中堂けいこ『ニューシーズンズ』

――たわんだ籠のうちから、季節たちがめぐるのを知る。

◇ ◇ ◇

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本日は三連休明けの月曜日。今日わたしたちが読む詩集は中堂けいこの『ニューシーズンズ』(思潮社)。大阪府堺市生まれ。二〇〇四年度第十三回詩と思想新人賞受賞。既存詩集に『円庭』、『枇杷狩り』(以上土曜美術社出版販売)、『ホバリング』(書肆山田)など。本詩集は詩十四編を八十八頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。巻頭詩から。

なにも書かなくともすでに書かれた文字を
キィボードで押さえ
すぐちかくの坂のしたからパワーショベルの
それらしい響きは土の層をあつめたりひろげたりするが
つぎつぎに更地から
なにも身に付けない人がやってきて
かれらは足音をたてず宙をうくように折りたたまれ
しだいに曠野がそのまま湖になるその光景を
もう知っているのではないか
指先から洩れ出るわずかな水滴は光のなかで
うっすらとうきあがり
ゆきさきの無い場所をゆらす

『ニューシーズンズ』巻頭詩 全文

あたらしい季節、たち、と口ずさんでみる。複数の季節がそこにあるとき、ほとんどの国において歳月が想像されるだろう。熱帯のような国でさえ雨季と乾期があり、季節たちは歳月がめぐり、わたしたちが老いることとかさねられるが、そこに「あたらしい」季節が挿入されることはなにを意味するのだろうか。それは「なにも書かなくともすでに書かれた文字」がすでにあるような、そんなあたらしくも古びたものを示唆しているのかもしれない。それは書くことについての詩、と読める。

それを詩に局限することなく、キーボードを用いて文章を書くわたしたちはことばを意識の土壌に打ち込み、掘り返し、みずからの文体をみつけてゆく。みつけてゆく、が、手にしたことばはどれもどこかありふれている。そんな空間において「なにも身に付けない人」とは、二〇一八年にことばを忘れたひとびと、あるいは「わかる」と誤読できるものだけを読みふけるわたしたちの姿を指しているのかもしれない。

ゆきさきの無い場所とはどこか。それは曠野がいつのまにか湖になってしまっているような時間軸にしか存在しえないものであることだけは疑いようがない。

いつのまにかみぞおちに
カナリアを飼っている
ときおり腹部が熱くなるのは
カナリアがうたいたがっているからだ
うたをわすれたわけではないので
わたしにしか聞こえない透明な声で鳴く
つきぬけるような響きにさそわれ
わたしはふかい谷をおりていく
それはほんの一瞬のこころの迷いのようなものなのだが
あまりにとうとつに響きわたるのでおどろいてしまう
ふかい谷にうっすらと光のすじがおりて
わたしはひとりでないことをよろこぶ
すでに失われたひとがわたしを呼ぶ

「とりのうた」 序〜中連

みぞおちは、肋骨の終わる部位。肋骨はそれ自体が籠のようにみえ、そうするとそのなかに閉じ込められている鳥はわたしたち自らのこころ、心臓、ことばであると読める。つまり、歌いたがっている鳥を閉じこめているのは自分自身だ。

深い谷は自らの骨と肉とことばつくりあげた枷の渓谷のようにみえるが、そこからの出口(の可能性)は、すでに失われたひとの声に頼るしかなく、その声ははっきりと記憶に残っているようにも、あるいははっきりと記憶に残っていると信じたいだけのようにも、はっきりと忘れていることだけはおぼえているようにも読める。読者はその不確実性の谷に放り出されるが、そこはどこか居心地がよい、いや、よく知っている場所のようにも思う。それはわたしたちみなが持っている拒絶されたふるさとなのだろう。

ところで、わたしは文鳥しか飼ったことがないが、写真でみるカナリアは可愛く、歌も上手だということだ。この鳥は毒性に敏感らしくかつては炭鉱で危険感知器として用いられたそうだが、この詩のカナリアは、歌を可能にする記憶を思いだすことを危険なものとして抵抗しているようにも読める。それは歌を可能にする「象牙の船 銀の櫂」(「かなりや」西條八十)がけしてカナリアを幸せにするものではないからかもしれない。うた(うこと)はひとを幸せになどしない。

歩道橋を歩いていると向こうから知らない男が渡ってきた。男は右肩にサルをのせている。すれ違いざま、お前にはデーモンが見えるのだなという。サルは男の肩口から威嚇するように歯をむき出した。わたしは返事をせずやりすごした。デーモンという語調が耳に残り嫌なモノが入り込んだようでわたしはすっかり滅入ってしまった。
日暮れどきの街は忙しげに人々が往来し他人の気分などお構いなしだったが、そのときになって往来の人々が肩になにかしらを乗せていることに気づいた。そのなにかしらは物体であったり動物であったりちぐはぐな印象で、人の肩にしっかり乗せられているというよりはぼんやりとした形のあるふうせんのような止まり方をしていた。ゆらゆらと陽炎のようにある若い女はライオンを乗せているし、道の端のホームレスらしい男は薬缶を乗せている。新聞紙にくるまる初老の男の肩にふうせんみたいにくっついている薬缶は蓋を閉じたり開いたりしながら注ぎ口がゆれている。若い女のライオンは口に生肉の血を滴らせて灰色の眼が光っている。女はピンヒールの踵を蹴りながらライオンのたてがみが顔にかかっても気にもとめない様子だった。
スクランブル交差点では大勢の人々がそれぞれの方向に行き交う。それぞれに肩にそれぞれのモノを乗せ、キリンだったりバットマンだったり受け木鉢なんかがゆらゆらと互いに幻影が交差するようで殺伐とした都会の様相がすっかり様変わりしていることに驚いた。
駅前に人だかりがあって背の高い黒尽くめの男が拡声器で演説していた。男の背に巨大な象が乗っていた。象はときおり三白眼をむいて長い鼻を振り回した。もちろん誰にも当たることはないのだがその素振りは醜悪だった。
いつのまにかわたしの傍らにサルの男がいた。俺には自分の肩に乗っているモノが見えない、お前は言ってはならない。だからお前の肩のモノも俺は言わない。他人にしか見えないのだ。それから演説者のほうに顎をしゃくりあの男の肩のモノも言ってはならない。おそらくお前と俺とでは違うモノが見えているのだから。わたしは訳がわからなくなった。なんだかバカにしていると思えた。
拡声器から、われわれのせかいをかえる! われわれがかえなくては誰のためのせかいか! わたしはうそをつかない! きっとあなたがたはわたしをしんじる! 象は白目をむいて笑ったように見えた。

