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尾久守侑『国境とJK』

――詩はおもしろいかって? たぶん。

◇ ◇ ◇

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本日は水曜日。今日わたしたちが読む詩集は尾久守侑おぎゅう・かみゆの『国境とJK』。著者は一九八九年東京都生まれ。二〇一六年に発行された本書は著者の第一詩集。あとがきとしての詩作品を含む二十一編を百二頁に収める。

「JK」という単語は一般的には女子高生を意味するが、多少の解説を。栞の福間健二は「JKという呼称には、この社会の、性をめぐる消費と搾取のシステムから出てきたという側面がある」と書いているが、わたしが記憶しているのは、それはほんらい呼称というより当局の取締を避けるための隠語であり、インターネットが可能にした店舗にたよらない個対個の取引において、ゼロ年代からひろく用いられていた単語であるということである。

とりあえずは著者がそれにあきらかに自覚的であること、消費と搾取のあたらしいかたちスキームがその題名に暗示されていることを留意し、読みはじめてみよう。

呼吸していない船にのって
寒々と、うみを渡っていく
(ついにはかたおもい
くもった窓ガラスにかいて
凍った水道水でながした

(みらいのみえる気色に
(飽きてしまったんだね

すり減った鉛筆で藁半紙にかいた
宛先のない手紙を
空き瓶につめて 北太平洋の
海上郵便に投函する
だれか、ぼくらと無関係のたましいが
すっかり透き通ったあと
大陸まで運んでくれるのだろう

(涙のなか泳いでいたら
(思い出を使いまわしていて

どこまで進んでいっても
はじまらない海上作戦に、ぼくらは
ひとり
またひとりと
片思いの彫像になっていく
大陸に置き去りにしてきた
底抜けにあかるい
映画の少女を頭にうかべていると
かつてこのうみで愛されて愛されて
死んでいった人たちの気配が
船内にみちて、みな
膝から崩れ落ちてしまう
(ついにはかたおもい
くもりつづける窓ガラスにだれか
みずをぶっかけてくれ

あさひるばんも
どこにいるかもわからなくて
三日三晩
茫々と、波間を漂った
つめたいラジオから
正午の国営放送
ああ、こんなにさむいのに
ぼくらは負けたのだと
たったひとりのうみで
目をつぶって泣いた

どこへの帰れない
海流を覆うくろい夜には
巽の方角にまるまると月がでる
はつ雪
(ついにはかたおもい
甲板にしんしんと
降り積もることばを
まっくろな海水で流せば
くだけちった未来に
呼吸をとめざるをえない

(とどかなかった手紙を
(さがしにいくための言葉だった

「ぼくの海流に雪はつもる」第一〜八連

個人的なことからかたってしまうが、わたしには一歳半になる娘がひとりいる。他の子供と比べても、圧倒的に、とにかくかわいいと思う。自分の審美眼がおかしくなっているという自覚はあるし、子供などどれも残酷なる世界の前において「その他大勢」、ワン・オブ・ゼムにすぎないことはすでに証明されている。だが……それでも圧倒的にかわいいと思う。そう思ってしまうことが間違っているにもかかわらず、それでもいちばんかわいいと思う。なぜそうなのかということを考える。

それはその子だけを愛しており、他を愛していないから、と答えることができる。自分(だけ)が大事なものをまもるためにひとは殺さねば、、、、ならない。そのために戦争が招来される。自分(だけ)が愛するものをまもるために、ひとはそれを理解しないものすべてを殺さねば、、、、ならない。そのために戦争が必要とされてしまう……ということを思う。

本詩集においてくりかえしあらわれる戦争のイメージ。それは卑小でつまらない男性性の感傷/鑑賞の対象たる女性性、まだ子をなしていない成熟前の少女たちの姿をともなってあらわれる。そこでかたられる少女たちはむしろ、少年たちがいつか「男」になってしまう前、かつて自分がそうであった未分化の中性的な姿への憧憬がかたちをとったものであるようにみえる。いうまでもなく、少女たちを消費するのは少年ではなく男たちであり、少女たちをめぐって殺しあうのも男たちである。成長が不可避である限り戦争もまた不可避といえる。

