのなか、あらたな不/自由をえられたことに気づく。好きな詩である。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「ひとさらい」を挙げたい。
第二詩集『盲目』(#0058)にも「誘拐犯」という詩があったが、今回は誘拐する側ではなく、される側のようにも読める。しかしこの詩ではさらう側/さらわれる側の共犯関係が示唆されていて、より複雑な関係性がかたられている。

詩がいうように、ひとはいつしか、つまらない大人になり、甘いことをいっていた誘拐犯はしょせん口先だけの情けない男に過ぎず、都会はいつでも自分のものではない光ばかりで溢れている。そこには失望と、幻滅と、喪失が広がっている。

だがわたしたちは「この稼業じゃ儲からない」とつぶやきつつ、今日もまたライフワークに向かうほかないのだろう。自らつくったもの以外に、なんの希望もないのだ。

人攫いが家に来た
革靴はいて背広着て
お父ちゃんを借金のかたに連れ去った

人攫いが家に来た
病気ばかりする子はいけないと
私を家に帰しに来た

人攫いは呟いた
いつまでも この稼業じゃ儲からない、と。

街にはびこるスポットライトの巨大な電子看板
ネオンの空とレインボータワーが 色と高さを競い合い
地上でテールライトが長い尻尾の残灯を燻らす
街頭にも路地裏にも道先案内人のスマホが喋り
同じ顔したビルの窓辺にチカチカ光るスライドショー
横顔だらけの会社員、一夜漬けの説明会

街がサーカス小屋になった今、
子供をさらって何になろう
街が眩しくなった今、
誰も人攫いを怖がらず、
誰でも人攫いの顔をして、
すべてで人攫いを馬鹿にする

私の父を 怖い顔で連れて行った人攫い
私の手を引いて 心配そうに家に帰した人攫い

(私、くだらない大人になりました
(今からでも どこかに攫っていただけますか

私は人攫いと手を繋ぎ
温かな、暗い所へ行きました

「ひとさらい」全文

(2018年11月28日)


為平澪『ひとさらい』書籍情報
ひとさらい
私家版
発行 2018年
著者 為平澪(ためひら・みお)

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