『zero』アイキャッチ

広田修『zero』

――閉ざされた窓より、あの海へひとつの石を投じる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は火曜日。今日わたしたちが読む詩集は広田修の『zero』。著者は一九八〇年生まれ。二〇〇七年、伊達風人らと詩と批評の雑誌 kader0d(カデロート)創刊。二〇一七年に第二詩集『vary』(思潮社)を刊行。二〇一五年発行の本書は第一詩集であり、二十五編を百四頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「忘れられた本」から。

買った記憶もないのに
本棚に入っている本というものがある

まるで私の目を盗んで狡猾に忍び込んできた
小動物か何かのようだ
そしてそれは
小動物となることで
本としての役割を
忘れてしまったかのように見える

その本を手にとってみる
私が手に取るまでにこの本は
天井裏を走り回り
木の根をかじり
雑多な昆虫を食べて来たに違いない
そして小動物として振舞うたびごとに
文字を一つ一つ落としてきたのだ
今ではきっと一つも文字が書かれていないに違いない

私はページを開く
すると細かい文字が
びっしり紙面を覆っていた
本は何も忘れていなかった
私はその本を忘れていたというのに

「忘れられた本」全文

本、ことば、または詩が、家屋に忍び込んで勝手に棲みついてしまった小動物になぞらえられている。それはどこかの未知なる場所からやってきていつの間にか家屋に住民登録されてしまっていた赤子を思わせもし、それに伴うありとあらゆる債務の支払いのことを想起させもする。だがもちろんそこにはどこか、いつかの時点において、購入する(媾合する)という行為が確実にあったはずだ。

あったはずだが忘れられているもの。あるいは、忘れられているそのことによってイエのなかに場をかくとくしたもの。それが狭苦しい頭蓋骨のなかにおさめられて浮かんでいることばたちになぞらえられている、と読める。忘れるためにはおぼえねばならない。死ぬためには生まれなければならない、といっても同じことだが。

小動物は天井裏を走り回り、木の根をかじり、雑多な昆虫を食べて来たという。欲求に従って生きることで本は本であることをやめ動物になってゆく。それは下半身がなければ人間は自分のことを神と思い込んでいられたといっていた哲学者のことを思い起こさせるが、そうした小動物が「一つ一つ落としてきた」はずの文字はじつのところただの一度もうしなわれていなかった、という最終連が印象深い。

つまり、ことばはいつでも(嫌になっても)そこにあり、だれもそれを忘れることはできない。しかも忘れられていたことを復讐するかのように、いや忘れられていたからこそ、身体に深く食いこんで増殖し、繁茂するものなのだ、と詩はかたっているようにみえる。

少年の庭に咲かれた一輪の花
匂われて
光られて
やがて散られてゆく
そんな花の花
の花の内側を醒ましてゆく
夏の織毛
角膜
破瓜
少年は不安によって
空間を把握する
不安の立面に鋭角する
羞恥の口唇
少年のすべては皮膚の光沢
少年の空洞には
夏の爪たちが散らばり
世界の枝葉が粉々になる

少年は
肉体を閉ざすことに
飽きている
精神を分かつことに
倦んでいる
肉体でも精神でもないなにものかの
航跡を
射影を
円環を
拳の中に蓄えて吸い込んでいる
落下する少年のまなざしを受けて
夏は世界と媾合し
蒸気を焼き
色を焼き
少年の質量を焼く
少年は思う
夏が夏を死ぬとき
僕も僕を死ぬことができるだろうか

(…)

夏の太陽には少年の血が混じっている
腿に太陽を埋めるとひんやりして
太陽が冷たい直線でできていることが分かる
夏の時間はやわらかい塊だ
少年が塊の中に入ると
エーゲ海の類
太平洋の類が
時間の皮膜を透明に染めてゆく
少年は時間を巡航しながら
風景の敵意にじかにさらされる
百年前の夏をまとって
二千年後の草いきれを掃討する
少年は世界を一枚めくる
世界の裏側には
夏の卵がびっしりはり付いていた

「夏」第一、二、五連

好きな詩。ばらばらになること、こぼれおちていくことが様々なかたり口を通して「夏」と名付けられている。そうした風景にそっと置かれた「そんな花の花/の花の内側」にあるのは醒めた意識であり、夏の強烈な光が降り注ぐ中、ばらばらにほろんでゆくものを見つめるどこか物悲しいまなざしがある。

その物悲しさがなにから来るものなのか直接的に取り出すことはむずかしいが、つややかな光沢ある皮膚の下にかくされた空洞や、そこに散らばる身体表面でゆいいつの硬い部分である爪たちのイメージは、あらゆるものが表層的にはなめらかに磨き上げられて商品として流通せしめられる現代社会の薄皮の下にころがっているたくさんの死骸たちのことを想起させる。

第二連。「肉体を閉ざすこと」と「精神を分かつ」ことに倦んでいる少年。肉体を開くことと精神をひとつにすることのむずかしさが倦怠をもたらしている、と読める。それでは逆に、肉体を開くとはどういう意味か。いくつかの解釈がありうるが、わたしは身体の部位に付随する歴史的ことば(意味)から肉を解き放ちその自由さをとりもどすこと、と読んだ。

ほんらい肉はただの肉でしかなくそこにべったりとへばりつく意味は、蒸し暑い夏の湿気のように、どこか不快である。だがその不快さはわたしたちの実存と切りはなせないものであり、精神をひとつにするとは、そうした不気味でグロテスクな世界をみずからのうちに取り込むことなのではないだろうか。

