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暁方ミセイ『ブルーサンダー』

――わたしたちをよせつけない青をもとめて。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は水曜日。本日わたしたちが読む詩集は暁方ミセイの『ブルーサンダー』。暁方は一九八八年神奈川県生まれ。二〇一〇年に『現代詩手帖』投稿欄の年間最優秀作品に与えられる第四十八回現代詩手帖賞受賞。二〇一一年刊行の第一詩集『ウイルスちゃん』にて第十七回中原中也賞受賞。第二詩集である本書は詩二十二編を百二頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「二〇一号室とラストダンス」から。

数カ月ぶりに見つけた玉葱は
ラックのなかで薄緑色のゴムベラに似た芽を、
真上へうねりあげていた。
この部屋を出たら
寒冷な空気に当てられて
すぐにだめになってしまうのに
冬にだって命は伸びる
悪臭を抑えるため、セロファンの袋へ封入した後、
最後の数日を
隠されていたラックの上で過ごした
玉葱は、
濃い緑色に変じた芽を
まだ自分には一握の未来があり、
そこへ捻じ込もうというように
出口へと伸ばし続けた。

駅から向かう途中に階段があるでしょ、
その階段は石で出来ていて、何千年も前から植物や虫が
べったり潰れて張り付いて気にもとめない。
昨晩は大水青がいたよ。本当に。
厳冬、
柔らかそうな腹に柔らかそうな皺を四本見せて、
氷点下でたぶん死んでいた。
喚きつつ、蛾をライターで燃やそうとしている小学生がいて、
わたしはそれを、なぜ残酷と思うのか、
考えながら坂をのぼってきた。

坂の上に部屋はある。
わたしたちは二年、
物を集め続けた。
屑のような、
どうだっていい物が生活のまわりを埋めて
しかもどのひとつだって
その謂れを、
唱えることができた。
夥しく散らかった物品がわたしたちの生活を構築し、
証明し、
互いの間にある一種の既視感みたいなもので、
視界を安定させ、同じ色合いに調節していた。
わたしをよく知る
物、
わたしと深い繋がりのある物が、その配列が、
わたしを夢から
正しく起こした。

でも、のぼってきたというより、蛇行してきたよ。
小学生の隣を息を詰めて通り、
住民が通路にはみ出して置くアロエの鉢を避けてきた。
この狭い路地をすれ違う人々は、
なぜむやみにわたしの顔を凝視するのだろうと、
ひたすらむかむかして蛇行してきた。
褪せたピンクの歩道橋の先に、アパートが見えても、
まだしばらくは腹が立っていた。

始まると、
すべては凄まじい速さで進む。
そこらじゅうに漂っていた密談と、
黄色いランプのひっそりした明りは、
他人とのあかるい電話口に
瞬く間、追い出される。

この坂をのぼり、ドアに鍵を差し込み、
闇に感情を溶かし込みながら、
夜がいつまでも続くと信じて
じっとコップや洗濯物を見つめているわたし
がいなくなる。

この部屋は、
時間を使い切り
わたしたちの一生のほの暗い懐かしさに
ぼんやりと浮かび続ける。
わたしは案外、惨めになったり、空虚になったりはせずに、
今日までまったく別の考え事をしていた。
いまは
この部屋のかたちをありのまま、
覚えておくために
目の前のすべてを思い出している。

「二〇一号室とラストダンス」全文

放置された玉葱が、ラックのなかであらたな命を芽吹かせている。だがそれは捨てられるべきものであり、無機物であるゴムベラになぞらえられ、どこか偽物フェイクじみている。いかなる命も平等ではなく、人間にとって利便性のある命と、ない命はいつも恣意的な判断によって区別され、分別され、いらないものは捨てられてゆく世界の姿がそこにある。もちろんそこでかたられているのは玉葱ではない。

