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為平澪『盲目』

――眼がみえないので、誰も暴力をふるわなかったよ?

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は金曜日。今日わたしたちが読む詩集は、以前(#0023)で取り上げた為平澪の第二詩集、『盲目』。為平は一九七五年生まれ。二〇一四年、第二十二回『詩と思想』新人賞を「売買」にて受賞。本書はその「売買」を収録、百十二頁、二十八編を収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。新人賞を受賞した「売買」から。

私はいつも作業所で
フックのバリを ニッパーで切り落とす
作業で流れてくる
プラスチックのフックたち
人の首の形をした その筋にある
イボのようなバリたちを
今日もニッパーで はね飛ばす

次々に私の手で はねられる
きれいになった フックは売れて
はみ出て邪魔なバリたちと
八時間で 膨れ上がった 血豆は
豆でありながらも 売れないままで
真っ白い軍手は 売られても
赤黒いシミのついた 手袋は
もう 売れない

はみ出しものは捨てられる
会社の製品には なれないからだ
真っ白い軍手は歓迎される
それは人に 使ってもらえるからだ
私が放心状態で 闇雲にはねた首
より、多く、の
リストラ社員、は
私が力一杯切った バリ
私が夢中でつくった 血豆は
今日 過労死している 誰かの血

(イタイ、痛い、イタイ、)

製品は 陳列台を飾るだろう
残酷な白さが
清廉潔白の輝きを放つだろう
けれど 私の指は
黙ったまま 明日に備えて
バンドエイド二枚で 口封じされる
シミだらけの手袋は 捨てられるだろう

こんなにも働いたのに
役に立たないと言われて
明日には ゴミ箱に棄てられる
私は
言われたように仕事をしているだけなのに
要らない、と、切られるバリも
汗と、血と、水と、埃に まみれた手袋も
仕事が、したい、したい、と
言いながら 死体になって逝くだろう

(イタイ、遺体、イタイ、)

「売買」第一〜七連

「バリ」とは、金属やプラスチックを加工する生産の過程において、その縁などに生じる、不要で余分な突起部分を指す。この詩では「バリ」は製品にとってのそれに加えて、人間にとって余分なものにもなぞらえられている。バリをとりのぞくのは、それが醜いからである。よって、それは円滑でなめらかな完成品を生産するために、加工され、除去されなければならない。

生産過程における「バリ」とはなにを意味するか。それは単に設計図面にない余分な部分、あるいはその過程においてあらかじめ予測され後処理にて除去されるべき部分にすぎない。だが人間における「バリ」はなにを意味するだろうか。そういう問いを為平は詩を通してわたしたちに投げかける。

わたしたちは工業生産品ではない。そのとおりである。わたしたちはなんらかの設計図面に則って、不要と必要が分類されるモノではない。そのとおりである。わたしたちは美醜で判断されるモノではない。すべてそのとおりである。

だが、現実の世界においては、わたしたちはしばしば工業生産品のように取り扱われる。わたしたちはしばしば設計図面に則ってこれは良品これは悪品と分類される。そしてしばしば美醜で判断される。そうした現実をわたしたちはよく知っており、モノとなったわたしたちは値段が付けられ社会のなかで売買される。実際にはそれは売買という呼び方はされないが、事実上同じことであることも了解されている。そうした光景に、詩はかたちをあたえる。第一詩集もそうだったが、為平はこうした事象を真正面から書くことを果敢に試みる、骨太の社会派詩人という印象をもつ。

第一連。詩はけして自分が単に分類される側、つまり社会に分類される側だとかたってはいない。なぜなら自分もまた分類する側であり「フックのバリを ニッパーで切り落とす」側であることがはっきりと認識されている。それはなかば強いられた形ではあるが、わたしたちもまた第三者をモノとして扱ってしまう姿が示唆されている。自分が憎んでいるはずのものにいつしか自分が加担してしまう残酷さがえがかれているとも読める。生きることは痛みと残酷さに加担すること、とも読める。