「夏が夏を死ぬとき/僕も僕を死ぬことができるだろうか」といううつくしい二行からは、そうして取り込んだものごとみずからを自死させる詩の戦略が読み取れる。そのときはじめて、私(詩)は生きられる隘路をみいだす、と書いてみたい誘惑がある――その隘路は、たくさんのうちひとつの世界の裏側につながっているだけである、と暗示されてもいるが。

はじまりのない海は、飽くことなく月光を滅ぼし続けた。海の窓はいつでも閉ざされていて、裂き傷のようなものが表面をいろどるだけだ。海の上では乾いた街の幻影が旋転していて、槍のような水柱を呼ぶ。街は律動するきれはしからできていて、きれはしは斜光のいきれで粘性を増してゆく。街の地面はことばで埋め尽くされていて、人の視線は的確に反意語を射抜く。人が街へと踏みこんで路地を下ってゆくと、人の中の人は海へと紛れこんでしまう。沸きたち、躍りこむ海のかたわれに逼られて、人の中へ人は――。

水は海をうしない続けている。水はむしろ海の中の海へと還流してゆく。海の中の海では、至るところに水の形が甲虫の標本のように焼き付けられている。まっすぐ伸びた巨大な通路が海の記憶をつらぬいていて、人の中の人は光を投げ出しながらそこを馳突してゆく。海流を止めるには粒性が足りない。理性を焼き尽くすには窓が足りない。光は蠕動し、海面はいのちの色に染まる。人のかなしみの波紋が、魚のうすい肌を大気のように刺してゆく。

「海」第一、二連

「夏」でも見かけた入れ子構造がふたたびあらわれている。それは「人の中の人」をみるような不可能なまなざしのことであり、あるいは「海の中の海」へと還ろうとするような不可能な道行きのことであるだろう。海の上には乾いた街の幻影がまわり、海と街は水柱でつながれ、その路地はことばで埋め尽くされていると詩はかたる。それは水のようにながれみちあふれる電磁的テキストの広大な水盤のうえに浮かぶ紙細工たるわたしたちの社会のようでもあり、そこでは裂き傷がむしろ装飾品としてあしらわれていることが示唆される。そこには窓(おそらくたくさんの)があるが、すべて閉ざされている。

海水はわたしたちの間にあり、ことばを伝播させ届ける媒体としての流体だと思うが、そこにあるのは、あらゆるところユビキタスに横溢することばの海に対する、むしろ灼けるような詩の苛立ちであるようも感じる。それはわたしたちを取り囲んでいるものこそ、、がじつはわたしたちを分断しているという認識に基づき、すなわち海を詐称している箱・構造に対する苛立ちなのだろうと読んだ。水がほんらいのつながりの可能性たる豊潤な海をうしないつづけるのは、海の中にほんとうの海がかくされてしまっているからなのだ、ともいえる。

だが、おそらくわたしたちはとりもどせないのだろう。海も。ことばも。詩も。なにひとつとりもどせないのだろう。詩はすでにそれをかたっているようにみえる。そこにあるのはただ「はじまりのない海」であり、窓はすべて閉ざされ、そこに傷と呼応したかなしみの波紋がぽつぽつとひろがるだけである。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「卵」を挙げたい。
二〇一八年、だれしもが、書くことについて感じるであろう「透明で広々とした妨害」について思う。それはなにもかもが可視化されたと誤解されている現代社会において、「理解」や「共感」の表情をまとって(あるいは、書評の様式をとって)近づいてくるさまざまな事象でもある。

中身が知られる前の「卵」についてかたらねばならない。それも「産みたてでも極めて古い」ような、すでに死児がそこに眠っていることがだれしもに了解されているような卵の、うちすてられた可能性についてかたらねばならない。わたしたちは生まれる前から、いや読まれる前から、すでに死んでいるのである。

私は卵について語りたい。だが卵について語ろうとするとき、私は古傷をえぐられるような心の痛みを感じ、私の心の流れは、卵という言葉から割れ落ちた無数の破片によって堰き止められる。私はこの透明で広々とした妨害を乗り越えてこの文章を書いている。だから、そのような過剰に潤った痛みがこの文章の背後に持続し、文章の意味の細部にまで滲み込んでいることを忘れないでほしい。

私は自分の部屋に卵をいくつも飾っている。棚の上、テレビの上、食器棚の中、などなど。様々な角度で飾るために、様々な台を用いている。朝食を食べるときでも、卵は自然と視界の中に入ってくる。

卵は言葉のようなものを空中に流していて、その響きは私の感情の表皮をはがしてゆき、その意味は私の肉体の角度を埋めてゆく。卵の言葉は私を一つの卵に変えてしまい、新しい卵の中で私は快楽の滴りを受け止めきれないでいる。卵はどんなに産みたてでも極めて古い。この世界を流れる時間とは別のもう一つの時間が、卵の中には腸のように極めて長く折り畳まれているのだ。卵の中の時間はたぶん物質だ。恐ろしく光を吸い取る動物的な物質だ。

「卵」第一、二、三連

(2018年11月13日)


広田修『zero』

書籍情報
zero
出版 思潮社
発行 2015年
著者 広田修(ひろた おさむ)
価格 2200円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。