最終的に濃い緑色へと命を発育させた玉葱は、気密性のある袋に投入され、「悪臭を抑え」る様式にて、火葬前の死体のようにラックに安置される。玉葱のもっていた命の可能性は、一握の未来があることが示唆されることでいわば二重に殺害される。この光景をわたしたちはよく、、知っているように思う。それは生きることにともなう、ぼんやりとした不安やぼんやりとした恐れである。まがいものの生(のように感じられる)の感覚。そうした現代に生きるわたしたちの生理的な感覚にかたちが与えられていると読める。

第二連。「わたしはそれを、なぜ残酷と思うのか、」は驚くべき一行。それはつまり、殺すことは別に残酷なことでもなんでもなく、あるいは、幼い子供が遊びで「喚きながら」生き物(大水青は蛾の一種)をライターで炙って殺そうとすることは、別にあたりまえのことで、残酷なことでもなんでもなく、むしろ自然、、なことだという理解がかたられている。

生き物の死骸が堆積する層、はこの詩集のあちらこちらに姿を見せるが、ここでは階段であり、死骸たちが「べったりと潰れて貼り付いて」いる様子がかたられている。もちろん、わたしたちは、そんなことにまったくなんの興味もなく、ただ歩くための道具として階段を用い、その上を踏み潰して、あたり前のように歩いてゆくだろう。いったいそれのなにが残酷なのか、とうそぶきながら。

第三連。坂の上にある部屋。だれかまたは自分自身との親密な生活が想像される。「二〇一号室」はおそらく詩を着想したと思われるその場または記憶に紐付いた単語だろうか。読者にとってさほど意味のないものを題名に用いることで、詩と読者の間に適度な距離が創出され、読者の生活におけるだれにも知られることのないそれぞれの個別の風景とのひそかな関係性が逆に強められると思う。わたしは自分がかつて住んで、そして愛したさまざまな部屋(n号室)のことをつよく思い出した。

残酷さについて考えることから始まったこの詩の後半部分では、別れや出発のやわらかいイメージが展開される。ふいに挿入される独白のような連の「始まると、/すべては凄まじい速さで進む。」も、実感のこもった二行。なにがかたられているのかわからないからこそ、わたしたちは第三者が書いた詩をみずからの人生に引きよせて読み、愉しむことができるということを思う。

丘からは魂が吹き出している。

太陽がガラスの向こう側にあるような日に
黄色や紫の炎はあちこちで
音も無く地面から噴射し
見えるものすべてを蓋っている。

今朝、目覚めると、
地平線近くに金の塔が建っていて、
蜂が「もう、春があんなに近づきましたよ、」とにやにやしている。心臓まで水が
(その塔は、野原に太く輝いている。たくさんの虫、花、食べられた動物や、
舌をだらりと出した莫迦貝で出来ている。)
水が押し寄せる。

わたしを
浴槽のように感じとること。
乳色が砕け、血液は、
わたしをゆっくり世界の何かに似せていく。
家の庭ではキャベツが育っていた。
わたしの成長を追い抜いて、あっという間に、成熟し消えるものは
みんな新鮮な緑色をしている。
思い出す物は
みんな
美しい緑色をしている

「三月の扉」第一、二、三、四連

暁方のいう緑色は、どこか微生物的な、濁った淡水に繁茂する緑を連想させる。もちろんそれが「濁っている」というのはわたしたちヒトにとっての思いこみに過ぎず、詩はそれらを「みんな/美しい緑色をしている」とかたっている。だがそれはすみやかな死、すみやかな忘却と表裏一体となっており、成熟し、そして消える(老いる)ことはあっという間であるともかたられている。「新鮮な緑色」などはヒトの都合にすぎないからだ。

「わたしを/浴槽のように感じとること」という行をどう「わかる」ことができるだろうか。続く行において「乳色が砕け、血液は、/わたしをゆっくり世界の何かに似せてゆく。」とある。浴槽とは、水を満たすもの。水、乳(母乳は血液の一種である)、血を満たす革袋としての身体を指し、それが世界とふれあってゆくその過程、その感覚を、「わかる」ことができるかもしれない。水、血はことばでもあり、外殻としてのわたしたちを満たしているものによって、わたしたちはつくられているとも読める。