【人間なんてやるもんじゃない。まして此処に人はいないはずなのだから】

与えられた場所には適材適所の能力を置く。
朝一番の住宅街には、高級事業家に雇われた清掃回収マシーンが、ゴミの選り分け、ゴミの分別、ビン、缶、ペットボトル、燃えないゴミ、或いはそこに入ってしまう近未来の明日に、自分を置く。

通勤ラッシュには全身ゼンマイ仕掛けをスーツに隠したオフィス戦士。戦地に赴き勤めを果たすと、帰りの省エネモードに耐え切れず快速急行に足を滑らし、スクラップ。

カレンダーの指令は残酷に、退屈を忙殺に変えるシフトを組み立てている。擦り切れる日常、焼き切れる細胞システム、麻痺する回路。シフトは、パターン化されリフレインされ、リターンする。回る行進曲に足並みをそろえられないモノは、切断されて利用廃止。
(草臥れたのなら油を注射して出直せよ
(歯車が固まったからってガタガタ言うな

選ばれたダービー馬の価値観は一番の、いち、を獲得するために周りを目隠し。最下位の仲間が馬刺しになっても、目の前のニンジンが大事。競い合いなじり合い、密告して判子を押すように、とどめをさせる。

いのちの、のりごとを、「いのり」といいます
それは、ふるい、ニンゲンのいいわけです。
そんな、救いみたいな、まじない、なんて。
ナニカ、のために「いのち」のコトバをあたえるなんて。
(そんなヒマを作ったら俺たちきっと明日には、
(止まったままの、スクラップ。

「機械 ―悲しい重力―」第一〜六連

重力とは、あまねくものに重さをあたえるもの。重さとは宿命でありだれも逃れられないものである。そんな宿命の磁場にとらわれた世界に機械たち、いや、人間なんてやるもんじゃないと考える人間たちが住む様子がえがかれる。

なぜひとは機械となぞらえられるような存在になってしまうのか。それはなにかを考えることが苦痛をもたらすからであり、重力にさからえば負けるからであり、あるいいは「目の前のニンジンが大事」とかたられるように、端的にいえば仲間はずれになるのが怖いという、機械というにはあまりにも人間らしい弱さがあるからである。

なぜ重力は悲しいのか。わたしたちの在りようが悲しいのか。詩はそれに直接的な回答はあたえないが、第六連に示唆がある。「いのちの、のりごとを、「いのり」といいます」。のりごと、は、祝詞だと思うが、痛苦に満ちた生活のなかで人間が機械的存在から自由になるために必要とされるものが「ヒマ」潰しのための道具であると思われている。それが悲しいのだ、と読める。

ひとは「適材適所」にいるために生まれてきたわけではなく、「一番」をかくとくするためだけに生まれてきたわけではない。圧倒的多数の信じる価値観がそうであるからといって、そうした考え方に従属することはそれこそ機械になってしまうのと同じことである。そういう示唆が詩のなかにある。

もちろん、一方では、そこにはいわば便宜的、、、な従属もあり、だからこそわたしたちは、毎日働きながら、世の中の価値観とまったく異なることをライフワークとし、たとえば詩を書いたり、演劇に身体を捧げたり、だれも見向きもしない社会活動に奉仕したりすることができるのだ。機械であることと人間であることは矛盾しない、とわたしは思う。

女の人の持っている鞄が気になってしょうがなかった
遠くへ行けば行くほど 鞄を欲しがるようになっていった
ピンクのショルダー
黒のハードな合成革に金の鎖のアクセントの物
ケイリョウダウン地のブラウンのトートバッグに
ストライプは青と白のマリンバッグ
アフタヌーンティーのドット柄のエコバッグに
果てにはレジャーを模したトレンドリュック

