『いのちの花、希望のうた 画詩集』アイキャッチ

岩崎健一&岩崎航『いのちの花、希望のうた 画詩集』

――祈ることのむずかしさへ跳躍する。

◇ ◇ ◇

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本日は火曜日。今日わたしたちが読む詩集は岩崎航の詩とその兄・岩崎健一の画を合わせた画詩集『いのちの花、希望のうた』。岩崎兄弟は一九六九年と一九七六年仙台市生まれ、ふたりとも幼い頃に筋ジストロフィーを患い、生活に介助を必要とするなかで創作を行う。

本書は、岩崎航の第一詩集『点滴ポール 行き抜くという旗印』(#0050 参照)からの詩を一部含み、岩崎健一にとっては初の著作ということ。詩を右頁、画を左頁に収め、ふたつでひとつの作品と考えたとき、ほぼ七十編、これにエッセイを追加し二百十二頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「まえがき」から。

作品を観るときに、作者の障害や生活境涯の背景に囚われては本質を見失いますが、健一自らが言う「生きがい」「生きてきた証」としての作画を見ていると、そんな鑑賞者意識というものを超えた「生きるための芸術」があることを発見します。彼の花の絵に美しさと同時に、生涯を一点の絵に注ぎ込む創造の凄みを感じるのは私だけではないでしょう

「まえがき」部分
岩崎航

作者の生まれ、年齢、国籍、職歴など、「生活境涯の背景」から自由な、じゅんすい、、、、、な読みがありうるだろうか、ということを思う。つまりそうしたものから自由な作品がありうるだろうか、という問いがある。それは大きな問いであり、簡単に答えられるものではない。だが、当事者が同時に鑑賞者でありうるようなわたしたちのねじれた現実を想像したとき、わたしたちのじゅんすいな読みはたやすくうしなわれ、つまりわたしたちはよごれる。よごれたまま読む。そうするほかない。

めぐり来た
人生の今の季節を
真っ直ぐに
生きていくことは
たたかいだ

(P114)

左側にはクロッカスの画、右側に詩である。著者によれば本詩集の画はすべてパソコンで描いたもので、すべて花の画。咲き誇るクロッカスの画はどこか人工的で、造花を思わせるが、それは右側の詩にある「真っ直ぐに/生きていくこと」のむずかしさを示唆しているように読める。

なぜひとは真っ直ぐに生きたいと思うのか。わたしたちの生がどこか自分のものではなく、まるでまがいもののように感じられるとき、その人工的な実存が「曲がっている」ものとして対峙させされ、わたしたちに直線へのあこがれを生み出す。曲がっているということは遠回りであり、実際にはすぐに辿り着くべき場所へ到達するまで長い時間がかかるものだ。わたしたちの人生においてそうしたことはしばしば起こりうる。「今の季節」は、真っ直ぐに生きられなかった過去の季節たちの存在を想像させる。

自分の実存から、「ほんとうはこうであるべきだった人生」への無限に遠い距離。わたしたちはそこに橋をかけたいと思う。できうるならば、曲がった橋ではなく、最短距離の、真っ直ぐな橋を。その意志がたたかいと呼ばれていると読める。

人が「働く」と
いうことは
労働市場の
価値 だけでは
決まらない

(P104)

働く……書く、とも読める。書くということは金銭に換算できるものではない。もちろんできる場合(たとえば小説)もあるし、できない場合もある(たとえば詩集)。だがその価値を決めるのは書くもの、働くものであり、それを第三者にゆだねることはほんらいはできない(ゆだねてもいいと思っているひとはいる)。そしてそれが価値によってのみでは決まらないのは、金銭的対価が生じる前にも、そこに大きな愉しさがあるからだ。

できないことができるようになる、それが世の中の役に立ち、認められ、公共に寄与する。そうしたことは、経済的対価そのものよりも、ひとのこころに大きな力をあたえてくれる。逆に、そんな愉しみは、いつのまにかお金が支払われるようになったとき、なんともいえなくつまらなくなり、働くことは「労働」へと変化する、ということを想起する。詩は働くこと、そして労働との間の乖離を示唆しているように読める。