より生活の場に引き寄せて考えてみれば、それは三月のある日、おそらく庭のある家で、ガラスのこちら側から、春の光が降りそそぐ庭をみている語り手が想像しうる。だがそうして語り手を局限してしまうことよりも、さまざまな場に時間を超えて同時に存在している語り手たる《私》を想像したほうがおもしろく読めると思う。浴室、居間、砂丘、大都会のマンションの一室、草原に建つ金の塔……そのいずれもおそらくは現実のなにかに基づいているだろうし、そうでないともいえるはずだ。

()のなかを除くと、「心臓まで水が/水が押し寄せる」と繰り返すかたちになっている第二連が印象にのこる。そしてここでも金の塔は、死骸の塊である。食べられた動物、花、虫でできた肉と骨の塔が、野原に「太く輝いている」ことよりも、それが「金の塔」と呼ばれていることがグロテスクだと思う。「目覚める」ということばによってそれが夢のなかの光景であることが示唆されているが、これはあきらかに現実のことだ。そしてわたしはこの連がとても好きだ。

あのあかるい火も花も
みんないまは青の属性に入って、
一日黒く燃えていた
赦せないことが
叫ぶのをやめ、生命の活動をやめ、
静かに白く横を向いていくとき、
冷えて沈んでいく水平線に
わたしの座る椅子があるように思う。

ゼリー質の水晶体に三角形を映していた。
やがて、
濡れた砂浜を歩いた。
正確な菱形が砂の上に現れていた、
すべすべの菱形、
砂鉄を多く含んで黒くなった
波のさなかに砂へ潜る貝には、
幽霊のような透明の舌が伸びている。
遠景にやや緩慢な、潮干狩りが
一群に、浅黄色に、

劣色、とでもいうような、

宇宙色、黒目の縁取り
わたしたちが見るものは薄められた青ばかりの

稲村ヶ崎の浜を歩いている。晴れの日の、雲陰の青い、彼方温んだパイナップルジュース、水平線のあたりにごく淡い紫色の横縞が浮かんでいる。その向こうの空が粗く遠さを失って、変にじりじりと電磁波で出来ているようだ。こういうことは、前にもあったと思った。まばたきをすると、よごれた黄色い海岸線が、かたくつぶった目の奥からじっと浮腫んで浮き出してきて、島のような形をつくっている。いや、おうい、おういと、呼んでいるようにも思える。黄色いよごれた海岸線が、わたしのかたくつぶった目の奥からこちらへじっと浮腫んで浮き出してきて、味のない夢を見ている。目覚めながら、幾度も目を開いて、まばたきをするたびに、低く警告するような轟音が響いてくる、自分の行く方から響いてくる。
それは
ずっと前からそうだったように思います、

憂鬱に助長されている。
やや緩慢な、
波のさなかに漂うように臓器を伸ばし、
さながら先祖霊が
別の世界の存在のしかたを呈して
細かい濡れた砂のなかへ無言で潜っていった、
ような貝の幽霊を、
舌の魍魎を、
銀板が焼いて、打ち付けていた。
海辺の、捨てられた、
ボンネット。錆だらけの缶。木箱。ゴム靴。

わたしの想像は小貝の透過した臓器や、うみうしの粘膜質の肉体に鎮座している。自分の体の生存のこと、種のおおきな時間のこと、淘汰のこと、細胞や元素のことを思って眠っていた。その脇を、たくさんの足音が走り過ぎていった。ゆっくりいくもの、せわしなく鋭い足音で行過ぎるもの、どれも途中で途切れて、温かなものがどろどろと柔らかな土のなかへ溶けていった。遥か上のほうでは、笑い声がしていた。遥か上のほう、わたしたちの意識の上にくっついている薄ぺらい時間では、午後の中庭に降ってくるトロンボーンが聞こえていた。乾いた野球のボールとともに山鳩が音もなく飛び立った。校舎の屋上にある貯水槽の裏には秋の初めの夕日がじっと動かないでいた。ひとりの学生だけが家へ帰らないでいて、それを知っていた。夕暮れの最後は必ず踊り場にできる影が青くなって、紺碧がきて、終わった。それは、いつもそうだった、