詩に戻ると、この詩の「かたおもい」はそんな(元)少年から少女への一方通行の思慕を指し示すように読める一方、それが流される海流にはかつての惨禍の犠牲者である遺骸たちやその遺留品が沈みまた浮かび、投げ瓶に手紙を託して流すにしても、それはそうした瓦礫と見分けがつかないことが示唆されている。つまり希望はよごれており、端的にいえば、赦しも、救済も、つながりへの可能性もない。「みらいのみえる景色」がすでに倦まれているのは、ただひたすら敗北をくりかえす日本語だけが海を流れてゆく光景がすでに知られて、、、、いるからだ。詩は予言などしない。ただ知っている。

それではそんな海流につもる雪とはなんだろうか。第七連、「甲板にしんしんと降り積もることばを」とある一方、第八連ではそれが「(とどかなかった手紙を/(さがしにいくための言葉、、だった」と書き換えられている(傍点はわたしによるもの)。前者が戦争の終わることのない惨禍にまみれた光景に自然に降りしきる汚れたなにかであるとしたら、後者はそうした光景にかたちをあたえるもの、どうしても曇ってしまうガラスのあちら側へ、届かないことそのものをかたり、届けようとするための手法であると読める。

ここにいたかった
ポニーテールをほどいて
急行を待つ、たとえば下北沢駅の朝
04:48
まだ誰もいないホーム、たまには
冷凍食品でいいからね
送信した画面にうつったわたしの顔は
透明で

めをさましてよ
だれかの声でめざめた、かたい
地面のうえ、腕時計の
04:48
みわたせば荒野 たくさんの
制服の抜け殻
あのときみえないマシンガンで
蜂の巣にされたわたしが
また別の日みえないナイフで
内臓をえぐられたわたしが
そのままの姿で
脱ぎ捨てられていた
こんな朝はやくに、この胸を
なんどつらぬかれただろうか

チャイムがなって、わたしは
透明な戦争をくりかえしている
おわるまでフェンスのそば
待っていた部活も
放課後、質問しに行ったあと
妙にもりあがった雑談も
通学路をかえるみちすがら
色のないきおくになって、また
わたしはひとり
消え去ろうとしている

「透明な戦争」第一、二、三連

本詩集には少女の一人称を模した語り手が幾度か登場するが、この詩もそのひとつ。だが午前四時四十八分のホームの様子は、むしろ始発まで働かされて帰宅する成人した会社員のようにも読めるようにもなっており(示唆としては腕時計、伴侶にかたりかける口ぶり、冷凍食品など)、少女の姿には複数の実在がかさねられ、ぶれている。というよりも、ぶれていることがそのままかたられていると読める。

ぶれている実存を読み解いてみれば制服は就職活動を行う大学生たちの就活スーツであり、事実上着用が強いられている会社員のスーツであり、女子社員の事務服であり、もちろん詩集名の通り高校生たちの制服でもあるだろう。しかし制服そのものではなく、制服を強いるなにかについて詩はかたろうとしており、そのために少女のかたちをとる語り手もぶれながら多層的な現実を貫いてかたってゆくしかない。

たとえば、それが強いられているものであっても、魅力を放つことがあるものをわたしたちはよく知っている。それは「余計なもの」が鋼鉄のハサミで断ち落とされ最後に首を切り落とされて皿などに飾り付けられる生花たちであり、あるいは「生産性が低い」ものを排除し、なかったことまたは存在していないかのようにしようとする社会の異様な清潔さである。そのいずれも愉しく眼をよろこばせる――制服を強いられる少女たちの姿も含めて。

第一連。ぶれた語り手は鏡に映らない。「画面にうつったわたしの顔は/透明で」あるほかないだろう。だが、くりかえされる「透明な戦争」とはなんだろうか。暴力へ加担することを放棄した国が、未成熟な、まだ大人になりきれていない人間たちが通う学校になぞらえられていることは理解できる。では戦争とは、矮小な実存の悩みからのがれられないわたしたちがたたかう日常のことを指しているのだろうか?