この詩の左側に置かれた画はスーパースター種の赤い薔薇であり、やはりどこか造花の雰囲気を帯びている。これは本書で一番好きな画だ。

本当に
そう思わなければ
祈りでは
なく
呟きなんだ

(P64)

左側に赤い色をしたグラジオラスの画。それは上から下に流れる血のようにも、また重力にさからって逆流する血のようにも見える。この詩は『点滴ポール』にも掲載されていたが、後半部分が省かれている。その省かれた後半部分にはこうあった。「確かにその形は/違う、けれども/気づいた/いつの間にか/届いた 祈り」。

やや解説的な後半部分が省かれたことによって、より詩の強度が増していることがわかると思う。この詩において祈りは届いていないし、さらに気付きもない。あるのは、ただ燃え上がるような「信じる」という行為のみ。結果もえられないまま、まったく無根拠、、、に信じることであり、えいえんに来ない奇跡をそれでも起こると信じることである。

何処でもない
此処に
咲いている
花を
摘みにゆく

(P146)

よく読んでみると、奇妙なことがある。それは「此処に咲いている」花を、「摘みにゆく」ことである。ここにあるものをまるで遠いものであるかのようにとらえること。あるいは、いま・ここにあるものが無限に遠い場所にあること。それが「何処でもない/此処」と呼ばれている。それは詩が出ずる場でもあると読める。

だがそこに到達することは簡単ではないことが、「……にゆく」という行為で示唆される。これからゆくのか、いまあるいてゆくのか、これからいつかあるいてゆくのか、それはあきらかにされていない。だが、どこにもないものをみつけるためには、やはりひとは旅に出なければならない、そういうことを思う。

左側には、地面に咲いているような菫の画。旅先で見かけた路傍の花のようである。

どうしようも
なくなった時
勇気は
やむにやまれぬ処から
自発するのだ

(P70)

画は蝦夷透百合。ない、、ところからあるものが生まれることはわたしたちを勇気づける。それはぎりぎりまで追い詰められたときにのみ見出されるものなのかもしれないが、おそらくないところにはやはり最初からなにもないはずだ。

つまり、わたしたちはじつはそこに満ちている可能性に気が付かないでからっぽだと思い込んでいる、という示唆があると思う。自ずから発する、とは、自分の眼を見えなくさせている思い込みから抜け出すことなのだ。それはだまし絵に隠されたもうひとつの貌をみつけることと似ているかもしれない。

詩の場合、発見する、見出すとは、書くことによってもたらされる。人生においてはおそらく、それは傷と痛みと驚嘆によってもたらされるだろう。

岩崎兄弟の詩と画は、自らにさだめられた局限された生のうちで、その限界の縁を押し広げ、その余白に見出したものを拾いあげている。それはありとあらゆる生の現場において自らに課せられた局限と格闘するすべての読者に、「信じる」ということの圧倒的な、ほとんど実現不可能な困難を教えるだろう。

だがじつのところそれはそんなにむずかしいことでもないのだ、と、どこか柔和な笑みが作品のそこかしこにあるようにも感じる。わたしたちは、詩の、いや生の意味を、信じなければならないのだ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、百二十頁の詩と鈴蘭の画を挙げたい。
鈴蘭は猛毒があるそうだが、わたしは毒があるものが好きだ。

この詩をかたわらに置きながら、個人的なことを思いだしている。身近に死があったとき、ある女は病院でわたしに魂のかたちについてかたった。その日、窓の外には入道雲が浮かんでいて、それが魂のかたちをしているように思えたという。

不能と可能。生と死。できるから生きるのではない。できないから生きるのである。

天井と窓辺を
見ているばかり
できないだらけの毎日に
この指先から
風光るのが見えた

(P120)

(2018年11月27日)


岩崎健一&岩崎航『いのちの花、希望のうた 画詩集』書籍情報
いのちの花、希望のうた 画詩集
出版 ナナロク社
発行 2018年
著者 岩崎健一、岩崎航(いわさき けんいち、わたる)
価格 1700円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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