彼女たちを彩る 鞄が気になって仕方がない
ひと夏で 切り捨てられる物もあれば
擦り切れたり千切れたりするまで使う
一生物の 鞄もあっただろう
大切に使われたと 静かに自分の役目を終えることの尊さを
味わえる鞄が ショーウィンドウにいくつあるというのか
期間限定だとか、レアだとか、季節の変わり目に
女心の目に留まるそれぞれの 道標
鞄は 彼女たちと 何処に連れていかれるんだろう

私は たくさん鞄を買った
そして使わないまま 眺めて満足したら
何処へいったか なくしてしまう
オーダーメイドの物もあれば 友人が作った物もあったし
ウソかホントか ブランド物もあっただろうが
どれも私の一生を 共に飾ってくれる物ではなかった

「鞄」第一、二、三連

個人的な話をするのだが、十数年前会社を辞めた時に、ちょっと高い革鞄を買った。以来わたしはその鞄を使っている。新しいことを始めるにあたって、その時の気持ちを大事しておきたいと思って買ったのだが、人生にはそういった、思い切った買い物をする機会がいくつかあると思う(それは結婚あるいは離婚だったりもするだろう)。だがはっきりしていることは、買い物の結末は必ず別れだということだ。どのようなものも、必ず壊れ、不要となり、損壊してただのモノになる。それはわたしたちの身体部分がやがては必ず壊れることと同じことである。

そうした身体をもつわたしたちにとって、むしろ捨てるため、、だけに買うという行為があると思う。鞄、はなかになにかを入れるもの。感情や、気持ちや、夢や、希望や、自分にとって大事なものを入れておくものである――が、それもまた、えいえんに続くものではない。いつしか愛情は冷め、夢はこわれ、気持ちは変わり、かつて好きだったものはなんの魅力もないものへと変わっていく。

詩はそんなわたしたちの姿を「一生を 共に飾ってくれる物ではなかった」のだと、読みかえることによって慰めをあたえてくれている。ふたたび個人的なことをいえば、わたしも、鞄はどんどん買いかえるべきだと思う。かつて持っていた鞄になにが入っていたかわからなくなるぐらい、何度も、毎年、いつでも好きな時に、買いかえるべきだと思う。「何処へいったか なくしてしまう」とつぶやきながら。

◇ ◇ ◇

本詩集でいちばん好きな詩は、「誘拐犯」を。
一人称が私ではなく「ぼく」になることによって受ける印象ががらりと変わっている。それはおそらく為平の想像力の源泉が私的な事象にあることと関係し、一人称をふだん使わないものに変え、私的領域から書き手の位相をずらすことで、そこにことばの新たな亀裂が生まれているのではないかと感じた。

――誰も、暴力なんて振るわなかった、なんて、優しい嘘に、違いない。

ぼくが昼を誘拐したので、夜が恐る恐る出てきた

昼が後ろ指を突きつけた 夜たち同士が
互いに酒を酌み交わし 昼の怖さを語り続け
時には太陽の熱さに身体を焼かれて 火傷したと
痺れる痛さに泣き出す夜もいた

夜たちは有名人の写真や金持ちの名刺に火をつけ
お互いの顔を照らして タバコに火を点すよう
小さな炎でリレーした

みんな 眠らなかった
みんな 優しくなれた
誰も 暴力なんて振るわなかった

人々は噂した
誰が何のために、昼を誘拐したのか、と

ぼくはぼくのために昼を誘拐し
ぼくの目の中に押し込んだ

ぼくは生まれつき目が見えないけれど
昼を盗んだぼくの目に 漸く映る君たちは
ぼくの国で笑い合う
昼に攫われていたはずの
優しい、夜の住人

「誘拐犯」全文

(2018年11月9日)

※2018年11月25日(日)に開催される第二十七回文学フリマ東京の《千日詩路》ブースにおいて、為平澪の本詩集『盲目』の委託販売を行います。ぜひこの機会にお買い求めください。

為平澪『盲目』書籍情報
盲目
出版 土曜美術社出版販売
発行 2016
著者 為平 澪(ためひら みお)
価格 2000円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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