いくつかの解釈があるが、わたしは尾久のいう戦争とは、愛することであると読んだ。わたしたちを拘束し、局限し、美的な装置としてのみ生きることを強いる学校(イエ)たるわたしたちの国のなかで、制服という外殻をまとわずには生きることはむずかしい。脱ぎ捨てられた「たくさんの/制服の抜け殻」はそのかつての持ち主たちがすでにそこにいないことを示唆し、つまりわたしたちにとって、ほんとうの貌や肉体をえることはとてもむずかしく、よって愛することは不可能であり、だからこそだれしもが渇望しながらも無意味な戦争をくりかえすほかない。そうした現代的な風景について、詩はかたろうとしている、と読める。

涙のけはいがする方向を
わたしはぼんやり見つめる
にちようび、
先の丸まった鉛筆で
マークシートを塗りつぶす
答えはどこにあるのだろうか
あなたにあえてなんとかかんとか
という「せつない」曲
をハルカはうたって
ベランダの手すりに
やわらかそうな頬をぺっとり
くっつけている
テストをうけているのは
わたしだけだった
にちようび、なのだ
にちようび、なのに
わたしはどうしてここで、
問題用紙のないテストに
解答しているのだろうか
開いた窓から吹き込んだ風が
真っ黒な答案用紙をさらう
答えはどこにあるのだろうか

眠りから目覚めるといつも灰色のつめたい教室にいる。名前をうしなったわたしたちは蝋のように固まった臙脂の制服をきて、なにも語らなかった。昨日から新たにうごかなくなった制服姿が三つあることをなんとなくで察知して、心もち身体を近づけ合う。国境の街、寒波と感染症の閉ざしたこの街でわたしたちは名前をうしなった。
(ここにおいていこう)
わたしたちの誰かが呟くと、誰かが立ち上がり、教室の扉をひらく。廊下にもたくさんの動かなくなった制服がおちていて、でもわたしたちは歩いていく、きめていた。わたしたちは今日、国境をめざす。

かげになるように土手にうつぶせて、警邏班のクラウンが通り過ぎるのを息を潜めて待つ。サーチライトが何度も往復して、無防備な貧しい親子を照らし出す。あの家は父親だけが連れて行かれてそれから物乞いばかりしていたんだっけ。銃声。銃声。銃声。3発も撃たなくていいのにね、誰かが云って、再びわたしたちは国境をめざす。流行病のなまえのついたこの河のむこうには、解らないけど何かがあった。ものも云わずにみなチェックのスカートをぬいで、パンツまでぬいで、氷点下の河に這入っていく。マイメロのキーホルダーだけは持っていこうかと思ったけれど、それも諦めてわたしも河に半身をひたす。これが国境。ふりむくと、さっきまでいた校舎に巨大な、顔のない独裁者の肖像画が掲げられていた。もう気づかれたのだと思う。わたしたちは正面だけを向いて一歩ずつあるく。次第に麻痺してゆく足。対岸の光がぼやけはじめる。消えないで。誰が云ったのか解らない。銃声。前をあるく制服が河にしずんでいく。銃声。からだから何かが噴き出す。対岸が涙でぼやける。消えないで。銃声。消えないで。銃声。銃声。

「国境とJK」第一、二、三連

詩集の題名となった詩。ふたたび語り手が男と少女を往還し、わずかにぶれている印象があるのは、「あなたにあえてなんとかかんとか/という「せつない」曲」といった醒めたかたり口から来ているのだろうということを思う。この詩集で戦争と呼ばれている主題の影はさらに色濃くなり、わたしの読み間違えでなければ、この詩ではじめて「国境border」ということばが詩に導入される。

くにざかいとは、ふたつの世界を分かつもの。 “border” は「ふたつの国、地域をわかつ公的な線、あるいはその線の周辺」を指すが、それは詩的なるものとそうでないものを分ける線、およびその周辺とも読める。それは「せつない」商業的な商品と、「せつない」かもしれないがいっさい経済的に価値がないとみなされているたくさんの表現たちとの対比なのかもしれないし、問う側と答える側のあいだにある計り知れない断絶を指しているのかもしれない。

第一連。ベランダは家屋とその外の世界に境界線をつくり、そのどちらともつかないマージナルな場に少女と思われる存在の頬が横向きに置かれている。それは少女、というよりは寝具に横たわる赤子のようにもみえ、彼女もまたいずれ成長し、その場にとどまることはできなくなることが示唆されている。だれしもが、問うのか(買うのか)、答えるのか(売るのか)やがては選ばねばならないからだ。つけくわえるならばそこには詩なのか、詩ではないものなのか、という選択も転がっている。だが詩はすでに、そこにはじつのところ問いなどなく、答えなどもないということをかたってしまっている。