「デトリタス見聞」第一〜七連

デトリタスとは、「プランクトンなどの生物体の破片・死骸が海底にたまったもの」(広辞苑)であり、有機堆積物を意味することばだそうだ。死骸の層である。この層は、生と格闘し、苦しんだ後に倒れた身体が「静かに白く横を向いていく」ひとびとが最後に横たわる場でもあり、それはわたしたちの世界にみちる負のことばが堆積する場のようにも見える。詩はそこに自分の座る椅子を発見する。この薄暗い水底から、自分はかたりはじめると、そう暁方はいっていると読める。

ふたたび時間と場所と意味がみだれ、錯綜する。語り手はおそらくは砂浜を歩きながら、人生のさまざまな出来事を回想しているとも読める。見る、考える、歩く、聴く、思いだす、だろうか。そうした過程がいっさいの説明なく、時間軸に沿うことなく、平行展開されていると読める。

第五連。語り手は黄色いよごれた海岸線を思いだし、それが浮腫として、なんらかの身体的痛みの記憶とともに、触覚をともなって思いだされるとき、それが夢のなかの光景とかさねられ、まばたきをする語り手の前に、低く警告するような轟音が「自分の行く方から」響いてくる。

なにかを思いだすとき、わたしたちは未来(行方)にいる。ねじれた時間がねじれた空間を呼び寄せ、彼方から温くなったパイナップルジュースが召喚される。まばたきするたびに記憶が切り替わるのはテレビのチャンネルやマウスのクリック音の喩だろうか。最後にそうした意識の流れが「それは/ずっと前からそうだったように思います、」と注釈されている。

第七連。「わたし」が想像し、そして思い出していることがより直接的にかたられる。水底、想像力のいずる場にいる語り手の側を、さまざまなものたちが通り過ぎてゆく。それは詩、または個人的なる記憶、感情、思想にほとんど興味をもつことなく通り過ぎていく圧倒的大多数の読者、他者の姿でもあるだろう(その想像力が貝を咀嚼し飲み込む内臓的感覚や、軟体動物に指を触れる触覚に基づいていることに注目したい)。

その底に横たわる語り手の上を記憶がながれてゆく。それはトロンボーンの音色であったり、乾いた野球のボールの手触りであったり、貯水槽の裏に落ちる夕日であったりするのだろう。だがそのどれもが「薄ぺらい」時間であるとも詩はかたることを忘れてはいない(いいかえると「重厚」で「かけがえのない」体験というものを詩は信じていない)。

「紺碧がきて、終わった」はとても好きな一行。暁方のいう青は蒼ざめた生き物のそれというよりは(そして何度か死への連想があるのだが)、どちらかというと繁茂し増殖する命の緑/青色を思わせる。そしてその青はどこか、わたしたちを寄せつけない。理解を寄せつけない、と書いたらよいだろうか。「わたしたちが見るものは薄められた青ばかり」と暁方は書いている。見ても、聴いても、たどりつけないもの。しゅんかんにのみあらわれるものをもとめて、詩は書かれるのかもしれない。

本詩集でもっとも好きな詩は、この「デトリタス見聞」を挙げたい。

(黒庭。
思考はいつもここへ帰ってきて、
暗闇の中の雨を洗い出した。
一つずつに怒り、一つずつに後悔し、
這いずって、
そうして一つずつをわたしは緩そうと思う。
わたしはわたしの体のなかへ
受容していこうと思う。)

わたしには、見ることだけが
たしかに正義だった気がします。

「デトリタス見聞」第十連

(2018年11月21日)


暁方ミセイ『ブルーサンダー』書籍情報
ブルーサンダー
出版 思潮社
発行 2014年
著者 暁方ミセイ(あけがた みせい)
価格 2200円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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