「誰のための世界というか」第一連

著者による自作注がある。「デーモン ラテン語でエウダイモニア「幸福」の意味。ギリシャ宗教のダイモン。その人の正体(who)。人間は自分の正体を知ることができない。デーモンは一生その人の背後にとりつきその人を眺める。他人にのみ見える。ハンナ・アレント「人間の条件」二九二頁より引用。」

いまわたしの手元にある複数の辞書の意味とはいずれも異なるが、わたしはこの詩のデーモンを契機、つまりある事象を生じさせるきっかけのように読んだ。わたしたちは、自分自身におとずれる契機を知ることはできない。それは自分を他者として見た時、たとえば長い時間を経て自分の過去を見つめなおした時にのみはじめて事後的に見出しうるような、いつのまにか人生を決定していた(そして気が付かなかった)重大な契機がたしかにあることを想起させる。

具現化したデーモンたちは、サルや、ライオンや、薬缶など様々な形をとっている。それは「こうであったかもしれない人生」へつながっていたであろう失敗した契機たちの姿であり、「こうであったかもしれないが、けしてそうはならなかった」裏切られた契機たちの姿でもあるだろう。だが自分のそれだけはけして見ることができない。この世界は「このわたし」のためのものであるはずだが、わたしのものにはけしてなってはくれない。それは契機がつねに遅延して見出されるからであり、しかも口にしたしゅんかんに消えてなくなるか、まったく違うものに変貌してしまうからだ。

わたしたちに残されたゆいいつの道、それはすべての契機の可能性を見なかったことにし、「われわれのせかいをかえる」とじつのところ少しも信じていないなにかを拡声器/拡散器で叫んでいる男になることであり、肥大化するデーモンに身を任せ、愚者になることである、と読める。いうまでもなく、それは二〇一八年のわたしたちがよく知っているスフィアを想像させる。

詩は、デーモンを捨てよとも、契機を得ようとせよ、とも言っていない。むしろできないことのなかに、不能性のなかにとどまっている、とどまるというひそかな声がきこえる。だれにもできないことをできるというのはたんなる煽動であり、「わたしはうそをつかない」という叫びであり、そんなものは象に踏ませておけばよい、ということかもしれない。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「虚無僧」を挙げたい。
「こむそう」には、外来語のような不吉な響きがある。それが()にくくられる恐怖とかさねられる。()のなかに入れられるとき、わたしたちの生からはほんらいそこにあるべきだったものが剥奪される。たとえばそれは祖国ではなく(祖国)であり、故郷ではなく(故郷)であり、あるいは家族ではなく(家族)かもしれない。その恐ろしさに嗚咽がふきあがる、と語り手はかたる。

三人兄妹、そして語り手。いわば語り手はその擬似的な家族のうちで()に入る存在であり、つまり(家族)である。虚無僧がなにかという問いがあると思うが、わたしはこれは()の虚偽を暴くもの、うつほを無かったことにするもの、と読んだ。それはいつのまにかひとり数が減っていた家族、しかもそのことをだれひとりとしてかたらなくなった家族において、その減っただれかが存在していたはずの色のない空虚を思わせる。匂いはそのうつほから生じ、詩はそれをたどり、虚無の貌にかたちをあたえる。とても好きな詩だ。

こむそうがくる。それは匂いだった。路地の左手ずっと奥の角を曲がってこむそうがくる、匂いがするのだ。どのような匂いか。なににも譬えようのない匂い、それは激しい恐怖をともなうので家族は幼いわたしがひきつけを起こすのを、うしろから羽交い絞めにするのだった。わたしには虚無僧が角を曲がる前に匂いがわかるのだった。匂いがすると嗚咽がふきあがる。(こむそうがくる)匂いはことばで括ればおそらく( )のなかに恐怖も括る。

隣に三人の兄妹が棲んでいた。兄をトシオ、中の女児をチエ子、下の弟をテツオと言った。チエ子とわたしは同じ年だった。四人でよく遊んだ。々ように兄妹になってご飯を食べたりママゴトをしたりお膳を反して魔法の絨毯ごっこをした。家同士が屋根続きなので縁側の土壁に薄い隙間があって、わたしたちは小人になってその隙間から行き来した。トシオの声がうちでしたりわたしが隣で晩御飯を頂いていたり、大人たちが気づかないのが可笑しくてたまらなかった。トシオとテツオは近所でよくいじめられた。二人が悔し涙を流すのをチエ子とわたしはうつむきながらじっと黙っていた。

「虚無僧」第一、二連

(2018年11月26日)

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中堂けいこ『ニューシーズンズ』書籍情報
ニューシーズンズ
出版 思潮社
発行 2017年
著者 中堂けいこ(なかどう けいこ)
価格 2400円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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