第二連。北朝鮮よりの脱北を思わせる夢のような光景がえがかれる。北朝鮮が模されているのは日本には陸続きの国境がないという手続き上の描写だろうと想像され、それがじつのところ本邦のことをさしていることは、トヨタ製の高級車(クラウン)の存在によって暗示されている。「流行病のなまえのついたこの河」は本邦の言語空間に氾濫するソーシャルメディア上のテキストの流れストリームを想像させもし、「名前をうしなった」姿は電磁的空間において存在を剥奪され匿名として生きることが強いられる多くのわたしたちの実存を連想させる。

だが「わたしたちは今日、国境をめざす」というそのことばはなにを意味するだろうか。それは自死をめざすことほかならないのではないか。少女でもなく、少年でもなく、男でもなく、だれでもなく、名前もない貌のない存在であるからこそゆるされてきたものたち、それがゆいいつ存在しうるのは境界線上の場、えいえんに未成熟な子供たちがありとあらゆる制服を着て闊歩することができる仮象の場のみである(そしてわたしたちは、本邦のJKの制服を帯びた仮象のキャラクターたちが、グローバルな資本主義社会、たとえば Netflix のような動画コンテンツプロバイダーにおいて、商品として幅広く受容され、流通している二〇一八年の現実についてよく知っているはずだ)。

国境をめざした少女たちはキーボードの打鍵音のような銃声によって次々に殺され、沈んでゆく。制服もまた殺されてゆく。詩は、国境へむかえ、とかたってはいない。詩はただ、名前をえようとすること、貌を手にいれること、記号的実存であることを打ち捨てて「解らないけど何かが」あるような方角へ、暗い海を泳いでわたってゆきたいと希う、こころの動きをえがくだけである。そして、それが必ず失敗するであろうことも。好きな詩だ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「Sugar Campus」を。
(次点は、「ヲタクになれなかった君たちへ」)

無為に終わってゆく今日、明日、明後日。ただ生きられるものたち。無条件に第三者に必要とされるなにかに変化できるかもと願うが、すぐにそれを「ばかやろう」と否定するこころの動き。意味をもとめてもそこに意味は見つからず、「ちょっと可愛いコンビニ店員」を見てつぶやくだけで、少年時代はすでにはてしなく遠い。

消費と搾取を繰り返す社会システムの内側で、わたしたちは遊ぶように、消費しかつ搾取される。――尾久守侑はおもしろいよ、たぶん。

答えはわかっていたけれど、冷たい歩道橋をかけぬけて時間ぴったりにタイムカードを通した呼吸停止の五秒前、バイト先のコーヒーの匂いがしみついたセーターに透明なメッセージがとどいて俺を貫通していく夕方がおわり、じりりと鳴った目覚ましを叩き壊して起電力ゼロでむかう一限は自主休講でちょっと可愛いコンビニ店員しかもう見えない。これから寝るのにレッドブル買ったわ。と意味のないつぶやきを放ってサークル棟でだらつきながら一日がはじまって、おわっていく。明日もどうせはじまっておわって、あさっても、無難なシャツにバーガンディのニットを合わせて暖房をきってアパートを出て同じ道をチャリではしる、たぶん。

なぜか夢にみてしまったスカートとスカートがこすれあってアスファルトの通学路をふたりで月のようにすべっていくふるい邦画のワンシーン、女子になってからだがコマ割りで印刷されていく妄想をいつまでもしていると体重がふえそうな気がしたから、ぱちんと瞼をとじてベッドのうえに大の字になって、かすれていく少年時代のモンタージュをあたまのなかにどんどん描いていった。あーあ、俺が女子になれたなら、この無難なニットもだれかのシャワーでずぶぬれにするのにな、急にさかさまの心臓が拍動してきゅんとする。なんだよこれはばかやろう、いつか窓ガラスに好きな男子のなまえを書いた冷たいゆびさきにさわろうと手を差し出せば、わざとかのように空は夜になる。

「Sugar Campus」第一、二連

(2018年11月14日)


尾久守侑『国境とJK』書籍情報
国境とJK
出版 思潮社
発行 2016年
著者 尾久守侑(おぎゅう かみゆ)
価格 2200円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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